瀬戸内はアートの海

窓を額縁にして風景を見せると、その風景があたかも絵画のように見える。
そんな仕掛けで観光客を楽しませる美術館に一度立ち寄ったことがある。それは、南鹿児島の「笠沙(かささ)美術館」で、地元の美術家・黒瀬道則が創設した美術館で、額縁の向こうのビロー島と心に刺さる現代絵画をみることができる。
また、海外旅行して見たドイツのノイシュバンシュタイン城にも、窓枠が額縁なっていて、周辺のなだらかな原野が絵画で描いたように見事におさまっていた。
TVで瀬戸内海の美術館かホテルにもそのような”額縁風景”を見たことがあるが、いまのところ特定できていない。
さて映像の世界で瀬戸内を美しく表現したのは、尾道で生まれた大林宣彦監督である。
その尾道三部作(転校生・時をかける少女・さびしんぼう)で、主人公は、富田靖子や原田知世や小林聡美ではなく、尾道の町並み風景そのものであるといってよい。
また、推理作家の横溝正史は、1945年から3年間、岡山県吉備郡岡田村に疎開し、名探偵金田一耕助を生み数々の名作を書きあげた。
映画「獄門島」の実際のロケ地は、そこに近い岡山県笠岡市沖合いの六島である。
かつて海賊たちの本拠地だったこの島で、色鮮やかな衣をまとった3人の娘たちが、俳句になぞらえて無残に殺されてゆく。
閉鎖された島での血の系譜が織りなす惨劇であるが、市川崑監督は、その映像美によって、横溝文学が持つ殺人の美学を見事に表現した。
2025年5月NHKの番組「魂を揺さぶる島のアート革命〜プロジェクトXが描く直島の奇跡〜」というタイトルで放送があった。
直島の象徴といえば「地中美術館」。その名の通り、建物の多くが地中に埋まっている。
TV画面でみると、丘の上から見た美術館は小さな入り口だけが見える不思議な存在である。
一歩中に入るとそこは別世界で、モネの睡蓮やジェームズ・タレルの光のアート作品が、安藤忠雄の打ちっぱなしコンクリートの空間と完璧に調和している。
直島のもう一つの魅力が「家プロジェクト」。島の集落にある古い民家をアーティストがリノベーションした作品群である。
かつて直島の生活の拠点「角屋」は外見は昔ながらの民家なのに、中に入ると現代アートの空間。
また、草間彌生の「南瓜(かぼちゃ)」がアクセントになって、島の風と光と波の音が加わると、魂が震えるというのわかる気がした。
また、直島以外にもアートの輪が広がり、豊島の豊島美術館は、水滴のような形が印象的。犬島の精錬所美術館は、産業遺産を活用した空間。どれもここでしか体験できない。
パリのオルセー美術館は、もともと1900年パリ万博時につくられた壮麗な駅舎を大改造して産業施設から美術館に転じたということが思い浮かんだ。
豊島は日本最大の産業廃棄物不法投棄事件の舞台となり、一時は甲子園球場の容積のおよそ五倍、20mまで積み上げられ、異臭を放ち、醜悪な姿をさらしていた。
豊田商事事件で全国に知られた中坊公平弁護士を仲立ちとした住民の戦いにより、汚染土壌を処理して隣の直島に運び、リサイクルして資源化する「エコタウン事業」が、2003年9月から始まった。
そして今や、アートの島として注目されている。
では、こうした瀬戸内の島々のアート化はどうしてすすんだのだろうか。そこには意外な会社が原動力となっていた。
福武總一郎は、進研ゼミで成功した岡山に拠点をおく福武書店の創業者・福武哲彦の長男として生まれた。
早稲田大学理工学部卒業後、日製産業、日本生産性本部勤務を経て、1973年福武書店に入社する。
出版業は嫌いで教育にはまったく興味はなかった。
なお書店名は、同郷の実業家大原總一郎である。
