長く日本の植民地とされた韓国は、独立後は映画・音楽・漫画等いわゆる日本大衆文化を規制してきた。
やがて反日から克日へ政府の姿勢の転換,日韓国交正常化による経済関係の進展、実際には国内に流通して人気の日本の漫画や音楽等、日本大衆文化解禁の気運は次第に高まったが、開放が実現したのは1998年金大中政権においてである。
第44回NHK紅白歌合戦でいしだあゆみが「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌った。
当時は朴正煕政権の時代、日本の歌謡曲は公式には韓国で解禁されていなかったが、「ブルー・ライト・ヨコハマ」は海賊版を通じて若者たちの間で急速に広まった。
ソウルの繁華街の音楽喫茶では、リクエストが殺到するほどの人気で、当時DJをしていた韓国人女性によると、「おそらく韓国で初めて大ヒットした日本の歌ではないか」とのこと。
夜の街では「ヨコハマの歌」として親しまれ、多くの人が口ずさむようになった。
そのメロディーは、どこか懐かしく、異国情緒あふれる横浜の情景を彷彿とさせる。
当時、海外旅行が容易ではなかった韓国の人々にとって、この曲は憧れの象徴でもあった。
また、いしだあゆみの歌声も、韓国の人々の心に響くものがあったようだ。
韓国の音楽評論家は、「彼女の歌声は、優しく包み込むような温かさがあり、韓国の情緒にも通じるものがあった」と分析している。
韓国で軍事政権が終わり、金大中大統領時代から日本の歌謡曲が解禁となり、五輪真弓の「恋人よ」が韓国でヒットし、中山美穂「世界中の誰よりきっと」、中島美嘉「雪の華」、尾崎豊「I LOVE You」などが韓国人歌手のカバーによって大ヒットしている。
ちなみに、五輪真弓の「恋人よ」の韓国バージョンは「別れた後に」、中山美穂の「世界中の誰よりきっと」は、「愛のばか」というタイトルでカバーされ、「雪の華」は男性歌手のカバーでヒットした。
1988年のソウルオリンピックを控えた80年代は、日韓の音楽交流が盛んに行われた時代であった。
また、2002年サッカー・ワールドカップの日韓同時開催や韓国ドラマ「冬のソナタ」が2003年日本で大ヒットし、歌謡曲のみならず大衆文化が急速に両国の政治的な壁を越えていった。
2001年紅白歌合戦でキム・ヨンジャが「イムジン河」を歌った。「イムジン河」がたどった運命を知るものには感無量のことであったであろう。
北朝鮮と韓国の軍事境界線をまたいで流れる実在の川を題材にとったこの歌は、南北に分断された人たちの悲しみを描いた。
ところが、レコード発売が予定の”前日”に中止に追い込まれた。
しかし この歌のもつ”魂”は消されることなく、何度も生き返った。
帰国しようにも困難な在日コリアン、北朝鮮に拉致された日本人など、ふるさとから引き離され人々の心にも届いていたのだ。
この歌は、北朝鮮の"国歌"を書いた朴世永が作詞し、高宗漢が作曲した歌であったが、 この歌を”発見”し日本語訳したのは、人気の「ザ・フォーク・クルセダーズ」の松山猛であった。
クルセーダーズは「十字軍」を意味し、”天国”も登場する「帰って来たヨッパライ」がミリオンヒットとなって一躍脚光をあびていた。
そのクルセイダーズが、満を持して発売する予定の「イムジン河」が、なぜ発売中止に追い込まれたのか。
京都の鴨川のほとりに 在日コリアンの集落が出来たのは1950年代。祖国が南北に分断される一方日本では戦後復興が加速する。
京都に育ってた松山は彼らと交流をもち、身近な存在でありながら分かち合えないミゾのあることも感じていた。
