幕末:交渉人とその舞台

トランプ大統領の登場によって「交渉術」なるものに注目が集まるが、アメリカ映画「交渉人」(1999年)は、テロリストと人質との間に立って、互いの条件をすり合わせる男が描かれていた。
緊迫した状況でこうした仕事ができるのは、よほど「キモ」がすわった人物にちがいないが、幕末そういう状況を見事切り抜けた、いわば「交渉人」を三人ほどみつけた。
そのひとり五代友厚は薩摩の人だが、分裂・瓦解寸前の大阪の復興を支えた大恩人で「大阪の父」とよばれている。
五代は1936年生まれで、14歳の時に人生を変える資料を目にする。
それは、藩が外国商人から購入した詳細な地図で、五代家がその「複写」を請け負っていた。
彼はその地図を見て、アジアの隅々にまで勢力を伸ばしていたイギリスが日本と同じような小さな島国であることに驚く。
このことから日本も世界有数の国になれることを確信し、これが五代の一生を貫くテーマとなる。
日本が開国に踏み切ると五代友厚は薩摩藩の貿易係として長崎に派遣された。この地で五代友厚はイギリス商人と交渉し、近代兵器の輸入や薩摩の特産品の輸出事業で頭角を表す。
さらに、貿易により培われた経済センスをもって、藩命により上海、イギリスなどに渡航する中、外国人と対等に交渉できる英語力も備わっていった。
そして、西郷隆盛や大久保利通らが倒幕運動を進める中、五代友厚は軍備や財政面から藩を支え明治維新に大きく貢献する。
1863年6月、イギリス艦隊が鹿児島の錦江湾に姿を現し、「薩英戦争」の火蓋が開こうとしていた。
きっかけは、前年の8月、横浜近郊の生麦村において、日本の大名行列の習慣を知らなかったイギリス人商人のリチャードソン他三名の一行が、薩摩藩主の実父であった島津久光の行列に馬を乗り入れたため、随行していた薩摩藩士によって無礼打ちに合い、殺傷されたためである。
五代は当時藩の命令で上海に渡航していたが、薩英戦争が勃発したため、急遽帰国して戦いに参加することになる。
同僚の寺島宗則とともにイギリス海軍の捕虜となってしまった。
このとき、五代らは薩摩藩を「攘夷」から「開国」に転換させるために、あえて捕虜になったともいわれている。
そして、捕虜となった五代は、イギリス海軍のクーパー提督に「10万の薩摩藩士は死を恐れぬ闘士である」と告げた。
もしイギリス兵が薩摩に上陸すれば、すべての薩摩藩士がイギリス兵を道連れに死を選ぶだろうと脅した。
実際にイギリス海軍は、艦長と副官を含む13人が亡くなるなど、予想外の被害を出していた。
クーパーやその上官であるイギリス公使代理のジョン・ニールは、本国の議会で「無謀な戦闘を仕掛けた挙句、自国民を死なせた」と追求されるのを恐れ、さっさと戦争を終結したかったのだ。
五代らは間もなく釈放されたが、日本の国内事情をリークしたので助命されたという悪い評判が立ち、幕府からも薩摩藩からも厳しい批判にさらされた。
そのため、五代らは薩摩に帰国することができず、しばらく武蔵国の熊谷で潜伏生活を送ることになる。
後に、「東の渋沢栄一、西の五代友厚」とよばれるが、二入はこの時、隣町にいたことになる。
この潜伏生活を送っている時、五代は長年温めていた日本の近代化策を練り上げた。
その要点は、海外貿易を振興し、同時に海外に留学生を派遣して、進んだ西欧文明を取り入れることだった。そしてその具体的で現実的なプランを藩に提出し、採用された。
1865年、のちに「薩摩スチューデント」と呼ばれる留学生19人がイギリスに渡り、五代は留学生を束ねる使節団4人のひとりとして参加した。
五代は旅先から日本に送った手紙のなかで、近代国家の根幹は「industry(産業・工業)」と「commerce(貿易)」であると語り、新たな国家の進むべき道を、「工業立国」と位置付けていたのだ。