1986そん、福武書店社長であった父の急死に際し、東京から岡山の本社へ戻り、代表に就任し、英会話教室のベルリッツを買収。
社名を福武書店から「ベネッセ」に変え、上場をし、介護事業にも参入、教育・介護の大手企業に育てた。
帰郷当初は環境の大きな変化に戸惑うが、数か月もしないうちに東京を離れたことの幸せを心底から感じるにいたる。
福武の目には、歴史もなく自然も存在しない東京は「人間」の欠けた都市と映り始めた。岡山への帰郷は、その数年後に社名を「ベネッセ」(「よく生きる」の意味)に変更するほどに、福武に大きな影響を与えたのである。
瀬戸内海の島々のアート化は、1991年、東京藝術大学を出て美術作家兼ライターとして活動していた秋元雄史(現東京芸大名誉教授)が、目にした新聞の求人広告を見つけたことにより動き出した。
ベネッセ(旧福武書店)が現代アートの美術館を開館するための学芸員を募集していて、そこに自分の居場所があると感じ、入社することができだ。
そして、ベネッセコーポレーションの企業メセナとして、入社1年後の1992年建築家安藤忠雄の設計による「ベネッセハウス・直島コンテンポラリーアートミュージアム」がオープンした。
秋元は、ホテルなのか美術館なのかという社内論争を乗りこえ、アート活動を展開してゆく。
しかし、華やかなオープニングが終わるとギャラリーに閑古鳥が鳴いたが、日本の現代アーティストを次々に起用し、客がはいりはじめた。
特に古民家をアート作品化する「家プロジェクト」をきっかけに住民とのかかわりも増え、島全体が活性化した。
そんな折、福武がモネの「睡蓮」を60億円以上で買うことを決め、直島に置くように命じたのだ。せっかく現代アートの島として認知されてきたのに、なぜモネなのか、と秋元は悩んだ。
そこで、モネを現代アートの文脈の中に置き、二人のアメリカの現代アート作家と並べる美術館をつくることを福武にプレゼンした。
それが、2004年、安藤忠雄氏設計の「地中美術館」として結実する。
秋元は直島にこだわりたかったのだ、ほかの島への展開を考える福武との方向性の違いにより、決別することとなった。
いまや直島をはじめとする瀬戸内の16島の島々が現代アートとかかわるようになり「瀬戸内国際芸術祭」が開かれる。
2025年4月23日に亡くなった大宮エリーは、「瀬戸内国際芸術祭」に作品を出展している。
島の玄関口・犬島港の近く、盆踊りが行われる広場に、島の草花をモチーフにしたカラフルな立体作品(フラワーフェアリーダンサーズ)が遊具のように置かれている。
どこか人が手を広げた形のようにも見えるこの作品につき、大宮は「犬島の皆さんが大事にされている盆踊りの場所に、それを盛り上げるべく、犬島の草花たちが、妖精になって盆踊りを踊りに広場の端っこにいる。そんなシーンを考えました」と語っていたという。
大宮エリーは、脚本家(「三毛猫ホームズの推理」など)やエッセイストなどとして多彩に活躍し、近年は画家・造形作家としても注目されていた。

大原孫三郎は、1880年、岡山県倉敷市の大地主で 「倉敷紡績(クラボウ)」を営む大原孝四郎の三男として生まれた。
跡継ぎとして育てられたが、広い世間を知りたいと、1897年上京して東京専門学校(現・早稲田大学)に入学したが、放蕩の限りを尽くして、高利貸しに多額の借金を作ってしまう。
父・孝四朗の命を受けた親族が孫三郎を倉敷に連れ帰り、高利貸したちとの談判をするが、父はその最中に脳溢血で倒れ、そのまま世を去る。
自責の念に駆られた孫三郎は倉敷とともに生きようと決心した孫三郎の最初の仕事が、義兄の残したマッチ会社の整理と、父の始めていた苦学生に「奨学金」を給付する会を軌道に乗せる事だった。
