トランプ政権1.0の頃、日本へのカジノ進出計画があった。それを「ハマのドン」とよばれる横浜の港湾事業を仕切る藤本幸太郎なる人物が、猛反対して実質上、阻止したことがあった。
カジノを含む総合型リゾート(IR)をめぐるこうした経緯に、我が地元・福岡にも港湾労働の世界のドンとよばれる人がいたことが思い浮かんだ。
さて、任侠映画といえば、高倉健と藤純子主演(1969年)の「花と龍」がなつかしい。
この北九州若松を舞台とした物語の初映画化(藤田進・山根寿子主演)が1954年で、エリア・カザン監督のニューヨークを舞台とした「波止場」と”奇しくも”同じ年に公開されている。
"奇しくも"というのは、いずれも北九州・若松港とニューヨーク港で働き「港湾労働者の世界」を描いたものだからだ。
日本では、港湾労働者のことを「沖仲士(おきなかし)」と呼ぶが、北九州若松の沖仲士の場合、もうひとつ「ごんぞう」という特別なニュアンスをもって語られることが多い。
ところで、エリアカザン監督といえばジェームズ・ディーン主演の「エデンの東」(55年)があまりにも有名で、同監督による「波止場」は、陰に隠れた感があるが、実は1954年度のアカデミー賞作品賞、監督賞、主演男優賞、助演女優賞など8部門を受賞し、その主演男優が当時30歳のマーロン・ブランドというキャストで制作されたものである。
この映画はそのタイトルどおり、1950年代のニューヨーク港の波止場において船荷の運搬作業に従事する沖仲仕たちと、それを牛耳る港湾組合のボスたちの姿を描いたもので、組合長とマフィアとの港の支配権をめぐる争いを描いたものである。
一方、「花と龍」は、若松出身の作家・火野葦平が書いた小説を原作として、九州若松における沖仲仕たちの仕事とそれを牛耳るヤクザの姿を描いたもの。
船荷の運搬作業をめぐる「利権争い」は日米の映画共通であるうえ、それをヤクザが「闇支配」している構図も共通なのである。
さて北九州は、1891年、明治中期(1890年ごろ)から昭和40年代(1970年前後)までの約80年間、筑豊炭鉱の興隆にともない、石炭の集散地として発達した。
筑豊興業鉄道が若松-直方に開通した。筑豊の石炭が若松に運ばれ、若松港は日本一の石炭積み出し港に発展した。職を求めて労働者が流入し、街は、繁栄を極めた。
若松港は、最盛期には数千艘もの大小の船舶で埋め尽くされていた。そのため、対岸の戸畑や八幡の町は若松から見渡せなかったほどだった。
しかし1942年、国家総動員法に基づく個人企業整備、港湾労働者は整理され、戦後は、エネルギーは石炭から石油へ転換。「ごんぞう」の姿は、次第に消えた。
そして現在では往時の若松港の賑わいは影を潜め、湾内に碇泊する船舶は、ごくわずかな貨物船と沿岸に繋留する海上保安庁の船ぐらいである。
洞海湾の景観は一変してしまった。
さて「ごんぞう」と呼ばれたのは多くが地元の人間なのだが、犯罪を犯して、この町に流れ込んできた人々をよぶ。
つまり、時効になるまで姿を隠してる輩なのだが、その中には「安田三兄弟」というボクサーの兄弟がいた。
その長男で詩人である人物が火野葦平の友人で、、北樺太から沖縄までアンコ(大阪方面での港湾荷役労働者の名称)、を歩きながら詩を詠んで、最終的に若松に居ついている。
映画「波止場」の主人公のマーロン・ブランドが演じた役がボクサーだったのを思い起こす。
映画「波止場」舞台となったニューヨークは、17世紀以降オランダからの入植が本格化して人口が増え、船舶による物資の搬出入作業は必須であった。
