Kage(中西影仁)は、小学校時代に重度のぜんそくで入退院を繰り返し、左手には点滴をしていた。
点滴が入っている状態でできることといえば読書と絵を描くことぐらいであった。
読書していて出会ったのが、プロレスラーの前田日明の本で、何を食べてどんなトレーニングをして今の体を作ったかが書いてあり衝撃を受ける。
そして6歳にしてプロレスラーになることを夢見るようになり、前田式トレーニングを身につけようと、ヒンズースクワットを数多くこなして、病弱な体を克服していく。
当時、Kageにとって武器といえば”気合”以外にないと考え、そこで”気合の伝道師”アニマル浜口の道場に弟子入りする。
過酷なトレーニングの中、娘の京子とスパーリングをして時に組み合った。
「うわっ 女の子」だと思った瞬間、とんでもない力で振り回され投げ飛ばされた。
アニマル浜口の教えの中で、大自然や先人に導かれて愛されて 助けられて 許されて人は生きてるから常に人に感謝する気持ちを忘れちゃいけない。
今という一瞬に一生をかける思いでやらなければならないことなどを学んだ。
そんな肉体の強化の中、Kageにとって落ち着くのは絵をかく時間で、勝手に絵筆が動き出すという感じだった。
出場したアメリカの大会でなかなか勝つ事ができず、追い打ちをかけるように、深刻な怪我を負って万事休すの事態に陥った。
プロレスラーの夢を諦めざるをえなくなった時、バスケット選手のデニス・ロッドマンの「ワルがままに」という本を読んで影響を受けた。
髪を緑色にそめるなど、気合の入った”グレ方”をすると、それが思わぬ「出会い」を生むことになる。
ある日のこと、ラスベガスのショッピングセンターに行くと、人だかりを発見する。気になって群衆を割って入るとその中心に、ベレー帽をかぶったおじさんがいた。話が面白くて皆を笑わせながら素早く似顔絵を書いている。
その絵は特徴が誇張されていて面白いと見入っていると、Kageの"緑髪"のが目についたのか、店にこないかと誘ってきた。
このおじさんの店で働くことになり、めきめきカリカチュア(誇張された絵)の腕を磨いていく。
ここでKageは、こおまでの人生にはカリカチュアに必要な要素が全て詰まっているということに気がつく。
幼少時に病室で絵を描いていた時に、ひとの特徴や面白い表情を無意識に観察するようになったこと。
アニマル浜口の道場に弟子入り、アニマル会長が燃えてるかー! 気合だー!!っていうのをキャッチフレーズにリングに上がっていたこと。
プロレスというのは個性を豪快に魅せるもので、"一筆入魂"の集中力はアニマル浜口の教え「一瞬は一生」から学んでいた。
そして「カリカチュア」(戯画)を描いて、人々を感動させたいという思いを抱くようになる。
カリカチュアというのは人の特徴を誇張する絵。それを豪快に誇張するというのがキモで、プロレスは、カリカチュアそのものなのだ。
Kageようやく才能とマッチした仕事に出会ったことに気づき、
さらに満足することなく、カリカチュアの世界大会に参加し、これこそが自分が目指していた絵だと思えるものに出会う。
その作者が、当時Kageが住んでいたサンディエゴに拠点があることを知り、さっさく弟子入りする。
このコート氏の下で、気合で行を重ねること5年、描いた数はなんと2万人にも及んだ。
してKageは、頂点をめざして世界大会に出場する。参加者は300人以上で、出場者どうして似顔絵を描きまくって自分のブースに貼り出し、投票で優勝者を決めるというもの。
そこでKageは、世界チャンピオンになってしまう。
Kageは「カリカチュア・ジャパン」の代表取締役社長で、日本におけるパイオニア的存在である。
本社以外にも28店舗を運営し、100名を超えるアーティストが在籍する最大手の会社である。
Kageをはじめ過去3名の
世界チャンピオンを輩出するなど、その功績が認められてニュースウイーク誌の「世界が尊敬する日本人100人」の一人に選出されている。
2011年3月11日の東日本大震災で大きな被害を受けた東北地方では、Kageは避難所や仮設住宅に足を運び、家族をなくした被災者に家族の似顔絵を描き、「これが私の未来のお守りになる」という言葉を頂き、似顔絵の持つ可能性に改めて気付かされたという。
少し古い話だが、”SEKAI NO OWARI”のステージなどに登場する「パラパラ動画」が人々の感動を呼んだ。
制作者は「鉄拳」という人物だが、プロレスラーのマスク風の白塗りメイクをしているので、その実像は見えない。
1972年、長野県大町市出身。元々漫画家志望で、初期の作品があるコンクールで入選したものの、次が出ず漫画家の夢を断念した。
