能古島:開拓と火宅と片思い

能古島は、博多湾にぽっかり浮かぶ周囲約12kmの小さな島。美しい自然はもちろんのこと、古代には防人(さきもり)が置かれ、万葉集にも詠われるなど歴史豊かな場所でもある。
現在、能古島には「のこのしまアイランドパーク」があり、市民に親しまれている。
久保田耕作(1934~2005年)と妻の睦子は二人三脚で土に鍬を入れ、都会のすぐそばに花と緑の楽園を築いた。
春には桜、そしてツツジと続き、夏はヒマワリ、秋は最も人気があるコスモス、12月下旬にはスイセンが花開く。
久保田耕作が両親らと現在の久留米市から島に移住してきたのは1941年、当時は切り株や石を掘り出さないと、利用できない原野だった。
久保田は7歳のとき島に移り、小学生のころには開墾を手伝った後、疲れ果てて地下足袋をはいたまま、玄関の上がり口で寝ることもあった。
こうした苦労の甲斐あって市内で最大級のサツマイモ農家となった。
久保田が19歳になった1953年、東京と大阪の青果市場を視察したとき、出荷規模の大きさに圧倒される。 島でイモを作り続けても、太刀打ちできないと思った。
しかし、久保田は前向きに考え「経済が発展し働き続けた人に癒やしが必要になるときが来る」と時代の先を読んで、イモ畑を「自然公園」に変える決意をしたのである。
そして、畑の脇ややぶを切り開いた場所に桜やツツジを植え、公園造りの準備を始め、23歳の時に、久留米市出身の睦子と見合い結婚をした。
睦子によれば「親戚だったので、お見合いの前から公園造りのうわさを聞き、会ったこともないのに、大きな夢を抱く人に憧れていました。接客が好きな性格なので、一緒に公園をやってみたいという思いが強く、お見合いの話はありがたかった」という。
結婚して開園に至るまでに12年の歳月を要した。
1969年1月、公園は西日本短大教授の設計に基づく造園工事で本格着工し、作業は久保田の親戚も加わった4家族で行った。
大きく育った木を移植するためブルドーザーを買い込み、2カ月半の工期で完成させ、4月に待望の開園を迎えた。
公園に使った樹木はツツジだけでも13万本に上る。ただ、当初は自然の景観を満喫するどころか「何もない」と失望する来園者がいた。
開園から3年がたっても客足は伸びず、共同経営をする4家族の間で民間会社に経営権を譲渡する話が持ち上がった。
それを思いとどまらせたのは妻の一言「もう一回頑張ろう」という言葉だった。
睦子によれば「公園を貸すと、生きがいを失ってしまうという思いに駆られ、みんなを励ました」と語っている。
ジェットコースターや観覧車の設置を持ちかける業者もいたが、耕作は自然を求める時代が必ずやって来ると信じて請け合わなかったのである。
久保田はよく「鳥の声や虫の声を聞きながら、青空天井で昼寝をし、いい空気を吸って花を見て、腹をかく人はいない」と言っていた。
開園から10年後、コスモス栽培を始めると来園者が急増し、いまでは年間15万人が訪れる観光地になっている。
現在、公園は「久保田観光」が運営し、社長は耕作と睦子の長男の久保田晋平である。
久保田晋平は、高校卒業後、アメリカに2年間語学留学した際に、本場のディズニーランドを訪ねて感動を受け、帰国後、オープン間近だった東京ディズニーランドの運営会社である株式会社オリエンタルランドに正社員として就職した。
そして3年半ほど勤務した後、家業であるアイランドパークへ戻ったのという。
久保田晋平は「東京ディズニーランドでは、接客業の基本となる考え方を学び、アメリカ的なエンターテインメントによる〝おもてなし〟を体感した。
