2025年2月 再開発にともあう建て替えのため帝国劇場が休館となった。その近くの壁のプレートに「鹿鳴館跡」とあったことが脳裏に焼き付いている。
それにしても、鹿鳴館はなぜ廃館となったのか。
「鹿鳴」とは迎賓を意味しているが、外国との不平等条約の改正交渉が大きな外交問題であり、交渉を本格的に進めるにあたり、1883年井上馨外務卿が迎賓施設として建設したものである。
しかし、国粋主義の台頭により欧化主義排撃の風潮が強まったこともあり、鹿鳴館時代は僅か4年で幕を閉じる。その後「華族会館」として
利用され、1941年に取り崩されている。
1890年11月3日、その隣接した場所に 帝国ホテル落成開業する。井上馨が渋沢栄一と大倉喜八郎の両氏を説いて有限会社帝国ホテル会社を設立させ建設したものである。
帝国ホテルは創業から国営ホテルのような形で誕生したが、それだけのホテルだけに、実質上の「ホテル王」をかけて、これまで何回か乗っ取りが行われた。
戦後、帝国ホテルの筆頭株主は、宮内省から大倉財閥の二代目、大倉喜七郎に変わた。
大倉は敗戦で公職追放され、ホテル経営に戻れないまま株を放出、その株を買い占めたのが、「北支の煙草王」と呼ばれた金井寛人である。
金井は1897年長野県諏訪市生まれで、上田蚕糸専門学校を卒業後、片倉製糸を経て1931年国際商事を設立した。
この会社は、中国産の葉タバコを扱うが、37年には山東塩業社長を兼ね、華北興業社長となる。
戦後、公職追放となるが、解除後に帝国ホテル株を肩代わりし、1953年「帝国ホテル会長」に就任している。
なお、金井に帝国ホテルを乗っ取られた大倉喜七郎は、その悔しさから、1962年、虎ノ門の大倉邸跡地に新ホテルを開業しする。それが帝国と並ぶ高評価を得ているホテルオークラであった。
ホテルオークラは、来日したビートルズを厳重な警備の下受け入れたホテルとして有名である。
金井は、ライト設計の帝国ホテル旧館を解体したことで話題となったが、帝国ホテル旧館の一部は、愛知県の明治村に保存してある。
1977年に金井が死去すると、小佐野賢治が帝国ホテル株を買い集めはじめる。
小佐野賢治は、金井と同じように財閥解体を受けて流れ出た熱海ホテル、山中湖ホテル、強羅ホテルを次々に買収し、ハワイの観光資源にいち早く注目してワイキキの名門ホテルを多数手中にするなどして、「ホテル王」と呼ばれるようになる。
小佐野は1917年、山梨県東山梨郡山村の農家の長男として生まれた。
生家は非常に貧しく、幼いころは自宅さえもなく村の寺の軒先を借りての生活であったという。
1933年に上京し、自動車部品販売店へ就職。勤務態度は非常に真面目で、3年後には店を取り仕切るようになった。
戦時中は陸軍に入隊し中華民国で服務するも、戦地では右足に銃弾を受け負傷し、さらに院内でマラリアと思われる急性気管支炎を発症したために内地送還となった。
1940年に再び上京した小佐野は東京トヨタ自動車に入社し、ビジネスを学んだ。
そして、東京・芝区に自らの自動車部品会社、「第一商会」を設立。軍需省からの受注に成功し財をなした。
小佐野がホテル事業に進出したきっかけとなったのが、敗戦直後において経済活動が停滞し現金が不足する最中、東武の根津嘉一郎と東急の五島慶太が、小佐野にそれぞれ熱海ホテル、山中湖ホテル、強羅ホテルの売買を持ちかけたのが始まりである。
これに応じた小佐野は、当時先行き不明だったこれらの観光資産を買収した。
ここで東急グループ総帥・五島慶太と、強羅ホテル売買交渉を機会に知遇を得たことが、小佐野にとってのスプリングボードになった。
1946年には、東京観光自動車と東都乗合自動車を東京急行電鉄から譲り受けてバス事業に進出する。翌年、社名を「国際興業」とし、旧伯爵家の令嬢と結婚している。
小佐野は、1977年に帝国ホテル株を譲り受け、帝国ホテルの筆頭株主に躍り出る。
しかし、小佐野は、帝国ホテルのメインバンクであるみずほ系第一勧業銀行と経営陣の反対に合い、会長職にはなれなかった。
徹底抗戦の構えを見せた帝国ホテルのメインバンクである第一勧業銀行は、1976年に原正雄を社長に送り込み抗戦。
この帝国ホテルの会長職をめぐる攻防戦中に起きたのが、あの「ロッキード事件」である。
ホテル王小佐野は、ホテルの次は航空業界の王を目指していた。
田中角栄首相と小佐野賢治は、立志伝中の人物で、当時「刎頚(ふんけい)の友」とよばれるほど親密であった。
1985年に第一勧業銀行が送り込んだ原正雄社長と生え抜きの犬丸一郎副社長が対立した。
結局、小佐野と同盟を組んだ犬丸派が原派を追い落とし、小佐野賢治はついに帝国ホテル会長の座を射止めたのである。
しかし、国際興業などバブルを謳歌した会社はバブル崩壊で衰退、現在帝国ホテルは、外資系のサ-ベラスが筆頭株主だという。
