2025年のNHK大河ドラマは「べらぼう~蔦谷栄華乃夢話~」である。
主人公の蔦谷重三郎(つたやしげさぶろう)といえば喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵を出版したことで知られる。
横浜流生(よこはまりゅうせい)が蔦屋重三郎役という意外なキャスティングも面白い。
蔦屋重三郎は江戸幕府中興の祖・8代将軍徳川吉宗の晩年にあたる1750年に、江戸の華・吉原で生まれた。
父の丸山重助は尾張の出身で、母は江戸生まれであることはわかっているが、父が吉原で何の仕事をしていたのか、あるいは兄弟姉妹がいたのかも分からない。
その幼少期につき分かっていることは、7歳の時に両親が離別したため、吉原で茶屋を営む「蔦屋」に養子入りしたことである。
蔦屋重三郎は、現代においては「江戸時代のメディア王」とも評されているが、こうした革新的な人物が一夜にして誕生するわけではない。
そこには、様々な要因が同時進行的に働いて蔦屋が携わる「出版」に新たなモメントとなったと推測される。
例えば、江戸時代における寺小屋教育の普及は市民の識字率の高めたであろうし、商業の発展がもたらすマーケテイングの革新などもあった。
さらに18世紀頃より文化の中心が上方(大阪)から江戸への移ったことも大きな要因であろう。
18世紀後半以降、江戸の町ではそれ以前に上方で流行した「浮世草子(うきよぞうし)」と呼ばれた作品とは違う「戯作(げさく)」と呼ばれる文芸作品が誕生する。
大人向けの絵入り本で表紙が黄色であったことからその名がついた「黄表紙(きびょうし)」、文章を主とした「洒落本(しゃれぼん)」や「滑稽本(こっけいぼん)」、「読本(よみほん)」、「人情本(にんじょうぼん)」など、読者の様々な要望に応えるべく多彩なジャンルの文芸書が登場した。
しかしながら本は高価なこともあり、1808年には江戸の町には656軒もの「貸本屋」が存在し、彼らの顧客は10万人を超えていたと考えられている。
本屋だけでなく貸本屋を含めた「出版業者」が一体となって江戸時代の出版文化を支えていた。
蔦屋重三郎は、浮世絵界に名が出る前に「貸本業」を営んでいた時期があり、1780年から蔦谷は山東京伝、太田南畝などの「黄表紙」をはじめとする大量の出版活動に入る。
そして蔦屋書店は江戸吉原から日本橋の「通り油町」に進出している。
そして通り油町進出からわずか8年たらず、つまり33歳から42歳の厄年までの8年間が彼の「黄金時代」といってよい。
なぜなら1791年山東京伝が「仕掛文庫」ほか洒落本三冊の版行によって「手鎖50日」の刑をうけ、蔦屋重三郎は「身代半減」の重い刑に処される。
それにもめげず、滝沢馬琴に著作の機会を与え十返舎一九の将来に可能性をさぐるなど、次の時代を担う「黄表紙作家群」の養成に精力を注いでいった。
そうした蔦屋の新たな挑戦が「写楽絵」制作だったのである。それは「身代半減の刑」からの「起死回生」策といってよい。
前述のように重三郎の養子入りの経緯も分からないが、「吉原」で生まれ育ったことが重三郎の人生に大きな意味を持っている。
吉原といえば江戸で遊女商売を唯一公認された遊郭の町だが、吉原といっても遊女屋だけで成り立った町ではない。
そこには、飲食業を中心に商人たちも大勢住んでいた。その多くは遊女屋との関係で成り立っており、重三郎が養子に入った茶屋の蔦屋も遊客を遊女屋に手引きする「引手茶屋」であったという。
そんな吉原で生まれ育った重三郎は、1774年、25歳の時に鱗形屋孫兵衛版『吉原細見』の改め役を委託される。
毎年春と秋に出版された吉原細見は遊女屋、遊女の源氏名・位付け・揚代など、吉原で遊びたい者が知りたい情報が盛りだくさんのガイドブックとして、江戸の「隠れたベストセラー」となっていたのである。
蔦屋はその内容にお墨付きを与える「監修」の役割を任せられたのであり、版元から吉原の事情通として認められていたことがわかる。
蔦屋が営んでいた貸本屋は、今とは違い行商人のように得意先に出入りして、本のレンタルに応じたのである。
蔦屋は、遊女屋や茶屋などに足しげく出入りすることで、各店の事情に自然と詳しくなり、貸本業を通じて得たのは吉原の情報や人脈ばかりではない。
貸本屋は得意先に足しげく通うことで、おのづから読者の好みを知ることができた。それは出版に際してのマーケティングに直結したのであり、エンタメ的企画にも活かせたことは想像に難くない。
個人的な話であるが、国道3号線を走っていた時、レンタルビデオショップ「TUTAYA」の文字の下に「蔦屋書店」という文字をみつけ、江戸時代にあった「蔦重」こと蔦屋重三郎との関連がるのではないかと予想した。
早速、東京の山手線・恵比寿駅前のビルの中にある「TUTAYA」本社に屋号の由来をファックスで訊ねてみた。