アイランドパークでもお客さまに満足していただくことでのファンづくりを通じて、リピート客に愛されるように取り組んでいる。
一日のんびりしてもらうスタイルを崩すことなく、それぞれの施設のグレードなどを上げていきながら、新たな楽しみも提案していく考えだという。

作家の檀一雄が能古島に住んだことはよく知られており、船着き場から徒歩15分程度で邸宅跡に着く。
また能古島の頂き近くに檀一雄の歌碑があり、亡き妻律子を悼んで詠んだ歌「つくづくと櫨(はじ)の葉朱く染みゆけど下照る妹の有りと云はなく」が刻まれている。
また「檀一雄文学碑」は、檀が死の4日前に色紙にしたためた俳句「モガリ笛いく夜もがらせ花二逢はん」を刻んだ文学碑。この場所から「リツ子 その愛・その死」の舞台となった糸島半島の小田の浜が望める。
檀家は本籍地が福岡県山門郡沖端村(現:柳川市)で、柳川藩の普請方を務めた家柄で隣家の北原白秋家と並び称される旧家であった。
檀一雄の父は東京蔵前の工業高校をでた図案技師であったが、転勤が多く一雄は山梨(現都留市)で生まれた。
その後、父が福岡工業に父が転勤となり鳥飼に住んだが、父が青森県弘前の工業高校に転勤となり、母トミの実家のある三井郡国分村野中(現在久留米市)に妹二人と共に身を寄せるなど転々とした。
檀にとって忘れえない出来事は、9歳の時母トミが突如出奔したことである。
トミの手記に「夫の仕打ちに耐え切れず」とあるが、檀は母親が医学生との恋情に走ったと信じ、「この女のあやしい根源の力を封じ込めることはとうてい出来ないことだと幼年ながら固く信じた」と書いている。
ところで『ある昭和の家族――「火宅の人」の母と妹たち』(笠耐著)という本がある。
笠耐(りゅうたえ)は、檀一雄の母がその後再婚する高岩勘次郎の娘で、お茶の水女子大学理学部物理学科卒業後、上智大学理工学部助教授を2004年まで勤めた。
夫は文芸評論家の笠啓一で、子の笠潤平は物理学者で香川大学教授である。
檀一雄が21歳の頃生母トミと11年ぶりに再会した時、異父妹にあたる耐は、母トミのお腹の中にいたという。この時、トミは41歳で高岩勘次郎と再婚していた。
1935年勘次郎が亡くなると、一雄は福岡市平尾の高岩家によく現れるようになり、耐や一歳下の弟を「天使」と呼んで可愛が ったという。
檀一雄は1942年、耐のお琴の先生の世話で、最初の妻律子と結婚、東京の石神井公園近くの借家に住み、翌年、太郎が生れた。
しかし1944年夏から陸軍報道班員として9か月あまり中国を彷徨する。
律子と太郎は律子の実家の疎開先三井郡松崎でしばらく過ごし、やがて帰国した檀と糸島半島の海辺小田(こた) へ越す。しかし檀の看病のかいもなく律子が亡くなり、再び松崎に戻ることとなった。
児童文学者の知人の紹介で檀がヨソ子と再婚し、松崎の家で披露宴をし、由布院へ新婚旅行に出かけた。
さて檀の青春時代において、足利中学校四年修了後、福岡高校文科に入学したことが文学的目覚めといえる。
寮生活をおくりながら同人誌に発表したり、演劇活動をしたりした。
また、社研のメンバーとして1年間の停学処分を受けるが、それが大きな文学的転機になったという。
母トミは檀と相談し、実弟と親族会社をつくり、福岡市綱場町に二階建の家屋を新築、商会と美容室を始めた。壇は馴れない商売をしながら、劇団 「珊瑚座」を創め、呉服町に近い千草美容院が練習場であった。
檀は1935年に東京帝国大学経済学部に入学した。
東大在学中に佐藤春夫に師事。「夕張胡月亭塾景観」が芥川賞候補になるなど、新進作家としての地位を築いた。
ちなみに檀が「火宅」の相方・入江杏子と出会ったのは劇団「珊瑚座」であった。