第一次世界大戦の時代の日本軍は中国青島で捕らえたドイツ人捕虜達を日本国内各地の捕虜収容所に送り込んだが、1920年徳島県坂東の地に「ドイツ人俘虜収容所」がつくられた。
この収容所の所長は松江豊寿(まつえ とよひさ)で、会津で生をうけたがゆえに、収容所長にして松江ほど敗者の側の気持ちを理解できるものはいなかったにちがいない。
ちなみに久留米収容所長は、後に226事件の皇道派の影の大物・真崎甚三郎である。
松江は次のようなことを言っている。
「我々は罪人を収容しているのではない。彼らもわずか5千あまりの兵で祖国のために戦ったのである。けして無礼にあつかってはならない。」
そして国際法にのとってドイツ兵を遇した。そして日独の驚くべき文化交流がうまれた。
坂東俘虜収容所には、兵舎・図書館・印刷所・製パン所、食肉加工場などが設置されまた収容所内部では新聞までが発行されていた。
また統合された収容所であったために楽団がいくつかあった。
ドイツ兵の外出もかなり自由に認められ、住民との交流の中、様々な技術や文化が伝えれれていった。また霊山寺境内や参道では物産展示会も行われた。
そして多くのドイツ人俘虜が日本敗戦後も日本にとどまり、化学工業・菓子つくり・ソーセージつくり等の分野で大きな足跡をのこしている。
彼らの多くにとって坂東での体験が宝となっていたからである。
エンゲルをリーダーとする楽団で日本で始めてのべートーベンによる交響楽第九番が演奏されるのである。
エンゲル楽団の演奏会には、徳島の有志の人々も招待された。その中には練習場として使った徳島市の立木写真館の人々もいた。
エンゲル楽団は日本を去っても「第九」は残り続け、毎年大晦日に「第九」の合唱が響いていくようになり、それは今でも続いている。
その松江豊寿の弟に、後に「砂糖王」とよばれる松江春次がいる。
1896年会津若松生まれで、軍人になる夢を持つも2度の陸軍士官学校受験に失敗し、東京工業学校(現東京科学大学)に進学いた。
大学卒業後、「大日本製糖(現大日本明治製糖)」に入社する。
1903年に農商務省の海外実業練習生試験に合格し、ルイジアナ州立大学に留学。同大学院で修士号(マスターオブサイエンス)を取得した。
また全米各地の製糖会社を回り製糖技術を学んでいる。
1907年に大日本製糖に戻り、大阪工場の工場長となる。このときに日本で最初の「角砂糖」製造に成功している。
しかし、会社幹部が砂糖事業の官営化実現に奔走し、代議士の買収に動いて「日糖事件」が起き混乱する。
1910年,松江は台湾糖業開発を目指して日糖を辞職する。これは、
松江が入社以来抱いていた原料の自給自足という宿願実現のための決意でもあったようだ。
そして、かねてより台湾での製糖業に関心を持っていたことから、台湾のふたつの製糖会社の経営に参画するが、両社とも他社に吸収合併されるなどの理由で退社している。
1921年、松江はサイパン島とテニアン島の実地調査を行い、この地での製糖業の発展に確信を抱き、内地に戻るや製糖業による南洋開発を関係各所に説いて回った。
そして同年11月、政府と東洋拓殖の協力の下に、「南洋興発」を創業し、その最高経営責任者(専務取締役)となった。
創業3年目で経営を軌道に乗せ、そしてテニアン島にも製糖工場を建設したのを機に、欠員だった取締役社長に就任した。
その後、製糖業以外にも事業を拡大し南洋群島における最大の企業へと発展させた。
東大の矢内原忠雄は、南洋興発を「最初から南洋群島の”統治”に関連して起こされし企業であり,東拓の出資と政府の保護と松江氏の企業心とを以て今日の成功を博した」との評価を下している。
そして、1930年代半ば以降、「南洋群島経済が国の”南方進出政策”に呼応してゆく基盤を準備するもの」との見解を示している。
こうした松江の経営手腕から、松江は「砂糖王(シュガーキング)」の異名をとるようになり、工員の為に様々な娯楽施設(映画館・理髪店・演劇場・酒場など)までをも建設し、それにともなうインフラをも整備した。
1934年8月には現職社長としては異例の「松江春次像」も建立されることになり、この松江像はサイパン戦の戦火をくぐり抜けて、現在も「砂糖王公園」のシンボルとして残っている。
松江春次は、健康上の理由から社長を辞任して会長に就任するが、1943年には、相談役に就いて南洋興発の経営から完全に身を引くことになった。
その後、海軍ブレーントラストに海軍省顧問として参加するも、1954年11月、脳溢血で死去している。
松江が亡くなったその日は、奇しくも南洋興発の創業記念日でもあった。戒名は「顕光院殿春誉南洋興発大居士」である。
千葉県市川市の江戸川沿いにある里見公園は、戦国時代に里見一族が北条氏と戦って敗れた古戦場として知られている。
その里見公園の隣にある総寧寺(そうねいじ)に、上海の「阿片王」といわれた里見甫(さとみはじめ)の墓がある。
