少年の出会いと憧れ

映画監督の山田洋次は、1969年から96年まで『男はつらいよ』シリーズ48作を監督し、そのほかにも名作を世に送り出している。
父親は南満州鉄道の技術者で、豊かな暮らしをしていたという。
敗戦から約2年後、旧満州の大連から博多港へ引き揚げることになり、帰国後は、山口県宇部市の親戚をたよることになる。
山田は、父親には収入がなく中学3年でアルバイトをした。宇部は工業都市だったので空襲で工場一帯が破壊されており、そのがれきを一日中ふらふらになるまで片付ける仕事があった。
工場から出る石炭殻をトロッコに積んで海岸の埋め立て現場まで運んで捨てる仕事も大人に交じって行った。 それは、まだ熱い石炭殻を真っ黒になって運ぶハードな仕事である。
在日朝鮮人の「金さん」という親方がいた。優しい人でまだ子供の山田を見ると、「ヤマダ、こっちへこい」と言って楽な仕事を回してくれた。
「ヤマダ、これ、食え」と饅頭をくれ、日本人が朝鮮の人たちにしてきた差別を思うと、その優しさが心にしみた。
仕事が終わると、飯場で金さんはどんぶりにドブロクを注いで「ヤマダご苦労さん、これ飲め」という。
断れなくて顔をしかめて強い酒を飲む山田を見て、金さんや仲間がどっと笑う。
酒は嫌だったけれど、笑われながら不思議な温かい気持ちになったものである。
兄と一緒に闇物資を買いに行くこともあった。詩人の金子みすずの故郷として知られる山陰の仙崎まで3時間、汽車で行って干し魚をリュックサックいっぱいに詰めて帰る。
列車はぎゅうぎゅう詰め、機関車や連結器にも乗る人までもいて、今では考えれれないような危険な旅であった。
よく一緒になる「ハルさん」という闇屋の面白いおじさんがいて、しよっちゅう冗談を言ってみんなを笑わせていた。
子供で貧弱な山田が連結器に乗って瘦せ細った腕で取っ手に必死にしがみついている姿をみて「なんじゃ山田の格好は、サルが木の上でうんこしているじゃのう」というと、みんなが「わーっ」と笑った。
笑われている山田も笑ってしまう。すると不思議なことに力が出てくる。精神的にではなく、肉体医的にも回復する。
辛い時には笑わせてくれる人がいると、こんなにも救いになるのかと、子供心にも笑いは必要なことだと感じた。
列車に乗って、ハルさんの姿を見ると、それだけでもホッとした。彼のあとをくっついて歩き、彼が冗談を言うたびにケタケタ笑っていた。
山田が少年の日に出会った「ハルさん」像が、後に「寅さん」としてかたちをなしていった。
もうひとり、山田洋次と同じ南満州鉄道の職員を祖父にもつ野村達雄は、日本ばかりか世界を楽しませる。映画の世界ではなく、ゲームの世界において。
祖母の志津は、福井県小浜市出身で満州国に渡り、南満州鉄道職員との間に3人の子供をもうけたが、終戦間際には満洲の大地をさまよい幼い3人の子は全員亡くなった。
志津自身、瀕死の状態であったところを中国人男性に助けられていた。その男性と結婚し、二人の子供をもうけ中国東北部で暮らしていた。
郷里の福井の実家ではすでに志津の「死亡宣告書」をだしていたため、ある日手紙を出すと、受け取った親戚は驚いた。
1972年、日中国交正常化がはかられたため、「中国残留孤児」の帰国が可能となった。
翌年7月、志津の他は家族の入国許可が下りず、ひとり帰国したが、その時には子宮がんに冒されていた。
結局30年ぶりの故郷で過ごせたのはわずか1日、すぐに入院し、2か月後、息をひきとったため、中国に残した息子・風財との再会はかなわなかった。
1990年代、中国残留孤児の帰国はピークをむかえ、志津が中国に残した風財とその子・達雄も、親戚をたよって日本に移住してきた。
その時達雄は9歳で、まったく日本語は話せなかったものの、言葉抜きでゲームをする時は、中国では体験したことのない、こんな面白いものがあるのかと衝撃を受けた。
折しも、「ポケモン」が発売されていて、ポケモンゲームによって友達が増え、そのうち楽しむだけでは飽き足らずゲーム開発に向かった。
そして、ゲームの中身はパソコンでつくってあると知り、関心の比重はすっかりパソコンの方へ移っていった。
小学校5年で長野市に引っ越しして中学生になった野村は、パソコンを買うために新聞配達に励んだ。
毎朝5時から自転車に乗り、毎日80~130軒をまわった。
愛機を手に入れると、参考書を読んでプログラミングを覚え、テレビゲームを改造してみたり、携帯電話アプリの開発に挑んだりした。
パソコンを自作するようになったのは、同じスペック(性能)なら、お店で買うより3割くらい安くなったということもある。
そのうち、「材料費だけで作ってくれる高校生がいる」と長野県内の中国人コミュニティーで口コミで知られるようになり、中学・高校を通じて全部で30台近くを組み立てた。
そんな「パソコン博士」は、信州大学工学部の情報工学科に進学した。
