「霜降り明星」のせいやは、朝日放送「ナイトスクープの「一般人の悩み」に応える番組に登場。依頼人の悩みは、「じいじの入れ歯をカニと信じ込む娘たち」というもの。
そもそもじいじが、入れ歯をカニと教え込んだのは、子供がさわったらあぶないので、さわらないようにという意図だった。
5歳の娘は、ビンの中のカニに興味津々。「ゆきちゃん」とよんで日がな観察を怠らなかった。
依頼人から自宅に招かれたせいやは、娘に「ゆきちゃんはどうして動かないの」と聞くと、娘は「ゆきちゃんは寝坊だから」と答えた。
せいやも手の甲に「ゆきちゃん」を乗せてイタッ、といってみせたりしたもんだから、いよいよ"沼"から抜け出せなくなった。
ついにじいじが意を決して、歯に「ゆきちゃん」をはめ込むと、五歳の娘は驚きとも悲しみとも痛みともいえぬ表情で、じいじの歯間に挟まった「ゆきちゃん」を凝視していた。
その後娘は、その時の動画を友人にみせたりしたが、結局はカニという信念は変わらなかったという。
さてこの番組に登場した芸人せいやは、高校時代に壮絶ないじめ体験をして、それを「笑い」ではねかえしたことが話題になっている。
せいやは、高校にはいって新クラスで人気者になりたいと思っていたが、最初からつまづく。
ゴミ箱にみんながゴミを投げていて、せいやが「スリーポイント狙え」とかバスケに見立てて実況するみたいなことをすると、それがめちゃくちゃすべって、「なんやあいつ」みたいになってしまった。
机を逆にされたりとか、ほかのクラスからも人が集まって、みんなでせいやを持ち上げて学校を回るとか。
ひどいときは、4階の窓から足だけ持たれて、体をほとんど外に出されたりとかもした。
それでも、せいやはお笑い精神をもって、顔引きつりながらも「なにしてんねん」とか、「おい」ってツッコンだりしたため、火に油を注ぐことになった。
せいやにすれば、自分でこれをいじめと認定したら最後。「いじめじゃない。いじられているにすぎない」と自分を納得させた。
それで休憩時間も何もされないように図書室で過ごしたりしたが、
それでも捕まえられた。当時「肩パン」がはやってて、肩をバーンって殴られて、アザだらけで家帰るみたいなことあった。
母親にアザ隠しながら風呂入ることもあった。
弁当も、おかずとかほとんど食べられて、米だけ残る、みたいになって、みんなは爆笑する。それでも「おかずとお米、普通、5:5やろ」みたいにツッコんでいた。
学校で一番が人が来ないプールの裏とかで食べたり、暗い階段の下にはいって、そこでネタとか考えていた。
根本に「あんな奴らに人生変えられたらたまるか」という負けん気の強さがあった。
しかしそんな踏ん張りも、ストレスから髪の毛も抜け出しはじめる。最初は隠せていたが、全部ぼろぼろになり、2、3年生から「あいつやばい」といわれながらも、松山千春さんのものまねとかしていた。
心配した担任も「お前、どうするか。学校休むか」とか、家族からも毎日言われるが、病院の皮膚科の先生にも「もう学校は休んだ方がいいんじゃない」みたいに言われる。
しかしここで休んだら負けと、ずっと、ギャグで返していたという。
しかし一つの転機が訪れた。文化祭で劇をやることになり、「お前、コント書いてこいや」と、冗談半分かいじめの一環かで言われる。
しかし、せいやにすれば誰よりも自信あったことで、1日でコント仕上げて持って行った。
問題は、皆の前でそれをどうプレゼンするかだが、ちょうどその頃ヤマイくんという孤立しがちなクラスメートと仲良くなりはじめていた。
ヤマイくんの助けを得て、「他薦」という形で自分の案を推し進めることができった。