里見甫は、旧加賀藩の上級家臣である平士で、安房里見氏の末裔の元海軍軍医で退役後に日本各地の無医村をまわっていた里見乙三郎の長男として、赴任地の秋田県山本郡能代町(現・能代市)に生まれた。
しかし故郷は福岡県小倉で、1913年に福岡県立中学修猷館を卒業し、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海に置かれた「東亜同文書院」(近衛篤麿創立の私立大学)に入学する。
1916年5月東亜同文書院を卒業後、天津の邦字紙である京津日日新聞の記者となり、1923年6月、京津日日新聞の北京版として「北京新聞」が創刊されるとその主幹兼編集長に就任する。
ここでの新聞記者活動を通じて、関東軍の参謀であった板垣征四郎や石原莞爾と知己となり、国民党の郭沫若(かくまつじゃく)と親交を結び、蔣介石との会見を行うなどして、国民党との人脈も形成された。
1928年8月南満洲鉄道・南京事務所の嘱託となり南京に移る。
ここで、国民政府に対し満鉄の機関車売り込みに成功するなど華々しい業績をあげている。
1931年9月満洲事変が勃発すると奉天に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報、宣伝、宣撫の活動を担当する。
甘粕正彦といえば、関東大震災の際の大杉栄殺害事件で知られるが、出獄後フランスに渡り、傀儡国家・満州で満洲映画会社の理事としてラストエンペラー溥儀の黒幕的存在であった。
満洲映画にて「五族協和」の理念を実現すべく作られた国策映画の看板女優が李香蘭(日本名:山口淑子)であった。
さらに、甘粕正彦満映社長の自決を見届けて帰国した満州映画会社の社員・赤川孝一もいた。
この赤川孝一の子が、「三毛猫シリーズ」で知られる作家の赤川次郎で、引き揚げてきた両親のもと博多で生まれている。
また里見は「電通」の創業者・光永星郎との交渉を行い、1932年12月、満洲における聯合と電通の通信網を統合した国策会社である「満洲国通信社」設立され、初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任している。
1935年10月国通を退社し、同年12月、関東軍の意向により、天津の華字紙「庸報」の社長に就任する。そして1936年4月「阿片事業」に参加する。
これは、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼されたことがきっかけであったという。
1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された「宏済善堂」の副董事長(事実上の社長)に就任する。
これは、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、1939年上海でのアヘン密売を取り仕切る「里見機関」を設立している。
1945年9月帰国し京都や東京に潜伏するが、1945年12月民間人第一号のA級戦犯容疑者としてGHQにより逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。
1946年9月極東国際軍事裁判に出廷して証言を行い、同月不起訴となり無条件で釈放される。
A級戦犯に相当する戦争犯罪を民間人として犯したはずのこの里見が,東京裁判で証人に呼ばれただけで無罪放免になったのには,それだけの国際政治的な背景事情があったとされる。
歴史をさかのぼれば英中のアヘン戦争から始まっていた「各国による舞台裏での麻薬の製造・販売行為」であるから、アヘンの問題はなにも日本帝国だけが手を染めていたものではない。
それは、第2次大戦中の米・英・ソ・中など、連合国における政治・外交的な「内部の駆け引き」にも関わる問題であった。
満州国は表面上はアヘン根絶を目標に掲げたが、熱河地方ではケシの栽培を奨励した。それでも足りない分は華北などから輸入し、アヘンの専売で莫大な利益をあげていた。
「里見が起訴されなかった背景には、おそらく、当時の国際政治状況から派生したパワーポリティクスの力学も複雑に絡んでいる。里見自身が被告となって極東国際軍事裁判で裁くことになれば、その過程で戦勝国”中国”のアヘンとの深い関わりが必然的に出てくる。蒋介石率いる国民党軍の資金が少なからぬ部分が、アヘンによってまかなわれていたことは、いわば公然の秘密だった」(佐野眞一著『阿片王 満州の夜と霧』より)。
里見は満洲国官僚であった岸信介と、満州映画協会の東京支社長だった茂木久平の紹介で知ったようだ。
里見はアヘンで中国に害毒を垂れ流したが、彼自身は私利私欲とは縁遠い恬淡とした男で、GHQからの尋問に、アヘン関連を除き飄々と答えたという。
1965年3月21日家族と歓談中に心臓麻痺に襲われ死去。享年70。
總寧寺にある里見の墓の墓碑銘「里見家之墓」は、岸信介元首相の揮毫によるものである。