ところで、世界史のなかで「似た場面」が時々みつかる。例えば、アメリカ建国の発端となった「ボストン茶会事件」は、幕末、薩摩で起きた出来事と幾分似ている。
それは、自国民が変装してイギリス艦に乗り込むなどした場面である。
ボストン茶会事件では、イギリスの植民地であったアメリカ人がインディアンに紛争してイギリス船に乗り込んで、強制的な税負担の原因である茶箱を生みに投げ捨てた事件であった。
薩英戦争において、81名の決死隊を各々8艘の小舟に約10名ずつ分乗させ、8艘の小舟の内の1艘には、イギリスへの国書に対する藩の「答書」を持った使節団を編成することにした。
商売人の一団に扮した7艘の小舟には、季節のスイカや野菜、果物などをたくさん積み込んで、イギリス艦隊への贈答品を運んでいる商船として偽装することにしたのである。
偽装使節団の一団とスイカを載せた一艘の小舟がイギリスの旗艦船ユライアラス号へと近づき、軍艦内に藩士を乗り込ませようとした。
実際には、「スイカはいらないか」と叫んで、何とか軍艦に乗り込もうと企んでいたが、イギリス仕官は、「What?」と言うばかりで、彼らをまったく相手にしない。
計画の無謀さを悟ったのか、陸から一艘の小舟が旗を振りながらユライアラス号に近づいて来て、「計画は中止。一先ず引き上げよ」という君命が伝えられた。
かくして薩摩藩の「スイカ売り決死隊」の軍艦奪取作戦は、ものの見事に失敗に終わったのだが、薩英戦争の中の一つの「笑い話」として、今でも語り継がれている。

交渉人二人目は、福岡藩の加藤司書(かとうししょ)で、福岡藩の家老職2800石の要職にあった。
1853年7月、加藤が24歳の時にロシア船が来航した時、藩兵500余人を指揮し長崎を警護、同艦隊を穏便に国外へ退去させる。
1863年8月、宮廷守護に当たっていた長州が解任され、尊攘派の7人の公卿が、京を追放されるクーデター(八月十八日の政変)が起きる。
公卿は長州藩に身をよせるが、1864年6で月、池田屋事件勃発し多くの長州藩士が新選組により殺害された。
その翌月、長州藩士がその報復とばかりに京都御所に攻め上り戦いが起きる。
この禁門の変(蛤御門の戦い)で、長州は敗退。そればかりか「尊王」の立場であるにもかかわらず「朝敵」となってしまった。
その後、幕府は長州を討つために、広島に各藩の藩兵を参集した。
当時福岡藩では、加藤司書が勤皇派の中心的な立場にあり、福岡の血の気の多い急進派を抑えながら、黒田播磨(三奈木黒田家10代当主)と連名で福岡藩の行く末について「建白書」を提出していた。
藩主の黒田長溥は、「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし 」という考えのもと、加藤司書に建白書を持たせ、徳川総督に提出する。
そして加藤司書と西郷隆盛が、幕府方との交渉により止戦へと導き、長州の「恭順」を条件に「解兵」が実現した。
「恭順」とは、長州藩の家老3人の切腹と、福岡藩で尊攘派の公家(最終的には5人)を預かることとしたのである。
しかし黒田長溥は薩摩藩から養子として福岡藩主となった開明的な人物であったが、薩摩藩とは違い「倒幕」にまで考えを発展させることは出来なかった。
それどころか、いわば過激派の5人の公家を預かっている立場から 幕府方に忖度しすぎ、1865年明治維新のわずか2年前、勤王派の弾圧に着手する。
世に言う「乙丑(いっちゅう)の獄」で、野村望東尼など、140数名もの維新で活躍するであろう全ての人達が断罪・流刑され、それと共に維新という時代の表舞台から福岡藩は姿を消すことになる。
