昨年より「年収の壁」問題が議論され、政府案としては基礎控除と所得控除の合計額は国民民主党が主張した「178万円」とはほど遠い「123万円」を提案している。
実質「減税」なので財源の問題もあり、当面これが限度なのかもしれないが、「年収の壁」に風穴があいたことは意義深い。
「働きたいのに、それ以上働くと所得が減るから働けない」という状態は、いかにも「経済の活性化」、特に「女性活躍」の趣旨に反している。
それを阻んできたのが自民党保守層の「夫=仕事/妻=家庭」の古い家族観であったのならば、遅きに失した感もある。
「働く側」の規制緩和は、サプライドサイドに光をあてたことでもある。
日本は長く公共部門の拡大というディマンド・サイドに依存しすぎてきた傾向がある。
2025年度予算においても、史上最大の大型予算を組んで、税収不足は国債発行で補うことになる。
こうした政策は財政赤字を積み上げ、利上げは政府の「負担増」となる故に超低金利政策を続け、それが結果的に「財政規律」が働かない自縄自縛的な悪循環をまねいた。
バブル以降、大型予算を組んで「有効需要」を作り出して景気後退を防いできたというのが実態である。
「有効需要」というのはケインズの言葉で、「有効」とは金の裏付けのある需要を意味する。
例えば子供が夢のお城を望んでも、それは有効需要にはならないが、絵本の中のお城なら購入可能で「有効需要」となりうる。
ただケインズは不況対策として「短期的」に有効需要を生み出すことために「公共事業」を提唱したのであって、イノベーションや人口減といった長期的課題に対処するには有効性を欠き、それはむしろサプライサイドの面から考えるべき問題だ。
ケインズ経済学は、「有効需要理論」に加え、「乗数理論」「流動性選好」などと合わせて、「国民所得理論」として経済学の教科書の領域となった。
それは従来の古典派経済学に、「不確実性」という要素と価格の下方硬直性という概念を持ち込んだ理論とみることもできる。
古典派経済学は一言でいうと、経済社会を「機械」のような仕組みとして捉えたもので、それは「生産が需要を生み出す」という言葉で代表される。
つまり作ったものはすべて売れるとは我々の常識に反するが、価格の調整への信頼度が高く、売れるまで価格は低下するということだ。
すなわち価格の伸縮性は、労働市場(賃金)にも金融市場(利子)にも及び、貨幣はあくまで取引の影武者(貨幣ベール)としての役割のみを果し、完全雇用水準に影響せず、物価水準のみを決定する。
また利子水準は、貯蓄(貸付)と投資(借り)の調整により決定される。
古典派理論が経済を予測可能な機械的仕組みとしてとらえたのは幾分ニュートンの物理学が影響したのかもしれないが、ケインズは1930年代の大不況を前に、経済を「不確実性」を前提にとらえ直したといえるかもしれない。
アダム・スミス以来の「予定調和」という神学は否定されたということもいえる。
ところが、ケインズ経済学が多くの先進国で財政赤字をもたらしているという問題に対して、1980年代にミルトン・フルードマンのマネタリズムが登場した。
それは、経済に「期待」というものを取り入れた点で新しい経済理論であったと記憶している。
例えば、政府当局によるなんらかのコミントメントも、人々が予め予想(期待)して織り込み済みの下で実施するか、サプライズでやるかによって、その効果がまったく異なる。
フリードマンらの考えは、新自由主義の「市場万能主義」やリフレ派の「インフレターゲット政策」などの今日の経済政策に繋がっていく。
ケインズが1939年の著書「貨幣・利子およぶ雇用の一般理論」で示された理論から「ケイジアン」という経済学派がうまれたが、今日の現実と重ねると様々な点で有効性が疑わしい面もある。
例えば、サプライチェーンが世界中に広がることで、政府が行う公共投資の効果は、国内から外に出てしまうし、大きな公共事業増は金利を上げ、民間投資をはじき出して、全体としてその効果を減殺する「クラウディング・アウト」が生じるという面もある。
例えば、公共投資1000億円増やせば、GDPはその5倍の5000億円だけを上昇させる効果を「乗数効果」とよぶ
が、関連部品を国内ではなく海外に発注することにより、所得増は海外に逃げてしまうのである。
また前述のように経済学の理論に「期待(予想)」が明示的に導入されたのは1980年代であった。
消費は物価が上がれば減少するというのが普通だが、定常的な物価上昇「期待」は、早めに消費しようという気を起こさせ消費拡大に繋がる。
また、金利が3パーセントに上がると予測するとしても、仮にその間、物価が4パーセント上がる予測とすれば、金利は実質的には下がっている。
経済学ではこういう金利や賃金について、人々の「実質予想」を前提に考えるようになった。
