聖書の場面より(浮かびあがる斧)

BC9C イスラエルを飢饉を襲い、大人が子供を食べるような悲惨な出来事さえ記録される時代に、預言者エリヤ現れ、人々に神の裁きと改心を促した。
そのエリヤが去り、代りに現れたのがエリヤと師弟関係にあった預言者エリシャである。
そのエリシャに対して、仲間の預言者たちが自分たちが住んでいる場所(寄宿舎のようなもの)が狭くなったので、資材が豊富なヨルダンに行って自分達の住む場所を造らせてくださいと訴えた。
エリシャがそれを了承したところ、ひとりがエリシャも一緒に来て頂きたいと願ったため、エリシャも彼らと共に行くことになった。
そして彼らはヨルダンへ行って家屋を建てはじめたところ、次のようなことが起きる(列王記下6章)。
ひとりが材木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちた。
彼は「ああ、わが主よ。これは借りたものです」と叫んだところ、ある人が「それはどこに落ちたのか」と聞いたので、彼がその場所を知らせた。
するとエリシャは一本の枝を切り落し、そこに投げ入れてその斧の頭を浮ばせ、その人は手を伸べて斧を取り戻すことができた。
通常、小さな枝が沈んだ重い斧を浮かせる力があるとは思えぬので不思議な出来事に違いない。ただ、この出来事には何らかのメッセージがあるようだが、よくわからない。
聖書は全体がひとつなので、キーワードと思われる言葉を、他の箇所に探してみた。
まず思い浮かんだのは、新約聖書の冒頭近くの洗礼者ヨハネの言葉の中にある”斧”である。
ヨハネは、イエスのいわば露払いのようなかたちで現れた人物で、神の国が近いことを、罪を悔い改めることを述べ伝えると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けた。
そして次のように語った。「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。”斧”がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」(マタイの福音書3章)。
このヨハネの言葉から、”斧”は神の裁きを意味し、「浮上した斧の出来事」にあてはめると、神に代って裁き(預かった斧)を伝える預言者そのものを意味していると考えるのが自然である。
したがって「斧の水没」は、”去っていったエリヤ”を意味し、「斧の浮上」はそれに代わって現れた”預言者エリシャ”そのものを指すと推察できる。
この出来事を目撃した預言者たちがそんな”意味合い”まで感じとったかは別として、後述するように”それを目撃した”ことは預言者の霊力を受け取ったということを意味する。
またエリシャがエリアに匹敵する預言者であることを認識させる出来事であったであろう。
そればかりか、この出来事はエリシャ自身の預言者としての使命を自覚させるものだったかもしれない。
その点で、使徒ペテロに起きた或る出来事を想起させる。
ペテロが宮の集金人に「あなた方の先生(イエス)は宮の納入金を支払わないのか」と問われ、それをイエスに伝えると、イエスはペテロに奇妙なことをいう。
「湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとシケル1枚が見つかるから、それを取ってわたしとあなたとの分として納めなさい」(マタイの福音書17章)。
この荒唐無稽にも思えるイエスの言葉は何を意味するのだろうか。
かつてイエスがガリラヤの海べで、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレと出会い、彼らに「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言うと、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った(マタイの福音書4章)。
聖書においてイエスの十二人の使徒の中で、ペテロはイエスの一番弟子、つまりペテロ自身が「最初に釣れた魚」なのである。
次に、魚の口の中から1シケル(銀貨)が見つかることなど、ありうるのだろうか。
実は、ガリラヤ湖には、幼魚を口で育てる習性をもつ「ティラピア」という魚が棲んでいる。
自分の子供の魚を自分の口の中で育てるが、子供の魚がある程度大きくなると、口の外へ追い出すために、親魚はわざと小石を飲み込む。
子供の魚は親魚の口の中にある石が邪魔で戻れなくなり、外の世界で成長することへと導かれる。
そんな小石と一緒に、湖に落としたコインを親魚が飲み込んでしまうことがあるのだという。
ペテロは漁師であるから、当然ティアピラがコインを飲み込むこともよく知っていた。
ではイエスはペテロになぜわざわざ魚を釣りに行かせ納めるべきコインを得させようとしたのか。
ペテロが生きた時代から、9世紀ほど遡るとヨナという預言者がいた。ペテロとヨナは似通った面がある。