当時中学2年生だった松山はそのミゾを埋めようと、先生にサッカーで交流をしたらどうか、試合申し込んでくれないかとたのんだ。
すると先生が行くより、子供が行った方が向こうも柔らぐだろうという。
松山がおそるおそる学校を訪ねると、学校側は快く試合の申し出を引き受けてくれた。
そして帰ろうとした時、聞こえてきた曲の旋律に、思わず松山の足が止まった。
意味がわからなくても、その美しい旋律は頭に残り、松山はその後、朝鮮学校の生徒から手書きの譜面をもらった。
松山は早速 辞典を頼りに翻訳してみると、分断された半島で”北に暮らす人々”が 南の祖国を思い鳥のように自由に行き来したいと願う”望郷の歌”であることがわかった。
もらった「イムジン河」の歌詞には1番しかなく ライブで歌うには短かすぎたため、松山が歌詞を書き足すことにし分断の悲しみをすくい取るように詞にしたためた。
「イムジン河 水清く とうとうと流る」「水鳥自由に むらがり飛びかうよ」。
この分断の状況が いつかなくなり一つの大河になれば、みんなが自由に人が行き来でるようになればという思いをこめたのだった。
「イムジン河」はラジオでも数回流され、瞬く間に若者の注目を集めた。
日本社会は当時、保守と革新の政治闘争が続いており、学生運動が盛んだった時代、若者たちは政治や世界の情勢に髙い関心を抱いていた。
「帰ってきたヨッパライ」で人気となったフォーク・グループが歌うこの曲を、音楽業界が放っておくはずがなかった。
ところが松山は 京都の実家で発売予定の前日に 発売中止となったというニュースに耳を疑った。
北朝鮮を支持する朝鮮総連からレコード会社に、北朝鮮の原曲の作曲者の名前がないという抗議があった。
原曲には2番も存在したことがこの時判明し、そこには 南の農地よりも北の方が豊かであるという政治的なメッセージが含まれていた。
朝鮮総連は松山の歌詞の修正も求めたこともあり、政治問題にまで発展しかねない事態となった。
そこへ突如、レコード会社が発売中止を発表、さらに放送に”自粛”ムードが広がった。
クルセイダースとしては、民謡として誰でも歌ってるというぐらいの認識だった。
特に、松山からすれば、盗作みたいな扱いをされたのは心外だった。誰も傷つける歌でもなんでもないのにと、グリープの思いは皆同じだった。
しかし、朝鮮分断の分断の深さを際立たせるかのように、その後も「イムジン河」は長く”封印”されることになる。
そもそもこの歌の原曲は北朝鮮の音楽家により作詞作曲されたものであった。そしてカン・イルスンが関わったコンサートで演奏され北朝鮮でも再び聴かれるようになった。
2000年初めて 南北首脳会談が行われ、シドニーオリンピックでは韓国と北朝鮮が統一旗を掲げた。
翌年 キム・ヨンジャは北朝鮮で行われる音楽祭に韓国人の歌手として招待された。
実は、キムヨンジャもまた 「イムジン河」を自分の歌のように 大切にしていた。というのもキム・ヨンジャも親族に分断に苦しむ者がいて、統一を願ってライブを中心に「イムジン河」を歌うようになる。
キム・ヨンジャは ハングルと日本語の歌詞で「イムジン河」を歌い、その歌声はテレビで北朝鮮全土にも放送された。
そして発売中止騒動から30年以上たった2001年、北朝鮮のコンサートから9か月後、紅白歌合戦で「イムジン河」を熱唱するに至ったのである
戦争中、広島を舞台に様々な困難を乗り越えていく浦野すずの姿を描いたアニメ映画『この世界の片隅に』(2016年)の主題歌は、コトリンゴが歌う『悲しくてやりきれない』であった。