それによるとTUTAYAの現社長・増田宗昭の祖父である「TUTAYA」創業者が江戸時代から庶民に愛された「蔦屋書店」の名前にあやかって名前をつけたという返事を頂いた。
周到な返事が書いてあるそのファックスの紙面を見た時、どうやらこういう質問をするのは自分だけではないらしいということが推測できた。
幕府統制の強い江戸時代には、領主からいたるまで年貢納入システムが確立され、農民の代表が「村方三役」として年貢納入や、非キリスト教であることを証明する「宗門改め」などの責任を担い、幕府体制に「完全」に組み込まれたようにもみえる。
しかし、こうしたタテの力学が働いているなか、村人達はヨコの連帯をつくり、タテの締め付けをある程度、緩和していた。
例えば、村のヨコ連帯の表れのひとつが「講」であり、「若者組」で信仰を学んだり、大人になるための様々な知識を学んだ。
また、ユイやモヤイといった労働交換や相互扶助にもヨコの繋がりを見出すことができる。
さらに「寺小屋」という庶民教育機関が江戸時代に数多くつくられたが、幕府によって奨励されたわけでもなく、税金によって運営されているわけでもなく、教師がお上に任命されたものでもなく、自発的・自主的な「教室」であった。
寺小屋の名称は、「お寺」に檀家の子供達が集まって「読み書き」を習っていたことに由来する。
江戸時代中期以降で「商人文化」が花開きはじめると、読み書き、ソロバンが不可欠となり、これが飛躍的に発展したのである。
さて我が地元の福岡市には、博多山笠の舞台として有名な「櫛田神社」がある。
江戸後期に博多の町人たちが資金を出し合い、蔵書を寄付して櫛田神社に設立されたのが「櫛田文庫」である。
金沢文庫や足利文庫など武士階級向けの文庫は古くからあるが、町民なら誰でも利用できる日本初の民間図書館といってもよい。
1300冊もの書物が揃えるられたが、なぜ庶民向けの図書館が設立できたのか。そこには、国学を通じて福岡藩の重臣に人脈のあった同神社神職・天野恒久らの設立への奮闘があったという。
福岡藩は、藩主の意向で藩校として東学問所修猷館、西学問所甘棠(かんとう)館が相次いで開校するなど、藩内の学問熱が高まった時期だった。
さらに藩有数の国学者・青柳種信に天野は師事し、櫛田神社を配下に置いた寺社町奉行の井手勘七も水戸国学を学び、10代藩主の教育係でもあった有力者だった。
しかし「櫛田文庫」は、1818年にわずか4年で閉鎖された。その理由を示す史料は今のところみつからず、謎となっている。
ところで、「庶民向けのメディア」といえば、江戸時代を通じて発行された「瓦版(かわらばん)」が思い浮かぶ。
瓦版は、江戸時代の日本で普及していた、時事性・速報性の高いニュースを扱った印刷物をいう。
天変地異、大火、心中などに代表される、庶民の関心事を盛んに報じ、街頭で読み上げながら売り歩いたことから、「読売(讀賣」ともよばれた。
街頭での読み売りのほか、露店や絵草紙店での店頭売りがあった。
江戸時代を通じて、3文から4文の安値で購入でき、内容的には妖怪出現など、娯楽志向のガセネタも含め、仇討ち、心中、火事、刑死などの新奇な事件を街頭で読み売りした。
ところが、享保改革では特に好色物が厳重に規制され、その出版は一時危機的となるが、他方で忠孝慈善等の趣旨に沿う内容のものは積極的に奨励された。
主題としては、八百屋お七の刑死や心中事件のような「好色物」が好まれ、吉凶の予言、因果応報、神仏の奇瑞霊顕なども人気であった。
当然ながら「瓦版」には、一色刷りではあるが「絵入りもの」などが一般的で、幕末期には多く出版され、浮世絵師の歌川国芳らが描いていた。
このような庶民的メディアの拡大も、蔦屋の進展に大きな影響を与えたにちがいない。
また蔦屋重三郎が「貸本屋」を営んだ日本橋辺りには、現在の三越の前身「三井越後屋」があり、このことは蔦屋重三郎のマーケティング戦略にも大きな影響を与えたに違いない。
三井家は元々、小間物店、呉服店などを営む商家であった。
そして、中興の祖といわれる三井高利(たかとし)は、延宝元年(1673年)に、江戸本町一丁目で「越後屋三井八郎右衛門」という呉服屋を創業した。
その後、商いを拡大し、1683には、駿河町へ移転した。これが日本橋の三越の始まりである。
そして、さまざまな工夫で、「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と、1日千両を売り上げる芝居や魚河岸と肩を並べる規模へ商いを拡大していった。
三井越後屋のマーク、丸に井桁、さらにその中に三が入ったマークを使ったブランディングを積極的に行った。
丸と井桁と三は、それぞれ天地人を表していおり、暖簾(のれん)や看板、そして風呂敷、傘など、客の目に留まるあらゆるところに使っていた。
このマークは、誠実な販売とともに段々と浸透していき、特に幕府の御用達となってからは、信頼の証となっていく。
