2025年4月に大阪万博が開催されるが、思い出されるのは1970年大阪万博(EXPO70)の頃。
前年の1969年にはいろいろなことが起った。人間が月に着陸し、沖縄の返還が決まった。
この年のヒットした由紀さおりの「夜明けのスキャット」をバックに映像が流れる時、我がほろ苦き記憶もともに蘇る。
東大安田講堂が陥落し、広域連続ピストル魔が逮捕された。また三沢高校と松山商業の延長18回の熱戦もこの年であった。
そして翌年の1970年の大阪万博、そのテーマは「進歩と調和」。この万博での一番の展示物は、前年の月面着陸で月から持ち帰った「月の石」を一目みようと長い行列ができた。
2025年の大阪・関西万博のテーマは「命」。「EXPO70」に掲げた「進歩と調和」の理想は如何?~~55年を経て今や様々な領域で「命」が危険にさらされているということを示している。
また、2025年万博のオフィシャルテーマソングは、アンバサダーのコブクロによる書き下ろしの新曲『この地球 (ほし)の続きを』である。
ただ今のところ、2025万博は、「EXPO70」の盛り上がりには及ばない。
日本国際博覧会協会ホームページで、「EXPO2025」の理念の一部を抜粋すると、「人類は、利己を優先するあまり、時として、自然環境をかく乱し、さらには同じ人類の他の集団の犠牲の上に、不均衡な社会を作り上げてきてしまったのも事実である。そして今、生命科学やデジタル技術の急速な発達にともない、いのちへの向き合い方や社会のかたちそのものが大きく変わりつつある」としたうえで、「2020年以来、新型コロナウイルス感染症の地球規模での拡大という未曾有の局面に立ち会うことになった人類にとって、このような局面だからこそ見えてくる人類の可能性を確認しあい、新たないのちのありようや社会のかたちを検証し提案する、2度とない機会を提供する場となった」とある。
2025年3月16日、佐賀県唐津市相知(おうち)町の「村田英雄記念館」が入場者減により閉館された。
村田英雄は国民的歌手といってもよい存在。福岡県吉井町(現・うきは市)に生まれだが、幼少期に佐賀県の相知町に引っ越している。
村田英雄と同時期に活躍した三波春夫は、それぞれ紅白歌合戦出場が30回に迫る常連で、特に三波はトリを飾ることが何度もあったことを記憶している。
村田英雄と三波春夫の共通点は、ともに浪曲出身で国民的歌手であること、それぞれに重い戦争体験を負っていること、大阪を舞台としたミリオンセラー曲があることである。
村田の戦争体験は、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属され、福岡市吉塚の専売局(現在のBRANCH)に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇、翌日十五銀行(現・福岡銀行)ビル地下室の遺体搬送作業に従事したことである。
三波春夫は、シベリア抑留体験である。「シベリア抑留」とは、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事で、約60万人が同様の体験をしている。
シベリア抑留からの帰還者の中には、陸軍参謀の瀬島龍三もいたし、後に政治家になる相沢英之、宇野宗佑、財界人では坪内寿夫、その他芸能スポーツ界では、水原茂、三波春夫、三橋達也、作曲家では吉田正や米山正夫がいた。
村田英雄は、大阪生まれの伝説の棋士・阪田三吉の生涯を歌った「王将」が大ヒットした。
戦前から存在した通天閣は近隣からの延焼で焼失してしまったが、市民達の募金によってかつての威容を再現した。
通天閣のたもとには大阪の棋士・阪田三吉を記念して「王将」歌碑がある。
その歌詞の中には、「明日は東京へでていくからには、何がなんでも勝たねばならぬ 空に灯がつく通天閣に 俺の闘志がまた燃える」とある。
通天閣はまさに大阪人の心の拠り所であった。
三波春夫は、新潟県長岡市出身であるが、1970年大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちわ」が最大のヒット曲となった。
この曲の作詞は、大阪府豊中市在住の主婦・島田陽子が、応募した13000通の中から選ばれた。
島田は、現代詩の詩人として活躍されるが、当時こどもが二人いて、次のように語っている。
「おいそれとは外国に行けない時代に、いながらにして国際交流ができる会場で、子らが笑顔でかわせる言葉は何か?それは「こんにちは」である。
島田の詩の特徴は、日常使っている言葉で詩を書くこと、そして大阪弁で多くの詩を書かれた。
島田の大阪弁の詩は、 「うち知ってんねん」 など小学校の国語の教科書や副読本にもたくさん載っているが、大阪の言葉で詩を書くようになった経緯につき次のように語っている。
父親がサラリーマンで、 転々と引っ越した。1年生の時は東京、2年、 3年は山口県、4年生は西宮、5年生で初めて大阪に来た。
友だちと遊んでいて、「今 あのおばちゃん何言いはったん?」 って聞いてきたりして、みんなが話してる大阪弁がすごく面白かった。