実は、この「悲しくてやりきれない」という曲は、「イムジン河」が発売停止になるに及んで、クルセイダーズのメンバーが、自分たちの思いを込め代わりの歌を作ったのである。
1968年にリリースされ、25万枚の大ヒットとなった。
「イムジン河」の発売中止の口惜しさをそのまま表現した歌だったというのは間違いのないことなのだが、ただそれだけではこの曲に込められた人々の思いを半分しか表現していない。
「悲しくて悲しくてとてもやりきれないこのやるせないモヤモヤをだれかに告げようか」。
この歌を作詞した人物は、原爆と深い関わりがあった。
戦争によって大切な人やかけがえのないものを失ったり、人生を狂わされたりした、そんなやりきれなさ、「やるせないモヤモヤ」を歌った歌詞なのである。
この詞を書いたのは、詩人のサトウハチロー。歌の作詞も手掛け、戦後最初のヒット曲といわれる「リンゴの唄」や、「ちいさい秋みつけた」など、数々の童謡の作詞者としても知られてる。
まだ戦争の傷跡が生々しく残る1949年に、サトウはある本に出逢う。
長崎の原爆で妻を亡くし、自らも被爆して重傷を負いながら、被爆者の治療に全力を尽くした医師・永井隆の手記「長崎の鐘」である。
サトウはこの本に感動し歌にしようと決意し、この曲が生まれたのである。
古関裕而が作曲し、藤山一郎が歌った「長崎の鐘」は人々の胸を打ち、大ヒットした。
サトウがなぜそれほどまでに「長崎の鐘」に力を注いだかというと、実はサトウ自身も、広島の原爆で弟を亡くしていたからだ。
サトウは広島へ行き弟を探したが、亡骸(なきがら)はおろか遺品を見つけることすらできなかった。「晴れた青空を悲しと思うせつなさよ」。
『長崎の鐘』の詞には、そんなやるせなさ、せつなさ、原爆・戦争に対する怒りが込められていた。
それからおよそ20年が経った1968年、サトウ宅に、普段から懇意にしている音楽出版社の社長が訪ねてきた。
その横には、長髪の若者が一人。「サトウさん、彼のいるグループ、新曲が出せなくなってしまったんです。新しい曲を持ってきたので、ちょっと詞を書いてもらえませんか?」。
その若者とは、加藤和彦で、当時まだ20歳であった。
加藤もまた「やるせないモヤモヤ」を抱えていたのである。
加藤のここに至る時間を少し戻すと、音楽出版社の社長から、新しいオリジナル曲を書くよう言われた。
社長室に缶詰にされ、加藤和彦がわずか3時間で書き上げた。
その場では特に打ち合わせをすることもなく、挨拶程度でサトウ宅を後にした。
1週間後、サトウから送られてきた歌詞を見て加藤は驚いた。「エ、こんな詞でいいの?」。
その詞は、自然の風景を眺め、ただ嘆きだけを綴ったものだったからである。
ところが実際に歌ってみると、曲にぴったりとはまっている上に、不思議と心に沁みる。
加藤は「これがプロの詞か」と、思わず唸った。
一方、サトウも、曲を聴いて、加藤の才能を見抜いていた。
「この曲には、聴く人に希望を感じさせる何かがある」と感じたからで、直接的な励ましの言葉を、一切入れなかった。
広島で弟を探したときの「やるせないモヤモヤ」「もえたぎる苦しさ」そそんな嘆きの言葉を並べても、この若者の書いた曲に乗れば、本当の思いは伝わるはずだと確信していた。
後世に残る名曲「悲しくてやきりきれない」は、こうして誕生したのである。
日本で大ヒットした「釜山港へ帰れ」という楽曲は、韓国のシンガーソングライター、チョー・ヨンピル(趙容弼)によって歌われた。
原作の作詞・作曲を担当した黄善雨(ファン・ソンウ)は、自身の失恋体験をもとに歌詞を作成しのだが、チョーが再レコーディングに際して新たに歌った歌詞には、1975年に始まった在日朝鮮人の祖国墓参運動を意識し、釜山港で見かけた人々への思いが反映されていた。