また働く若者のために、夜間の商業補習校の設立を図ったが、 校長となる孫三郎自身が23歳と若すぎるため、県当局は認可を渋ったが、県知事は「教育への熱情に年齢は関係なし」として認可を与えた。
さらに社会各層の人々が勉強する機会を作ろうと、新渡戸稲造、徳富蘇峰など一流の知識人を自費で招き、講演会を始めた。孫三郎はそれから24年間にわたり、76回の講演会を続けることになる。
「自分は勉強しない代わりに、他人に勉強して貰う」というのが、孫三郎の口癖だった。
孫三郎にとっても、自身が運営する「奨学金」を給付する会は大きな意味をもっていた。
1900年の夏、下原村(現・成羽町)の出身の若者が奨学金を求めて大原のもとにやってきた。孫三郎よりは一歳年下の東京美術学校に学ぶ児島虎次郎という若者だった。
風景画などを見せながら自己紹介をする若者に、孫三郎は好印象を持ち、奨学金を支給することにした。
児島は1907年、東京美術学校研究科在学中の26歳で、勧業博覧会美術展に一等賞に入るほどの才能をみせた。
しかし孫三郎が買ったのは、児島の才能よりも、素朴でまじめな人柄で、そんな児島を見込んで、ヨーロッパに5年間、留学させた。
これも、孫三郎の「他人に勉強して貰う」方法の一つで、自ら設立した社会問題研究所の大内兵衛ら6人、 労働科学研究所の2人、中央病院の5人など、学者・研究者が中心だったが、画家の児島や、音楽研究家、牧師などもいた。 その留学資金の多くは、孫三郎が工面している。
さて、1908年に渡欧した児島虎次郎は、翌年ベルギーのゲント美術アカデミーに入学し、1912年に首席で卒業し、大正と改元した同年11月に帰国した。
孫三郎は児島を倉敷の北酒津にある大原家の別荘に住まわせ、母屋から離れた所にアトリエを作らせた。絵を売ることを考えることなく、好きな仕事だけに打ち込むようにと、生活の一切の面倒を見た。
しかし、いつまでもここに篭っていては進境がないと、ヨーロッパへの再渡航をすすめた。
1919年6月、児島は2度目のヨーロッパ留学に出発した。児島は欧州で師や友人と会い、美術館や美術商を廻り、時間を惜しんで制作に励んだ。
児島の絵はパリでも高い評価を得て、フランス画壇を代表するサロン・ソシエテ・ナショナルの正会員にも推された。
そのうち児島は、自分が勉強するだけでなく、日本の画家たちの勉強のために、これはと思う名品を日本に持ち帰る事だと「絵の収集」をはじめた。
孫三郎が児島を送り出したのは、あくまで本人の進境を期待した為である。
児島は「絵を買いたい」と繰り返し手紙を書き、その熱意に、孫三郎は考え直した。児島の熱意は、孫三郎自身の教育への熱情に通ずるからだ。
「エヲカッテヨシ カネオクル」という孫三郎からの電報が届いた。
児島は画商に依頼するだけでなく、自分で画家のアトリエへも出かけた。児島はパリ郊外に住むモネを訪ねた。
当時モネは79歳。すでに一流画家として雲の上の存在だったが、白内障でほとんど視力は失われ、キャンバスに顔をくっつけるようにして描いていた。
モネは、日本の浮世絵の大胆な構図や色彩を愛し、自宅の庭に日本式庭園をつくる親日家としても有名だった。
児島は、モネに「日本の絵描きのために是非作品を譲って欲しい」と頼み、モネもその熱心さに心動かされたにちがいない。
モネは「今は大作に取りかかっている。1ヵ月したらまた来なさい」といって絵を譲る約束をしてくれた。
1ヶ月後児島が再訪すると、モネは日本の絵描きのためにと絵を数点用意してくれ、児島は、その中から「睡蓮」を選んだ。