また三井越後屋は日本橋に越してきた時に、江戸中に「引き札」を配った。引札とは今で言うチラシの事で、その引き札には、「正札現金掛値なし」と書かれていて、定価、現金決済の販売方法で爆発的に売り上げを上げることができた。
また、三井越後屋のマークが入った傘を大量に準備しておき、急な雨が降ると誰にでも傘を貸していた。
「江戸中を越後屋にして虹が吹き」という川柳の通り、雨が降ると三井越後屋のマークの入った傘により、江戸中でコマーシャルが繰り広げられた。
従来の販売方法は、「屋敷売り」と呼ばれた訪問販売が中心でした。また、支払も後払いの「掛け払い」がほとんどであった。
越後屋は、「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」と言って、「対面販売」と「定価での現金取引」を始めた。
対面販売では、お客さんにお店に来てもらい現物を見せながら販売する方式を採用した。
また、現金取引にすることにより、掛け売りの取りはぐれのリスク分として上乗せしていた分を差し引く事が出来た。
我々にとって当たり前の、商品ごとに定価を設け販売するというのは、三井の越後屋が先蹤となった。
また、今でいうイージーオーダーの「仕立て売り」や、一反でなく必要な分だけ売る「切り売り」など、それまでの常識を覆すような販売方法を確立する事により、江戸の町民に大受けとなり、ますます商いの規模を拡大していった。
つまり現代の商業スタイルの多くが、三井の越後屋のマーケティングに由来していることがわかる。
江戸の代表的な浮世絵師・東洲斎写楽は1794年突然新しい役者絵を発表し1年たらずのうちに140種ほどの役者絵・相撲絵を残して忽然と消え去った謎の絵師である。
「大首絵」によって俳優の個性を印象的に表現した絵は海外も含め多くの人々を魅了している。
しかしパーツによっては稚劣とも思える表現もあり、「写楽は本当は誰だったのか」という謎について今も興味深く論じられている。
写楽の作品発表は1794年の5月から翌年の2月までおよそ10ヶ月間、作品は百数十点にものぼる。一体一人の絵師にそんな大量生産が可能であろうか。
浮世絵(錦絵)の製作は、版元の依頼によってまず絵師が原付大の版下絵をつくる。
これをそれぞれの絵師と息のあった彫師がうけて版木に糊ではりつけ、生乾きのところで紙をはがして墨線だけを残して、小刀、ノミで彫って墨線を彫り出す。
こうしてできた墨板は摺師に渡されて墨摺絵ができあがる。絵師は必要な色の枚数だけ一色ずつ彩色してまた彫師に渡す。
彫師はこれをうけて色ごとの版をつくる。摺師はそれに合わせて一色ずつ摺りだす。紙をのせて馬連でこすって摺る。こうして大体、ひとつの板で200枚ぐらいを刷るというのである。
つまり浮世絵の制作は絵師・彫師・摺師の「共同作業」であるのだ。
東洲斎写楽という人物がそれだけの人々を統括し動かすことができれば何の問題もないのだが、この人物は後にも先にも極めて短期間しか活動の形跡がない。つまり彗星のように現われ彗星のように消え去っている。
こうした人物にこれだけ多数の人々を動かすだけの人脈をつくりうるだろうか、という疑問が残る。
そこで別の人物または複数の人々が何らかの事情で「東洲斎写楽」の名を借りて制作を行った可能性も考えられる。
その候補の一人が、「蔦谷重三郎」であり、いわば「蔦谷プロダクション」のようなものが出来ていたのではなかろうか、とも推測される。
例えば、写楽の浮世絵が複数によって描かれたものとしすれば、描いた人々はけして皆がみな優れた絵師とはいえないということである。
ところで「今なぜ蔦谷重三郎か」という思いが起こるが、現在世界を魅了し、心に刺さる日本のアニメの漫画とも関係っがある。
ストーリーと視覚的な水準の高さの下地は、江戸時代に形成されたものではなかろうか。
NHKは2025年「新ジャポニズム」とよんで特集番組を組んでいる。ちなみに最初のジャポニズムは19世紀後半に、日本の浮世絵がゴッホやマネやロートレックなどの画風に影響を与えた。
「新ジャポニズム」第一回のテーマは「MANGA」でナビゲーターは蔦屋重三郎を演じた横浜流生である。
その中で、日本の漫画の特色は「解放区」にあるとして、タブーを恐れず無限にジャンルを広げ、個性豊かなキャラクターたちが紡ぐ「多様な物語」にあるとする。
戦時下のウクライナでは、女性が「進撃の巨人」の主人公を自分自身に重ね合わせていたし、同性愛がタブーとされるイスラム教徒が多数を占めるインドネシアでは、男性同士の恋愛を描いたボーイズラブが密かな人気を集めている。
時の権力者により自ら処罰をうけながらも、貸本屋業から出版へと広げ、浮世絵師を援助したり発掘したり育てたりを組織したりした蔦屋重三郎の存在を見逃せない。
彼は、作者の自由な発想を表現へと「出力」するエンタメ文化の素地を生み出し、現代「クールジャパン」に連なる文化を作り上げた立役者の一人といってよい。