つまり、この曲は時々に歌詞が修正され、長い雌伏の時を経て飛び出した曲なのである。
日本では1977年に李成愛(イ・ソンエ)のアルバムに収録され、渥美二郎のバージョンは1983年にリリースされ、70万枚以上の大ヒットを記録した。
韓国と日本でのアーティストたちによるさまざまな解釈を通じ、時代を超えた名曲として愛され続けている。
日本でヒットした韓国の名曲「釜山港へ帰れ」はもともと南北対立で”兄弟”が引き裂かれる哀しみを歌ったものだが、日本の歌詞では”男女の別れ”の歌に変えられてしまった、ということもある。
「釜山港へ帰れ」は、クルセイダースの「イムジン河」と同じように盗作問題が浮上している。
原曲となった「帰ってきて忠武港に」は当時ほとんど全く知られていなかった。
1967年ファンソンウが、この曲を教え子のキムソンスルに聴かせ、1970年に「帰ってきます忠武港」を作詞兼歌手としてキムソンスルが発表する。
キムソンスルはアルバム発表後、特別な活動をすることもなく、しばらくして軍に入隊をした。
ところが、1971年12月の休暇を出て大連閣火災事件(166人死亡の世界最大のホテル火災)に巻き込まれ死亡してしまった。
作曲家ファン・ソンウはこの曲が陽の目を見ずに忘れ去られることを残念に思って、自ら新たに作詞して、元々自分が望んだ「帰ってきて釜山港に」と変えて歌詞も一部修正して1972年に発表したが、この時も曲は大きくヒットすることはできなかった。
だが4年後の1976年、チョ・ヨンピルが再びこの曲を速いテンポで編曲し、歌詞の一部を修正して出したところ、大ヒットとなった。
この歌がヒットした背景には、発表当時に在日同胞たちの故国訪問が活発化したことがあり、その情緒がこの歌とハマッタためといわれている。
ただ「釜山港へ帰れ」が、韓国南海岸にある統営市にある忠武(チュンム)港を題材とした歌から歌詞の一部を無断拝借していたという裁判所の判決がでて、騒ぎになったこともあった。
「釜山港へ帰れ」の韓国バージョンは、次のように”兄弟の別れ”の歌である。
♪花咲く冬栢島に春が来たけれど
兄弟が去っていったプサン港に
カモメだけが悲しく泣いている
五六島を回り行く連絡船ごとに喉を枯らして呼んでみても返事ない我が兄弟よ 帰って来いよ、プサン港へ愛しい我が弟よ
行きたくて喉が詰まって呼んだこの街は
懐かしくてさまよった長い日の夢だった
いつも物言わぬあの波たちもぶつかって悲しんで
行く手を阻んだ
帰ってきた、プサン港へ愛しい我が兄弟よ♪
この最後の部分、日本語バージョンでは、
♪さまよう プサンハンは、霧笛が胸を刺す きっと伝えてよ カモメさん いまも信じて耐えてるあたしを トラワョ プサンハンへ 逢いたい あなた♪。
さて、天童よしみが1996年に発売したシングル「珍島(ちんど)物語」にも、家族離散というテーマが歌われている。
珍島は、朝鮮半島の西南端にある島で、海割れという自然現象が起きて長さ2kmの道が海に出現することで有名で、韓国語の「ヨンドンサリ」という言葉が入っているが、作詞作曲は中山大三郎となっている。
中山大三郎は、島倉千代子の「人生いろいろ」で知られる日本人の作詞作曲家である。
歌詞の中の「ヨンドンサリの伝説」は、虎の被害で筏(いかだ)で別れた家族が再会した韓国の古い伝説なのだという。
この曲は、数人の韓国人歌手によって、カバーされているが、珍島は2014年セウォル号沈没事件の舞台となったため、しばらく自粛されたこともあった。