新約聖書に、イチジクの木については、とても不可解なエピソードがある。
「朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、道のかたわらに一本のイチジクの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。イチジクの実のなる季節ではなかったからだ。そこでその木にむかって、"今から後いつまでも、おまえには実がならないように"と言われた。すると、イチジクの木はたちまち枯れた」(マルコの福音書11章)。
普通に読めば、おなかがへったイエスが実のなっていないイチジクに腹をたて、その木に呪いをかけたということ、しかもイチジクの実のなる季節でさえなかったのだから、イチジクの木からすればいい迷惑だ。そもそも木の実を食べるなど行儀が悪すぎる。
かつてイエスは、四十日四十夜の断食後に空腹をおぼえ、サタンの「これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」という挑戦にあった。その時、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる」と答えている。(マタイの福音書4章)
長期の断食に耐える神の子が、イチジクの実がなっていないことで、ご機嫌ななめになったり、ましてや呪いをかけたりするだろうか。
「聖書のことは聖書に聞け」という自分原則の下、聖書全体から読み解くと、このエピソードの深いメッセージがわかってくる。
さてイエスは以前、いわゆる"山上の垂訓"を語った後、弟子たちがもってきたパン五つと魚二ひきをもって、女性・子供を除いて5000人あまりの空腹を満たした奇跡をおこしたことがある。
この時、イエス自身が空腹をおぼえたという記述はないのだが、別の場面で次のような弟子とのやりとりがあった。
或る時、弟子たちがイエスに食べ物を差し出した時に、イエスは次のように語った。「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。
弟子たちはイエスがどこかで食べ物を得たと思ったようだが、イエスは次のように語った。
「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」(ヨハネの福音書4章)。
この言葉を「イチジクの木が枯れた話」にあてはめると、イエスがおぼえた空腹とは、”神のみこころを行い、そのみわざをなし遂げること”に対してなんらかの妨げがあることに対する”虚しさ”を意味するものではないだろうか。
イエスは、神のみ旨やみ言葉がすみやかになることの難しさを、次のようなたとえ話で語っている。
「見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(マタイの福音書13章)。
イエスは、この譬えについて次のように説明している。「だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
さらに旧約聖書には、「主の言葉を聞くことのききんが来る」という預言がある。
「見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、”主のことばを聞くことのききん”である。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる」(アモス書8章節)。
イエスは、イチジクの木に出会う直前にベタニアの村に立ち寄って、愛するマルタとマリアの兄弟であるラザロの死を知き、彼らの家に向かっている(ヨハネ福音書11章)。
イエスは家に着いてマルタに、「自分がここに居なかったことはよかった。それは、あなた方が”神の栄光”をみるためだ」と語り、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」とつげる。
それに対して、マルタは「終りの日のよみがえりの時よみがえることは知っています」と答えている。
そしてイエスは妹のマリヤをよぶと、マリアは「もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と告げた。
そしてイエスは、彼女が泣き、また一緒にきたユダヤ人たちが泣いているのをみて、”激しく心を動かし”て、ラザロをどこに置いたのかと尋ねた。
彼らはイエスに「主よごらん下さい」と語った。するとその時に、イエスは”涙を流された”。
イエスの涙を見たユダヤ人たちは「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」と語りあった。
またある者は、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようにはできなかったのか」と語り合った。
イエスはまた”激しく心を動かし”て墓にはいり、「石を取りのけなさい」と語った。
するとマルタは、「主よ、もう臭くなっております。4日もたっていますから」答えた。
その時イエスは彼女に「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」と語っている。
人々は石を取りのけ、これは神ががわたしをつかわされたことを、信じさせるためであると言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわった。
すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。そしてイエスはラザロをほどいてやって、帰らせなさい」と語った。
イエスのなしたことを見た多くのユダヤ人たちは驚嘆し、イエスを信じた。
以上が西洋絵画でよく描かれる「ラザロ復活」の場面だが、全体としての印象は、イエスと人々の言葉が、なかなかかみ合っていないということである。
さて問題は「イエスが涙を流した」場面であるが、イエス自身は「ラザロの死」を悲しむ理由はなにひとつないのである。
なぜならイエスは、ラザロを復活させることが出来たのであるから。
この場面で「激しく心を動かし」というの部分を原語に即して訳すと、「霊の憤りをおぼえ」ということなのだという。
つまりイエスの涙の理由は、ラザロの死に対する悲しみよりも”憤り”なのだ。それはマルタに対する、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」という少々きつい言葉からも推測できる。
イエスの涙は、人々の”不信仰”に対するものなのである。
こうしたイエスの憤りは、イエスが、実のなっていないイチジクの木を見て感じたことと、通じるものがあるように思われる。
そもそもイエスは、季節はイチジクの実のなる季節ではないのに、なぜイチジクの木に近寄ったのか。
イエスはイチジクの実ではなくむしろ”葉”に注目して、”何か”を読み取ったのではなかろうか。それは、次の言葉から推察できる。
