空間政治学および空間人類学

最近、不発弾の爆発で家屋が全壊したり、インフラ老朽化で道路が陥没したりしている。また、微妙に地球温暖化の影響があるケースもある。
トルコ辺りは、地球温暖化の影響っで地下水が干上がり、各地で野球スタジアム大の穴があいて、人々は危険と隣り合わせの生活なのだという。
1950年代に「東洋一」と言われた香里(こうり)団地が大阪の枚方(ひらかた)に建設されたが、今となっては”火薬庫”跡というこれ以上ないくらい危険な場所に建てられた。
明治末期に開業した京阪電車の路線は、大阪から見て北東にあたる。
陰陽道では、北東が鬼門とされ、忌み嫌われる方位とされるため、 他の関西私鉄より開発が遅れた。
昭和に入り、京阪自身が成田山新勝寺の別院を誘致したのは、「鬼門」の忌避という居住地選択の不利な条件を、寺院を作ることによって解消するためだったという。
ちなみに、京都なら比叡山延暦寺、江戸なら上野寛永寺、福岡なら水鏡天満宮が鬼門の位置に立っている。
香里団地は、開発の遅れを一挙に取り戻すべく、日本住宅公団(現・UR都市機構)が、大阪府枚方の旧陸軍の「火薬工場」の跡に建設したものだった。
皮肉なことに、今となってはどうかと思うこの土地に団地が誕生したのは、「平和」を願う市民の運動が実ったからである。
1958年から入居が始まり、すべてが竣工したのが67年、完成した当時は、「東洋一のマンモス団地」と呼ばれた。
そういえば、東京にも1972年から入居が始まった高島平団地があるが、こちらも「火薬」と縁がある。
「高島平(たかしまだいら)」の名前の由来は、砲術家の高島秋帆に由来し、ここは江戸末期の砲術の射撃訓練が行われていた場所だった。
さて、日本経済を支えた団地といえば、台所と言えば土間が主流であった昭和30年代、ステンレスの流し台や水洗トイレ・ガス風呂といった最新設備を備えた団地は庶民の憧れで、「団地族」という流行語も生まれた。
香里団地は5214戸の規模を誇り、団地内に、市役所の支所、郵便局、診療所、市場など生活に密着した施設や広い緑地がある郊外型団地のモデルとなった。
そして、この団地を視察にやってきた人々がすごい。
1962年には、ケネディ大統領の弟で当時の司法長官ロバート・ケネディ夫妻も視察に訪れた。
開成小学校を訪問し、にこやかに子どもたちの握手に応じる写真が残っている。
他にも、61年のアメリカの社会学者リースマン、66年にはフランスの哲学者サルトル、ボーヴォワールら世界を代表する知性が視察に訪れた。
歴史家の原武史は団地が政治と結びつくことに注目するが、京都大学人文科学研究所の教員だった多田道太郎や、政治学者の樋口謹一らが作った「香里ケ丘文化会議」がそれである。
団地在住の知識人が自治会とは異なる組織を作ること自体は、東京のひばりが丘団地などもあったが、多田らは「無党派の市民」による組織にこだわった。
原武史は、著書「団地の空間政治学」において、各団地の自治会や文化サークルがいかに立ち上がり、どのように「政治」にコミットしていったかを、自治会報やタウン誌など読み解きながら明らかにしていった。
興味深いことに、アメリカには日本のような団地はほとんどない。むしろ団地はソ連や旧東ドイツ、ポーランドなど戦災で住宅不足が深刻化した社会主義国によく見られるものである。
日本の団地の住民の政治意識」も「保守よりも革新、資本主義よりも社会主義に共感的」である。
団地の住民たちは、階級的には労働者階級というよりは「新中間階級」で、大学の教授などの知識人も多く含まれていて、「革新」を支持する割合が高く、団地は共産党の牙城のような存在になる。
そういえば、1980年代初頭には国民の8割が中流意識をもち、「日本は世界でもっとも成功した社会主義国家である」と皮肉られたこともあった。
原が注目したのは、団地で大きな役割を果たしたのが女性で、団地の平均的な世帯はサラリーマンの夫と専業主婦と子どもで構成され、世帯主の男性の多くは都心の企業へと通勤していた。
団地には新婚夫婦が集まり、またプライバシーの整った空間は団地におけるベビーブームを生み出すことになる。
このため団地の自治会やサークル、さらには地方自治体への陳情などにおいて主婦たちが大きな役割をはたすことになったのである。
女性たちが地方自治体への陳情の中心となった背景には、バビーブームに伴う団地周辺の「保育園不足」「学校不足」があった。
主婦らが「自治会活動」などから出発して、共産党から地方議員へと立候補するひとつのパターンが生まれた。
ところが1970年代にも、高島平団地、そして多摩ニュータウンという巨大な団地がつくられるが、そこではかつての団地にあったような「政治意識」が盛り上がることはなかった。
原はこの要因として、高島平団地に関しては高層化、多摩ニュータウンに関しては車社会の到来をあげる。
エレベーター化やモータリゼーションの進展が、団地の人びとから「共通の場」を奪い、自治会活動を低調化させた。
