韓国で新たな大統領が誕生し、日韓関係が新しい局面を迎える。なにしろ日本を「敵性国家」と発言してきた大統領だが、現実路線でいくと語っている。
我が福岡には、時々の日韓関係で大幅に韓国からの観光客数に変化があるので、関係が如実にわかる。
日韓関係は、政治で大いに左右されるが、20代から30代の若者の文化交流は、政治情勢に関係なく親密さが続いているようだ。
両国それぞれにアイドルが誕生し、日韓合同のPOPグループが生れ、大人気となっている。
さて、日本統治時代の朝鮮に、「元祖韓流スター」ともいうべき女流舞踊家がいた。
崔承喜(チェスンヒ/さい・しょうき)は、「半島の舞姫」ともよばれ、同タイトルで映画制作された。
日本ばかりか、現代舞踊と朝鮮の伝統舞踊をミックスした独創的な踊りで、世界中の文化人を魅了した不世出のアーティストだった。
崔は朝鮮・京城(現韓国・ソウル)の良家の出身で、モダンダンスの石井漠(ばく)門下に入って日本へ渡り、次第に頭角を現す。
東京で開いた第1回新作舞踊発表会で川端ら文化人・知識人に称賛された時はまだ20代前半だった。
東洋人離れした170センチ近い恵まれた体とエキゾチックな美貌で、化粧品やお菓子などの広告モデルや、写真雑誌のグラビアページを軒並み席巻。
川端康成が書いた一文が残っている。「彼女の踊りの大きさであり、力である。また彼女一人にいちじるしい民族の匂いである。肉体の生活力を彼女ほど舞台に生かす舞踊家は二人と見られない」。
1936年1月、東京・帝国劇場で開催した20日間の連続公演は「伝説」となっている。
戦時下にもかかわらず、観客が殺到し、連日満席の大入り。敗色が濃くなり、モノがなくなっていったご時世に日本国民が朝鮮出身の舞姫のステージに熱狂したのだ。
戦時下で、仕事が次第に限られてゆく中で崔は、日本軍の依頼で満州や北支方面で慰問公演を続けながら20年8月、終戦を迎えるも、それらの活動によって運命が暗転する。
「親日派」と呼ばれることは朝鮮民族にとって今も昔も売国奴に等しい極めつきの悪罵である。
1946年5月、米軍占領下の朝鮮南部(現在の韓国)へ戻った崔は戦争中、日本軍の部隊慰問公演へ協力したことなどをあげつらわれ、思わぬ批判を浴びてしまう。
そのころ夫の安漠(アンマク)はソ連軍を後ろ盾にした金日成(同首相、国家主席)が実権を握っている北の平壌へ入っている。
安は日本統治時代、左翼色が強い「朝鮮プロレタリア芸術同盟(カップ)」のメンバーとして活躍し、中国で地下活動をしていた朝鮮独立運動組織ともつながっていた。
懐かしい故郷である南の地で同胞から「倭奴(ウェノム)」(親日の蔑称)いう酷い言葉まで投げつけられた崔は夫の誘いに乗って北へ向かう。
これには金日成の意向が強く働いていた。なにしろ世界的な舞踊家は格好の広告塔になるからで、金日成はVIP待遇で崔を迎えた。
平壌の中心を流れる大同江のほとりに建てられた舞踊研究所には「崔承喜」の個人名が冠せられた(後に国立に移管)。
白亜の殿堂のような4階建ての研究所は1、2階が300人に及ぶ研究所員の宿舎、3階が事務室、4階がけいこ場。そこへ金日成がよく訪ねてきた。
崔は朝鮮民族の舞踊を体系化し、金日成の意向に沿うような作品も創作し、北朝鮮の文化芸術全般を仕切る立場にまで上り詰めてゆく。
だが、栄光は長く続かなかった。崔ほどの大スターであっても、所詮「日本とつながりがあった人物」が信用されることはなく、礎(いしずえ)さえ築いてくれれば御用済みとなる。
1958年10月、金日成は一転、「舞踊大家」の名で崔のことを「個人英雄主義」と厳しく批判する。背景には金日成による政敵粛清の嵐に巻き込まれた夫・安漠の失脚もあったようだ。