「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(マタイの福音書24章)。
またイエスは、イチジクの木を枯らした後、エルサレムの会堂にはいって怒りを露わにしている。
「イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、"わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである"と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」(マルコの福音書11章)。
イエスがガリラヤに行こうとした時、湖で漁師のシモン(ペテロ)とアンデレ兄弟に出会う。
そして「網をおいてついてきなさい。人間を捕る漁師にしてあげよう」と彼らを弟子にする。
しばらくして、彼らの知り合いのピリポと出会い、ピリポもイエスに従う。
続いてピリポが知り合いのナタナエルに、モーセや預言者たちが示したナザレのイエスに出会ったと伝えた。
するとナタナエルはナザレからよきものがでるはずがないと疑うので、ピリポは「とにかく来て見なさい」とうながした。
そして、ナタナエルがイエスの方に近づくと、イエスは「あの人こそほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と語った。
そこで、ナタナエルがイエスに、「どうし自分のことを知っているのですか」と問うと、イエスは「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、”イチジクの木の下”にいるのを見た」と告げる。
その言葉に驚いたナタナエルは、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と答えた。
最後にイエスは「あなたが、”イチジクの木の下”にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」(ヨハネ福音書1章)と預言する。
このナタナエルを覆ったイチジクは、「枯れた葉のイチジク」とは対照的に、まるでイエスがイチジクの木の下に”立派な実り”を見つけたかのような印象がある。ただし、木の実とは違い、人間ではあるが。
このエピソードで、ナタナエルはすぐに「あなたこそ神の子」ですといいい、イエスが「あの人(ナタナエル)こそ、ほんとうのイスラエル人」ですと、その本質を見抜いている点が重要である。
まるでイチジクの実りが、神の子イエスと”ほんとうのイスラエル人”との出会いを祝福しているようにもみえる。
旧約聖書には、「イチジク」になぞらえた次のような預言がある。
「荒れ野でぶどうを見いだすように わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオルに行った。それを愛するにつれて ますます恥ずべきものに身をゆだね忌むべき者となっていった」(ホセア書9章)。
この箇所のバアルオペルとは、出エジプトの時代、イスラエルがシナイ山のふもとで「金の子牛」を造って偶像崇拝の罪に陥ったカナンの神である。
預言者エレミヤの言葉に、「わたしは彼らを集めようとしたがと主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた」(エレミヤ記8章)とある。
こうしてみると、イスラエルにはまるで”良し悪しの二つのイチジクの木”が生じているかのようだが、それは旧約聖書のエレミヤの預言とも合致している。
神は、預言者エレミヤにバビロン捕囚によち工匠や鍛冶をエルサレムからバビロンに移して後、”主の宮の前に置かれているイチジクを盛った二つのかごの幻をみせた。
「その一つのかごには、はじめて熟したような非常に良いイチジクがあり、ほかのかごには非常に悪くて食べられないほどの悪いイチジクが入れてあった」。
神はエレミヤに二にわけて盛られたのイチジクについて次のように語った。
良いほうのイチジクについては、「この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を、わたしはこの良いいちじくのように顧みて恵もう。わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる」。
その一方で悪い方のイチジクについては、「わたしはユダの王ゼデキヤとそのつかさたち、およびエルサレムの人の残ってこの地にいる者、ならびにエジプトの地に住んでいる者を、この悪くて食べられない悪いイチジクのようにしよう。わたしは彼らを地のもろもろの国で、忌みきらわれるものとし、またわたしの追いやるすべての所で、はずかしめに会わせ、ことわざとなり、あざけりと、のろいに会わせる。わたしはつるぎと、ききんと、疫病を彼らのうちに送って、ついに彼らをわたしが彼らとその先祖とに与えた地から絶えさせる"」(エレミヤ24章)。
そしてイスラエルの歴史は、エレミヤの預言を裏付けるように、進展していく。
ユダ王国のユダヤ人たちは、BC586年に新バビロニアによってエルサレムが陥落したあとバビロンに移される(バビロン捕囚)。
このバビロンは、かつてカルデアという国があったので聖書では「カルデア」とよばれる。
BC539年、ペルシャによって新バビロニアが滅ぼされ、捕囚民のエルサレムへの帰還が許されるが、一部のユダヤ人は優遇され繁栄していたためにそのまま残る者も多かった。
遠くペルシアの首都スサにあってネヘミヤも、アケメネス朝ペルシャの王であるアルタクセルクセス1世の献酌官という名誉ある地位に就いていた。
しかし、ある日エルサレムから尋ねて来た親戚の話に心を痛め、「王の献酌官」という高位を捨てて、ユダヤの総督として任命してもらう。
スサからエルサレムに行き、城壁の再建工事を呼びかけ、優れたリーダーシップを発揮して、ユダヤの民の復興を助けるユダヤ復興のリーダーとなった。
イエスがラザロの復活をなしたべタニアあたりは、”バビロン捕囚”という厳しい試練を経て帰還した「新しいイスラエル」とは違う、いわば”錆びた”地域であった。
イエスはそこでみかけた”イチジクの葉”に、この地域を表すよからぬものを感じたと推測できる。
そして、イエスのイチジクに対する「永遠に呪われよ」という強い言葉はかつてエレミヤに臨んだ預言が実現したものである。
この状況をネガとすると、ナタナエルに対するイエスの「あの人こそほんとうのイスラエル人である」という不思議な言葉がよく理解できる。
また、このエピソードのなかでわざわざ「イチジクの実のみのる季節ではなかった」と断っているのは、イチジクの木が実をだす前に、イチジクの木を枯らしたかった、つまり”古いイスラエルに戻るな”というメッセージだったのにちがいない。
イエスは、それを裏付けるように、次のような譬えを語っている。
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」(マタイの福音書7章)