最近、「匿流(とくりゅう)」という言葉をよく聞くようになった。2023年7月に警察庁が「SNSを通じて募集する闇バイトなど緩やかな結びつきで離合集散を繰り返す集団」と定義した組織犯罪「匿名・流動型犯罪」を意味する。
TVで逮捕されて警察に連行される人たちの姿に、反社会的な雰囲気は少しもなく、むしろ体制順応型の温厚に見える若者が多いのに驚かされる。
普通の人間が凶悪な犯罪に手を染めることについて思い浮かべるのは芥川龍之介の小説「羅生門(らしょうもん)」である。
芥川は樹木の葉の色の変化から関東大震災の予兆を感じた人だが、芥川の「時代を嗅ぎ取る」能力が、この小説の中に「凝縮」しているように思える。
小説「羅生門」の舞台は平安時代で、実際に「羅城門(らじょうもん)」という名の門があった。
都の門は荒れ果て、狐狸や盗人が棲むようになり、引き取り手のない死体までもが棄てられている。
一人の下人が門の下に佇んでいる。平安京は衰微しておりその余波からか、下人は主人から暇をだされて、格別何もすることはない。
下人は何とかせねばと思うがどうにもならない。結局、餓死するか盗人になるか、と途方に暮れている。
この小説の下人は絶対に悪人ではない。惻隠の情をもったごく普通の人間である。
なぜなら下人は、門の階上で死体の髪の毛をむしりとる老婆をみて、ひとかたならず嫌悪と憎悪を抱くからである。
下人は老婆の襟首を掴み問いただすが、老婆は鬘にして売るのだという。
下人はそれを聞き、あらゆる悪に対する反感が湧き上がり、この時点では饑死するか盗人になるかと云う問題でいえば、明らかに「餓死」を選んでいた。
そんな下人に「魔」が入り込む瞬間こそ、この物語のハイライトである。
老婆は言う。「この死んだ女は蛇を干魚だといって売り歩いた女だ。この女のした事が悪いとは思わない、饑死をするのじゃて、この女わしのする事も大方大目に見てくれるであろう」と。
皮肉なことにこの言葉は、下人の心に今まで全くなかった勇気を与えた。
下人は「きっと、そうか」と確認した上でこう云った。「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」。
下人は、すばやく老婆の着物を剥ぎとりしがみつこうとする老婆を振り払い、夜の闇へと消えた。
「羅生門」は欧州で第一次世界大戦が始まった頃に書かれたもので、日本は欧州の戦争を横目に大戦景気で「浮かれはじめた」時期にあたる。
このバブルがはじけた後に、労働争議や小作争議が頻発し、政府は国民に「食」と「職」を保障することが大きな課題になっていく。
この小説が書かれた頃、シベリアに兵隊が出兵するので米需給が逼迫して米の値段が二倍に跳ね上がった。
米の値上が騒動となり全国に波及し内閣がつぶれた。
いわゆる1917年の米騒動であるが、国民は餓死どころが「一割」の生活水準の切り下げにも我慢できなかったのである。
ところで最近、「匿流」関連以外にも、オンライン・カジノをめぐる事件も頻発している。大谷昇平の通訳であった水谷一平が犯した事件にある映画が思い浮かんだ。
アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」では主人公である貧しい鬱屈した青年が裕福で何もかもが容易に手に入る友人を殺し、その男になりすという話である。
裕福な青年は貧しい相手の劣等意識につけこむかのようにヨットに誘い、自分の恋人さえも見せつける。
その結果殺人をまねきよせる結果となるのだが、燦燦と輝く太陽の下、互いの「青春の残酷」がギラつき、切ない映画音楽がそれを引き立たせる。
水面下に潜む確執や葛藤をドラマチックに沸騰させている。
相手の男のサイン(署名)をスライドに表示して、手でなぞるように模倣するそのシーンは忘れがたい。
ラストシ-ンで、「完全犯罪」を自ら祝うかのようにワインを傾けるアランドロンの「白い手」と、ヨットに絡み付いて打ち上げられた死体の「黒々しい手」のコントラストが印象的であった。
水谷一平の場合は、この映画の主人公ほどの大それた犯罪をおもいついたわけではない。
水谷の場合大谷選手から様々な経費を十分に出してもらっているので、生活上で困ることはなかったにちがいない。
それでも大谷が世界的に注目され、自分の生活とはますますかけはなれていくるなか、心穏やかに大谷の活躍を見守るというわけにはいかなかったのであろう。
次第にオンラインカジノの課金を増やし多額の損失をこうむり、たまたま大谷の資金を操作できる立場にあったため「悪心」が芽生えていったか。いや、元々「悪人」だったのか。
「大谷翔平」の声でなりすまして日本円で20億円以上を詐取送金していた。
旧約聖書でカインがアベルを殺害した時に、神がカインに語った次の言葉が、人間が陥る「罪」の様態を的確に言いあてている。
「あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(創世記4章)。