今日的問題でいえば「所得控除枠」の拡大という減税があっても、人々がそれが将来の別のかたちでの増税になると「予想」すれば、消費は伸びることなく、せっかくの「減税効果」も帳消しになってしまう。
近年、政府・日銀が「物価水準」を2パーセント上昇させること言い続けたのも、人々が経済の拡大を予想して行動をするようになり、消費増など景気拡大に効果をもつと想定したからだ。
アメリカのクルーグマン教授らは、「インフレ期待」が景気拡大に繋がるという理論から「インフレターゲット説」をとなえた。
こうした考え方にしたがうエコノミストを日本では「リフレ派」とよんでいて、「リフレ派」がアベノミクスの経済理論的基盤となってきた。
リフレ派の具体的な政策としては、日本銀行が金融機関から様々な国債などの「資産」を買いまくって市場にオカネを流す。
ここまでなら従来の「買いオペレーション」と変わらないが、「長期国債」「不動産投資信託」まで買い取るなど、これまでにないスケールでそれをやっていた。
ところで金融市場には、「インターバンク市場」と「対顧客市場」という二つの市場がある。
「インターバンク市場」は文字どおり、銀行同士が資金のヤリトリをしている市場で、これは一般の企業や個人は、参加できない。
実は、各銀行は日々資金の調整のために、日銀に預けているお金をヤリトリしているのだが、このインターバンク市場に資金を投入することが「量的緩和」政策の中身である。
それによって、銀行間の資金の短期の貸し借りたる金利「コールレート」を下げ、それが顧客市場の金利に反映して金利が下がり、様々な投資がしやすい環境ができる。
しかし、マネーストックの量的拡大に大きな役割を果たしているのは日銀ばかりではなく、市中銀行も一役かっている。
お金の量は現金通貨ばかりではなく「預金通貨」も含むからだ。
その際、日銀が市中銀行に供給しているベースとなるお金の量を「マネタリーベース」という。
「マネタリーベース」とよばれるのは、それを核にして銀行が次々に「信用創造」を行って利用可能な「預金」が次々に生み出される。
そして市中銀行から世の中に「預金通貨」として貸し出され、膨張しながら世の中に出回るお金の量こそがマネーストックなのである。
日本経済の最大の問題は、このマネタリーベースをいくら拡大しても、顧客市場すなわち世の中に出回っているマネーストックは増えない。
人々がお金そのものを「需要」している(流動性選好)ため、お金が動脈硬化が起きたごとくサラサラ回らないからだ。
さて、世の中で利子がつかない貨幣そのものを需要するかを分析したのがケインズであった。
経済規模の拡大に比例して取引が増えるため貨幣が必要となったり、不測の事態に備えて予備的に保有しようとすることもある。
前者が「取引需要」、後者が「予備的需要」で、利子とは関係なく所得水準と比例すると考えてよい。
またケインズ経済学の核心はもうひとつ貨幣の「投機的需要」である。
ケインズは「古典派」の利子論 とは異なる新たな「流動性選好論」を展開している。
ケインズは、金融資産を貨幣と債券だけと仮定する。それは債券を買うためには貨幣を支払い、逆に貨幣を保有するためには債権を売るという完結世界である。
実際の資産には、土地、宝石、貨幣、株式、債権などがあるが、ケインズ的世界では、貨幣を代表とする「リスクは低く収益も低い(ゼロ)資産」と、債券を代表とする「リスクは髙く収益(利子)も高い資産」の二者択一の世界である。
ここで利子とは、ケインズは2~3年の短期的世界を想定しているので「短期金利」と考えてよいが、具体的な金利というより、「利子の指標」のようなものと捉えるほうが自然である。
古典派では完全雇用(所得水準一定)を前提とするので、利子率が貯蓄と投資を等しくするように調整を行うとする。
つまりケインズのように所得水準が調整するという発想がうまれない、利子率も単純な価格調整で決定するとみる。
一方、ケインズの「流動性選好論」においては、利子率は 「資産を現金の形態で保有しようとする欲求と入手可能な現金量を均衡させる水準とされている。
貨幣供給は外生的に決定されているので、結局利子率は貨幣 の需要である「流動性選好」によって決定されることになる。
以上のようにケインズの流動性選好論は「不確実性」の存在する世界において、それに対処するために貨幣、すなわち流動性を保持しようとする傾向があるという考え方に基づいている。
とはいえ、現代では貨幣以外の高い流動性を有する資産、例えば貯蓄預金、MMF、CDなどが広く使われている。
このような事態は流動性選好論が現実的でなくなってきてい ることを示している。
すなわち,貨幣は交換手段としてのみ機能するようになってきている点で、前述の「乗数理論」同様にケインズ理論が通用しなくなった部分である。
今日のように「いまだかつないこと」が頻発することに対する不安心理などのために貨幣を保有しようという「予備的需要」が大きな割合を占めつつある。