そのうち、工学部の専門教育が始まると、自分は全然わかっていなかったということを思い知った。
学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知か思い知らされるという日々で、もっともっと知りたいという思いが募っていった。
そして東京工業大学大学院理工学研究科数理・計算科学専攻修士課程に進学し、2011年に修了した。
就職先は、グーグル株式会社(現グーグル合同会社)であった。
野村は、2015年にGoogleからNiantic, Inc.へ移籍し、ゲームクリエイターとして「ポケモンGO」の開発・運営に携わるようになる。
野村にとって小学校時代に体験した「ポケモンゲーム」は最高に楽しい思いでであった。
それはゲームそのものの楽しみばかりではなく、それによって友人と繋がることができたためでもあった。
「ポケモンGO」は、自然に「人と人とが繋がる」場を生みだすゲームで、野村の少年の日の体験が生み出したゲームだっといえる。

シュリーマンは、ドイツの考古学者として知られている。彼は幼い頃、古代ギリシアの詩人ホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイア』という叙事詩に出会う。
父親から、この二つの作品に描かれたトロイア戦争についてよく聞かされていた。そのことから、シュリーマンは「トロイア戦争は実際にあった」「トロイアの古代都市は必ずあるはずだ」と信じ続け、自らの商売で財を成していくようになる。
そして、齢50に達してから、商売で作った資金をもとに、トロイアの遺跡発掘を成し遂げた。
シュリーマンは、ホメーロスの熱い情熱に感化され、古代への憧れを持ち、歴史、地理、言語を学び続けた。
遺跡発掘の資金を稼ぐために商売をしている間も、考古学の研究者となってからも、その三本柱の勉強を続け、幼い頃から憧れ続けたトロイアの遺跡発掘という大事業を企画し、実現したのである。
さて日本にもシュリーマンと同じく、「少年の日の憧れ」を実現した人がいる。憧れた考古学者は、ハワード・カーターである。
エジプト考古学で有名な吉田作治は、1943年東京都新宿区生まれで、両親は手描き友禅染の職人で和服製作と販売する店を経営していた。
自宅には妹一人を含む家族と共に、内弟子も生活していたという。
両親は母親の方が圧倒的に強く、父親が逆らったことは見たことがなかったそうで、小学生の時はいじめられっ子で図書室に逃げ込む毎日だった。
いじめ自体は克服をすることはできなかったが、いじめっ子は図書室までは追いかけてくることはなく、自分の世界がそこにあったことが救いとなった。
先生の勧めで、小学校4年生の時に『ツタンカーメン王のひみつ』という考古学者のハワード・カーターの伝記を読み、古代エジプト遺跡の魅力とその発掘にかけるロマンに惹きつけられた。
そして小学生にして、「将来はエジプトで発掘をする」ことを決意した。
山田にとってそれ以降はすべて、エジプトに行くための準備期間であったといえる。
小学校の先生に「エジプトに行きたい」と話しをすると、 「君が大学に入るころには、エジプトへ行けるかもしれないから、いい大学へ行き、考古学者になればいい」とアドバイスをうけた。
そして、少しでもいい大学に入るための受験先を決め、超難関の東京学芸大学大泉付属中学校に進学した。
職人の両親は高等小学校しか出てなく学校のことはわからず、吉村が「エジプトへ行きたい」と言っても「いつ行くの?」「いくらかかるの?」としか聞かずに、否定することはなく、吉村の意志を尊重してくれた。
吉村は、高校時代すでに将来エジプトに行くためのこと第一に考えて学生生活を送った。
エジプトでヒッチハイクをした時にのことを考えて、アラビア語と中国語を勉強。部活は身体を鍛えるために山岳部に入部。自分の意思を伝えるためにはゼスチャーも必要だと思い、演劇部にも入りパンマイマイムをやっていた。
しかし東京大学入学を目指し受験したが不合格。駿台予備校に入り、3年間浪人したものの4回とも東大に落ちてしまい、その結果、早稲田大学文学部史学科に入った。
しかしエジプト考古学の研究部門はなく、それならば自分でつくろうと、それまでは日本になかったエジプト考古学部を作り、日本におけるエジプト考古学の第一人者として活躍するようになる。
1968年にエジプト・カイロ大学に留学し、69年に大学卒業後、早稲田大学エジプト調査隊として初の本格調査をルクソール西岸のマルカタ南遺跡で開始する。
1974年、31歳の時にはエジプト・ルクソール西岸マルカタ南地区でアメンホテップ3世の祭殿「魚の丘遺跡」を発見し一躍注目を集めた。
2001年には世界2例目となる「クフ王の銘が入った彫像」を発見した後、さらに1体を発見。その後もミイラは200体発見している。