さて、「太陽がいっぱい」と並んで青春映画の古典と位置づけられながら、今なお新鮮さを失わないのは「エデンの東」である。
スタインベック原作の「エデンの東」は、旧約聖書の「カインとアベル」兄弟の物語の現代版であることはほぼ定説である。
「エデンの東」の登場人物は「キャルとアロン」だから、名前までも符合している。
聖書の方は、捧げモノが神に顧みられなかったカインが、捧げモノが受け入れられたアベルに嫉妬し殺害するという兄弟の話である。
アダムとイブの子供がカインとアベルなので人類創生後にさっそく殺人事件がおき、人類は「カインの末裔」ということになる。
映画「エデンの東」では、愛らしく純真なアロンとひねくれ者のキャルが登場する。
町育ちの美しい少女アブラと仲睦まじくなっていくアロンを横目に、ジェームズ・ディーン演じる孤独なキャルは自分でも分からない何かを探し求め、深夜の街を徘徊しはじめる。
兄は優等生で何をしても父親のお気に入り。なのに弟キャルは父親に気に入られようと色々するが、すべては裏目にでて逆に父親に怒られるばかりである。
キャルは、失踪した母を追ってに港町で娼婦の仕事をしている事実を知る。
そして父が自分に向けている目線こそが母親をおいつめ母は家を出たのかもしれない、などと思う。
キャルは自分の抱える混沌をぶちまけるかの様に母親の真実を兄に伝え、純真一徹な兄は発狂する。そして、父親もそれがもとで亡くなる。
この映画の登場人物はみな悪人ほどではないのに、このような悲劇的な結末に至ってしまうのは、「エデンの園」から追放された人間の姿なのか。
映画「エデンの東」は、スタインベック原作の同名の小説の「断片」を切り取ってまとめたものである。
またスタインベックのもうひとつの名作「怒りの葡萄」は、旧約聖書のモ-セの「出エジプト」物語に着想をえているから、聖書がアメリカ文学に与えた影響力は相当なものである。
果たして映画監督のルネ・クレマンが意識したかどうかは知らないが、「太陽がいっぱい」にも聖書を少々感じさせるものがある。
それは「エサウとヤコブ」の話で、「手」の偽装によって「なりすまし」がなされる。
長男のエサウは猟に優れ勇猛で活動的で父親好み、一方の次男のヤコブはテントから出ず何を考えているのか屈折感のある人物、ここまでは「エデンの東」にも重なる。
猟を楽しみ野から帰った腹ペコエサウに、ヤコブはワナをかけて待つ。
「長子の特権」を譲ったらおいしい物をいくらでも食べさせてあげるといったものだが、このワナの意味はとてつもなく深い。
新約聖書では「長子の特権」はそのまま「地を継ぐ者として」としての「救われる者」の特権なのだ。
世事に通じ世故に長けた人間エサウは、逆に本当に大切なものが見分けられない。
「救い」の特権を、目の前の利益に眩んで、あっさりとヤコブに渡すのだ。
しかし、ヤコブとエサウでおきた「長子の特権」の委譲は兄弟間の「密約」でであって、父親イサクは知らない。
そこで母親リベカは好みのヤコブに智恵を授け、それが「手」の偽装だった。
父イサクはすでに視力が弱って床に伏していた。死に瀕して自分の特権を譲るべく長子に祝福を祈るのだが、ヤコブはこともあろう毛深い兄エサウに似せてヤギの毛を手につけてエサウに成りすまし、父イサクの今際の床で「神の祝福」を祈りうけるのだ。
エサウの人の良さとヤコブの狡さが目立つが、目の前の利益にくらんで大事なものを失うエサウと、なんとしてでも「神の祝福」を得ようとするヤコブ。
エサウが求めるものは常に「この世」のものであり、神(天)から来たものを軽んじたともいえる。
人間的尺度では感心しないリベカとヤコブ母子の行動だが、その後を見ると「神の恩寵」はあくまでもヤコブの側に傾いていった。
ヤコブはその後十二部族の族長「イスラエル」とよばれるが、エサウの子孫はエドム人とよばれ、ダビデ王の代にエドム人はその属国となりしばらくして滅亡している。
このことは、「兄は弟に仕える」(創世記25章)という預言どおりになりましたでは済まない。エドム人(エサウの子孫)から、イエス誕生時にガリラヤを支配したヘロデ王が誕生するからである。
イエスは「滅びの門」と「命に至る門」があると語った。「狭い門から入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そしてそれを見出すものはすくない」(マタイの福音書7章)。
さて夏目漱石の初期の三部作「それから」「こころ」に次ぐ小説が「門」である。このタイトルがなぜ「門」なのか、その答えは小説の本文の中にあった。
物語の後半の主人公において、10日ほど禅寺で修行する場面で、「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」とある。
主人公が抱えたのっぴきならぬ問題からして、ここでいう「門」とは「宗教」を意味するようだ。
ところで聖書には、「門」に関わる表現やたとえ話が多い。まずは、夏目漱石とは対照的な「門」を詠ったダビデの詩がある。
