最近「バズる」という言葉をよく聞くが、主にSNS上で短期間で爆発的に話題が広がり、多くの人の耳目や注目を集め、巷を席巻する現象で、「アテンション・エコノミー」を象徴する現象である。
さて、経済モデルでは、"希少性"が価値を生み出すが、インターネットの普及により情報が豊富になった今日、情報の中身よりも人々の”注目”そのものが希少資源となっている。
そこで、人々の気をひくことが何より重視され、企業や個人がこの「注目」を獲得し、それを収益化する仕組みが「アテンション・エコノミー」である。
インターネット上の広告主は、ユーザの注目を集めるためターゲティング広告、つまりユーザの興味関心に合わせて広告を表示することで、注目を集めやすくしている。
また、”インスタ映え”のする商品の開発が行われている。これは政治の世界にもあてはまり、刺激的な言葉や敵意を煽るような言葉がネット上にあふれるのも、アテンション・エコノミーの影響によるものである。
2025年7月20日の参議院選では、各政党の公約に減税や消費税廃止みられるが、そうした政党が連携して与党になった場合、国債に大きく頼らざるをえず、長期金利が水準を超えて上がっていくと、経済は足元からすくわれる。
消費税減税や廃止は社会保障費の財源を危うくするどころか、国債の暴落、長期金利上昇による「経済破綻」をもたらすというシナリオもありということだ。
つまり、物事を多様な角度からみる視点が必要なのだが、SNSを活用した選挙活動においては、エコーチェンバー(同調者が集まる)やフィルターバブル(自分の考えに沿うサイトが表示)などでよって、世界観が偏るなどの負の側面が問題視されている。
最近の「アテンションエコノミー」とは対極にあるムーブメントが起きたことがある。
経済現象というよりも社会現象だが、大正時代に起こった「民藝運動」で、日本が”当時植民地化している朝鮮”の、”非近代的”な、”日用品”という、三重の意味での「ノン・アテンション領域」に視線を向けたことから始まる。
しかもそれが一過性ではなく、今でも脈々と受け継がれ、様々な分野で広がりを見せている。
明治時代、日本全体が近代化に突き進み、西洋の物を急速に、そして大量に取り入れた。
「民藝」の提唱は日本の近代化、大量生産・大量消費の時代に対するアンチテーゼであり、近代が進むにつれて見落とされていった”日用の雑器”に目を向けたのである。
その「民藝運動の父」と呼ばれるのが、柳宗悦(やなぎ むねよし)である。
柳宗悦は、1889年東京生まれ。1910年、学習院高等科卒業の頃に武者小路実篤らがはじめた文芸雑誌「白樺」の創刊に参加し、神秘的宗教詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクに傾倒する。
柳は1913年に東京帝国大学哲学科を卒業し、このブレイクとの出会いを契機にしつつも、しだいに東洋の老荘思想や大乗仏教の教えに向けられていった。
そしてその眼差しは、宗教的真理と根を同じくする「美」の世界へと注がれていったのである。
柳は英語とドイツ語に堪能で、「白樺」がフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの特集を組んだ際、浮世絵に柳が書いた手紙を添えてロダンに送ったところ、返礼として3つのブロンズ像が送られてくる。
そしてこのブロンズ像が大きな出会いをもたらすことになる。
ソウルで美術の教師をしていた浅川伯教(のりたか)がロダンの彫刻を見せてほしいと訪ねてきたのである。
このときに浅川が手土産として持ってきたのが、韓国の「染付秋草文面取壺」で、柳はこの小さな李朝の壺を見て深い感動を覚える。
柳はそれまでも李朝のものを買ってはいたが、浅川の訪問を皮切りに生涯にわたって21回も朝鮮半島へ行って、朝鮮工芸に親しむようになった。
そして、朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、”無名の職人”が作る民衆の”日常品”の美に眼を開かれる。
かつてアメリカの情報将校であったドナルド・キーンが敵対国であった日本に連合軍の一員として来日し、憧れの日本文化の素晴らしさを日本人よりも深く愛し紹介したことを思い浮かべる。
柳宗悦は1921年に日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催し、1924年にはソウルに「朝鮮民族美術館」を開設する。
従来、美術的な見た目や産業的な価値などの観点から造形品には”序列”があった。
トップは、絵画・書・彫刻からなる美術。次に、陶芸・竹細工などのうち鑑賞を目的とする工藝美術。最下位にあったのが、日常雑器を含む上記以外の手工品すべてを指した。
無名の職人のつくった日用品に美術品としての価値を見出した柳は、「美術→工藝美術→工藝」という国によって決められた序列とは違った価値観を提言する。
