聖書の言葉より(顔と顔を相見る)

聖書によれば、神は我々のことをよく知っているのに、人間の側は神のことを「おぼろげ」にしか知らない、あるいはまったく知らない。
一方、神の側からは、我々がいかに知られているか、なにしろ「あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」(マタイの福音書10章)とあるように著しい「情報の非対称性」が存在する。
そのことは、イエスは次の言葉に示されている。
「祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイの福音書6章)。
またパウロも「祈り」につき次のように述べている。
「私たちはどう祈ったらよいか分からない時、御霊自ら言いがたき嘆きをもって、とりなしてくださる」(ローマ人への手紙8章)」。
とはいっても、神は「信仰の父」アブラハムの時代から我々の心を探られる。
ダビデは次のように述べている。「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます」(詩篇139篇)。
パウロは信徒への手紙に次のように書いている。
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである」(ヘブル人への手紙4章)。

新約聖書に、ひとりの女がイエスの頭に香油を注いだという話がある(マルコの福音書14章)。
「イエスがベタニヤでらい病の人シモンの家にいて、食事の席についておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。
その場にいた人々は、「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに」と言って彼女を厳しくとがめた。
するとイエスは、「この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた」と応えた。
ナルドの香油というのは当時1デナリオンは1日の日当分だから、労働者1年分の給料の価値があった。
それ故に、周りの人々の反応は至極もっともなのだが、イエスの応えは異次元なものだった。
イエスは、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた」と語っている。
人々はこの理解しがたい言葉をスルーしたに違いないが、イエスははやくも「十字架」という自分の進むことになる道を告知しているのである。
一般にメシヤという言葉はヘブライ語で、「メシャー」(=油を注ぐ)という動詞から派生した言葉で、メシアのギリシア読みが「キリスト」である。
つまりマリヤは香油をそそぐことをもって、イエスの十字架への準備をなしたばかりか、はからずもイエスが「キリスト」たることを示したことになる。
さて、このエピソードで、マリヤが香油のはいった石膏の壺を「壊した」という言葉に注目したい。
まるでマリヤが自分の殻を打ち破って人格のすべてを注ぎだしたようにも感じる。
ダビデの「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51篇)という歌が思い出されるからだ。
しかし、この「香油の壺を壊した」ことは聖書全体からみてもっと大きな広がりをもっている。
この「同じ場面」を別の福音書では、「家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネの福音書12章)という言葉が加わっている。
旧約聖書には、イスラエルの祭司が神殿にいけにえを捧げる時に香をたくのであるが、その際に「聖所」(および至聖所)は香の香りで一杯になったと書いてある(へブル人への手紙9章)。
神殿の庭には祭壇があり、ヤギやはと、傷のない子羊が丸焼きにされ、罪の贖いのために神への犠牲が捧げられた。
聖所では、香をたく祭壇が正面にあり、その聖所の奥に「至聖所」と呼ばれる部屋がある。
分厚い垂れ幕によって、聖所と至聖所に分けられていて、至聖所には、「契約の箱」があった。
大祭司が動物の血を契約の箱にふりかけることでイスラエルの民の1年間分の罪が赦される、というのが「古い契約」である。
しかし「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント人第二の手紙5章)、イエス・キリストにより新たな契約が結ばれる。
なぜなら、イエス自身が「贖罪の羊」となったからだ。
またイエスの十字架に架けられるという最後のシーンで、イエスが息を引き取られたその時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起きた(マタイの福音書27章)とある。
その結果、パウロは「わたしたちは、イエスの血によって、はばかることなく聖所に入ることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いてくださった新しい生きた道を通って、はいっていくことができる」(ヘブル10章)としている。
マリヤが香油のはいった石膏の壺を「壊した」エピソードは、、イエスの「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネの福音書2章)という言葉に対応している。
また、「旧約の時代」は、神との間には比喩的に人間に「顔覆い」が掛けられた状態であると語られる。
この「顔覆い」の比喩は、モーセの「十戒」の出来事に由来するものである。
モーセがシナイ山で神より「十戒」を頂き、下山したところモーセの顔があまりに神々しく光り輝いていたために、 民衆はそのモーセを直視できなかったために、モーセの顔に「顔覆い」が掛けられたとある(出エジプト記34章)。
パウロは、イエスを救世主と受け入れない当時のイスラエル人について次のように語っている。
「こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」(コリント人への第二の手紙3章)。
イエスは復活後、弟子達を中心に、40日の間復活の姿を現すが、昇天後に真理の御霊を送るという約束通り、死後50日めにエルサレムの聖徒の群れに聖霊が下り、「初代教会」が誕生している(使徒行伝2章)。
さて、イエスが昇った目には見ることができない天が「霊界」ということがいえる。
パウロは「イエスの名」を唱えるものであっても、聖霊なきものは「神に属する者にあらず」(ローマ人への手紙8章)と厳しいことをいっている。
パウロによれば「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」として、その点では旧約の時代も新約の時代も変わらない。
そして、アブラハム以来の信仰の勇者を例示している(ヘブル人への手紙11章)。
例えば、出エジプト時をリードしてシナイ山で「十戒」を授けられたモーセの生涯については次のように書いている。
「信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした」。
しかし、パウロは「影」でしかない律法(十戒)に生きる旧約の人々と、聖霊(イエスそのもの)を受けた「新約」の人々の違いを、次のように語っている。
「あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。 こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリント人第二の手紙3章)。

