歴史上人物との接点あり

ニュースキャスターの筑紫哲也(1935年~2008年)は、早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業し、1959年に朝日新聞に入社する。
朝日ジャーナル編集長や、TBSレビ「筑紫哲也NEWS23」を長年務めるなど、日本のジャーナリズムを代表する人物であった。
筑紫は、大分県日田郡小野村(現在日田市)で生まれた。また動物学者の畑正憲は福岡市生まれだが、父親が満州から帰還後、父親の実家のある日田で少年時代を送っている。筑紫と畑は同年代なので、日田を同時期に過ごしたことになる。
日田といえば、儒学者広瀬淡窓を生んだ地であるが、筑紫家は江戸時代より続く医師の家系で、筑紫の叔父が跡を継いだものの軍医となり戦死したため、小野村唯一の医家としての断絶でもあった。
筑紫哲也の系図は、音楽家・画家・小説家と芸術性の高い血統である。そのせいか、音楽への造詣は小沢征爾などプロをもうならせたという。
父・和臣は東京電力の前身会社に勤務し、筑紫は4人弟妹の長子であり、父方の祖母は作家・田中小実昌の母親の姉である。
田中小実昌といえば、毛糸の帽子をかぶり、サンダル履きというラフな格好を好み「コミさん」の愛称で親しまれてきた。
すっとんきょうな表情で深夜番組「11PM」をはじめとして、テレビドラマ、映画、などでも活躍した。
田中は1925年、東京千駄ケ谷町の生まれで、牧師だった父親が北九州市の西南女学院シオン山教会の牧師となったため4歳のとき、一家は広島の呉市に移住した。
この父の姿を描いた作品「ポロポロ」が谷崎潤一郎を受賞している。
1938年、福岡市内の西南学院中等部に入学し1年の2学期から寄宿舎生活を送った。神学部寮には、西南学院高等部の学生だった川上宗薫もいた。
田中は、母親の意向で広島の実家の近くの県立呉第一中学(現・三津田高校)に転校し卒業したが、その後、ふたたび福岡に戻り旧制福岡高校に進学した。
1944年、満19歳で徴兵検査を受け、山口県の連隊に入営した。田中の部隊は九州博多港から軍用船で釜山に渡り、鉄道で南満洲を抜けて南京に駐屯し各地を転戦、敗戦直前にアメーバ赤痢の疑いで湖北省咸寧にあった旅団本部の野戦病院に移送となり、そこで敗戦の報を知った。
田中はこの部隊での体験を、小説「北川はぼくに」の中に書いている。その印象的な箇所を紹介すると次のとおりである。
「僕が初任兵として中国に駐屯していた時、北川というまじめで物静かな男がいた。北川は戦地では敵を一度も撃ったことがなかったのだが、終戦のその日、近寄る人影にたった一発だけ銃を撃ったところ、そこに日本兵の死体がころがっていたのだ。僕も北川も死んだ日本兵も皆初任兵だった。北川は或る時僕にその出来事をうちあけたのだ。僕は北川に、死んだのが日本兵だと知っていやな思いをしたのか、とは聞かなかった。聞いても仕方のないことだ。僕は戦争が終わったことに、どんな思い入れもいかなる感慨もおきなかった、繰り返していうが絶対に起きなかった。
それでも僕はいつしか、撃った初任兵も撃たれた初任兵をも、まるで僕自身であるかのような思い入れでこの話を物語るようになっていたのだ」。
嘉穂町出身で日本を代表する画家の野見山暁治(のみやまたいじ)は田中小実昌の妻の兄(義兄)なので、筑紫哲也はいとこ甥(母の姉の孫)という関係となる。
学徒出陣の戦没者の絵を集めた「祈りの画集」は、水上勉の実子・窪山誠一郎の尽力で長野県「無言館」に展示されている。
筑紫哲也の血統でもっとも意外なのは、大分県竹田出身の作曲家・瀧廉太郎は、大伯父(滝の妹・トミが筑紫の母方の祖母)なのだという。
なにしろJR竹田駅(豊肥本線)のは発着音が「荒城の月」なので、竹田の人々は郷土が生んだ音楽家を誇りに思っていることがうかがいしれる。