高校卒業後は二番目の夢であったプロレスの世界を目指して、FMW(超戦闘プロレス)に入団がかなうが、「レフェリー」としての採用だったことにガッカリ。まもなく退団する。
次いで俳優の世界に挑戦し、1995年に劇団東俳に入団するものの、滑舌の悪さははなかな修正できず、こちらも退団する。
そこで、自分の挫折の繰り返しを逆手にとって、「滑舌の悪いレスラーが得意の絵を活かして芸をしたらどうだろう」と考え、芸人の世界に飛び込んだ。
マスクをした得体のしれない風体のお笑い芸人は、「鉄拳」として活動を始め、ある程度の人気を得ることができた。
その後、個人事務所「鉄拳社」に籍を移すが、唯一のマネージャーの退社で、全ての仕事を一人ですることになってしまう。
そのうち、体を壊して8か月間休養することになった。
そこで、マネージャー不在を解消するために吉本興業へ移籍するが、周りのスゴサに圧倒され、芸人としての自信を失い、2011年夏に芸人を辞めることを決断する。
芸人引退を胸にしばらく仕事をこなしていたら、芸人がカラオケ・ビデオにパラパラ漫画を描くという企画があった。
他の芸人が「ドタキャン」し、急遽絵の描ける芸人としてオファーが入り、なんでもいいいと受けた。
ところが、これがテレビのプロデューサーなどの目に留まり、「パラパラ漫画家」としてテレビ出演が増え、芸人廃業を撤回するに至ったという。
芸人の「鉄拳」が世に広く知られたきっかけは、イギリスのロックバンドMUSEの楽曲「エクソジェネシス(脱出創世記):交響曲第3部(あがない)」をバックに、左右に揺れる振り子の中に夫婦の半生をマジックペンで描いた「振り子」であった。
それが、日本国内のみならず海外を含めて一躍注目を集めることになり、逆に「振り子」の映像が「エクソジェネシス(脱出創世記):交響曲第3部(あがない)」の公式プロモーションビデオに採用されるに至り、全米・ヨーロッパなど世界各地で配信された。
そして、鉄拳のペーソスあふれる「パラパラ動画」は、多くの人々の心をとらえた。その「パラパラ動画」の感動をつくったといえる。
その限りでいえば、その人生に一点の無駄もなかったということだ。
ところで2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の出演者の中に、「鉄拳」の名があるのに驚いた。
その役どころは「礒田湖龍斎(いそだ・こりゅうさい)役」で、錦絵『雛形若菜初模様』を描いた絵師。
NHKがよくぞ活舌の悪い「鉄拳」を採用したと思ったが、鉄拳は、連続テレビ小説「あまちゃん」(NHK)でも使われたパラパラ漫画で繋がりがった。
磯田が描く錦絵は、主人公の蔦屋重三郎が西村屋与八とともに出版するものである。
鉄拳とって、芸人メイクではなく素顔で演じることに葛藤もあったが、大河ドラマにはめちゃくちゃ出たかったのでチャンスだなと思ったと語っている。
また今でも連絡とっている中学校の美術の先生に、大河に出ると言ったらすごく喜んでくれた。
その先生に教わって漫画の賞をとったこともあるので、恩返しができたと語っている。
先生は版画をされる方なので、礒田湖龍斎についても調べてくれて、アドバイスももらったという。
2017年12月、麗しのムード歌謡漫談・懐かしの昭和モノマネで彗星のごとくデビューしたタブレット純、ブレイクの予感がする芸人で、石破茂・中野信子・阿川佐和子など幅広いファンがいる。
タブレット純の歌ネタに、「算数文章題!そんな事より気になるの~♪」というものがある。
トラベルギターと、中学入試用の算数文章題テキストを持って挑む。
本人が子供の頃から算数の文章題が苦手であったという。
その理由というのが、距離とか時間を求める以前に、文章のもの悲しさばっかりに目がいく事からだった。
そのやるせない思いを歌にしたネタで、前半部分が算数文章題読み上げパートで、蚊の鳴くような細い声から一転後半部分は歌パートで、元歌謡曲歌手という事を最大限に意識した素晴らしい歌声を披露。
算数文章題を読み上げ、ボロボロのテキストを乱暴に地面に叩きつけた後文章題に対するツッコミを、歌へ乗せる。
「のぶ子さんは、卵を14960円で仕入れました。2割5分の利益を見込んで卵を1個20円の定価で売る予定でしたが、仕入れた卵のうち何個かが割れていた為割れていない卵を全部売っても利益が2040円にしかならない事が分かりました。割れていない卵を全部売って初めの予定通りの利益を上げる為には卵1個の定価を何円にする事が必要ですか?」。
この問題に対し、タブレット純はやさしくゆっくりしたリズムで問いかける。
「いったいどんな運び方をして、そんな卵を割ったのですか?
全部売っても2040円って、そんなんで生活ができるんですか?
