カナダといえば、メイプルシロップ、サーモン、大自然、ウィンタースポーツなど。
またカナダは世界で初めて、国家の施策として「多文化主義政策」を開始したことは有名である。
カナダはもともと、先住民(ファースト・ネーションズ、イヌイット、メティス)の人々が暮らしていた土地であった。
しかし、16世紀になるとヨーロッパの探検家たちがこの地にやってきて、フランスとイギリスによる植民地支配が始まった。
フランスとイギリスがカナダの支配権をめぐって争ったフレンチインディアン戦争では、結果的にイギリスが勝利し、フランスからカナダの統治権を引き継ぐことになり、カナダ全土がイギリスの植民地となる。
1867年イギリス政府の許可を得て「カナダ自治領」が誕生。この時点ではまだイギリスの影響下にあったため完全な独立ではなかった。
1931年「ウェストミンスター憲章」が独立の第一歩で、カナダがイギリスから法律を自由に決める権利を獲得・他国と自由に外交を行えるようになった。
1982年にカナダ独自の憲法が制定され、カナダは完全な独立国家となった。
ようやくイギリス議会の承認なしに、カナダ独自の法律を作れることが認められた。
イギリス国王は現在も「形式上の国家元首」とされているが、カナダの政治や法律には一切関与しておらず、現在のカナダはイギリス連邦の一員であるが、政治的には完全に独立した国家である。
カナダと日本との関係を述べると、現在、約10万人の日系人がカナダに在住しているが、最初に日本人移民がカナダに渡ったのは1877年だといわれている。
明治時代 の日本、 貧しい農村に住む人々が仕事を求め、世界中に渡った。
カナダにも8000人を超える日本人が移住し、西海岸のバンクーバーには「リトル東京」と呼ばれる日本人街が形成された。
ただ、 日系人はカナダ国籍を取得しても選挙権は得られないなど、法的な差別を受け続けた。
カナダへの移住が開始された当時、やって来た日本人の多くは林業や漁業など肉体労働に精を出した。
当初は勤勉な日本人は高く評価されて歓迎されていたが、低賃金でカナダ人の職業域に入り込み、労働条件を引き下げるようになると日本人への差別や排斥が始まった。
1907年9月。「ホワイトカナダ(白人だけのカナダ)」を呼びかける集会が開かれ、興奮したカナダ人5000人が暴徒と化して日本人の住むパウエル街を襲うという「バンクーバー暴動」が起った。
この事件後にはカナダ・日本両政府の間に日本人移民数を制限するレミュー協定が結ばれて移民は激減し、日系人とカナダ人の間の溝は深くなっていった。
そんな難しい関係にあった日本とカナダだが、ひとつの大きな共通点があった。
それが「野球=ベースボール」で、当時は日本でもカナダでも野球は人気スポーツだった。
カナダ 国内にいくつものアマチュアリーグが存在し、日本人チームもあったが弱小チームに過ぎなかった。
日系人有力者の支援で、強力な日系人チームを作ろうと、15歳前後の少年達が集められた。
そして誕生したのが「バンクーバー朝日」である。学校が始まる前、放課後、ひたすら少年達はボールを追い続け、朝日軍は、日系人社会最強のチームへと成長した。
バンクーバー朝日は27年間にカナダのリーグを席巻したが、全盛期には5軍まであったというから、日系2世はほぼバンクーバー朝日軍に入るのを夢みていたといってよい。
このチーム発足当初から一目置かれた存在が、ハリー宮崎であった。ハリーは幼いころ、白人によって日本人街が襲撃された事件を目の当たりにして育った青年だった。
そしてチーム設立から4年後、白人達の下部リーグへの出場が許されることになった。
とはいえ白人チームに「ジャップに野球ができるのか」と侮られてながらの戦いだったが、白人チーム相手に連戦連勝し、翌年のリーグ戦で、参戦2年目にして初優勝を果たしたのである。
その翌年、朝日軍はさらにレベルの高いターミナルリーグへ招待されたが、白人チームは朝日軍に乱暴なプレーを仕掛けてくるようになった。
試合のたびに、日系人とカナダ人、それぞれの「憎しみ」が球場でぶつかり合い、審判も白人チームびいきの判定を下す状態だった。
その年 朝日軍は連戦連敗で、リーグ下位に沈んだ。
ただ皮肉なことに、朝日軍がリーグ参加の資格を剥奪されることはなかった。
白人チームが日系人チームを打ち負かす構図が多くの観客に受けていたためだ。
悪役プロレスラーを打ち負かすのとおなじで、 白人に翻弄される日系人を見に来る客で球場は埋まったのだ。反対に、バンクーバー朝日軍は崩壊・解散の危機に直面していた。
そんな時、チームのリーダーのハリー宮崎の「提案」を聞いて、メンバーは奮起した。
皆に推されてハリー宮崎が新監督に就任するや、白人のパワーに、機動力と組織力で対抗する「スモールベースボール」を目指した。
だがそれ以上に重視したことは、「フェアプレー精神」の徹底だった。
だが、結果はなかなかでなかった。日本人が抵抗しないのを良いことに敵はやりたい放題だった。
日系人の観客からは、あそこまでやられてなぜやり返さないのかと詰め寄られた。