それは、人間性を裸にされつつも、神の慈愛によって教えられていく点である。
そしてヨナの一番の体験は、嵐で海に投げ出され、3日後に魚から吐き出されたことである。
3日間魚の腹の中にいたことは、十字架の死後、3日目に蘇るイエスの「復活」の型であり、それはイエスがユダヤ人達に語った「この神殿をこわしたらは三日のうちにそれを起す」(ヨハネの福音書2章)という言葉に通じる。
このヨナの出来事から、魚の中からでてきたコインは、復活の型を意味している。同時に宮に納める「1シケル」はイエスの十字架の死による”燔祭”を示すものであることは、失われた1シケルと、失われた「一匹の子羊」と同格であること示す譬えにより推察できる(ルカの福音書15章)。
かつて、イエスはシモンという漁師に、「ペテロ(岩)」という名前を授け、「私はこの岩の上に私の教会を建てる」(マタイの福音書16章)と語った。
つまりイエスの復活により、イエスを頭として殉教したペテロを基いとする「教会」が誕生する。その意味でイエスとペテロは一体(1コイン)なのである。
つまり1シケルは”燔祭・復活・教会”を表すもので、ペテロはイエスの昇天後、湖で釣れた魚の1シケルを思い出し、「教会の礎」としての自分の使命を悟ったに違いない。

預言者エリヤは、イスラエルのイゼベルという女王に偶像崇拝の罪を指摘したことにより、逆に命を狙われ、いっそ自分の命をとってくださいと神に願うほどの苦境を体験している。
その時、エリヤは山の岩間に身を隠していたのだが、そこで地震や嵐にも遭遇して怯えていた際、轟音の中に”神の細き声”を聞く。
その声の中に、「アベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者にしなさい」(列王記上19章)という声があった。
そして実際に、二人の間には人知れず「引継ぎ」がなされている。
エリヤとエリシャは長く共に行動したが、ギルガルの町を去ろうとする時、エリヤはエリシャにそこに残るよう勧め、自分はベテルに行こうとした。
ところがエリシャは「エホバは生きておられ,あなたの魂も生きています。私はあなたを離れません」と一緒にベテルに向かうことになった。
同じようなことが三度繰り返され、エリシャは断固としてエリヤを離れようとはしなかった。
その途上、エリシャはヨルダン川のほとりでエリヤが自分の職服で水を打つと、水が2つに分かれるという奇跡を”目撃”する(列王記下2章)。
二人はヨルダン川を渡ると、エリヤはエリシャに自分の最期を悟ったのか、「わたしがあなたから取られる前に、あなたのためにすべきことを求めなさい」と語った。
ここでエリヤの最期とは死亡することではなく、天に移されることを意味していた。
聖書には、他にも天に取られたエノクという人物がいるが(創世記5章)、彼らは死を体験することなく天に移されたために墓が存在しない。
エリヤは別れの時にあたって、エリシャに何か求めるものがあるかと聞くと、エリシャは唯、「どうか、あなたの霊の二つの分が私に臨みますように」と求めている。
エリヤはその答えをエホバの手に委ねることにして、神がエリヤを取り去られる時に、エリシャがその様子を”目撃”するなら、神はエリシャの願いをかなえてくださるでしょうと答えた。
しばらく二人で歩いていると不思議なことが起きる。火のように輝く馬車が現れ、風が巻き上げるようにエリヤをさらい、空高く舞い上って行った。
エリシャは恐れに打たれて立ち尽くしたが、その出来事を目撃できたことは、エリシャの願いがかなうことを意味するものであった。
エリシャの願い「あなたの霊の二つの分け前が私のものとなりますように」というは、「二倍」を意味するのかはよくわからないが、エリシャは旧約聖書に登場する預言者のなかで最も多くの奇跡(枝が斧を浮かすなど)を行った預言者であり、その意味で師匠エリヤに勝るものがあった。
話が少しそれるが、このエリシャのしつこさは、ヤコブが神の祝福を求めるしつこさに通じる。
ヤコブが親族のラバンの所からのカナンへの帰り道、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。
その際に彼らを先に渡らせ、ヤコブはひとりあとに残ったが、その際に一人のひと(み使いor天使)と、夜明けまで組打ちした。
ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。
その人はヤコブに「夜が明けるからわたしを去らせてください」というと、ヤコブは「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と答えた。
その人はヤコブに「あなたの名はなんと言いますか」と聞いたので、「ヤコブです」と答えると、その人は「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」と言った(創世記32章)。
ちなみに"イスラエル"は「神と争う」という意味である。

エリヤの名は、新約聖書にも時々現れる。なかでも注目したいのは洗礼者ヨハネとの関連である。
