2024年、自民党の派閥パーティ収入のキックバックによる裏金作りの問題が起きた時、枕言葉となったのが1990年の「リクルート事件以来の」という言い方だった。
個人的には、2019年の「リクナビ事件」で会社名が浮上したことから、この時30年前の「リクルート事件」を思い起こした。
リクナビ事件は、就活サイト「リクナビ」を運営する「リクルートキャリア」が、就活生の”内定辞退率”を本人の同意なしに予測し、有償で38社に提供していたことが報じられた。
会社は、個人情報保護委員会から勧告・指導を受け受けている。
さてリクルート社の創業者は、江副浩正。日本経済がモノつくりから情報社会へと転換する、いわば境界期に実業界に登場した天才実業家である。
江副は、コンピュータがようやく普及し、情報が紙上から電子画面へと切り替わろうという時代に、”情報の価値”を世の中に知らしめた人物だった。
しかし製造業中心の時代にあって、実業界からはその存在価値を認めてもらえずに、モガキ続けた。
死後に夫人がテレビで述べた言葉が印象的だった。「江副は一度も、私利私欲のために動いたことはなかった。ただ認められたかったのだと思う」と。
江副は、1983年に亡くなるが、そのものの考え方は、リクルート社に受け継がれ、会社は依然として成長し続けている。
その事実は江副が未来を適格に見据えていたことの証左である。
江副の会社創業の発端は、江副が東大に入学し大学2年生の1957年6月に東大学生新聞に初めて顔を出し広告取りの仕事を始めたこと。
大学の先輩から、「新聞は販売収入より広告収入が上回る時代になった。広告もニュース、新聞は下から読め」といった教示を受けたという。
当時の就職活動は今のように学生が自由に企業に応募するというスタイルではなく、ほとんどが親族や部活の縁故採用で、後々ミスマッチが発生し、採用する側もされる側もお互いが損をしていた。
そこで江副は、「企業がもっといろんな学生にアプローチできるよう広告が打てる場を提供すれば、お金になるんじゃないか」と考えた。
江副は、学内の掲示板で大手商社の説明会開催の掲示を見つけ、東大新聞に企業の採用広告を出した。そして、そこに大きなチャンスがあることを見出し、すぐに6社もの広告を獲得して営業成績をあげていく。
大企業と呼ばれる企業の中から1社でも、とりわけトップ企業の営業に成功すれば、他社も「向こうが出すならうちも出そう」となって広告を獲得しやすいことに気づいていた。
もちろん「東大ブランド」も大いに役立った。
また、当時、東大の学生は東京に就職してしまう学生が多く、関西の企業に就職する学生は少数であることに目をつけ、関西の企業を中心に、広告営業をするようになる。
実際、住友商事・伊藤忠商事・住友銀行・三和銀行・川崎製鉄などの求人告知広告が多かった。
他にも、「最終的な決定権を持つ人を見つけて話をつける」などといった点で、優れた営業センスをすでに身に着けていた。
その後、江副は大学新聞の仕事を発展させる形で、いまのリクルートの前身となる会社を創業する。
転機になったのは、教育学部の先輩が、留学先のアメリカから就職情報ガイドブック「キャリア」誌を送ってきたことで、そこには本一冊まるまる就職情報で埋まっていた。
これが、広告だけで情報誌が作れるということに気づいた瞬間だった。
それを元に、江副が会社で「広告だけの本」を提案したところ、途端に反対の声が次々に上がった。
「広告だけの本をだれが買うか」問われると、「売るのではなく、無料で配る」と答えると、そんな馬鹿なと反応する。それでも、「出版経費、配送費をすべて足してわれわれの利益を乗せて、それを広告掲載社数で割れば、一社当たりの広告費がでてくる」と説明。すると、社員も「いけるかも」という方向に気持ちが傾いた。
江副はコンピュータ時代の到来を予想していた。
手描きで制作している「リクルートブック」の地図も、いつかコンピュータ処理ができる時代が来る。そうすれば、一度作った情報は効率よく再利用でき、制作原価が一段と下がる。
いま携わる自分たちのすべての情報をコンピュータのもとに集約できれば、日本で一番進んだ情報産業になれると信じていたのだ。
そして、いまだ日本にコンピュータが全部で300台しかないという時代に、その利益をすべて吐き出してでも、最新機器を十台も導入することにした。
リクルートを情報ビジネスだと認識していたからこそコンピュータビジネスにも乗り出した。
そしてライバルである求人情報誌会社ダイヤモンド社をようやくねじ伏せたところでオイルショックに遭遇して求人広告が減る。
それをカバーするために「住宅情報」を立ち上げ、続いて「とらばーゆ」の成功で、江副はますます時代を演出し、時代と並走する経営者として注目を集めるようになった。
当時、結婚すれば寿退社して女性は家に籠もるものという社会通念は、この時を境に、日本から徐々に崩れていく。