つまり、空間の変化が「非政治化」を生んだということで、原武史の「空間政治学」は、こうした状況から提起されたものである。
さて、香里団地を視察したアメリカの社会学者リースマンは、1950年大衆社会をテーマにした「孤独な群衆」を著し、人々の性格や指向は、社会環境によって由来するものだと主張した。
それは、「社会的性格」と呼ばれ、社会情勢に応じて変化するものであり、「伝統指向型」→「内部指向型」→「他人指向型」へと変化すると論じた。
「伝統指向型」は、それ以降の時代に比べて価値体系が固定している時代のことを指し、その社会を生きる成員たちは歌や物語などの口頭伝承によって伝統に従いながら生きるのが特徴である。
「内部指向型」は、生活の中で人々の選択は広がり、伝統というより知識に頼って生きていけるようになる。その背景には親の教育や学校の誕生があり、いわば「知識重視社会」が生まれたことがある。
例えるなら、人々は内面にジャイロスコープ(羅針盤)を持ち、自分の判断によって行動し、勉強や仕事が生きる上で最も重視される。
「他人指向型」は、後のアメリカの社会に新たに現われてきた人々の社会的性格のことで、外部の他者たちの期待と好みに敏感である。
人々の基準は内部指向型とは違って、自己内のジャイロスコープではなく、レーダーによって誰か、または何かに向かっていく。
つまり、個人の方向づけを決定するのが同時代人という「他者」ということになる。
その背後にはラジオやテレビなどのマス・コミュニケーションの発達や、裕福さによってもたらされた大衆消費社会の到来が挙げられる。
団地は、プライバシーが守られながらも、常に他者を意識するという社会的性格を生んだ「空間」なのではなかろうか。とすると、リースマンが「香里団地」を視察した理由がわかる気がする。
さて香里団地を多田道太郎に案内されたボーヴォワール女史の感想は、次のとうり。
「大阪近郊の公団住宅に、ある教授のアパルトマンを訪ねたとき、私はその狭さと醜悪さに驚いた」。
個人的には、1979年EUの報告書に「日本人はウサギ小屋に住んでいる働き中毒の人々」と評されたことが思い浮かんだ。
日本人もこの言葉を自嘲的に使ったので流行語となったが、欧米人の体格からすれば、そんな印象を与えたのだろう。

京都精華大学の「ウスビ・サコ」学長の日本語の流暢さは驚異で、その流暢さは、「大阪弁」だけになお際立っている。
サコは2018年より「コミュニティー論」を教えていて、学内の選挙で学長に選ばれた。
サコの母国は、西アフリカの「マリ共和国」で、日本初のアフリカ出身の大学学長ということになる。
マリは人口は2千万人ほどの国で、1960年に独立するまでおよそ60年間フランスの植民地で、サコが生まれたのは独立から6年後ということになる。
父は税関の公務員 母は専業主婦。首都バマコで経済的に恵まれた暮らしていた。
そしてフランス式の教育を取り入れた私立の男子校で学んだ。周囲は旧植民地で役人の子弟で、超エリートのお坊ちゃんばかり。
サコは、中国雑技団の真似をして屋根から転落して病院に運ばれたこともある活発な少年だった。
マリでは、家族と一族そしてよく知らない人も30人ほど同じ家に寝起きし、子供は「親の子」というより「地域の子」で、悪いことをしたり、勉強をさぼると、よく知らない人からも叱られた。
高校で優秀な成績を収めたサコは19歳の時 国費留学生に選ばれ中国へ渡ることになる。
サコは、留学先の中国で親しくなった日本人留学生の実家に招かれ、1990年に初めて日本を訪れた。
その家は 東京・下町の商店街にあり、同行した2人の友人と共に「珍しい客人」として地域の人たちから歓迎され10日間ほど過ごした。
実は、サコはがそれまで見た日本人というのは「不自然」な人々に見えた。
留学してる日本人のグループは 日本人同士でよく集まることが多く、 他の国との交流がかなり少ない。
食べるものもインスタントなものが多く、急ぐ必要もないのに走っている。
しかしこの日本滞在で、そんな味気ないメージが劇的に変化した。商店街のおばさんたちがビール飲んで酔っ払ってるし、時々音楽をかけてカラオケを歌ったり踊ったりしていた。
そこに、すごい人間くささを感じ、直観的に日本をもっと見たいという思いが起こった。
その直感を頼りに翌年、中国の大学を休学して来日。
しかし、実際に暮らしてみると旅行では見えなかった壁にぶつかる。
言葉が通じないのは時間が解決する問題としても、日本人の表情が読めない。何を考えてるかっていうのが伝わってこない。
サコに関心があるようでないようで。見たいけど、見れないのでチラミをする。
人との「距離感」に悩みながらも信頼を置いていたのが、京都大学大学院建築の研究仲間であった。
同じ目標に向かって寝食を共にする同世代の友人はサコにとって 家族も同然と思っていた。