そのプレゼンで、皆がせいやを見る目が変わった。そしてクラスの中で文化祭を成功させるという初めての役割を得た。
そして本番の日をむかえる。コントのタイトルは「リアル桃太郎」で、主役はせいやがやり、照明、音響、脚本、演出、全部せいやが考えた。
「リアル桃太郎」の設定は、おばあさんが川で拾った桃を開けた後に赤ちゃんが出てきたことをおじいさんに伝える。
しかし、おじいさんはその話を全く信じない。「桃から赤ちゃんが生まれるなんてあり得ない!」と一刀両断し、次第に「おばあさんが浮気をしたのではないか」と疑い始める。
ここから物語はさらにユーモラスな展開を見せる。
おじいさんの疑惑を解消するために、おばあさんは村の探偵を呼び、さらには弁護士や法律事務所まで巻き込んで事態を収拾しようとする。
しかし、疑心暗鬼の渦中でどんどん話が脱線し、桃太郎の誕生という喜ばしい出来事は、滑稽な「家庭内の修羅場」へと変貌していく。
おばあさんが必死に「桃から生まれた!」と主張する一方で、おじいさんが「浮気相手は誰や!」と詰め寄る緊迫感と笑いの絶妙なバランスが観客を魅了した。
このユニークな発想と巧みな構成により、「リアル桃太郎」は文化祭の中で大きな反響を呼び、最優秀賞を獲得した。
体育館で表彰式があって、せいやは壇上に上がった時のノリで「ハゲてても、いじめはね返したぞー!」と言うと、「ウぉぉぉー!」と歓声がおき、先生とかせいやを心配してくれてた人たちも、すごく沸いてくれた。
せいやがあの状況をくぐり抜けることができたのも、コントが書ける力を持っていたからこそで、これが人生の分岐点になった。
しかしせいやは、笑いではね返したという言い方をするが、笑いに逃げただけという。いじめには立ち向かわなくていい、逃げた方がいい。音楽に逃げる。ゲームに逃げる。睡眠に逃げる。何でもいい。とにかくあんなやつらに人生終わらされてたまるかというう気持ちを持ってほしいと語っている。
それから数年後、せいやは粗品とのコンビを組み「霜降り明星」としてM-1グランプリで優勝し、お笑い界の頂点に立った。
「縦ジマのハンカチを横にして横ジマのハンカチにする」などの一見「インチキマジック」を行いつつ笑いを取りながら、
終盤には必ず正統派のマジックを見せる。
それがマギー司郎が切り開いた芸風であるが、その言葉は名言として本まで作られることとなった。
早咲きの花もあれば、遅咲きの花もある。
もしかしたら、ずっと咲かないものだっているだろう。でも、それでもいいじゃない。皆が綺麗に咲くわけじゃない。
中には咲かない花があっても、それもまた花なんだから。
自分の弱点は武器になる。弱点をさらけ出せば人は強くなれる。人間って、ダメになろうとしている人は、1人もいない。
すぐに幸せになれなくても、ゆっくり幸せになればいいんだよ。あんまり無理しないで、ダラダラやってんのも芸のうちかなと思ってね。
マギーの家庭は父は数々の事業に失敗しとびきりの貧乏だった。9人兄弟の7番目、体が小さくて、なぜかいつもころんでしまう。右目が斜視で、ほとんど視力がなかったことによる。
学校で黒板の字が見えないから勉強がえきるはずもなく、友人からもいじめられた。それは母親は動物が子供を守るように、本能のままに司郎を守ってくれたという。
小学校4年の時に母親がメガネを買ってくれた。メガネは家庭にとって高価なもので二升のコメをかついでいって手に入れたものだった。ある時眼鏡をこわして米粒で張り合わせてなんとか直したが、母に怒られるよりも申し訳なくてうつむいてご飯を食べた。母親はそれに気づいて何もいわなかった。
母親は自分を不憫に思ったようだが、司郎は自分を不憫だと思ったことは一度もなかった。