その縁から、筑紫は1993年から、竹田市にある「瀧廉太郎記念館」の名誉館長を務めていた。
筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、私が『瀧廉太郎の親戚』であるということを非常に戸惑っていた」と述懐している。
前述の野見山は晩年、福岡県糸島郡志摩町にアトリエを持ち、2002年、92歳でなくなった。
それにしても筑紫哲也の系統は何か一貫したものを感じるが、それは、異なるジャンルにおける「反戦」の表現者であったという点である。

俳優の丹波哲郎の系図は、あの226事件の首謀者・北一輝(きたいっき)に連なる。
北一輝は、1883年、佐渡の荒波せまる貧しい酒造家の生まれた。「日本改造法案大綱」(1919年)の中で、「戦時社会主義」という体制を構想し、多くの陸軍将校の「教祖的」存在となった。
しかしその「教祖」の実態は、一般の孤高・清貧といったイメージとは相当かけ離れていたようだ。
北の軍人や右翼に対する影響力は絶大で、「テロに怯えていた」財閥より生活費をうけ、堂々たる邸宅にすみ、妻子三人に女中三人、運転手付き自動車一台の豪華な生活を営み、「愛国者」を自称し維新の志士を気取り日々饗宴を繰り返していたという。
そしてこの「魔王」の影響力は、「昭和の妖怪」岸信介つまり安倍首相の祖父にまで及んだ。
226事件で決起した青年将校は、赤坂の山王ホテルにたてこもるが、天皇からの返答は非情というより悲劇的といってよかった。
天皇自ら「近衛兵団をひきいてこの乱を鎮圧せん」というほどに激しく、彼らを「反乱軍」と位置づけたのである。
天皇への「至上の思い」を抱いていた青年将校らはすっかり「行き場」を失い、鎮圧軍にあっさりと降伏す他はなかった。
そしてまもなく彼らとそのイデオローグ北一輝は、反乱軍の首謀者とともに、現在の渋谷NHKのある場所にあった刑場の露と化すのである。
刑場のあったあたり201スタジオには、亡霊がでるという噂がある。
さて北一輝の実弟にあたるのが、多摩美術大学の創立者学長をつとめた北昤吉(きたれいきち/1885年~1961年)である。
高等小学校入学と同時に漢学塾に通い、新潟県立佐渡中学校(新制:佐渡高校)に入学したが、兄と同学年になることを嫌った父親の命令で中学入学が遅れ、希望していた陸軍幼年学校進学を年齢制限により絶たれたという。
早稲田大学政治経済学部に入学するも、1年で哲学科に移り、予科卒業時には首席となり各科総代を務めたというほどの秀才だった。
1908年大学卒業後、兄輝次郎方(北一輝の本名)より分家し、茨城県立土浦中学校に勤めた。その翌年結婚し、1913年早稲田大学講師となった。
またこのころより大正デモクラシーの旗手として論壇に登場し、「民本主義」の学問的根拠、政治学のあり方をめぐって吉野作造と論争するなどした。
1917年ごろ、霊感の強い兄一輝の知り合いで、催眠術者の古屋鉄石の試験台をしていた永福という行者を知り、自宅に招いて柳田国男らと催眠術の研究をした。
その後、米国ハーバード大学で1年学んだのち、英国、フランス、スイス、イタリアを経て、1920年春にドイツに入り、1921年より1年7か月ハイデルベルクで暮らし、合わせて、4年半近く欧米に留学したことになる。
1923年帰朝以来、大東文化学院(現在の大東文化大学)教授を務めた。
兄の一輝とは1925年を最後に、逮捕後に面会するまで十年以上没交渉となったという。
1923年12月27日の虎の門事件(天皇暗殺未遂)の翌日に、弁護士小川平吉(警視総監斎藤樹の義父、宮澤喜一の祖父)が発起した「青天会」に参加し、また小川と共に「日本新聞」を主宰した。