「門(かど)よ、汝の頭(こうべ)をあげよ、とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である」(詩篇24篇)。
「門」そのものが人を招き入れているようなこの詩は、イスラエルのダビデ王が凱旋する際に、「契約の箱」を招き入れる時に詠われたと伝えられている。
天地と共に門が小躍りするかのように擬人的に詠まれていのは、勝利の王を讃えるというより、王を勝利に導いた神を讃えているからである。
思い浮かべるのは、「新約聖書」においてイエスが自らを「門」に譬えていることである。
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われ、また出入りして、牧草にありつくであろう」(ヨハネの福音書10章)。
さて聖書には「門」もしくは「戸」を比喩にした言葉が数多くある。
例えば「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイの福音書7章)。
また、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食をともにするであろう」(ヨハネ黙示録3章)とある。
戸をたたくのが神の方で、扉を開くのはあなた次第ということなのだが、聖書のエピソードの中には、イエスの「一言」で心の扉を開く出来事がある。
イエスによって「名ざし」された人々は大概はそうで、イエスはあらかじめその人を知っているかのような印象さえある。
まずは、イエスの一番弟子になったシモン・ペテロとの出会いは、次のとおり。
「さてイエスがガリラヤの海べを歩いておられると、二人の兄弟、すなわちペテロとよばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているいるのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らにいわれた。”わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう”。すると彼らはすぐに網をイエスに従った」(マタイの福音書4章)と、実にあっけなく弟子となっている。
またイエスは違う時に二人の金持ちと遭遇するが、イエスはそれぞれに対して対照的である。
一人の青年がイエスの元やってきて「自分はどうすれば永遠の命を得られるか」と聞いた。
イエスはすべての掟を守り「あなたと同じように隣人を愛しなさい」と答えると、青年はそれはすべてやっているという。
この青年は金持ちの息子で、行いのうえでは非の打ちどころもない人間だったようだ。
それでも、自分が救われるかどうか確信がない。だからこそイエスの処にきたことが推測される。
イエスは青年に「もし完全になりたいのなら、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」というと、青年はこの言葉を聞き悲しみながら立ち去った。
たくさんの財産を持っていたからである。
その時、イエスは「金持ち天国にはいるのは駱駝が針の穴を通るより難しい」と語っている。
この話の中で、イエスは青年の心をあらかじめ知ったうえで、距離感をもって接している感じが否めない。
というのも、ザアカイという「悪党」といわれても仕方がない金持ちとの出会い(ルカの福音書18章)とは、あまりにも対照的だからだ。
ザアカイは取税人のかしら、つまりローマの手先となってユダヤ人から税金をしぼりとり、金持ちだが「罪人」と見られていた。
このザアカイはひと目イエスを見ようと、背が低いこともあって木の上に昇ってイエスが通りかかるの待っていた。
するとイエスが、多くの群衆の中で名指しで、「ザアカイよ 急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけた。
イエスが自分の名前を知っているだけでも驚きなのに、都合も聞かずにザアカイの家に泊まるというのだ。
そしてそれは、ザアカイにとって「生まれ変わり」の体験となる。
ザアカイがその呼びかけに対して「主よ、私は誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」という言葉に表れている。
こういう「二人の金持ち」対するイエスの態度を見ると、救われる者が「予め定め」られているようにも思えるし、「人はうわべを見るが主はこころを見る」(サムエル記上15章)という言葉が思い浮かぶ。
また、ダビデ王は次のような祈りを神に捧げている。
「神よ、われらの盾をみそなわし、あなたの油そそがれた者の顔をかえりみてください。あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは”悪の天幕”にいるよりは、むしろ、わが神の家の”門守”となることを願います」(詩篇84篇)。