要職から外された崔が命じられたのは、1959年12月から始まった帰国事業で北朝鮮へ着いた在日朝鮮人の迎接委員だった。そこでは広告塔としての「崔承喜」の名前もまだ利用価値があったからであろう。
しかし崔は、1967年に決定的な失脚が伝えられ、2年後に57歳で死去した。
2002年9月、日本の小泉首相訪朝を前に、名誉回復が行われている。
政治と時代に翻弄され続けた波乱万丈の生涯を送った崔承喜は、草場の陰からきっとこう言いたいにちがいない。
「私は好きな踊りを踊りたかっただけなのに」と。
日韓のライバル選手が、長く競い合った結果、友情をはぐくんだケースがある。
2024年パリオリンピック、早田ひながゲームカウント4ー2で韓国のシン・ユビンを撃破し、銅メダルを決めた直後だった。最後のポイントを取ると、嬉しい銅メダルに早田はその場にしゃがみ込んで涙。激闘を繰り広げた相手のシン・ユビンは、早田の方に歩み寄るとハグで祝福。笑顔で言葉を交わした。
早田は利き手を負傷しながら戦ってきた。ユビンは「早田を長い間、見てきた。本当に一生懸命頑張って、真剣に試合をした。そんな部分を認めてあげたかった。私ももっと心が強い選手になりたいという一心で抱きしめてた」と話したている。
もうひとつ、スピードスケートにおかる小平奈緒とイ・サンファの絆である。
互いに500mを得意とし、10年以上ともにリンクで顔を合わせてきた。
先に才能を開花させたのは、のちに大韓民国が誇るスター選手となるイである。16歳で迎えた2005年の世界距離別選手権の500mで銅メダルを獲得。翌年のトリノ2006オリンピックに出場した。
小平のオリンピックデビューは2010年のバンクーバー大会だ。小平は、この大会の500mで12位、一方、イは自身2度目のオリンピックとなったバンクーバー2010、そして続くソチ2014の500mで2連覇を達成する。
2018年に開催された平昌オリンピックのスピードスケート女子500mで、地元韓国ではイの3連覇に期待が寄せられていた。
先に登場した小平は、36秒94でゴールラインに達してオリンピック新記録を樹立。
会場がどよめく中、次組でイがスタートラインに立った。スタートこそ良かったものの、小平にわずか0.39秒及ばず、最終的に小平が日本女子初の金メダルを獲得し、イの3連覇の夢は崩れ去ってしまった。
地元開催という重圧を背負い、期待している観客の前でその夢をつかむことができなかったイ・サンファ。ウィニングランで涙を流す彼女に、小平は寄り添って肩を抱くと、ふたりは互いの健闘を讃え合ったその場面は世界に放映され、感動をよんだ。
さて1936年、ベルリンオリンピックのマラソン競技で金・銅メダルを獲得したのは日本代表だった。
優勝の孫基禎(ソン・ギジョン)、3位の南昇龍(ナム・スンニョン)は、ともに朝鮮半島出身の朝鮮人である。
彼らは日韓併合(1910年)で帝国日本となった時期、朝鮮民族でありながら帝国日本のマラソンランナーとなったのである。
孫の快挙は、日本では「国威発揚」に利用され、朝鮮では民族の優秀性を示す英雄として扱われた。
孫は、日韓併合の二年後、1912年に現在の北朝鮮・新義州で生まれた。
貧しい家庭に育った少年は、走ることに喜びを見出した。10代半ばで中距離選手として頭角をあらわし、20歳でフルマラソンを初めて経験した。
1935年にオリンピック第二次予選を兼ねた競技会で世界最高記録(最終選考レースは2位)、ベルリン五輪では当時の五輪最高記録を打ち立てた。
日本は喜びの熱狂で沸き、新聞は「半島選手の勝利」を植民地支配の成果と結びつけて報じた。
