「NO」と言えるカナダ

「NOと言える日本」(1989年)は、日米貿易摩擦の中ソニーの会長・盛田昭夫と作家・石原慎太郎によって共同執筆されたエッセイである。
アメリカのビジネス方法に批判的な目を向け、日本にこそ優れたものが多くあり、大国(アメリカ)に同調ばかりしないで、時にははっきりと「NO」というべきことを主張していた。
このタイトルがうかんだのは、トランプ政権に対するカナダ新首相の対決姿勢を見てからで、大国と長い国境で接したカナダが、そこまで出来ることに、どんな背景があるのだろうと思ったからである。
遡って1968年にカナダ首相の座に就いたピエール エリオット トルドーは、カナダ第一主義を掲げ、反米主義的な文化的・経済的ナショナリズム政策を実行した首相として知られている。
「アメリカの隣に暮らすことは、象の隣に寝ているようなもの。この動物がどんなに友好的で冷静でも、ほんのちょっと動いたり鼻を鳴らしても、隣に寝ている人は影響を受けるのです」と語っている。
カナダは世界で最初に「多様性」を国の政策として掲げた国であることを銘記しておきたい。
そんなカナダの価値観は、トランプ大統領とは明白に相反するだけに、隣の”象”に対応するのに心休まることはないであろう。
その試練のひとつが、トランプから51番目のアメリカ州になれといわんばかりに「ガバナー(知事)」呼ばわりされたエリオット・トルドーの息子のジャスティン・トルドー首相である。
とはいってもジャスティン・トルドー首相は、物価高騰や住宅不足で支持率が低迷し、2025年1月、アメリカでトランプ政権誕生を待たずに首相辞任を表明することとなった。
それでもジャスティン・トルドー首相は、2015年にカナダ史上2番目の若さとなる43歳で就任し、在任期間9年は現職のG7首脳の中で最長となった。
辞任表明を受け、アメリカのトランプ大統領は、自身のSNSで、「多くのカナダの人々は、アメリカの51番目の州になることを望んでいる」という持論を展開し、そのうえでカナダがアメリカと合併すれば関税もなくなり、中国やロシアの脅威からも守られるとして、「一緒になれば、どんなに素晴らしい国家になるだろうか!」と主張した。
実際の世論調査では、82%が合併の反対している。
それどころか、トランプ発言でカナダにかつてないほどのナショナリズムが盛り上がっているようだ。
その象徴がアメリカ製品のボイコットやアメリカへの観光旅行のキャンセル、そして今までにないほど「カナダ国旗」が多くの家庭に掲げられているという。
特質すべきは、トランプ大統領の地元フロリダで、カナダ国旗が多く掲げられていることだ。
カナダとトランプ政権との間には、イーロン・マスク氏の祖父、ジョシュア・ハルデマン(1902年~1974年)が、カナダからいわば追放されたという因縁がある。
ハルデマンの母親アルメダは、カナダで最初のカイロプラクターの一人で、その仕事を受け継ぎ、カイロプラクターを目指した。
カイロプラクティック学校を1926年に卒業した後、カナダのサスカチュワン州で治療院を開業した。
カイロプラクター連合会の設立に貢献するなか、その法的保護を与える法案を起草するなどして政治への関心を示すようになり、大恐慌時代に北米で勢いを増した「テクノクラシー運動」に傾倒する。
その思想の特徴は、科学者や技術者などの専門家集団(テクノクラート) による社会の管理を主張。彼らが資源、生産、分配を科学的に運営すべきというものだった。
しかし、ヨーロッパでの戦況が悪化し始めた1940年、カナダ政府がテクノクラシーの禁止を発表。カナダ支部のリーダーだったハルデマンは逮捕されることとなった。このことで、組織と国の両方に幻滅し、家族を連れて南アフリカへと発っている。

2025年4月に、ジャスティン・トルドーに代って新首相に就任した自由党のマーク・カーニーは、経済問題に通じており、対米強硬派として知られている。
カーニー首相は、カナダ銀行、イングランド銀行と2つの中央銀行で総裁を務めた。
新首相は自由党候補に選出された段階から、トランプ政権に対して「報復関税で対抗する」と述べた。
そうした強気の背景に、アメリカなしでやっていけるカードがあるのかと調べてみると、いくつか見つかった。
その一番に「食糧自給率」の高さがあげられる。
2021年時点で最も食料自給率が高いのはカナダで204%となっている。次いで大きいのがフランスで121%となっている。
以下、米国(104%)、ドイツ(83%)、英国(58%)と続くが、日本は、主要国の中で最も食料自給率が低く、38%となっている。