切腹の場所は、天福寺。現在博多駅から延びる大博通りの西面の第一生命ビルあたりにあった天福寺で、ビルの壁に掲げられた「皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は、身にもてる赤心(まごころ)を 君と親とに尽くすまで」の歌碑が壁に埋め込まれている。なお天福寺は福岡市城南区に移転している。
福岡藩は、加藤司書ら勤皇派の働きにより、幕府と長州の大規模な戦い、ひいては列強による植民地化を防ぐ大きな役割を担ったことになる。
しかし、幕府からみれば危険人物である五人の公家をあづかったことは、皮肉な結果をまねいた。
結果的に藩主による「勤皇派の一掃」という悲劇をまねき、「倒幕」への動きに乗り遅れてしまった。
ただ、五人の公家が過ごした太宰府天満宮入り口の延寿王院に、坂本龍馬や西郷隆盛が訪れ「倒幕計画」を練ったと思われる。
太宰府天満宮の土産物の店はかつて西郷や坂本が宿泊した旅館であり、「延寿王院」はいわば倒幕の震源地となったのである。
三条実美ら五卿が大宰府や二日市温泉を訪れ、詠った歌碑が周辺に点在している。

三人目の交渉人・高杉晋作は、1839年今の長州藩(現在の山口県)の萩市に生まれている。
吉田松陰は早くから高杉晋作のその才能を見出しており、長州で「奇兵隊」を結成したのが高杉晋作であり、それは後の大日本帝国の陸軍の礎となっている。
薩摩藩は当初は幕府を改革しながら日本を強くすると言ういわゆる「佐幕派」で、一方の長州は幕府の力を弱め朝廷(天皇)中心の政治の下で日本を強くするという「勤王派」だった。
当初は、薩摩藩と長州藩は、その方針においては完全に対立していたが、その中で薩摩・長州は大きく方針転換をせざるを得ない事件が立て続けに起きた。
1863年に起った薩摩と大英帝国の戦争である「薩英戦争」と、1864年の長州と欧米列強4ヶ国(英国・フランス・オランダ)連合との戦争である「下関戦争(馬関戦争)」である。
薩摩にしても長州にしても、勝てるなどとは全く思っていない。その建前は、当時、幕府・朝廷から指示された「攘夷」を実行したまでである。
「外国勢力を除外する」というのは威勢がいいが、その「力」が日本に無いと実現しないのである。
結局、薩摩・長州は「攘夷は無理」と言わんばかりに、大きく動いてくのである。
下関戦争(馬関戦争)は、長州藩対4ヶ国連合という形で行われたが、中心は大英帝国であった。馬関の港において長州藩が通行の邪魔をして砲撃を続けていたため、「フランス・オランダ・アメリカ」と結んで、長州藩に砲撃の中止と港を開くよう迫っていた。
それに対して、当時の長州藩の重臣達は「幕府の言うことを聞かないといけない」という恐怖症に陥っている状態だった。
なぜなら「禁門の変」で散々に長州藩は叩かれた直後であり、幕府の命にしたがって4ヶ国の連合艦隊に砲撃をするのである。
なお、このとき、長州藩の松下村塾の志士たちは、久坂玄瑞(高杉と並び「松下村塾の双璧」といわれた)は7月の禁門の変で死去・桂小五郎は、禁門の変で行方不明・高杉晋作は、脱藩の罪で謹慎蟄居という状態で、政治の中枢から完全に外れていたのである。
そんな中で、1864年8月5日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ艦1隻合計17隻からなる四カ国連合艦隊は、下関で一斉に砲撃を開始し、長州側も前田村の砲台から応戦し、戦争が開始された。
負け戦と分かりつつも、長州藩も死力を尽くしたが、あっという間に砲台は破壊され、その沿岸地域は連合軍に占領された。
ここに至り、長州の重臣達は無謀な戦争を諦め、「降伏の交渉」を始めることとなった。