肉体のみを頼りとする荷役労働は次々に到来する移民たちの就業先となり、ニューヨークに着いたばかりの新参者たちが集まった。
とりわけ水運の要衝にあるマンハッタンや、イースト・リヴァーを挟んで向かい合うブルックリン、ハドソン・リヴァーを挟んで同じくマンハッタンと向かい合うニュージャージー州沿岸部には数多くの港湾地区が形成された。
港湾地区には海運や造船はもとより、石油化学・製造業、物資を保管する倉庫業など種類も様々な産業が結集し、地域経済の重要拠点であった。
あらゆる物資の搬出入を担う「港湾労働者」は必要不可欠な存在であり、ニューヨークの各港湾地区で働く労働者を組織していたのは国際港湾労働者組合(ILA)であった。
アイルランド系やイタリア系を中心に、移民労働者を組織基盤としていたILAは、労組の支部を「桟橋群」ごとに築いた。
ニューヨーク港湾地区の特徴は、ILAが海運資本や港湾地区の利権に巣食う犯罪集団と連携し、長く同地の労働力を操ってきたことである。
その労組の実態と暴力的支配については、前述のエリア・カザン監督のアカデミー受賞作『波止場』で広く知られるようになった。
20世紀に入った頃のニューヨーク港湾地区には、桟橋群ごとに緊密に結びついた者同士による組合がつくられ、そこには労働と日常生活全般が一体となった独自の生活世界が現れていた。
そして、それらの外側には仕事を求めて絶えず出入りを繰り返す黒人やプエルトリカンたちの姿があった。
そこで形成された境界は地縁・血縁で結びついた集団同士を分かつだけでなく、人種的位階秩序を示す線ともなったのである。
世に「マフィア、ギャング」というものは「港の荷下ろし業者」を由来とする。
「港の荷下ろし業」は作業がきつく、かつ海外との繋がりが深いことから外国人労働者の管理運営が重要となり、アメリカでは湾港を仕切ったイタリア人のマフィア・ギャングが台頭し、日本では朝鮮労働者を仕切った沖沖仕が台頭したのである。
日米でシンクロナイズされたような世界、それが「港湾労働の世界」なのである。
映画「花と龍」に大親分役で登場する吉田磯吉(配役:滝沢修)は、1867年に福岡県遠賀郡、若松の対岸に位置する芦屋町に生まれた。
吉田家はもともと松山藩勘定奉行の家柄であったが、祖父が脱藩、芦屋に流れてきたといわれる。
父を早くして亡くなったため一家は貧窮のどん底に陥り、磯吉は9歳の頃から丁稚奉公に出て、その後には魚、野菜、卵などの行商をしたりして一家の家計を支えた。
福岡には「川筋気質」という言葉があるが、筑豊地方の炭田から門司港まで石炭を積み下ろしするまでの遠賀川沿いに形成された特色ある文化である。
炭鉱で働く人々は、全国から喰い詰めて流れてきたものが多かったため、気性が荒い者が多かったといわれる。
当時の若松の町は、日本でも有数のアウトローの集まる町であったといわれる。
炭鉱業にたずさわる者に加え、隣接する官営八幡製鉄所の建設のために土木建設関係の労働者が集まってきていたのである。
彼らはいずれも危険と隣り合わせの仕事であったため、「宵越しの銭は持たない」気質の者が多く、そうした彼らの娯楽と言えば、「飲む、打つ、買う」であった。
当時、筑豊炭田は富国強兵・殖産興業のエネルギー源である石炭を地下から掘り出す一大拠点として、600を超える中小炭鉱がひしめきあい、産炭量はうなぎのぼりに増えていた。
筑豊鉄道は開通していたが、当時、まだ鉄道設備が不十分であったから、掘り出した石炭のほとんどは、水路を通って、遠賀川河口の積み出し港まで運ばれた。
その運送にあたったのが、川ヒラタの船頭たちであり、明治30年代の最盛期には、その舟の数は8000艘を超えていた。