1929年早稲田大学時代の教え子であった「金原省吾」らに請われて「帝国美術学校」(現在の武蔵野美術大学)の創立者兼初代校長となるが、 1935年学校の運営と移転問題をめぐって学生と対立し、学生のストライキ事件(同盟休校事件)を機として学校は分裂することになる。
そのため新たに多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)を創設し、多摩帝国美術学校名誉校長を務めた。
226事件直前の第19回衆議院議員総選挙で無所属で当選し、政治家へと転身。当選後立憲民政党に入党。戦後、自由党の結成に尽力した。
ところで俳優の丹波哲郎の妻は北一輝・玲吉兄弟のいとこの娘にあたる。
丹波哲郎は、大久保町字百人町にて丹波家の三男として生誕。テレビ番組でも活躍し、映画製作にも携わった。
丹波プロダクション・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけ、俳優の宮内洋は丹波の一番弟子である。
心霊学と霊界の研究、多数の書籍を著しており、「丹波哲郎の大霊界」はベステセラーになった1989年に映画化されてヒットした。
丹波家の系図を遡ると、天平の昔から伝わる薬師の名家で、『医心方』を著した丹波康頼にたどり着く。
丹波哲郎は成城中学から陸軍幼年学校を受験するも落第し、仙台の二高を二度受験するも不合格。親戚の林頼三郎が総長を務める中央大学法学部英法科へ無試験で入学したという。
在学中に学徒出陣し佐倉の東部64部隊に入隊、しかし態度が大きいという理由で普通の3倍程の体罰を受けることもあった。
立川陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受け、上官には川上哲治がいたという。
航空隊に在籍していたために特攻隊員になる可能性もあったが、立川で終戦を迎えた。
戦後1945年大学に復学し、学業の傍らGHQの通訳のアルバイトをしていたが、実際には英語は半分程度しか理解できず、トイレに逃げ込み、仕事の終わる時間を待っていたこともあった。
1948年に大学を卒業。卒業後は公団職員となり1949年に結婚。その翌年俳優を志し、創芸小劇場主宰を経て劇団文化座に加入後、1951年春勧誘されていた「新東宝」に入社した。
丹波の態度が大きいことが問題とされ、1年以上役が付かないでいたが、1952年に骨折した俳優にかわり『殺人容疑者』に主演級の役でデビューする。
1968年から73年まで放映されていた「キーハンター』では黒木哲也役で主演した。黒木のイメージは「007は二度死ぬ』(1990年)で丹波が演じた、タイガー田中の人物像も反映させている。
晩年は死後の世界を探求しその成果が映画化もされたが、2006年9月、肺炎のため東京都三鷹市の病院で84歳で死去している。

内閣総理大臣・石破茂は、日本プロテスタント三大源流のひとつ「熊本バンド」のリーダー格の人物と血がつながっている。
JR熊本駅の北側に熊本バンドにとって記念すべき花岡山がある。花岡山は、標高45m程度の丘であるが、ここから見る熊本市の夜景がとても美しく市民に愛されている。
1871年に熊本藩立の熊本洋学校が設立され、この学校に招かれたアメリカ人教師L.L.ジェーンズの信仰と情熱が学生達を動かし、多数の入信者を産んだ。
ジェーンズの教育方針は、道義的国家の確立のために、神の信仰に生きる自主的な個人を形成することにあった。こうした教育観が、士族の子として生まれながら、藩制解体で忠誠の対象を失った青年達に、新しい目標を与えたのである。
1876年、洋学校の生徒35名は熊本城外の花岡山で集会をして、「奉教趣意書」に誓約した。こうした誓約によって結ばれた人々を熊本バンドと称した。
これに加盟した人々のなかには、本山村に在住していた金森通倫や、柳川出身の海老名弾正などがいた。