1921年の春休みの3日間、倉敷女子小学校の2教室を借りて展示会 が開かれ、西洋画家の名作を集めた日本ではじめての展示会という事で、おすなおすなの大盛況となった。
それを見た孫三郎は、孫三郎に再々度の渡欧をすすめ、今度の渡欧では、孫三郎からすべて任されていた。
そしてパリの画廊でエル・グレコの「受胎告知」が売りに出されているのを見つけ、途方もない値段だったが、どうしても日本へ持ち帰りたいと考えた児島は、孫三郎に「グレコ買いたし、ご検討のほどを」と、写真を添えて手紙を送った。
孫三郎からは「グレコ買え、金送る」との返事が来た。
このエル・グレコの「受胎告知」が日本にあることは奇跡であるとさえ言われている。
孫三郎が儲けた金は、児島の夢を通じて大原美術館として結実し、今も日本人の財産となっている。
岡山を故郷とする画家といえば、美人画を描いた竹久夢二がいる。
竹久夢二は、1900年2月、岡山から北九州の枝光に転居し、創業時の八幡製鐵所で「図工」として働いていた。
竹久はわずか1年あまりで単身上京するが、家族はその後もなお1924年頃までこの地に住んでいた。
竹久は上京し早稲田実業で学ぶが、生活のために画を提供した絵葉書店で出会ったのが最初の妻たまきである。実は夢二式美人画の原点は色白、めもとぱっちりの「たまき」なのである。
竹久は、はじめは油絵を志したが、そのうち生活のために描いた「美人画絵葉書」が売れて大正ロマンを代表する芸術家となった。
東京では渋谷で暮らしていたが、福岡と再び接点をもつようになる。
明治の炭鉱王伊藤伝右衛門と柳原白蓮の「銅御殿」(あかがね御殿)が天神の福岡銀行あたりにあったが、白蓮の詩集の装丁を担当していた竹久夢二は、1918年8月に天神町の「赤銅御殿」に白蓮を訪ねている。
竹久の生涯を調べると福岡との接点が多い。
まずは竹久の生まれ故郷である岡山県邑久郡であるが、この地は一遍上人の絵巻で有名な「福岡の市」で知られ、黒田氏が博多に転封となった際に、この岡山の地名から「福岡」の地名をとっている。
また竹久夢二は、福岡県柳川に生まれの北原白秋との共通点が多い。
竹久は1年北原より上で、ともに造り酒屋に生まれ、ともに家出して上京し、同時期に早稲田に学び、ともに中退している。
また、互いに深刻な恋愛事件で話題となっている。
北原の実家は大火によって酒倉が全焼し破産、竹久の廻船問屋も破産している。
竹久は実家の破産後、神戸で1年に充たない中学生活を送り、北九州の枝光へと移り八幡製鉄所の下働きをしたことがある。
また竹久が異国の文化に興味をもち九州旅行を敢行したのも、北原白秋が長崎を訪れキリスト教文化にふれ、自らの処女詩集を「邪宗門」と名づけたのも似通っている。
我が地元なので枝光を訪ねると、スペースワールドの裏側には、竹久夢二通りがあり、その道沿いに10点あまりの竹久作品のレリーフが埋め込まれた一角があった。
そして山王の三叉路近くの病院あたりに「竹久夢二旧宅」の石碑があり、その近所の諏訪第一公園に竹久夢二の歌碑があった。
ところで、竹久夢二と北原白秋は、大正ロマンを飾るトップランナーであったのだが、彼らの間にはなぜ交流が生まれなかったのか。
逆にそれが不思議だとその謎を解いて本にした人と柳川で会ったことがある。
その人・安達敏昭氏は、新聞記事の中に両家の間に絵葉書についての著作権をめぐるトラブルがあったことをつきとめたのだという。
瀬戸内市には竹久家が住んでいた家がそのまま保存され、多くのファンが訪れている。
また岡山市には「夢二郷土美術館」が作られ、岡山カルチャーゾーンの一角として人気を集めている。