「美術も工藝美術も民藝の一部であって、そこに上下関係なんてない」という柳の思いを込めて、「民衆的工藝」という言葉でよんだ。
そればかりか、民族固有の造形美に目を開かれた柳は、それを生み出した朝鮮の人々に敬愛の心を寄せ、当時植民地だった朝鮮に対する日本政府の施策を批判したのである。
同時に、李朝工芸との出合いによって開眼された柳の目は、自国日本へと向けられていく。
まず、柳の目を引きつけたものは、”木喰上人(もくじきしょうにん)”という遊行僧の手になる「木彫仏(もくちょうぶつ)」であった。
「木喰仏」と呼ばれるこの江戸時代の民間仏の発見をひとつの契機として、柳の目は民衆の伝統的生活のなかに深く注がれ、そこに息づくすぐれた工芸品の数々を発見していった。
そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させる。
柳に賛同する陶芸家と共に、それまで美の対象として顧みられることのなかった民藝品の中に、「健康な美」や「平常の美」といった大切な美の相が豊かに宿ることを発見し、そこに最も正当な工芸の発達を見たのであった。
それにしても、なぜ無名の職人のつくった「用いるための器物」がかくまで美しくなるのか。
柳はそれを「信と美」の深い結びつきの結果であるとし、これもまた、凡夫(ぼんぷ)も救いからもらさぬ仏の力、すなわち「他力」宗の説く阿弥陀仏の本願の力の恩恵に他ならないと解したのである。
つまり「民藝」は、柳が生涯をかけて構築した、仏教思想に基づく新しい美学の集大成であり、柳自身の美的体験に深く根ざすものであった。
1936年「日本民藝館」が開設されると初代館長に就任。晩年には仏教の他力本願の思想に基づく独創的な仏教美学を提唱し、1957年には文化功労者に選ばれているなどし、1961年、72年の生涯を閉じた。
柳宗悦が、朝鮮の民藝を発見したのは、前述のように浅川伯教との出会いがきっかけである。
また伯教の弟である浅川巧もまた「民藝運動」の功労者と位置付けられている。
浅川巧は、山梨県立農林学校(現在の県立農林高校)を出た後に、秋田県の大館の営林署で働き始める。
その後、兄の伯教が朝鮮に渡り、巧もその翌年に朝鮮に渡って、朝鮮総督府の山林課に職を得る。
そして、林業試験場で朝鮮在来の樹木や移入樹木の試験・調査をはじめる。
当時の朝鮮半島の山林は荒廃が進んでおり、禿山の緑化推進は重要な課題であった。
浅川はチョウセンカラマツの養苗に成功したのをはじめ、数々の調査成果を挙げていくが、日本の技術を移植するのではなく、朝鮮にもともとある在来の品種や方法を考究していく。
その朝鮮本来のものを大切にしようとする姿勢は、彼の民芸への愛情と通底するものであった。
浅川巧は、兄の伯教と民芸運動の推進者である柳宗悦とともに、1924年に京城の景福宮内に「朝鮮民族美術館」を設立する。
ちなみに、柳の朝鮮美術や民芸品への傾倒、そしてこの美術館の設立には、京城の浅川の家で見た朝鮮の工芸品や陶磁器との出会いが、大きな動機づけとなっている。
柳と浅川は、1924年1月に甲府の小宮山清三宅で「木喰仏」と出会った際にも同行しており、浅川は柳を中心とした木喰仏の再評価に深く関わっている。
柳は浅川について「朝鮮民族美術館の彼の努力に負ふ所が甚大である」としており、浅川がこの美術館設立のなかで、最も重要な存在だったことを示している。
柳の朝鮮美術の紹介や民芸運動に大きな影響を与えた浅川巧は、生涯に「朝鮮の膳」(1929年)と「朝鮮陶磁名考」(1931年)が単行本として刊行されており、浅川の民芸(工芸)に対する考え方を次のように述べている。
「正しき工藝品は親切な使用者の手によって次第にその特質の美を発揮するもので、使用者は或意味での仕上工とも言ひ得る。器物から言ふと自身働くことによって次第にその品格を増すことになる」。
さらに、「朝鮮の膳は淳美端正の姿を有(たも)ちながらよく吾人の日常生活に親しく仕へ、年と共に雅味を増すのだから正しき工藝の代表とも称すべきものである」と述べている。
また、兄の伯教が彫刻「木履の人」で帝展入選を果たした際に、「朝鮮人と内地人との親善は政治や政略では駄目だ。矢張り彼の芸術我の芸術で有無相通ずるのでなくては駄目だと思ひました」と、相互の芸術理解の重要さを述べている。
こうした点は今日、日韓の政治対立をよそに、文化交流がドラマやポップスやアニメなどを通じて深まっていることを思い起こさせる。
浅川巧は1931年に肺炎で急逝するが、「韓国の山と民芸を愛した日本人」として現地の人々に愛され、葬儀の際には浅川の棺を担ぐ希望者であふれた。
ソウル市忘憂里にあるその墓には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれている。
我が幼少の頃より、NHKの番組「きょうの料理」に土井勝という料理研究家が出演していた。
温厚で丁寧な語り口からは想像できない体験の持ち主で、「アンパンマン」制作者のやなせたかしと重なる面がある。