金森通倫(かなもりみちとも/1857年~1945年)は、プロテスタント系の牧師で、晩年は湘南の嶺山に隠居、原始的な洞窟生活をして「今仙人」といわれた。
金森は肥後国玉名郡小天村(現在の熊本県玉名市)に郷士・金森繁蔵の次男として生まれた。その後、一家は、熊本市に移り住んでいる。
同年8月、熊本洋学校卒業後、同志社入学、新島襄より受洗して1879年6月、同志社神学科を卒業し、1880年10月、日本組合基督教会岡山教会牧師となった。
政治にも関心を寄せ1885年、自由党入党し、『自由新聞』主筆となり、神戸女学院の卒業生と結婚している。
1927年3月、ホーリネス教会入会し、中田重治が教会をあげて協力する。「東京聖書学院」の名誉教授に迎えられた。
1945年3月4日、福島県郡山市で死去、墓は東京都府中市の多磨霊園にある。
金森通倫は、石破茂の母方の曾祖父にあたる人物である。
石破茂は、東京都千代田区にて生まれた。父・二朗は茂の出生時に48歳である。
1958年に父・二朗が鳥取県知事に就任したため、鳥取県へ転居。中学校卒業まで鳥取県八頭郡郡家町(現:八頭町郡家)で育つ。そのため茂は幼少期の東京での記憶がない。
母はかつて国語の教員だったこともあり、教育熱心な人物だった。小学校の頃は毎晩1時間程度、偉人伝の朗読をさせられたという。
鳥取大学教育学部附属小学校、鳥取大学教育学部附属中学校を経て、慶應義塾高等学校に進学。
1979年、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業、2年生のとき、全日本学生法律討論会で1位になったこともある。
三井銀行(現・三井住友銀行)に入行するが、入行に関して、三井信託銀行社長を務めた鳥取県出身の土井正三郎は、「昭和五十三年初夏の頃石破(二朗)さんから令息・茂君の就職について相談を受けたことがありました。令息の学業、クラブ活動の成績等は極めて優秀、希望通り採用内定し、その通知を受けられた、ご両親のご安堵の程が察せられたことを想起しています」と述べている。
1981年9月、父・二朗が死去。父の死後、二朗の友人であった田中角栄元首相から「おまえが(おやじの後に)出ろ」と薦められ、政界入りを決断した。
1983年、三井銀行を退職し、田中角栄が領袖の木曜クラブ事務局に勤務する。
1986年、衆議院議員総選挙に自由民主党公認で鳥取県全県区から出馬し、得票数は最下位ながら4位で初当選した。
当時29歳で、全国最年少の国会議員であった。
1990年の衆院選挙では鳥取県全県区でトップ当選し、衆議院農林水産委員会理事に就任。1992年、宮澤改造内閣で農林水産政務次官つとめている。
その後、郵政大臣や防衛大臣を歴任し、2024年11月内閣総理大臣に就任した。
石破茂は、石橋湛山首相の所信表明演説の言葉を二度引用して話題となった。
引用された箇所は、「民主主義のあるべき姿」、「日本は世界とともに歩まなければならない、一部の利益ではなく国民全体の福祉のために論議を尽くす」という至極まっとうな言葉である。
個人的には石破首相のイメージ、清廉さや実直さや学識など、香川県出身の大平正芳首相を思い出す。
大平正芳もクリスチャン首相として知られていたが、大平を信仰に目覚めさせたのが、高松高商時代に聞いた工学博士・佐藤定吉の公演である。
佐藤は学生団体をつくって科学を通してみたキリスト教の伝道を行っていた。その佐藤は、熊本バンド出身の海老名弾正の講演会で信仰に目覚め、海老名より本郷弓町教会で受洗している。
2025年2月日米首脳会談に臨んで、石破首相はトランプ大統領とは性格的には対照的だが、キリスト教カルビン派(長老派)のトランプ大統領と、比較的近い信仰が友好の一助となりうるか。