よそ者だからこそ、 地の人は意識しない新鮮さを感じることができた。
結婚して子どもが生まれてから童謡を書くようになったが、 共通語で書くと、 どうしても女の子の気持ちが書ききれない。
本当に自分の言いたいことは、大阪弁をつかったら何でも書けるということに気づいたからだという。
また島田はよく 「私の詩は怒りから生まれる」と発言したが、 それについては次のように語っている。
封建的家父長制で女性は良妻賢母を強いられ、人権さえ認められなかった時代であったから、母が言いたいことも言わず忍耐し、父は好き勝手が出来る生活を、不条理だと怒りつつ、反面教師として育った。
そのため 男女不平等への怒りが詩を書かせたとという。童謡詩人の金子みすゞも、島田の母と同じ年に生まれたが、若くして自殺した彼女も男性優位社会の犠牲者であったと語る。
島田の詩に流れているジェンダーフリーの精神は、 女性差別に苦しんできた女性たちの代弁でもある。
また、島田の作品には直接間接に平和へのメッセージがこめられているものも少なくない。それは、戦争に対する怒りもある。
島田は、「神話」を歴史として教えられ、戦争体験をし、二度とあんな思いはしたくない。それは意識的な反戦反核というより、体にしみついたものだという。
彼女の詩「神話時代のこどもたち」の一部を抜粋すると次のとおりである。
「こどもたちは待っていた 何月何日 何時何分と それは知らされてはいなかったが やがて必ず吹く筈の風を待っていた 奇跡ではない 陽が沈めば夜になり 夜が終われば朝が来るように
約束された風であった そう教えられて信じていた 風は吹かなかった 風の代りにおおなみが押し寄せた
これが真実だ! 今度こそ本当だ! わめきながら波は 海の底にかくされていた数々の史実を 浜辺に打ち上げていった」。
「神話時代のこどもたち」は,島田の詩の根本になる作品である。正史であった神話を、戦後、墨で塗りつぶさせられた。勉強に対して嫌気が差した。
5年制在学の女学校を4年で卒業し、島田はそれから、大人の言うことを信じなくなり、自分の目で見たことだけを信じるようになってきたと述懐する。
新聞公募にあった作詞を考えた際に、万博のテーマである「進歩と調和」の「調和」 というテーマに一番心を砕いたという。
当時、 外国の人を見たことのない日本の子どもたちに、 戦争中にはできなかった世界的な交流の場で外国の文化に触れ、 平和っていいもんだと、知ってもらいたかった。
人と人が 「こんにちは」 と笑顔でかわし合いながら交流する場を夢見た詩であったと述べている。
万博のシンボル「太陽の塔」の製作者・岡本太郎も「進歩と調和」に心を砕いている。
岡本太郎の芸術に最も影響を与えたのはピカソだが、もうひとつ「縄文」がある。
岡本氏が芸術のインスピレーションを受けたのがジョーモンの中でも「火焔式土器」である。
岡本氏のスピリットは、あの土の器からメラメラと、マツロワヌ精神が炎をあげている、かのようだ。
岡本太郎氏は、火焔式土器に出あった時の気持ちを、次のように書いている。
「偶然、上野の博物館に行った。考古学の資料だけを展示してある一隅に何ともいえない、不思議なモノがあった。
ものすごい、こちらに迫ってくるような強烈な表現だった。
それは紀元前何世紀というような先史時代の土器である。驚いた。そんな日本があったのか。いや、これこそ日本なんだ。身体中に血が熱くわきたち、燃え上がる。すると向こうも燃えあがっている。異様なぶつかりあい。これだ!まさに私にとって日本発見であると同時に、自己発見でもあったのだ」と述べている。
ところで、あの万博の塔のモニュメントの顔は、日本史の授業で使う図表のなかにある、ジョーモンの中でも特に「ハート型土偶」の表情と実によく似ている。
岡本太郎は、テーマプロデューサーに就任した当初から「万国博のテーマ“進歩と調和”には反対だ」と公言しており、太陽の塔には「反博」の象徴としての意味合いを持たせたという。
「調和」は、岡本氏の”爆発する精神”には合わないようだ。
テクノロジーの発達を「進歩」と認めない岡本太郎は、「人類は進歩なんかしていない。何が進歩だ。縄文土器の凄さを見ろ。ラスコーの壁画だって、ツタンカーメンだって、いまの人間にあんなもの作れるか」とも述べている。
そんな岡本太郎が制作した「太陽の塔」は、大阪万国博覧会の会場を訪れた人々のドギモをぬいた。
福岡県久留米は古代より九州全体を制圧する軍事的拠点として重要な位置づけを与えられた。
このような「地政学的要因」から近代の久留米は軍都となって1907年には第18師団がおかれ、旧帝国陸軍の中枢となった。
久留米は陸軍軍人の出世コースであり、真崎甚三郎ばかりではなく東條英機も久留米に住み、東條の子供は日吉小学校に通っていた。
さらには、司馬遼太郎も久留米の戦車部隊に配属されている。
現在も久留米に「陸上自衛隊幹部候補生学校」が置かれているのは、以上のような経緯によるものである。
久留米の「山川招魂社」の入口の石段を登ってすぐのところには「爆弾三勇士」の碑がある。