江副は、成功に次ぐ成功で注目を集め、時代のプロデューサー
ともなり、国の要職にもかかわるようになる。
実際、土地臨調、税調特別委と国の要職にかかわってみると、いち早くさまざまな土地や金融情報が手に入ることがわかった。
江副は、この辺りから絶対君主のような振る舞いが目立つようになる。
不動産やノンバンク事業に傾斜し、ニューメディア事業で疾走する江副のなりふり構わないワンマンぶりに対して、社内では、その変容ぶりを嘆くかのよう「江副二号」という言葉がささやかれ始めた。
「住宅情報」の頃までの江副が「江副一号」だとすると、今の江副は「江副二号」だというわけだ。
江副はそれまでは、父にたたき込まれた「謙虚であれ、己を殺して公につくせ」という葉隠精神からきていたといっていい。
その父がなくなり、内なる父からの解放と重なるように、経団連、経済同友会入りを果たした江副の口から、意外な言葉がたびたびもれるようになっていった。
「リクルートは実業ではない。実業をしたい」リクルート社員はとまどった。ならば、いまやっている、かつて誰もしたことのなかった仕事は、虚業だったということか。
江副が「リクルートは実業ではない」といった言葉の裏には次のような背景がある。
ある日、江副は当時の経団連会長・稲山嘉寛に呼び出される。日本経済界のトップに、まだ駆け出しのベンチャーの社長に過ぎない江副が呼ばれた理由は、製造業が衰退しつつある当時、情報をカネに変えるリクルートを経団連に入れるかどうかのテストだった。
稲山は江副に「モノづくりをしない、きみのやっていることは虚業だね」と告げたそうだ。
経団連会長から向けられた悪意を嗅ぎ取ったに違いない。
その後、求人広告のみならず、不動産、スキーリゾート建設など幅広い事業に手を広げ、リクルートはどんどん規模を拡大していった。
身一つで成り上がってきた江副には、結果が全てだった。例え虚業と言われようと、情報を求める人がいて、彼らが求めるものをしっかり提供すれば、それは立派な商売になる。情報の価値を、江副は誰よりも理解していた。
しかし、京セラの稲盛との確執などもあり気鋭の経済人仲間から外されたことで、NTTへ接近していく。
その段階では、「住宅情報」を乗り越えて、Googleマップのようなものを作りたかったのかもしれない。
次第に、リクルートは「誰もしていないことをする主義」からはほど遠い、デジタル回線、コンピュータレンタルの下請け事業、そして不動産業へと急激に傾斜していく。
しかし、こうした事業はほぼすべて失敗する。そして、リクルートを辞めてからも資産を失い続ける。
リクルート事件は、1988年、リクルートが川崎市の役人に「未公開株」を無償で譲渡し、店頭公開した瞬間に売り抜け1億2千万円の譲渡益を得たことが発端である。
神奈川県警はこの事実をつかんで捜査したが、結果的には立件しなかった。
それは未公開株の譲渡が1984年で贈賄の時効(3年)を過ぎていたことと、上場のとき関係者に未公開株を譲渡するのは普通の商慣習で、助役は代金を払っていたので賄賂と認定するのはむずかしいと判断したためだ。とはいえ、それが後の政界を揺るがす大事件となっていく。
東京地検特捜部は、同じリクルートコスモスの未公開株をリクルート社長・江副浩正が政治家に贈与していたことから、贈賄疑獄として捜査に乗り出した。
そして、このリクルートコスモスの未公開株譲渡の事実と、多くの関係者が大きな売却益を得ていたことが報じられ、一大スキャンダルに発展した。
実は、この「リクルート事件」は、冤罪の可能性も高いという。
当時から、「あんなのが有罪なんておかしい」という声はあったし、「江副さんも真藤さん(NTT社長)も、マスコミと検察にはめられたんだ」という声さえあった。
当時、主任検事をつとめたのが宗像紀夫特捜部長。宗像によれば、江副浩正の、「株を譲渡して見返りの利益を得よう」とする意思の立証が困難を極めたという。
1984年から主に85年にかけて当時リクルートの会長であった江副氏とリクルートが、子会社であるリクルートコスモスの未公開株を、多くの有力政治家、官僚、通信業界有力者に幅広く譲渡(正確には有償譲渡もしくは第三者割当増資)した。
1986年10月にリクルートコスモス株は店頭公開されており、その際に手持ち株を売却した者は”大きな利益”を得ていtたことは確かである。
とはいえ、この事件は「冤罪」の可能性の方が高い。
なぜなら、この事件の大半において、贈収賄事件であるための条件「職務上の権限がある人物に対し、利益供与と引き換えに便宜を図ってもらう」という構図が成立しないからである。
そして肝心な点として、当時も今も、将来の上場または店頭公開を目指す株式を有償で取得することは違法でも何でもない、正当な経済行為なのだ。
そしてこの件で収賄側とされる人々の大半は、リクルートコスモスの未公開株を、江副氏やリクルート社から買うか第三者割当増資に応じるなどして取得している。