またカナダは、「世界で最も美しい国」の一つと称されるほど、壮大な自然が魅力で、観光が大きな外貨獲得源となっている。
国立公園の数は約40ヶ所以上あり、世界遺産にも登録されている場所が数多く存在する。特に有名な自然の名所は以下の3ヶ所である。
ロッキー山脈に広がるカナダ最古の国立公園で、エメラルド色の湖や、雪が積もる山々が魅力。
またナイアガラの滝(オンタリオ州)は、誰もが一度は見てみたい場所ではなかろうか。
さらには、イエローナイフ(ノースウエスト準州)は、世界有数のオーロラ観測スポット。
また「赤毛のアン」の舞台となったプリンス・エドワード島も有名な観光としてあげられる。
作者ルーシー・モード・モンゴメリは1874年11月に、カナダ東部プリンス・エドワード島のクリフトン(現在のニューロンドン)で生まれた。
スコットランド系とイングランド系の祖先を持つ。父方の祖父は、上院議員である。
モンゴメリが生後1歳9か月のとき、母クララ・ウールナー・マクニール・モンゴメリが結核で亡くなると、父ヒュー・ジョン・モンゴメリはカナダ西部へ移住したため、モンゴメリはキャベンディッシュの農場に暮らす母方の祖父母に厳しく育てられた。
マクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育った。
1890年(15歳のころ)には父と継母と暮らすため、サスカチュワン州のプリンス・アルバートに送られたが、1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に戻っている。
11歳しか年の違わない継母からは子守りと家事手伝いを命じられ、勉強をしたいという夢を打ち砕かれるが、この時期に書いた詩やエッセイが新聞に掲載され、作家を目指すきっかけとなった。
1893年、キャベンディッシュでの中等教育を終えたモンゴメリは、シャロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ(現在のホーランド・カレッジ)へ進学。
2年分の科目を1年で終え、1894年に一級教員の資格を取得している。
島にあるさまざまな学校で教師を務めたあと、1898年に祖父を亡くし、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻った。
1901年頃、ハリファックスで新聞社に記者兼雑用係として勤め、雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編を書く気になったという。
気難しい祖母との辛い暮らしの中、相談相手となってくれた長老派教会牧師ユーアン・マクドナルドと婚約(1911年に正式結婚)。1908年最初の長編小説「赤毛のアン」を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収める。
カナダは観光地に恵まれているばかりか、世界的にみて治安の良い国として知られている。
国民合意の上での「銃規制」が強さが、アメリカとは対照的である。
カナダにおける多様性のシンボルともいえるのがカナダ最大の都市トロントで、人口293万人を超え、北米では4番目に大きな都市である。
日本で活躍した香港出身のアイドル、アグネスチャンもトロント大学で学んでいる。
アイドルとして人気絶頂だった1976年に上智大学国際学部を経てカナダに留学した理由は、もともと芸能界入りに反対していた父が日本に来て、アグネスのコンサートツアーを見にきて怒ったことである。
そして「このままでは自分を見失います。誰も君のことを知らないカナダへ留学して、頭を冷やしなさい」と言い出した。
その一方で、現実的な母は「これからが稼ぎ時じゃないか」と、父親に反対した。
父が「お金や名声は流れもので、奪われるものだけど、一度頭に入った知識は一生の宝だから、勉強できる時はありがたく勉強しなさい」と言われ、「なんて素敵な言葉だろう」と思い、その言葉信じてカナダに行ったという。
ちなみに、アグネスはトロント大学で幼児教育を学び、1992年6月スタンフォード大学大学院教育学博士課程を修了。1994年には博士号が授与されている。
カナダに留学した時は21歳になったばっかりで、大学を卒業したら芸能界に戻ろうという気はなかったという。
しかしカナダへ留学した次の年に父が亡くなって、現実的な母が「結婚するまでは、もう一度、芸能活動をしてもいいじゃないか」と言いだした。
父が亡くなる前、「お母さんの言うことは何でも聞くんだよ」といっていたことを思い出し、そうすることは親孝行だと思って、カムバックしたのだという。なんと素直なアグネスチャン!