小さい体でも歩いたり走ったり出来たし、皆と同じように階段のぼり降りができたからである。
友人から「この前すれちがった」といわれても、片方が視力がないので気づかないことが多かった。無視しているとおもわれたくなから、いつもニコニコしていようと思ったという。
自分の食うくらいは自分でしようと思いつつ、16歳の時に布団背負って東京にでた。
中学を出てバーテンなどをして働いた。食べるものがない辛さは小さい頃から馴れていた。
19歳の時ににマジックに出会い、不器用な自分に出来るはずはないと思いつつ、それでもストリップ小屋の余興を仕事を得ることができた。
客は余興を見に来ているわけでないので、モタモタしていると早く消えろといわんばかりの罵声ばかりあびせられた。
そのうちついホンネがでた。「ゴメンネ~。実は僕、マジック下手なんですよ~」と。
茨城訛りの田舎臭い話し方と正直な言葉がむすびついてそれが観客の心をつかんだ。これが32歳の時、マジックをはじめて10年以上がたっていたが、ようやくコレダと思った。
上手なマジシャンならばたくさんいる。しかし自分から下手だというマジシャンはいない。
この時「マギー司郎」が誕生したといえる。
司郎は、1日4回ものマジックを約20年間も続けたというから、それだけでも大変なもだ。
その間に、アパートも3畳一間から板間つきの4畳半に変わった。
司郎は、いつもこれで十分だと思った。それよりも踊り子さんたちから色んなものを学んだという。
皆、何らかの事情を抱えて必死で生きていたからだ。
踊り子さんの出産に二度ほど立ち会ったし、馬小屋のような状況ではあってもけして悲しいものではなく、本当に人間的な美しさに感動したという。
「子供の頃、僕はまったく勉強できなかったのね。家が貧しくて栄養が足りなかったせいか、片方の目がほとんどみえなかった。
早々と低学年で落ちこぼれドッジボールもすぐにあてられて早々と退場していった。
そして臆病でいつも端っこにいた。上京してしバーのバーテンをした。
ストリップの前座もウケなかったが投げ出さずにつづけてこられたのは、子供の頃に母親から生きていく本能を教えてくれたからだという。
「アタマがよくなかった僕は、本能を信じる他はなかった。できないことばっかりで、人と比較したら負けてばかりだった。人と比べたりあせったりして欲張るとろくなことはないとわかるようになった。
ムダに頑張りすぎると誰かに迷惑をかけるので、自分の呼吸や自分のリズムを大切にした」と語っている。
2008年、「ルネッサーンス!」とワイングラスで乾杯する貴族漫才で一躍人気になったお笑いコンビ、髭男爵。
シルクハットがトレードマークの山田ルイ53世は、一発屋と呼ばれる芸人の真の姿に迫る『一発屋芸人列伝』の著書で「編集者が選ぶ雑誌ジーナリズム賞」作品賞を受賞した。
そこには、地方営業でワイングラスに石を投げられたり、ゴミにサインを書いてと頼まれたり、自ら「負け人生」と語る日々をつづった。
髭男爵の出身校は関西の私立の名門、六甲学院中学。小6の夏に自ら中学受験を決意し、半年間のほぼ独学で合格という神童ぶり。
中学進学後も学年で10番以内の成績をキープ。サッカー部ではレギュラーになるなど順調そのものだった。
満員電車で片道約2時間かけて通学し、名門校に通う優越感という鎮痛剤で乗り切っていたが、実際には心身共に疲れていたはず」と、思い返す。
入学後も成績は上位、サッカー部のレギュラーとしても活躍するが、中2の夏の登校中におなかが下り、トイレに間に合わず大失敗。
「きちんと生活するんだ」と強く意識し過ぎて、完璧主義というか潔癖症みたいなところがあった。