吉田磯吉も、遊郭に嫁いだ姉から資金を得て川ヒラタを買い、船頭となった。
この同業組合上での親方子方関係が、人間関係上では親分子分関係に発展した。
吉田磯吉も、独立船頭から親方、大親方とのし上がり、日清戦争前には、数百人の子分を率いる大兄貴分となっていた。
1896年に吉田磯吉は若松の楼閣大吉楼に嫁いでいた姉の仕事を手伝うようになる。
産業の発展によって歓楽街が形成される。明治30年代の若松の歓楽街も年々大きくなり、船乗り、土方、人足など入り込む者が日々数千を数え、米国西部地方開拓当時のごとき活気がみなぎっていた。
産業が発展するにつれて、労働者としてよそ者が流入する。若松でも流入者が大量に来た。これにともない、治安も悪化した。
警察権力だけでは治安が意地できなくなってくると歓楽街の店へ用心棒を派遣する親分があらわれる。
ここに自治秩序維持のための民間暴力装置としてのヤクザがうまれてきた。彼らは、用心棒の縄張りを争って衝突もする。
芸能、相撲とヤクザはもともと密接な関わりがある。「角力」は近世以来ヤクザの一種であったし、明治にはいってから生まれた大衆芸能者も近世以来の下層社会の住人としてヤクザと同じであった。
だから、当時の相撲興行を含む大衆芸能の興行は、ほとんどすべてヤクザが仕切っていた。
興行権をめぐる争いがおこると、吉田は、その問題の調停を引き受け、さまざまな関係者の「顔」がすべて立つようにして見事に調停した。
次第に吉田は、興行の世界のフィクサーとなってゆく。そして、大衆芸能を行う興行界全体の勧進元として大きな興行権を握った。
ところでヤクザと政治家とは密接な関係がある。政治家は政敵を追い落とすためにありとあらゆる手を使い、暴力も政治家にとっては欠かせないものであった。
1915年に吉田は立候補し、地元福岡の政友会系古参議員野田卯太郎を選挙で破り、政治家となる。吉田は任侠議員として初の議員となる。その後17年間国会議員をつとめた。
吉田は民政党議員として他の議員が手を焼くような問題の解決にあたった。
党政友会をバックにした原敬内閣は海運事業を牛耳る海運会社の利権に目をつけ会社のっとりをもくろんでいた。
政友会幹部は、郵船会社の株主総会に多数の右翼団体をもぐりこませ、総会を流会にさせようと画策した。
郵船会社の危機を察知した元老山県有朋は玄洋社に相談をもちかける。
玄洋社の杉山茂丸は吉田磯吉を推薦し、吉田は地元若松から兄弟分など4500人を東京へ送り込み、短刀や拳銃で武装した男達を総会に張り込ませた。
これに恐れをなした政友会はのっとりをあきらめ、和睦を申し入れた。
吉田は10件以上の労働争議を請負い、船頭の親分だった自分の経験を生かして労働者達と対等に渡り合い、義理人情に基づいてこの争議を解決に導いた。
1936年に吉田が70歳で死去すると、葬儀には2万人が参列した。
筑豊線は臨時車両を連結し参列者を運んだ。
火野葦平原作の「花と龍」は、1952年6月から約1年間、全国紙に324回も連載された。
高倉健演じた「玉井金五郎」の死から2年後に執筆したもので、それはまさに「鎮魂」の作といえる。
火野葦平といえば、「兵隊作家」。それまでの葦平は、社会からこんなイメージを背負わされていた。
戦時中、軍報道部員として戦場の兵士の日常をつづった作品「兵隊三部作」が驚異的に売れ、国民的英雄に担ぎ上げられた。
ところが戦後、立場は暗転する。戦意を高揚させたとして公職追放された。
1950年に追放解除。その後、取り組んだ大作が「花と龍」だった。