だがハリーは、13年前に見た暴動を心に刻み、憎しみを憎しみで返すのは、憎しみをさらに増すことだと答えた。
どれだけ乱暴なプレーを受けても、偏ったジャッジにも、どんな時でも朝日軍ナインはフェアプレー精神を貫き続けた。
どんな不利な状況でも正々堂々と闘い勝つ、それが日系人の本当の姿だと人々に示したかったのだ。
しかし、翌年もその次の年も朝日軍は最下位であった。
そんな中、ある事件が起こった。
その試合で朝日軍は、勝利を目前に控えていた。だが3点リードで迎えた9回ウラ、朝日軍はランナー満塁のピンチ。その時、白人チームが走者一掃のロングヒットを放ち、 打ったバッターもホームへ突入した。誰が見てもアウトのタミングだったが、審判はセーフの判定を下した。
その時、日系人チームは信じがたい光景を目のあたりにした。審判に抗議するために乱入したのは白人観客たちの姿だった。
いつしか、敗戦を繰り返しながらもフェアプレーを貫く日本人の精神が多くのカナダ人の心までも魅了するようになっていたのだ。
その後、ハリー宮崎の監督就任から5年め、バンクーバー朝日軍は、ついにターミナルリーグ初優勝を果たした。
応援に駆けつけた5000人を超える日系人とカナダ人の観客は、一つになって喜びを分かち合った。
それは朝日軍が、憎しみ合っていた日系人とカナダ人の架け橋になった瞬間だった。
それから3年、ハリー宮崎は朝日軍の監督を引退するが、その後もバンクーバー朝日軍は快進撃を続けた。
だが1941年太平洋戦争が勃発し、カナダの日系人2万人は、敵国の人間として全財産を没収され、カナダ各地の強制収容所に送り込まれた。
バンクーバー朝日軍は、事実上の解散に追い込まれ、戦後も再結成されることはなく、その栄光は歴史の中に埋もれてしまったかに思えた。
しかし戦後、チームが結成されてから89年後の2003年6月28日。バンクーバー朝日軍は表彰を受けて「カナダ野球殿堂」入りを果たした。
殿堂入りするのは、ほとんどメジャーリーガーなど超一流選手。 単に強かったというだけではなく、そのフェアプレー精神がカナダ人を感動させたことを覚えている人々がいたのだ。
カナダと日本人の接点といえば、「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子である。
NHKの連続ドラマ「花子とアン」で、その名が世に広く知られるようになった。
1893年、村岡花子は、山梨県甲府市で生まれた。
父の実家は静岡で茶商を営んでいた。父は熱心なクリスチャンで、花子も幼児洗礼を受けている。
父親は親戚とのしがらみと決別し、一家で上京し南品川で、葉茶屋を始めた。
貧しい暮らしながら、父親は花子に高等教育を受けさせる道をつけたいと願い、10歳の花子は麻布の東洋英和女学校に寄宿生として入学した。
付属小学校から上がってきた生徒達は早くから英語教育を受けていたが、英語をまったく知らなかった花子は、父親の期待に応えるためにも、猛勉強を始めた。
猛勉強のかいあって、花子の英語の成績は群を抜くようになり、図書室にあった本を読み漁った。
その中に、カナダ人作家ルーシー・モード・モンゴメリの「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」があった。これがこの原作者と花子との初めての関わりだった。
また花子は、短歌を習うため、歌人・佐々木信綱の元に通った。
それは、23歳で東洋英和の高等科に編入してきた柳原百蓮と親交の中でで紹介されたものだった。
文芸の世界でほとんど唯一確立された職業が「歌人」であり、佐々木信綱門下は女流歌人の登竜門でもあったからである。
花子はまた、キリスト教的奉仕活動を通して、日本基督教婦人矯風会の機関誌の編集に関わるようになり、自身の童話・短歌・随想・翻訳小説などをも掲載するようになった。
1913年、20歳で東洋英和女学校の高等科を卒業するが、卒業式では代表して、花子が英文で書いた卒業論文「日本女性の過去、現在、未来」を読んだ。
翌年、花子は東洋英和の姉妹校の英和女学校が、生まれ故郷の山梨に設立されたのを機に、貧しい実家を支えるための確かな収入の必要性から赴任を決意した。
花子はそこで教師としてだけではなく、カナダ人の校長の秘書を兼ねる一方、矯風会の仕事を続けていた。
そして山梨英和の教え子たちが、花子が雑誌に小説を発表していたのを発見したため、彼女達に物語を語り聞かせたりするようになった。
しかし、花子が一番に感したことは、少女たちが物語を欲しているにもかかわらず、彼女たちにふさわしい読み物が少ないということだった。
花子はこの現状を何とかしなければという思いが湧き上がった。
そして1919年に山梨英和の教師を辞めて東京に戻り、赤坂新町の婦人矯風会館に下宿し、プロテスタントの各派宣教師の共同出資で作られた築地の基督教興文協会の編集者となった。
そのうち、キリスト教関係の書物の印刷・製本を一手に引き受ける「福音印刷」の御曹司・村岡敬三と知り合う。