「爆弾三勇士」とは、1932年の上海事変で久留米の混成第24旅団(金沢の第九師団との混成)の工兵部隊員3人が爆弾を抱えたまま敵の鉄条網に突っ込んで爆死したという一世を風靡した「軍国美談」である。
1970年万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」の作曲者・中村八大は、この久留米で育っている。
中国大陸の青島(チンタオ)で生まれ、1945年に福岡県久留米市へ引き揚げ、そこで旧制中学校時代を過ごした。
旧制中学明善(現・福岡県立明善高等学校)から、早稲田大学高等学院に進学し、早稲田大学を卒業した。
学生時代からジャズ風音楽のピアニストとして鳴らし、作詞家の永六輔氏コンビで、「上をむいて歩こう」「夢で会いましょう」「遠くへ行きたい」など数々の名曲を生んだ。
また、梓みちよの歌唱で大ヒットしたのが「こんにちは赤ちゃん」である。
この時生まれた赤ちゃんが中村力丸で、生まれてすぐに「時の人」となった。
その中村力丸は大学を卒業後、音楽出版社に勤務し、1992年に他界した父の跡を継いで事務所の社長に就き、「父の背中」を追った。
作品の管理しながら、スタジオに残ったテープをデジタル化したりするなかで、「音楽にすべてを捧げた父の生涯を初めて実感し、創作の喜びと苦悩の一端にふれることができた」という。
作家の堺屋太一(1935~2019)は、通産省(現:経産省)の個性派官僚・池口小太郎(本名)として、1970年の大阪万博を企画・提案。空前の大成功に導き、「万博の父」ともよばれている。
堺屋の作家としての名が一般に広まったのは、通産省時代に手がけはじめた近未来小説で、1975年刊『油断!』は、中東から石油が入ってこなくなり、日本が疲弊していく様子がリアルに描かれた。
つづく1976年刊『団塊の世代』は、1940年代後半の第1次ベビーブームで生まれた大量のホワイトカラーたちが、後年、終身雇用制度や年金・医療保険制度の崩壊にぶち当たる“未来予測”小説。
堺屋は1978年に通産省を退官し、執筆活動に専念し、時代小説に力を入れはじめる。
高度経済成長から石油ショックを経て、安定成長に入った時代を「峠の時代」とよんだのは、堺屋太一である。
そしてNHK大河ドラマ「峠の群像』(1981年)では、赤穂藩お取り潰しを現代の“企業倒産”に見立てて、新しい忠臣蔵物語を生み出した。
驚いたのは、堺屋の新作が「EXPO2025」の年の2月に発売された。なにしろ、堺屋が亡くなって6年にもなるので、今になって“新作”とは、どういうことなのだろうか?
2024年春に、「2026年の大河ドラマ」が『豊臣兄弟』と決定したことと関係している。ちなみに「豊臣兄弟」の主人公は、秀吉の弟・秀長である。
NHK出版では、堺屋の『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』を出版していて、ふたたび「豊臣秀長~」増売に力を入れ始めたところ、その過程で、埋もれていた『戦国千手読み 小説・本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)』が見出されたという。
この本の内容をいうと、信長・秀吉・家康などの支配者たちは、多くの文化人を召し抱えていだが、千利休は切腹、狩野永徳は疲弊して若死にするなど、関係が長続きするものは少なかった。
これに対し本因坊算砂は囲碁の名手で、長く3人に重用され、戦国の世をわたり歩いて数え年65歳まで生き、信長に重用された生涯を描いた。
もともと「小説・本因坊算砂」は、1994年1月号の創刊号から、18回にわたって連載された作品で、連載終了後に単行本化される予定であった。
そのころ堺屋は、二度目の大河ドラマ「秀吉」(1996年)で、この大河ドラマの原作として、新たに『秀吉 夢を超えた男』をNHK出版から出されることになり、『戦国千手読み 小説・本因坊算砂』の単行本化も、大河ドラマ「秀吉」ブームが落ち着いてからとなっていたらしい。ちなみに本因坊算砂は、囲碁の世界の「本因坊戦」に名を残す。
ところが、作家の堺屋が亡くなったため、その販売戦略は立ち消えになっていたのだ。
それよりも大きな行き違いが、「EXPO2025」の会場となる「夢洲(ゆめしま)」問題である。
「夢洲」は1994年1月08年五輪の競技場、選手村とし利用される計画が立っていたが、五輪誘致は北京に決定。誘致失敗後、100ヘクタールを超える広大な土地は「大阪の負の遺産」となっていた。
それを正の遺産に転換すべく、「夢洲」はカジノを含む統合型リゾートの候補地としても名乗りをあげた。
夢洲へと伸びた大阪南港あたりは、上田正樹の「悲しい色やね」(1983年)に歌われた。そこは行き場を失った人々がやってくるドンヅマリ。
そこにユニバーサル・スタジオが建設され、夢洲に入る「夢舞大橋」も完成し、そこから広がる大阪の海の風景は、すっかり様変わりしている。
「EXPO2025」は、参加予定国の撤退など課題の多いスタートとなった。世界の分断や世界企業の多様性重視からの後退などもあって、「世界の国からこんにちわ」の含意が一層深く感じられる。