当時、檀は入江を横に座らせて口述筆記させ、出来た分を団員がガリ版で切って本読みをする。
役は自由で好きな役をそれぞれ練習して自分で選び、本が全部できた段階で最終的に檀が調整するという進行であった。
しかし、会社は半年足らずで倒産、トミは松崎の屋敷田畑をはじめ 財産のほとんどを失い、福岡市平尾にあった家の離れだけが残り、そこへ移る。
檀一家が、1948年石神井に近い南田中に住み一雄の収入が増え一家が石神井公園の少し広い家に移ると、母トミの高岩家が南田中の家に住むようになる。
耐がお茶の水女子大理学部物理学科に通っている時期、兄一雄にはよく呼び出されて、出産と子育てに忙しいヨソ子姉に代わって、兄の口述筆記をして手伝ったという。
檀は石神井時代に太宰治との交流を深めたが、太宰が亡くなってから坂口安吾とも交流をもつようになる。
1950年、先妻である律子を描いた連作「リツ子・その愛」、「リツ子・その死」にて文壇に復帰し、翌年「長恨歌」「真説石川五右衛門」の2作にて直木賞を受賞した。
また前述の舞台女優入江杏子と愛人関係にあり、入江杏子との生活そして破局を描いたのが代表作『火宅の人』(1979年)である。
“火宅”とは仏教の言葉で、煩悩が絶えず、安住することのできない現世のこと。
1974年、福岡市西区能古島に自宅を購入し転居、「月壺洞」(げっこどう)と名づけた。悪性肺ガンのため九州大学医学部付属病院に入院。病床で「火宅の人」最終章「キリギリス」を、口述筆記にて完成させ遺作となった。1976年1月2日に死去した。
檀一雄と山田ヨソ子との間の娘の檀ふみは、15年間もの間連載された「母たちの愛と軌跡」は、“火宅”の作家の妻として、荒波のごとき日々を生きた「母の半生」を記している。
その中で「どうした運命の悪戯なのか、しかし、母は父を夫に持つことになった」。
そして、「身にふりかかるいくつもの艱難辛苦をひとつひとつ乗り越えてきたんです。すごいなあって思いますよ。私にはとても真似ができない。とてもあんなふうには生きられない。とてもあそこまでやり抜く覚悟は決められません。もしかすると、私や妹がいつまでも独身でいるのはそのせいなのかもしれませんね」と書いている。

能古島には、福岡県出身の二人のミュージシャンが思いを寄せた痕跡がある。
その一つが能古島の頂き近くにある「折れたコスモス」と題された歌碑。この歌碑には「小さきは 小さきままに 折れたるは折れたるままに コスモスの花咲く」とある。
この歌の作者は、世界各国で特殊教育の講演を続けて数年前107歳で亡くなられた元・福岡教育大学教授・昇地三郎である。
昇地は、ご自身のお子さんが二人とも障害児として生まれ、当時は特殊教育も発達していなかったために、自ら福岡市南区井尻に「しいのみ学園」を設立され、試行錯誤の末に日本の特殊教育の先駆者となられた。
そういう理由で「折れたコスモス」の歌碑は、日本の特殊教育の「記念碑」でもあるが、どうしてこの記念碑が能古島に建つことになったのだろうか。
その発端は、能古小学校の校長として赴任した中野明校長と、この小学校出身で高校2年の時に交通事故で亡くなった生徒の保護者との出会いであった。
福岡教育大学での昇地三郎の教え子達の間で、氏の長年の功績に対する記念碑を建てようという動きが起こった時のことである。
その教え子の中には、特殊教育を専攻した歌手(俳優?)の武田鉄矢もいた。
実は、筑紫中央高校時代に武田鉄矢が生徒会長、中野校長が副会長という関係にあった。二人は一緒にJR南福岡駅から大学がある赤間まで通ったという。