一方、朝鮮の新聞では「世界制覇の朝鮮マラソン」という見出しが躍った。だがその時に大問題に発展したのが8月25日朝鮮の新聞「東亜日報」が掲載した写真である。
表彰台の孫の胸にあるはずの「日の丸」が意図的に消されており、同紙は発行停止処分となった。
孫の与り知らぬことではあるが、日本の当局は、朝鮮の民族運動を誘発する人物として彼を警戒するようになる。
このため、10月になって帰国した孫には警察官が張り付き、朝鮮内で予定されていた歓迎会も大半が中止された。
孫自身は当時より民族意識が強く、世界最高記樹立時の表彰式でも「なぜ君が代が自分にとっての国歌なのか」と涙ぐんだり、ベルリン滞在時には外国人へのサインに「KOREA」と記したりしていた。
このうち後者は当時の特別高等警察によってチェックされて「特高月報」に記載されており、帰国後に「要注意人物」として監視を受けることにも繋がった。
一方で、戦時中には学徒志願兵の募集など、「対日協力」に従事したことも明らかになっている。
そんな複雑な立場に置かれた孫は、陸上競技、マラソンを断念せざるを得なかった。
1945年、朝鮮半島は植民地支配からの「解放」を迎えたが、50年に朝鮮戦争が勃発。孫が郷里に帰ることはかなわなくなった。
翌年明治大学専門部法科に進むが競走部への入部は認められず、卒業後、朝鮮陸連の紹介で京城の朝鮮貯蓄銀行本店に勤務した。
そして、大韓民国の建国後は「韓国籍」となり、コーチとして活動するようになり、「マラソン普及会」を南昇龍らと結成し、ボストン・マラソンに出場する若い才能のある選手に「祖国の記録」を取り戻す願いを託した。
そして1947年のボストンマラソンでは徐潤福が孫の世界最高記録を12年ぶりに更新する2時間25分39秒で優勝、1950年のボストンマラソンでも韓国選手が上位3着を独占した。
1988年、民主化後の韓国でソウル五輪が開催されるに至り、開会式のスタジアムに聖火を持って現れたのは、75歳になる孫基禎、その人であった。
1995年のバルセロナ五輪男子マラソンで韓国の黄永祚選手が優勝し、マラソンゲートの正面付近で応援していた孫基禎が満面の笑顔を見せている姿が写真にとらえられている。
伝説のプロレスラー・力道山は、現在の朝鮮人民共和国で、貧しい労働者階級の家庭に生まれている。
このことが世間に知れると、ファンの半分はそっぽを向いていしまう、と彼は考えていた。
日本人の間では、朝鮮人への反感と偏見が、昔から根強くはびこっていたからだ。
力道山が日本へやってきたのは、1939年、ずば抜けて体格のいいティーンエイジャーだった。
祖国で長崎出の興行師にスカウトされ、東京の二所の関部屋に入門、慣習にしたがって「力道山」という四股名を与えられ、さっそく稽古を始めた。
しかし、二所ノ関部屋の関係者たちは、このスポーツに朝鮮人の関わることは大衆が許されないだろう、と予想した。
相撲は天皇のスポーツであり、大和魂の象徴とみなされている。かくして大衆向けの”作り話”が、なんのてらいもなく出来上がった。
金という若者は、最初から「百田光浩」という名前であり、九州の大村出身の百田巳之吉の息子として生まれた生粋の日本人である、と。
実は、巳之吉は彼をスカウトした人物の名だった。
そして、後に出版された偉人伝の中には、ありもしない子供時代のエピソードや、大村高校での運動選手としての成績が、おどろくほどに事細かに綴られたものだ。
卓抜した筋力と負けん気から、力道山は大相撲の世界で頭角を現し、その力をフルに発揮し始め、たちまちのうち「幕内力士」となった。
相撲の型を身に着けさせるために竹の棒でたたかれることも、集団でつかう風呂やトイレでは、先輩力士の要求にどんな不快な事でも耐えた。