この問題に答えがあるとしたら、のぶ子さんは商売には向いていないので
地道にパート勤務でも探した方が良いかと思います」と結論づける。
後半になるにしたがって、歌がだんだんとクレッシェンドし
文章題に対する不満のようなものが、内から湧き出していくかのように
畳みかけていく様が伺える。
中性的な外見と歌声を転化させる構成が、ギャップを生みだしている。
タブレットは、あらたに別の文章題をあげる。「一郎と次郎がキノコ狩りに行きました。一郎・次郎が初めに取ったキノコの数の比は7対3でした。ところが家に戻る途中で、一郎が7個を落としてしまい次郎は新しく6個見つけましたので採って帰りました。家についてか2人のとったきのこの数を比べてみると一郎・次郎の日は4対3になりました。
一郎が初めに取ったキノコの数は何個ですか?」。
この問題に対しタブレット純は「7個ものキノコを落としておいて全く気づかないってバカなんですか?
次郎が新しく見つけた6個というのはそもそも、あなたのキノコなのではないですか?
この問題に答えがあるとしたなら、人を疑うのは良くないけど、次郎とは距離を置いて警戒しながら、お付き合いした方が良いかと思います」と締めている。
このような異能かつ異端の存在「タブレット純」は、どのように誕生したのか。
神奈川県相模原市、横浜の水がめ津久井湖を見下ろす高台で育った。子供の頃から、みんなと馴染めないという悩みがあった。
引っ込み思案、忘れ物も異常に多く、男の子が好きだった事で自分は他の人と違うと感じていた。
幼少時よりAMラジオを通じて古い歌謡曲に目覚め、思春期は中古レコードを蒐集しながら愛聴、研究に埋没する。
高校卒業後は古本屋、介護職などの仕事をしていたが、27歳の時、「和田弘とマヒナスターズ」にボーカルで加入。以後2年間、和田弘の逝去まで同グループにて活動した。
グループ解散後は、都内のライブハウスにてネオ昭和歌謡、サブカル系のイベント出演の他、寄席・お笑いライブにも進出。ムード歌謡漫談という新ジャンルを確立し、異端な存在と言われながら、ライブ、ラジオ、寄席等々で活躍、人気を得る。
大沢悠里や永六輔、小沢昭一、吉田照美、徳光和夫といった、渋い人たちの「声帯模写」を得意とする。
本名は橋本康之で、三人兄弟の三男として生まれたため、しばしば「おばさん」に間違えられるらしいが「男性」である。
父親がTVに出たとき、スタッフに「純さんはどんなお子さんだったか」ときかれ、「記憶にない」と答えた父親。存在感のない末っ子だったのかと本人もズッコケた。
父親はおぼろな人だった。(おぼろとは、記憶が曖昧、ボートするさま)ということなので純さんの中では父親の発言には納得はしているようである。
キャッチボールもしたことなく、通信簿も見せたことなく、何事にも無関心。日曜日はモモヒキ姿でゴロゴロしておならだけはしっか
して、夜には焼酎のお湯割りを混ぜて‥
父親の影響を受けたの唯一のものが歌謡曲で、父親の車で流れた水原という歌手の儚い歌に釘付けになったという。
小学生の頃はテレビよりもラジオが好きで、そこから流れる「昭和歌謡」が好きになり、特にマヒナスターズが好きになった。
高校時代はを卒業後は8年間古本屋でバイトをしたあと古本屋が潰れた為、ホームヘルパー2級の資格をとって訪問介護の職についたが、なかなかうまくいかなくなった。
小学生のときから純はマヒナスターズのムード歌謡が好きで、音楽評論家の黒沢進と文通したりした。
グループサウンズの研究をしている文通相手の黒沢進のように、ムードコーラスの研究を始める。
その過程でマヒナスターズのメンバーの日高孝雄のカラオケ教室にアポ無しで押しかけ、話を聞くだけが「カラオケ教室」に通うことになる。
その3ヶ月後マヒナスターズはメンバーの脱退が相次ぎ解散の危機に。
そんな中でリーダーの和田浩から呼び出され、あっという間に加入が決まった。
和田浩が「田淵純」という芸名をつけてくれて、和田が亡くなる2年間マヒナスターズに在席していた。
カラオケ仲間のおばさんたちのプッシュと、マヒナスターズが昔から好きだという理由からだったようで、小学生から好きだったグループに加入するなんということはなかなかないことである。
憧れのメンバーになったことで、目まぐるしく忙しいこと、夢見心地とともにプレッシャーを感じすぎて、酒浸りの生活になっていく。
そこからしばらく10年間はお酒がないと人と話せない日々が続いた。
和田が死去した2004年からはソロ活動を行い、サブカルチャー系のイベント出演の他、寄席やお笑いライブにも出演した。
2011年から浅草東洋館のライブにレギュラー出演し、そこで現所属事務所にスカウトされた。
本人によると「タブレット純」の名前は「田渕純」をもじったものだという。
衣装は主に古着屋で昭和レトロ風の婦人服を購入している。昭和遺構巡りを好み、かっぱ人形、射的人形、昭和かるたを収集している。
昭和中期頃の暮らしを好み、住まいもわざわざ風呂なしのアパートを探し、銭湯に通うほどである。
小さな石鹸はカタカタなったのでしょうか。