未公開株の取得者は既に公開された株式を単純に割安に手に入れた訳ではないのだ。
未公開株ならではのリスクに応じたディスカウント(割引)がなされた株価の株式を正当に有償で取得している。
ちなみに、2024年の自民党安倍派の裏金事件も、派閥のパーティ券を議員が売って一部をキックバックしてもらうこと自体は違法ではない。
それを政治資金収支報告書に記載しないのは違法であるが、記載しないと「雑所得」として所得税法違反になるが、脱税としては小規模で起訴には至らないという気持であったであろう。
江副がなぜそれほど広く未公開株を配ったかというと、いわば日本のエスタブリッシュメントに喜んでもらうためにリクルートコスモスの未公開株を配った。
或いは、虚業と馬鹿にされた自分の会社の株をそうしエスタブリッシュメントにもってもらうことで、企業価値もあがると思ったのかもしれない。
もともとサービス精神旺盛な江副は大企業のそういう習慣を学んでいて、それを徹底的にやったに過ぎない。だから相手の職務権限など関係なく、有力政治家全員に配りまくったのである。
そこに犯意などというものはほとんどなかった。
アメリカのアップルやグーグルには、いわば「エンジェル投資家」というのがいて、狂気に駆られた若者を御するため、グレイヘア(白髪の老人、成熟した大人)と呼ばれるシニアの経営者を取締役として送り込んだり、経営に関与したりしている。
それに対して江副社長には適切な助言者がいなかったということがいえる。
創業期には、東大の先輩で資金繰りを手伝った森ビルの森稔など、支えてくれる人がいたが、会社が大きくなるにつれてそういう人が周りにいなくなってしまった。
江副氏としては政官財界の有力な人々にバラ撒くことで、その一部の人が公開後に全株を売り抜けずに多少残してもらえば彼らは安定株主となり、ゆくゆくはリクルート社もエスタブリッシュメントの一員になれるかも知れないという淡い期待もあったのではないか。
そうなれば、ものつくり実業の経団連の面々から見下されることもないという気持ちが働いたのではないかとも推測される。
いつの時代も、出る杭は叩かれる。江副はまさに「出過ぎた杭」だった。
とどめを刺したのは竹下自身のリクルートからの政治献金が新たに見つかったことで、首相秘書の青木伊平が自殺する事件もおきた。
竹下は消費税法案の成立と引き替えに、1989年6月に総辞職した。
各界の要人との会食に顔を出し、未公開株を配りまくる。当時、未公開株を買ってもらうことはグレーゾーンだった。配ると言ってもタダであげるわけじゃなく、お金を払って買ってもらうのだが。
リクルート子会社の株が値を下げることはあり得なかった。未公開株の行き過ぎた取引は世間に知られるところとなり、江副は壮絶なバッシングを受けた。
そして加熱する世論を受け、検察が関係者300名近くから事情聴取をする大捜査にまで発展した末、多数の政治家と官僚が実刑判決を受けた。
江副は2003年3月、東京地裁にて懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受けた。そして10年後の2月8日、肺炎のため亡くなる。76歳だった。
リクルート社は、江副という強烈なキャラクターの創業者が去った後も、会社として成長し続けた。
江副は、創業メンバーと一緒に、会社が成長し続ける仕組みを作った。
リクルートの社員は、江副浩正というカリスマではなく、江副が構築したものの考え方を信奉していたからこそ、江副なきあともブレずに目的合理的な仕事を貫くことができたのであろう。
実際、リクルートは発展を続けている。「ゆりかごから墓場まで」を合言葉に、タウンワークやリクナビ、リクナビNEXTでアルバイトから就活、転職市場を囲い込み、SUUMOでは不動産市場を席巻している。
「ゼクシィ」は結婚から子育てまで、「スタディサプリ」では受験を、そして「ホットペッパー」ではグルメから美容まですっぽり網羅している。まさに現代人の一生に寄り添うビジネスだ。
2012年に1000億円で買収したアメリカの求人サイト「Indeed」は爆発的な成長を遂げ、2019年3月期には連結売上高2兆3000億円のうち1兆円を海外で稼いだ。
江副の才覚とは、情報というものに対する”嗅覚”であったといえよう。
ただ、コンピュータ普及前夜の日本にあって、情報の価値を十分に認識しない時代にもがき苦しみ、ついには”締め出された”とはいえないだろうか。
戦後まもなく、東大の学生・山崎晃嗣(あきつぐ)が金貸し業を営んで評判になり、最後は破綻して青酸カリで自害した「光クラブ事件」というのがあった。
三島由紀夫が「青の時代」という小説に描いた事件だが、デカタンスそのものの事件だった。
未来を見据えた江副と、その場限りの山崎晃嗣とが、奇妙に重なってみえるのは、当時の感覚での「虚業」にしては出過ぎたことが排除の対象になった点である。