村岡と花子は、築地教会で結婚式を挙げ、大森に新居を構え、長男の道雄が誕生した。
新たな家庭生活のスタートに夢を描いた村岡夫妻だったが、1923年の関東大震災で、福音印刷の建物は倒壊し、70名の職人が焼け死んでしまう。
夫は福音印刷ばかりか身内のものをも失い、信用していた役員が、復興手続きのために預けていた印鑑と重要書類を持ち逃げしてしまった。
その時、夫は36歳で花子は30歳、すべてを失った感があった。
花子は、夫を支えるために、翻訳小説を毎月機関誌に寄稿し、息子に聞かせる物語を童話のカタチにして執筆していった。
だが、その長男も6歳の誕生日を前にして、流行病にかかり他界してしまう。
花子は悲嘆に暮れて生きる気力を無くし数ヶ月を過ごすが、マーク・トウェインの本を手に取り、寝食も忘れて丸二日間かけて読み通すうちに、神が自分に一つの「使命」を授けた気がした。
それはかつて思った日本には少年少女の「心の指針」となる本が貧弱であるという思いであった。
花子は自分の子を失ったが、日本中の子どもたちに「生きる勇気」を与えるような小説を翻訳することを決意した。
1930年37歳のとき、花子は夫と共に大森の自宅に「青蘭社」を設立し、子どもも大人も楽しめる家庭文学を提唱する機関誌を創刊した。
しかし、日米関係の悪化と共に、政府の圧力に屈せず英語教育を貫いてきた東洋英和女学校も、1938年にはご真影と日の丸の旗の奉戴を受け入れていた。
そして、親交のあったカナダ人宣教師ミス・ショーが、帰国することにななった。
実は、花子とショーとは、銀座に今もあるアメリカ人宣教師が設立したキリスト教関係書の出版社・教文館で一緒に働いていたことがあったのである。
出発の日、ショーは、見送りに来た花子に、「いつかまたきっと、平和が訪れます。その時、この本をあなたの手で、日本の少女たちに紹介してください」といわれ、友情の記念に「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」の原書を贈られたのである。
彼女が東洋英和女学校の図書館で出会ったことのある本である。
彼女の万感の思いに応えるためにも、花子は大森の家で「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」を訳し続けた。
空襲で焼きつくされるなか、花子の家は幸い焼け残り、終戦を迎えた時、700枚余りの翻訳原稿が積み上げられていた。
1946年、復興の準備のため、カナダ人宣教師たちが次々と日本へ戻ってきた。
そして花子が戦前に書いた童話や翻訳作品が、再編され復刻されることになった。
花子が翻訳した700枚の原稿は、1952年「赤毛のアン」として出版された。
花子に「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」を託したミス・ショーは、帰国した翌年に祖国カナダで亡くなり、原作者のモンゴメリも戦争中に亡くなっている。
しかし、カナダの人々の思いは花子に託され、プリンスエドワード島の自然の中で成長する孤児アンの日常を描いた物語は、日本の若い女性達を中心にその心をとらえ、大ベストセラーになった。
さてもうひとり、カナダと接点をもった日本人女性がいる。由紀さおりの歌声は、2009年オレゴン州ポートランドの中古レコード店で、ポートランドを拠点にカナダで人気のジャズ・オーケストラ・グループピンク・マルティーニのひとりのメンバーによって「発見」される。
単に由紀の肖像が表面にアルバムが気に入って購入したところ、そこに収められた「声質」に驚き、マルティニ楽団と由紀とのコラボレーションが実現する。
そして、「夜明けのスキャット」は40年の時を経て世界的なヒットとなるが、その裏側には由紀しか知らない「究極の選択」あった。
37才の時子宮筋腫を患ったが、声を守るために「ホルモン治療」を退け、41才の時全摘出を決意した。ホルモン治療をすると声が低くなるからで、自分の声を愛してくれる人々のためにも「声が変わる」危険性のある治療はできなかったのだ。
そのことからすれば、その思いには格別なものがあったであろう。
さて、ピンクマルティ-ニとのコラボで作成されたアルバム「1969年」である。
1970年大阪万博の前年の1969年にはいろいろなことが起った。人間が月に着陸し、沖縄の返還が決まった。また東大安田講堂が陥落し、三沢高校と松山商業の延長18回の熱戦もこの年であった。
由紀さおりのこの年の大ヒット曲「夜明けのスキャット」をバックに流れる激動の映像は、奇妙にマッチして感慨深いものがある。
アルバム「1969」のカバー収録曲は次のとおり。
「ブー・ライト・ヨコハマ (いしだあゆみ)真夜中のボサ・ノバ (ヒデとロザンナ)さらば夏の日(フランシス・レイ)パフ(ピーター・ポール&マリー)いいじゃないの幸せならば (佐良直美)夕月 (黛ジュン)夜明けのスキャット (由紀さおり)マシュ・ケ・ナダ (アストラッド・ジルベルド)」等である。