さて観光とも関係する問題が環境問題であるが、特にトランプ政権との関係で難しい対応を迫られる。
カナダのほぼ全州は、積極的な温室効果ガス削減政策を導入している。
しかしもし隣国が同じ方向を目指さなくなれば、カナダの政策の効力は弱まり、経済的にも実行不能に陥りかねない。
特にトランプ政権によって、カナダは炭素税を導入しにくくなる可能性がもある。
なぜなら隣国が「掘りまくった」結果、発生させた炭素をカナダ国民が負担することになるからである。

アメリカとカナダは、世界最大の貿易相手国である一方、両国間の国境は世界最長の「非武装国境」となっており、防衛圏内で重要な相互運用を行っている。
父トルドー(エリオット・トルドー)は、カナダ第一主義を掲げ、反米主義的な文化的・経済的ナショナリズム政策を実行した首相として知られている。
1960年代のカナダは、アメリカ系多国籍企業によるカナダの経済的、文化的領域への侵攻に対して、攻撃的な姿勢をとる若きカナダ人グループが勢力を得てきた時代でもあった。
さらに、1967年の建国百周年を機に、カナダではナショナリズムの気運が高まり、旧宗主国イギリスの亜流でなく、隣の大国アメリカの「弟」芸術とみなされることのない、独自の「カナダ的」な作品をカナダの芸術家たちは求め始めた。
記憶に新しいのは2013年、82歳でノーベル文学賞を受賞したアリス・マンローである。彼女の受賞により、有力視されていた村上春樹がノーベル文学賞受賞を外したことのインパクトのためである。
彼女は女性の生き方を模索し続けた作家であり、母性、優しさ、家庭を守るといった既成概念に捉われない新しい女性像を描く作品群を生み出している。
そして「カナダ的状況」を極めて強く描写したマンロー作品は祖国カナダで歓迎され、注目を浴びた。
さて、アメリカと緊密なつながりのあるカナダだが、アメリカの言うことをなんでも「イエス」と言うことはない。時に明確に「NO!」といってきた。
例えば、キューバとも交易していたし、アフガン戦争に続くイラク戦争には不参戦であった。
2003年、フセイン大統領のイラクが「大量破壊兵器」を保有しているという明確な根拠もなくイラクを攻撃すると言い出したアメリカは、国連による保障をえることもなく、「有志連合」を募ってイラクを攻撃した。
日本は憲法上の制約があるが、非武装地帯の復興に果たすなど「有志連合」の一角を担った。
イギリスは早くから「有志連合」に加わわったが、後述するようにイギリスと歴史上の繋がりの深いカナダはNO、イラク戦争には参戦しなかった。
その一方でアメリカの対テロ対策として国連のお墨付きがあったアフガン戦争では、アメリカの同盟国として戦争に参加している。
このように、カナダがアメリカと一線を画して自国のアイデンティティ形成を行ってきたのも、カナダが生まれた歴史的経緯と切り離すことはできない。
さて、アメリカの独立戦争とは、イギリス本国とアメリカ植民地との戦いだが、植民地アメリカ内における愛国派(独立派)とロイヤリスト(イギリス忠誠派)の戦いでもある。
ただ新大陸には、イギリスばかりかフランスも早くから進出していたい。
フランスは、1605年にポール・ロワイヤル砦を建設して以来、ケベックシティを中心にセントローレンス川を中心に領土を拡張した。
その主たる目的は領土拡張もさることながら、当時ヨーロッパで需要が高かった「ビーバーの皮」を入手するこてあった。
1758年ヨーロッパの7年戦争がアメリカにも波及し、フレンチンディアン戦争が、イギリス方の勝利に終わり、フランスはそれまで獲得した領土を失うことになる。
一方、植民地アメリカでは、トマスペインの「コモンセンス」という冊子の影響で愛国派が優勢をしめてロイヤリストは五大湖より北に拠点を築き、彼らは「カナディアン」とよばれた。
1776年、アメリカは北のノバスコシアの奪取も試み、マサチューセッツの民兵部隊が侵攻したものの、イギリス軍や現地のロイヤリストの守備に阻まれ、やがて敗走を余儀なくされる。
この時、アメリカ独立を支持していた現地の住民や義勇兵など「親米派」の人々は、報復や迫害を恐れ、ケベック州やメイン州方面へと避難し、そこで新たに入植地を築くこととなった。
フランス系のカトリックを主体とする「ケベック州」で、イギリス政府が1774年の「ケベック法」によってカトリック信仰を保護していた一方で、アメリカ独立派の多くはプロテスタントであり、こうした宗派の違いが、アメリカ側と現地住民との連携を困難にした一因であった。
アメリカ独立戦争がアメリカの勝利に終わると、皮肉なことにアメリカから「イギリス領カナダ」へと向かう、より大規模な人口移動の波が押し寄せることになる。
というのも1783年のパリ条約の締結後、アメリカ国内ではロイヤリスト(忠誠派)たちが迫害や差別を受けるようになったためである。
イギリスへの忠誠を貫いた約5万人のアメリカ人と、さらに約1万人のヨーロッパ移民たちは、祖国を離れてケベック州やノバスコシア州に移住した。
彼らの中には、元兵士、地主、商人、官僚など、さまざまな社会階層の人々が含まれており、カナダでの土地の支給や生活の再建が急務とされた。
この移住の結果、カナダにおける英語話者人口は、戦前の約7倍にまで膨れ上がり、それまで「フランス系カナダ人」が中心だった地域の社会構造は大きく変容したのである。
こうして、かつて「イギリスへの忠誠心」という内面の立場だけで分かれていた北アメリカの英語話者たちは、独立戦争とその後の人口移動を経て、今や明確な「国境線」という地理的な境界によって分断され、二つの国家的存在「アメリカ合衆国」と「英領カナダ」として姿を現すことになったのである。
カナダは今でも英国王を君主として仰ぎ、政治的にイギリスから完全に独立したのは、ようやく1982年に至ってである。