若松港からゆっくりと歩いても十分のところに、「河伯洞」がある。1960年1月24日、葦平は二階の書斎で亡くなっていた。53歳にして、睡眠薬による自殺だった。
実は「花と龍」は、火野葦平の両親の物語なのである。一介の沖仲仕からたたき上げ、裸一貫で北九州の若松に石炭荷役請負業「玉井組」を築いた葦平の父、玉井金五郎ととその妻・玉井マンという強烈な男女について書いたものである。
金五郎の左腕にある、菊を握った昇り龍の入れ墨から作品名「花と龍」がつけられた。仕事の激しい奪い合い、反目、血なまぐさいけんか。荒々しい男の戦いが全編を貫く。
葦平の父・玉井金五郎職業は、石炭を船に積み込む、地元で「ごんぞう」と呼ばれる「沖仲仕」、とともに汗を流し、すすで顔を真っ黒にしながら働いた。
後に、火野葦平の母となる谷口マンはたくましかった。19歳のとき、故郷の広島県峯田村(現庄原市)の奥深い山村を飛び出し、北九州の門司港へ。
そこで、愛媛県潮見村(現松山市)出身の沖仲仕、金五郎と出会う。若松で玉井組の看板を掲げ、葦平を頭に十人の子を産んだ。
無学だったマンは、教育に力を注ぎ、息子は大学、娘は女学校に行かせた。
金五郎の女性問題で、里に帰ったとき。迎えに来た金五郎を、敷居さえまたがせずにぴしゃりと追い返した。ようやく、葦平の迎えで若松に帰ってきている。
昭和に入ると、石炭荷役の機械化が進み、沖仲仕の仕事は減少する。資本家との争議が続くが、労働者側の旗色は芳しくない。
泣きたくなる金五郎。マンは、歯がゆくてたまらずに「お父(と)さん、いっそ、ストライキをやんなさいよ」。
そして、男女が同じように汗水流して働いても、だが、日当は男の六割だった。
ちなみに、アフガニスタンの復興に尽力し亡くなった中村哲医師は、金五郎・マン夫妻の娘婿である。
中村医師の身体をはった生きざまは、川筋の男達の任侠精神を受け継いだかのように思える。
1956年、マルコム・マクリーンによって発明されたコンテナは、20世紀の重要な発明として称賛され、海上輸送の世界を根本から変えた。
かつての荷役作業は、数多くの沖仲仕の手によって行われていたが、コンテナの出現により、沖仲仕の仕事は大きく変化した。
コンテナにより、荷物の積み下ろし時間が大幅に短縮され、輸送効率が劇的に向上し、労働コストが大幅に削減された。
また、標準化されたコンテナにより、様々な輸送手段(船舶、鉄道、トラック)間での貨物の移動が容易になり、物流コストが低下した。
西村賢太の芥川賞受賞作品「苦役列車」に、羽田の埠頭の冷凍倉庫で日雇い仕事を続ける青年が描かれている。主人公の名は北町貫多、19歳。
舞台は開発前の天王洲あたりで、「釣りバカ日誌」のロケ地でもある。
北町貫多は日々の労働の感慨を次のようもらす。
「鈍長なコンテナ車のみが行き交っている前途の展望には、まさに今、地獄の一丁目に近づきつつある実感と云ったものに抱かれ、それが今更ながらにウンザリで、我知らずひどく消極的な沈んだ気分になってしまう。そしていよいよ目的地が見え始め、早速覚悟も決め直して一寸窓からその方を眺めやれば、すでに倉庫の横手を流れる京浜運河には艀(はしけ)が停泊し、沿岸にクレーン車もスタンバイされた上で、陸の上では倉庫の社員たちが駆る数台のフォークリフトによって、パレットの準備も手際よく進められているようであった」。
以上の描写からわかるように、荷下ろし業はコンテナやクレーンばかりでなく、パレットの隙間にフォークリフトの爪を差し込んで荷物を運ぶ方式が一般化。
機械化やコンピュータ化が、最近ではAIが物流を主導し、港湾労働を変革し、それに適応すべく働く人々の姿も変えていった。