出生地を知っている先輩たちからの陰口にも耐えつつ昇進を続け、「三役入り」は、日本相撲協会の決定を待つばかりとなった。
ところが折しも日本は戦争に負け、両国国技館は空襲で損壊、占領軍はこの建物を補修し「メモリアルホール」と名づけてプロレスをやらせ、
アメリカ野チームが来日するなど、相撲界は金銭的に苦境に陥り低迷状態となっていた。
力道山はそうした状況の変化や数々のストレスに耐え切れず、角界に見切りをつけて建設業界に転職。
彼を雇ったのは、住吉会系のヤクザでGHQにもコネクションをもった人物だった。
リキがプロレス界に入ったのは、銀座を飲み歩いた時、喧嘩に負けたことが転機となった。
リキを打ち負かしたのは、ハロルド坂田という日系アメリカ人で、元オリンピック重量挙げのメダリスト。
後に007「ゴールドフィンガー」に出演した黒いシルクハットを投げつける怪人役として一躍有名になった人物である。
喧嘩のあと二人は仲直りして、ハロルド坂田はリキをアメリカ人プロレスラーたちに紹介した。
彼らは日本にプロレスを普及させるためにやってきた男達で、話はトントン拍子に進み、リキはアメリカでトレーニングを受けることとなった。
それは大方の予想を裏切る大成功となり、やがてリキは、相撲の張り手から「空手チョップ」をあみだし、年間成績295勝5敗という驚異的な成績をあげた。
リキはアメリカに渡航するパスポートを作るために「日本国籍」を取得、ハワイでの興行の際、日系人から大喝采を受けることとなる。
そこに集まった客たちは、戦時中「強制収容所」に送られ、戦後も「ジャップ」と侮蔑的に呼ばれてきた人々だった。
ところがリキは、アメリカのリングでは日本とは別の差別を受けた。ヤギひげをはやし東洋的なコスチュームで現れ、どんな汚い手でもつかう。
ひざまずいて許しを請い、相手が勝ち誇って背を向けると後頭部を攻撃するなどの茶番劇をすると、ファンは大喜びで経済効果も抜群であった。
いずれにせよ、リキは日本人を名乗ったからこそ成功したのだ。もし真相がばれたら、リキが被る被害は天文学的であることは本人が一番よく知っていた。
リキは苦しんでいた。自分の側近にさえ日本人で通していた。一方、韓国内では力道山は、彼らにヒーローと称えられた。
「力道山」という名前の由来が、実は朝鮮半島の山の名に他ならず、ありがたいことに日本人はその事実に気が付いていない。
この名前をつけることで、力道山は自分のアイデンティティを保持していたといえる。
ソウルで、リキは国賓待遇を受け、空港からオープンカーでパレードしたこともあった。
韓国各紙は一斉に一面トップで報じ、「二十年ぶりの祖国訪問」「日本人になっても流れる血は同じ」と書き立てた。
しかし日本では誰もが驚くほど口を閉ざしていた。どのマスコミもリキの秘密を大衆に知らせたくないようだ。というより、大衆自身が知りたがっていないフシさえあった。
しかし相撲部屋当時から、力道山は酔うとあたりかまわず暴れることがあり、日常生活ばかりか、リング上でも次第に自分をコントロールできなくなっていき、人々が遠ざかっていった。
また、興奮剤などの薬物やアルコールの依存により、彼の身体はガタガタになっていった。
1963年12月8日、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団員と足を踏んだ踏んでないで口論になり、馬乗りになって殴打したところ、下から登山ナイフで腹部を刺された。
山王病院に入院、手術は無事に成功するが再び体調悪化し、12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。39歳没。