パリサイ人がイエスに「神の国はいつ来るのか」ということを質問したことがある。
それに対してイエスは「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイの福音書24章)といいつつも、イエスは世を滅ぼさんとする「不法のはたらき」と「それを留める」ものがあることを述べている。
「まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(テサロニケ第二の手紙2章)。
ここで、「不法の秘密の力」あるいは「阻止している者」とは何なのか。
「ヨハネの黙示録」は、ギリシアのパトモス島に流された使徒ヨハネに示された「天界」におけることが記されている。
その中に「不法の秘密の力」とはサンタによく似た名前の存在であるが、「阻止している者」とは何か。
「ヨハネ黙示録」に「四人の御使い」が登場する。
「この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、"わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない" 」(ヨハネ黙示録7章)。
イエスは、いつ神の国がやってくるのかについては、それは「天にいる父のみが知ることである」(ヨハネの福音書14章)としている一方、「あることが起きる」ことが条件であることを示している。
それは、「異邦人の数が満ちる時」(文語訳/ローマ人への手紙11章10)ということ。
すなわちキリストの福音が世界に広がり、ユダヤ人以外の異邦人の数が満ちた時、(その数はわからない)ということである。
この奥義については、別の箇所で「異邦人の時代が満ちた時」(ルカの福音書25章)と表現されている。
また「神の国はいつくるのか」という質問に対して、イエスが次のように答える場面がある。
「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また"見よ、ここにある""あそこにある"などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカの福音書17章)。
ここでイエスは、聖霊のカタチで「神の国」が信徒に宿ることを示唆している。そういう意味で、見られるかたちでくるものではないと語っている。
したがってイエスの「救い」を受けた者は、「聖霊」を心に宿すことであり、地上に「神の国」を先取りして味わっているということである。
とはいっても、それは完全なものではなく一部分でしかない。
「本体」が現れれば、「影」は棄却される。パウロが信徒にあてた次のような言葉がある。
「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」(コリント人第一の手紙13章)。
パウロの言葉は次のように続く。
「しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」。
ここで、「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」とあるように、神と人との「情報の非対称性」がなくなることが預言されている。
それは具体的にどのように実現するのであろう。
イエスのたとえ話のなかには「天国のたとえ」と「神の国のたとえ」とがある。
その違いは、両者の言葉の使い方に表れる。たとえば、「神の国を待ち望む」といっても、「天国を待ち望む」とはいわない。また、「神の国を継ぐ」とはいっても、「天国を継ぐ」とはいわない。
両者の違いを簡単にいうと、「天国」は今でも存在するが、「神の国」はこれからくるもの。
さらにいうと、「天国」が地上にくだってきたものが、「神の国」ということである。
また聖書は、信者が「顔と顔を相見る」ように神を知ることが出来る日が来ることを預言している。
では天国がどのように地上に下るかというと、「キリストの再臨」を通じてである。
信徒にとっては「天国」のことは、鏡にみるようにおぼろげでも、「神の国」の到来では「顔と顔とを相合わせる」ということだ。
パウロが、「いつまでも存続するもの~信仰と希望と愛」の希望とはそのことである。また、イエスは「存続する愛」について次のように語っている。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」(ヨハネの福音書14章)。