彼らと共にいて、自分たちの居場所にして愛着を持っていると思っていた。
しかし、彼らはその場所を楽しみながらも、その場所を批判してたことに気がついた。
サコが語ったことを批判的に告げ口したようで、サコは仲間を信頼できなくなって、これから日本でやっていけるのか自信を失った。
そこでサコは、一旦ふるさとのマリに戻った。
4年の研究成果をひっ提げて自分は国の将来に貢献できる人間だという自負があったのだが、サコも黒人のコンプレックスから逃れられず、無意識に先進国に同化しようとしていた自分に気がついた。
そこでサコは 一時帰国する度にマリの人々に聞き取り調査をするなどフィールドワークを重ねると、今まで「恥ずかしい」と思っていたマリに、「宝」があることに気がつく。
それは、幼い日々を過ごしたあの混沌とした「中庭」がマリの社会に欠かせない人間関係を育んでいたことであった。
自前のルールでコミュニティーを作っていて、ケンカもしながら 調整しながらネゴシエーションしながら生活する場所。
マリの中庭を「再発見」したことで日本を見つめる目も変わる。
京都を舞台に町家などの建築物だけでなくそこで暮らす人々の関係性にも研究対象を広げた。
これが「空間人類学」という学問への目覚めとなるが、原武史の「空間政治学」と幾分重なる点がある。
さて「中庭」というコンセプトに思い浮かんだのが、建築家・安藤忠雄の衝撃のデビュー作「住吉の長屋」である。
それは三軒連なる長屋の中央にコンクリートの箱を置いたような建造物で、それでも採光や外気などの住環境としての条件を見事にクリヤしている。
安藤のコンセプトは、外に閉じ、内に開く、自然のやさしさや厳しさと共存して人を活かすというもの。
「住吉の長屋」ではささやかなスケールの箱をさらに3等分し、真ん中に生活動線を断ち切る「中庭」を配置したことで、2階寝室からトイレに行くために手摺の無い階段を雨の日には傘をさして下りなければならない。
豊かな空間をつくり上げるために無難な便利さをあえて犠牲にしているので、この場所で生活を営むにはある種の覚悟も必要である。
人を活かすうえで本当に必要なものはなんなのかを徹底的に突き詰めた作ともいえる。
さてサコが発案する「空間人類学」の主題の一つはコミュニケーションでもある。
日本で注目したのが、道路に水をまく、自分の家の前だけでなく 隣家との境界線を越えて「打ち水」をすることなど「外」に開いた生き方だった。
西洋は、人々をどんどん孤立化・個別化していく。
マリの「中庭」では、彼らは迷惑をかけ合うこと自体がすごく大切なことだった。
サコのいう「中庭」のコミュニケーションの一例を一人の女子学生がもたらした。
サコはマリの滞在プログラムをスタートさえ、2011年に参加したのがその女学生のケイさんだった。
出発前の面談では 少し質問をしただけで緊張で泣きだした。マリでの生活は正直難しいと思っていたが、彼女が ホームステイに入って、見る度に次第に明るくなっていった。
学生たちが、ジャパニーズパーティーを披露するので、日本料理を作って日本の何かを見せることになっていた。
そこで「ソーラン節」を踊ることになったのだが、なんとあのケイさんが先頭をきって踊っていたのだ。
日本では、「あのこの子しゃべらないから、放っておきましょう」という風になる。
しかし本人にすれば、それを乗り越えたいのに、皆はその有り様を尊重するため、結局は何の手助けもないということになる。
しかしマリの人々は、相手の気持ちを考えずに、とにかく表にだそうとする。
ケイさんのケースをよくよく考えると、彼女が変われたのは マリの「中庭」のような安心できる場所だからで、サコは、大学は社会の「中庭」でありたいと思うようになった。
日本でコミュニケーションとは、「すぐ仲良くなれる」こと捉えがちだが、”揉めた”時になんとかする力が本当のコミュニケーション能力ではないか。
日本は、揉めないように責任を曖昧なままにして過ぎ行く。 これでは、「真の多様性」は生まれようもなく、ダイナミックな変化も期待できないと述べている。
サコの専門はもとは「建築学」で、建物を作る時は、まず人の行動を調べ、その空間に求めらえている条件に答えていく。
サコは今や「空間人類学」の観点にたって、社会学的・人類学的な方法で、人間の集団行動を調べていくと意外なことに気がつかされる。
例えばインドのスラム街に足を踏み入れて、一般の人々の反応は「かわいそう」というのかもしれないが、その段階で心の目が曇る。
実はインドのスラム街の家の組み合わせはや配置はレベルが高い。レベルが高すぎて建築の知識では教えることができないほどのものだ。
あんなに狭いところで、小さいシンプルな建物をたくさんつくり、そこで生活が出来ているというのは、「西洋建築の概念」を超えた知恵である。

「空間要求」に応えるためには、どんなものを立てるか、誰がそれを使うか、その人の行動パターンはというのが欠かせない。