港には欧米勢力が入り込み、まさに危機の状況だった。そしてここから、長州藩は4ヶ国連合に「和平交渉」を申し入れる。
それほどに難しい交渉に誰があたったのが、長州藩の重臣達が出した答えが、謹慎中の高杉晋作であった。
当時、高杉は26歳。だれがやっても難しい交渉を、高杉晋作に頼まないと行けないほど、長州藩には人材がいなかったのか、もしくは、高杉でないとここは乗り切れないと考えたのか。
それにしても、それを任命する側も、そしてそれを受ける高杉も、相盗の覚悟を持ったと思われる。
なお、このときに通訳として選ばれたのが3年下の伊藤博文で、高杉晋作は、交渉にあたり筆頭家老の宍戸家の養子という名目で臨んだ。
「宍戸刑馬(ぎょうま)」という偽名を使って交渉に臨んだ高杉は、9月8日に連合艦隊の英国船に呼ばれ交渉を行う事となった。
やはり、長州のみならず日本がどうなるか分からない交渉の最前線の緊張感は、高杉ならばひしひしと感じていたにちがいない。
また、それは交渉の戦略の一つであった。交渉が進むと、「だんだん態度がやわらぎ」とアーネストサトウが言ったように、交渉は順調に進んだ。高杉はそれほどに堂々と交渉に臨んでいたといえる。
当時の連合国の要求を要約すると、① 海峡通行の安全の確保②300万ドルの賠償金支払い③ 彦島の租借の3つだった。交渉を進めながらも、まずは休戦を結ぶことができ、1回目の交渉は終了する。
しかし、2回目の交渉には高杉晋作は現れなかった。
外国との講和に反対する藩内の「攘夷論者」が「高杉・伊藤を切る」と藩の上層部に詰め寄り、なんと藩の上層部がそれを高杉のせいにしたのである。
それに怒った高杉晋作は伊藤博文と共に逃げることにした。それもあって2日目の交渉は出られなかった。
しかし、高杉晋作はこの状況を利用して「あえて」出なかったと思われる節がある。
2日目の交渉で高杉が出てこなかったため、長州藩の重臣が出席したが、イギリス側が「高杉でないと信用出来ない」として高杉を要求してきた。
結果、2回目の交渉は全く進展せず、長州藩側は次の交渉を高杉に任せるしかなかった。
こうした経緯で迎えた3回目の交渉であった。
①については、認めざるを得ないことを高杉は理解していて、あっさりと認めた。
②については、これも認めざるを得ないとしてあっさり認めた。
ただし、「幕府の命に従ったのだから、幕府に請求するように」として、見事にその請求を幕府に付け替えた。後に明治政府がこれをなんとか完済する。
そして③の「彦島の租借」だけについては、高杉は断固反対の立場を貫いた。
上海に留学したことがある高杉は、大英帝国の汚さをよく知っていて、「香港の租借」と同様にあっという間に植民地化されることを分かっていた。
ここで高杉は、「そもそも、日本国なるは高天が原よりはじまる。はじめクニノトコタチノミコトましまし・・・」と「気が狂ったかのように」古事記や日本書紀を読み始めたという。
これには、通訳で参加していた伊藤博文もアーネストサトウもあっけにとられ、そして伊藤は「訳せません!」と高杉に懇願したという。それでも高杉は講釈をやめなかった。
これぞ、都々逸好きの高杉の真骨頂で「天才的」といえるかもしれない。
これに対し、イギリスの艦隊司令官のキューパーは、それまでの要求を高杉が認めたこともあり、③の彦島の租借については撤回し、取り下げたのである。
作り話のように聞こえるこの話だが、伊藤博文は「あの時、もし高杉が、これをうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう」と語っている。
すなわち、高杉によるこの交渉なくば欧米列強に好きなようにされた「清国」と同じ道を歩んだかもしれないのである。