土井勝は若き日に、100mのアスリートとしてオリンピック候補にもなったが、戦争による中止などで出場を断念している。
海軍にはいって最前線で戦うことを希望したが、後に全員が玉砕する部隊から、二度までも直前の配属変更によりはずされ、結果的に生き残ることになった。
そのことが、土井勝の人生に大きな影響を与える。
料理への関わりは、海軍主計学校で軍人たの食事を研究したことであるが、料理研究家になった後は、「おふくろの味」を探求している。
戦中戦後の食糧難をはさんで失われつつあった家庭料理の伝統を、人々の”おふくろ代わり”として伝えていく。
見ばえの良く品数の多いプロの料理でなく、いろんな種類の具がどっさり入った味噌汁のように煮物の役割も果たし、品数が少なくとも十分ご飯が食べられて栄養も満たされる優れた「日本のおかず」の知恵を追及して教えていく。
その根底には、女手ひとつで四人の子供を抱える多忙の中、食べる楽しさをあれこれ工夫しながら手際よく作ってくれた母土井ナヲのおいしい手料理への想いがあった。
そんな土井勝の次男が料理研究家の土井善晴で、父親の後をつぐように「料理番組」に出演されている。
善晴は若い頃は、有名料亭で修業し、美しさを求めて料理することが仕事だった。つまり飾り気がなく素朴な民藝とは正反対の世界だった。
ところが、家庭料理を主題とするTV番組に出演することになり、その方向性を思い悩んだ。
そんな善晴の料理観を変えたのが「民藝」との出会いで、「家庭料理は民藝だ」とまで述べている。
善晴が30歳にさしかかる頃、柳宗悦と共に「民藝運動」を主導した陶芸家の河井寛次郎の記念館(京都市)を訪ね、家庭料理に対する見方が覆されたという。
そこで「民藝」という人間の暮らしにはこんなにも美しいものがあり、人が一生懸命生活するところに、美しいものが生まれるということを発見する。
手仕事のぬくもりのある器の数々。黙々と土に向き合う職人の手による、美しさや出来栄えを競わないものがあり、日々の暮らしの中で気負わず自由に使われている民藝の器は、「あたりまえのおかず」にあつらえたようによく似合っていた。
派手な主張などない土色の皿。いずれも長年使い込まれており、どんな料理にでも自在に合う「用の美」をたたえていた。
土井によれば、民藝と家庭料理には共通点があるという。民藝は無署名で自己主張がない、競争がない、美醜の区別がない。
それは家庭料理も同じ。素材をただ食べられるようにすればよくて、名前はないし、おいしいとまずいの区別もない。
季節や自然と人間の交点にあるのが料理で、作って食べる営みに、器や調理用具は欠かせない。
そうした道具は、日々人に愛用され、一層の美しさが宿っていくと。
最近では、セレクトショップでも見られるようになった「民藝」。地方に行ったときに見かけるその土地ならではのお皿や、産地ごとに個性的な特徴をもつ「こけし」など、民藝にはたくさんの種類がある。
また、持続可能性も意識され、地域資源を最大限に国際的なデザインへと転換する努力が光ります。こうした流れが、ますます多様で豊かな民藝エコシステムを形成している。
例えば、日本人がまったく注目していなかった青森県の農村のツギハギでつくった野良着である「BORO」の美が、今や世界で高い評価をうけている。
東北の貧しさゆえに「恥」ともされた”ボロ着”が、そんな美しさを秘めたとは!
また、Tシャツや雑貨など、伝統的な民藝を現代風にアレンジした商品が多く登場している。
「街民藝」という形で、流行に乗るデザインと地域の文化を融合させたアイテムが増えており、特に若者たちに人気となっている。
また、「民芸的な要素」を取り入れ、プロダクトデザインに生かす動きが見られる。
日本人で唯一「フェラーリ」のデザインに関わった日産の奥山清行は、南部鉄器で知られる自身の出身地である山形での活動に力を入れており、自ら立ち上げた山形工房ブランドを中心に家具(天童木工)や照明、急須等のデザインも手掛けており、シンプルな形態を保ち素材の持ち味を活かすデザインで話題を呼んだ。
また、演劇の世界にも「民藝」の精神を受け継いだ劇団が生れ、その名も「劇団民藝」という。
「劇団民藝」は、1950年4月3日に創立。「新劇」の本流を歩んできた滝沢修、清水将夫、宇野重吉、岡倉士朗らによって「多くの人々の生きてゆく歓びと励ましになるような」民衆に根ざした演劇芸術をつくり出そうと旗あげされた。
第一回公演はチェーホフ作「かもめ」。翌51年の三「炎の人-ヴァン・ゴッホの生涯-」で滝沢修演じるゴッホが絶賛され、演劇集団としての地盤を固めた。
ところで、もともと日本人は、人目をひくことに抑制的な精神があったように思う。
かつては米一粒に神が宿るといっていた時代もあったのに、”インスタ映え”のする料理をテーブルに並べ、携帯で写真をとって食事に手をつけることもない人々も少なくない。
今時の人に「民藝に学ぼう」といっても、ネットで民藝アイテムを探すぐらいで終わってしまいそうである。それは”注目”を求めない、”競争”しない生き方であり、”無作為の美しさ”こそが核心なのだが。