武田が「3年B組金八先生」に登場する前年の1978年、上村啓二君は、能古小学校時代に書いた作文「折れたコスモス」で小中学校作文コンクールで西日本新聞社・テレビ賞を受賞した。その中に次のような一節があった。
「その倒れたコスモスの茎にはナイフで切られた跡があった。つぼみも小さく横に倒れていた。コスモスの先を手で触ったえら、そのときしずくがぽつんとなみだのように手のひらに落ちた。秋も深まった日、いつしかコスモスを見に行った。
白・赤・紫のコスモスの花が群れになって咲いている中を一生懸命に探した。やっと見つけることができた。他のコスモスの花と違って、ちょっと小さな花が三つほど咲いていた。小さい。
でも、僕にはその三つの花が、一番美しくかわいく見えた。今は泣いていないようだった」。
この上村君の「倒れたコスモス」と昇地の「折れたコスモス」を結びつけたのが、能古小学校校長・中野校長であった。
上村君の父親から「息子が交通事故で亡くなった道路沿いの土地に歌碑を建ててください」と要望され、歌碑建立の運びとなったのである。
昇地三郎の障害をもつ二人のご子息への思いと、交通事故で息子を失った上村君の両親の思いがコスモスの花を介して、能古島で交わったのである。
また福岡県出身のシンガーソングライター井上陽水には、隠れた名曲『能古島の片想い』がある。
ブレイク前の陽水は、能古島の砂浜から見上げた天空や対岸の眺めを切ない心情で歌い上げた。
♪つきせぬ波のざわめく声に今夜は眠れそうにない
浜辺に降りて裸足になればとどかぬ波のもどかしさ
僕の声が君にとどいたら ステキなのに♪
井上陽水が実在の地名をタイトルにするのは極めて珍しいことで、能古島には特別な思い入れがあるのであろう。
『能古島の片想い』は1972年発売のアルバム『陽水Ⅱ センチメンタル』に唯一収録されている。
その翌年発売の『氷の世界』は、アルバムとして日本初のミリオンセラーを記録しているのでブレイク直前の曲だけに注目に値する。
陽水は福岡県の嘉穂郡幸袋町(現在は飯塚市)だが、父親が糸田町で歯科医院を開業する際に転居している。
家族構成は両親と姉、妹の5人家族で、糸田小学生時代は野球に熱中していた。
小学生時代の井上は映画が好きで、近所の映画館に足しげく通い、姉が洋楽好きだった影響で洋楽を聴きはじめる。
糸田中学校時代には、エルビス・プレスリーやプラターズ、ビートルズの曲を聴くようになった。
西田川高校に進学し、仲間とビートルズの歌を歌いまくったがミュージシャンになろうとまでは思わず、両親から歯科医になることを期待されており、本人もそれを目指していた。
しかし現役時に大学受験に失敗し、浪人時代は予備校の小倉育英館に通学して寮生活を送っている。しかし、年間数日しか予備校に登校せずに毎日パチンコばかりしていたという。
2年目の浪人時代は福岡市の九州英数学館で寮生活するも、同じことの繰り返しでまたもや受験に失敗。
ただこの頃注目すべきことは、ラジオ番組でフォーククルセダーズ「帰って来たヨッパライ」を聴いて「これならできる」と思って音楽でひと山当てようと思い、曲作りやギターをはじめたことである。
そして3浪でも受験に失敗すると、東京で勉強して大学を目指すことを口実にミュージシャンを目指していく。
1969年「アンドレ・カンドレ」の芸名で歌手デビューするが鳴かず飛ばずであった。
1971年3月芸名を井上陽水と改め、72年5月に初アルバム『断絶』で注目されはじめ、同年12月に、「能古島の片思い」が収録された「陽水II センチメンタル」が発表された。
ちなみに、陽水が通った(?)九州英数学館は博多湾岸にあり、校舎から能古島を真近に見ることができる。