現在81歳、いまだ発見されていないエジプト最大のピラミッドがあるクフ王の墓が発見されていないので、その発見に賭けているという。
発掘作業が続くクフ王のピラミッドの西側にある空白地帯。吉村先生は、手つかずだったこのエリアの発掘を長年希望し、ようやく許可を得て2023年12月に調査を開始した。
病気との戦いながら発掘で、現在も「夢の途中」といったところである。

三浦彩音は、小学校6年生の時、母親が韓国ドラマにハマっていた影響で一緒に韓国ドラマを見るようになった。
韓国で2007年放送のドラマ「ハロー!お嬢さん」に出演していた俳優イ・ジフンを知った。
韓国ドラマを見るうちに韓国文化に興味を持つようになった彩音は、韓国語の勉強を始め、高校2年生の時に、韓国語能力試験(TOPIK)の最上級である6級に合格するほどのレベルになっていた。
彩音はジフンに会うために、母親と一緒にファンミーティングにも参加したが、当然のことながら遠くから眺めることしかできなかった。
しかし、彩音のジフンへの想いは冷めることなく、韓国語ばかりではなく、韓国の芸能情報にも精通するようになった。
卒業後は韓国語の通訳を目指し、名門の延世大学に合格することができ、晴れて韓国での生活をスタートさせた。
そして大学を卒業後は、フリーランスの通訳・翻訳者として韓国で働くことを決意した。
韓国人アイドルの通訳の仕事に就くなどしたため、ジフンとは別の韓国人アイドルに心を奪われてしまった時期もあった。
しかし、楽屋裏でのアイドルの素顔を知るにつれて、憧れの気持ちは薄れていった。
そんな折、実家に帰省した際に母親に誘われてジフン主演のミュージカルを観劇し、再びジフンに夢中になった。
そして、ある日、仕事で知り合った飲み仲間に誘われて、ジフンのディナーショーに行くことになる。
そして、彼ら(スタッフ)とジフンも参加する打ち上げに誘われることになり、ジフンとは遠く離れた席であったが、友人のおかげで挨拶をすることができた。
そして予想しなかったハプニングが起きた。
一次会で一人だけ帰ろうとした帰り道のこと、たまたま通りかかったジフンが車で送ってくれることになったのである。
そればかりか、ジフンさから「またみんなでご飯行こう」と誘われ、グループトークにも追加された。
彩音はジフンに連絡しようか迷ったが、結局送らずにいたところ、ディナーショーに誘ってくれた先輩に後押しされ、数日後にジフンに連絡してみた。
そして、食事に行く約束を取り付けたものの、約束の当日、ジフンは現れなかった。
その後、ミュージカルに招待したり、食事に誘ったりしたが、ジフンの体調不良などで実現には至らなかった。
結局、「またみんなでご飯行こう」というのも社交辞令だったかという思いが強くなった。
実は、ジフンの方には、ある苦い体験はあった。
30代になった頃、教会で出会った大学で英語教師をするエリート女性と真剣交際を始め、結婚も考えていた。
しかし彼女が家族に会わせようとしないことを不審に思ったジフンが彼女の勤務先や住所を調べたところ、全て嘘だったことが発覚し、深く傷つき女性不信に陥っていたのだ。
そんなことから、ジフンは彩音に会うことに、慎重な想いを抱いていたという。
彩音は、一度ならず三度までもジフンから会う約束を断られることになって、ジフンと付き合いたいという思いからならば諦めるが、当時彩音がジフンに会いたかったのは、「自分の人生がジフンにより変わったことへの感謝を直接伝えたい」という一心であった。
「ジフンは自分に会いたくないのかな?」と不安になるが、先輩の励ましもあり、もう一度だけ連絡してみることにした。
そして食事に行くことになったのだが、約束の前日に、約束の店が新型コロナウイルスの感染源となってしまい、再び会うことは叶わなかった。
4ヶ月後、彩音はダメ元でジフンにメッセージを送り、何度かやり取りをする中で、ジフンは約束を破ってしまった理由を正直にうちあけ、謝罪したという。
そして先輩からのアドバイスもあり、地味な服装で、メイクも控えめにして出かけた。
その姿を見たジフンは後に、「何ヶ月ぶりに見た彩音さんの姿は別人でした。ほとんど化粧もしないで、本当の本人の姿。それは私の理想のタイプで、その日は完璧だったんです」と振り返っている。
二人は長い時間語り合い、頻繁に会うようになり、交際に発展しした。
「先輩ジフン・ファン」の母親からすれば、娘からの電話の報告に「あなたはいったい何をいっているの」という青天の霹靂プラス驚天動地の出来事だった。
つき合って300日目、彩音から婚姻届を渡され、ジフンもプロポーズする。2021年に二人は晴れて結婚した。
いちファンの「推し活」から始まった恋が、国境を越え、年齢差14歳をこえた愛へと発展した感動的な物語となった。