最近は、従来の経済学が「普遍的な経済人」を前提としているのに対して、経済的なインセンティブを実験によって掘り下げようという「行動経済学」が注目を浴びている。
それは、人間は必ずしも合理的に行動するわけではないし、ちょっとした条件の変化(ナッジ)でも経済行動を変え得ることを明らかにした。
しかし個人的には、文化による違いも経済行動に大きな影響を与えるのではないかと思うようになった。
それは日本経済が「失われた30年」ともいわれるほど停滞していることと関係しているようにも思える。
日本経済は株価が市場最高値を更新するなど好景気のように見える。
株価が上がっているということは景気がいいはずで、我々も豊かになると思いがちであるが、必ずしもそうではない。
それどころか株価と我々の生活がトレードオフになっているようなことが起きている。
企業は売り上げをあげ原材料費などのコストを引いた粗利益を得るが、粗利益はどこへ分配するかは企業が決める。大きくわけると(株主 設備投資 内部留保 従業員)にわける。
これを従業員の賃上げに使えば、我々の生活は豊かになるが、過去3年間は賃金率は物価の上昇水準ほどは上がっておらず、貧しくなっている。
株主への還元または企業内部の利益で株価はあがるが、それは賃上げが十分でないことのひとつの結果にもなっている。
2024年は33年ぶりに、賃上げ率が5パーセントを超える高い水準となった。物価を勘案するとマイナス0.4パーセントであった。
また企業が設備投資ではなく、内部留保にお金を回すのは先行きの不透明性が大いに関わっている。
しばしば誤解されるのは「内部留保=現金」であるが、内部留保とは簡単にいうなら会社の中に蓄積された利益であるが、全てが現金で残っているわけではなく、土地や建物として残っている可能性もあるのだ。
つまり、「日本企業は500兆円もの内部留保を貯め込んで使わないなどけしからん」というのは少しズレた批判といえる。
とはいえ、日本企業の内部留保の多くが「現金」として保有されているのは事実である。
それを投資に回すこともなければ、株主に返すこともしない企業も多い。
なぜ日本企業はその多くを現金として保有している「内部留保」を使わないのか?
日本企業は長期的な視点で経営の安定性を重視する文化を持っている。バブル崩壊後、企業は外部からの資金調達に対する依存を減らし、自らの内部留保を強化する方針を取るようになった。
また、2000年代に入ってからも、ゼロ金利政策やマイナス金利政策などの異例の金融緩和が続く中で銀行の貸出姿勢が厳格化したこともあり、企業は銀行融資に頼らず、自前の資金で事業を運営することが望ましいと考えるようになった。
また低金利政策は銀行業績の不振をまねき、企業の側でも大きなイノベーションは起きず、政府当局はなんとか貯蓄から投資への流れを作り出そうと、個人投資家向けの新NISAなどができた。
それでも日本企業は新たな投資機会を見つけるのが難しいと感じている。
市場の成熟化や競争の激化により、リスクを伴う新規投資に対する躊躇が生じている。
また、日本の株主は比較的穏やかで内部留保の活用や高い配当を強く要求することが少なく、企業は内部留保を保持し続けることが容易である。
ところでアベノミクスにおい打ち出した「2パーセント物価」が実現したのは、戦争や災害や異常気象(地球温暖化)によるエネルギー価格の上昇など、まったく「望まれない要因」であった。
ところが今日のように人々を生活苦に追いやる物価上昇を前に、リフレ派は物価上昇の中身や原因を問うこともなく、何をもって「物価上昇期待」などと言ってきたのであろうか。
リフレ派は、物価の緩やかな上昇期待から堅調に消費の伸び、その企業の利益増から賃金上昇に繋がり、明るい展望をもった企業が低金利のもとで活発に設備投資を行うというシナリオを考えていたようだが、そんな甘いストーリーはついに実現しなかった。
少なくとも、富者が潤えば貧者に流れるという「トリクルダウン」説は、全くのまやかしであったことが判明している。
アメリカでは、コロナ期に抑制してきた消費が好調過ぎて物価上昇をまねき、日米金利差の広がりから「超円安→日本の物価高」の原因となっている。
コロナ期になぜ日本で欧米のように「感染爆発」が生じないのかという議論が出た際、厚生労働省はその要因を都合よく「ファクターX」とよんた。
OECD(経済協力開発機構)加盟国の中に、日本のように30年間も大きなイノベーションも起きず、経済成長していない国はほとんどない。
政府当局は異次元金融緩和やマイナス金利政策など、「大口タタキ作戦」や「コトダマイスト」なんて造語もでたほど悪戦苦闘したにも関わらずである。
日本経済低迷には「経済因子」とは別の「ファクターX」のようなものを想定するほかはない。つまり、経済成長は経済政策の問題ではないということだ。