だから通学途中で粗相をして、自意識過剰なんで「自分のキャリアに傷がついた。もう無意味なんだ」という落ち込み方をしてしまった。
その後、夏休みの宿題が手つかずのまま2学期を迎えたのをきっかけに、それまでと一転、6年間の引きこもり生活を送ることになる。つまり20歳まで引きこもり生活を送った。
中学受験のときに勉強前のルーティンワークというか、部屋中を掃除して、自分にも粘着テープのコロコロをかけてきれいにして、ノートや本をきちっとそろえてとか、そんな決めごとが30個ぐらいあった。
本来は自らの情熱や夢や希望で自分を形づくるはずが、「人にほめられたい」と、外からの評価で自分を形成するような考え方になっていた。
例えば、化石を発見した少年が新聞に載っていたときに、本来なら小学生が自分で化石を見つける、その情熱に感銘を受けるべきやのに、僕は「新聞に載ってええなあ」と思ってしまう。
人生がすこし動き始めたのは、大学入学資格検定(現在の高卒認定試験)を経て、愛媛大学法文学部に合格したこと。
大学は程なく退学したが、在学時代に出会った先輩に誘われて漫才をやるようになった。
お笑いの道には「学業での挫折をごまかすために土俵をずらした感覚」で進んだが、勝算も目標もなくても、とりあえず続けた。
上京後、99年に相方のひぐち君と出会い「髭男爵」を結成。2008年に、ワイングラスをカチーンと鳴らし「ルネッサーンス!」と高笑いする“貴族漫才”で少しブレイクしたが、以後は
鳴かず飛ばずの日々であった。
2011年に一般女性と結婚し、翌年に長女が誕生。娘には、しばらく「髭男爵」としての活動を秘密にし「フレキシブルに働くサラリーマン」と説明していた。
ところが2016年の著書で「私のパパは貴族」は、穏やかで、時にほっこりとして、「パパがしごとにいくと、なんでシルクハットがなくなるの?」、スリリングな日々を描いた。
パパが芸人と知られてしまったら、ましてや近所の悪ガキに知られ、「お前の父ちゃん一発屋~」などと、娘がイジられるなんてか可哀そうすぎる。
そんなモヤモヤを抱え、日々、鋭くなる一方の彼女の「推理」を交わしつつ、精一杯「フツーのお父さん」であろうとする悪戦苦闘の毎日を描いた。
さて貴族といえば、朝日放送の「激レアさん」に、世界的なバイオリニストとしてずっとヨーロッパの貴族の前でバイオリンを演奏していた人が登場していた。この女性は帰国後、居酒屋「鳥貴族」を貴族のサロンと勘違いして面接を受けて通ってしまった。
履歴書ではなくCDをもっていて自己アピールしたが、店長は「食えなった音楽家」ぐらいに思っていたようだが、なにより店長が驚いたのは彼女の「熱意」だったらしい。
とはいっても、彼女もさすがに自分の思い描いていた貴族サロンは違うとは思ったが、「店の奥」か「店の裏」などに貴族が控えているのだと信じて、いつか貴族の前で演奏するチャンスをうかがって具材の仕込みをしていたという。
アルバイトを始めた直接のきっかけは、父母が体調を崩したのをきっかけにイタリアから日本に帰国し、自分だけでもしっかり稼いでいかなくてはならないと思ったとのこと。
家族にはアルバイトは内緒で、制服(かっぽう着)は毎日クリーニングに出していた。
たまたま間に合わない日もあり、家の洗濯機にかっぽう着を入れたときに、母親がレバーのトリミングで血がついたかっぽう着を見て、仰天。
そこで、鳥貴族でバイトしていることを初めて母親に打ち明けるに及んで、真実が明らかになった。
ある時、世界的音楽家の演奏会と鶏肉の仕込みとどちらを優先するかで悩むこともあり、店長に事情を聞いててもらい、バイトの休みをもらったという。