洗礼者ヨハネとは前述のごとく、イエス・キリストの露払い役をするごとくに「悔い改めよ。天国は近づいた」と呼ばわった人物である。
そして人々は、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物そしていた洗礼者ヨハネを「預言者エリヤ」の再来だと噂した。
実は当時の人々は、エリヤが「天にとられた」話を聖書を通じてよく知っていたのだ。
さらに、救世主が現われる前に「エリヤが再来する」という預言(マラキ書)さえあったのだ。
そして実際、当時人々は、洗礼者ヨハネが預言者エリヤなのかという点を相当に気にかけていたようだ。
例えば、遣わされた人がヨハネに「あなたは誰か。キリストか」と問うと、ヨハネは「キリストではない。キリストの靴紐を解くのにも値しない者だ」と明確に答ている。
さらに「ではいったい誰なのか、エリヤか」と聞くと、ヨハネは「そうではない」と否定している。(ヨハネの福音書1章)
ところが、イエスは別の箇所で洗礼者ヨハネがエリヤであると弟子達に語っている場面がある。
「エリヤが来て、すべてのことを立て直す。しかし、エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています」。
そのとき弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと思ったという。
さらにイエスは洗礼者ヨハネにつき、女から生まれた者の中で、ヨハネより優れた人はいないといいつつ、「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」(マタイの福音書11章)と語っている。
洗礼者ヨハネは自らがエリヤであることを否定している一方で、イエスは洗礼者ヨハネこそエリヤなのだと言っているのである。
これは完全に矛盾している。どちらかが嘘を言っているのだろうか。
イエスの証言と洗礼者ヨハネの証言の喰い違いを解決するような言葉を見つけることができる。
イエスは洗礼者ヨハネにつき「彼は、エリヤの霊と力とをもって、みまえに先立っていき」(ルカの福音書1章)と語っている。
ここでイエスは、洗礼者ヨハネがエリヤとは、同じ霊と力をもっていると語っているのである。
違う人物なのに「同じ霊と力」が宿るなどということがありうるのか。イエスの言葉の中に「あなたがたがすすんでうけいれるならば」と意味深な言葉にも注目しておきたい。

最初に紹介したエリシャの不思議「浮上した斧」のもうひとつのキーワードが「枝」である。
そこで思い浮かんだのが、モーセが様々な不思議を為すために使った「アロンの杖」である。
さてモーセは生涯の中で、2度同じチャレンジをうけたことがある。それは人々に「誰があなたを裁き人(支配者)にしたのか」と詰問されたことであった。
つまり、モーセに「その権威を与えたのは何か」という「権威の正統性」への問いである。
モーセはイスラエル人でありながらエジプトの王女に拾われて、エジプトの王子として育てられる。
しかし、何かのきっかけで自分がエジプト人ではないことを知り、同胞イスラエル人と共に奴隷の身として生きる決心をする。
しかしイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見て、エジプト人を撃ち殺してしまう。
モーセは、自分の手によって神が兄弟たちを救って下さることをみんなが悟るものと思っていた。
しかし、そうはならなかった。
ある日モーセはイスラエル同志が争い合っている処に出くわし、「君達は兄弟同志ではないか。どうして互に傷つけ合っているのか」と仲裁しようとした。
すると「誰があなたを裁き人にしたのか エジプト人と同様に我々も殺すつもりか」といわれ、自分が単なる「殺人者」としか見られていないことを悟る。
居場所を失ったモーセはミデヤンの野にのがれ、そこで40年の歳月をすごす。
ところが80歳になったある日、突然に「民をエジプトより導き出しなさい」という神の声を聴く。
最初は躊躇しつつも、モーセは神の声に従い、甥のアロンを伴って、神の力による数々の不思議を顕わしイスラエル人の「出エジプト」を実現する。
しかし、シナイ砂漠で民衆の不満がたまり、かつてエジプトでモーセが受けた同じチャレンジを受ける。
民衆はモーセに「誰が、君をわれわれの支配者や裁判人にしたのか」と訴えたのである。
そこで神はモーセに、族長たちに自分の名を彫った杖を持って来させ「あかしの幕屋」の箱におけば、翌朝に神が選んだ者の杖は芽を出すと告げた。
すると、レビ族を代表するアロンの杖が芽を出し、神はアロン(およびモーセ)こそが選ばれた祭司であることを、イスラエルの前に顕わしたのである(民数記17章)。
このようにモーセの権威の正統性を示すアロンの杖に芽吹いた「枝」であったが、エリシャがエリヤにより「油注がれたもの」という権威も、斧を浮かび上がらせた「枝」によって証されたのかもしれない。