アメリカの歴代大統領45人のうち20人がその命を狙われている。
その大統領を警護するシークレットサービスの献身的な仕事が認められることはほとんどない。
スポットが当たるのは、失敗した時だけだと自嘲するエージェントもいる。
1961年1月 35代ケネディ大統領が就任。ケネディ大統領のもとに、それまでの大統領の3倍の脅迫状が届いた。
人種の平等を目指すその政策は、アメリカの伝統を破壊するものというものだった。
ケネディは人気を維持するために、遊説や視察を盛んに行った。
警護するシークレットサービスの出張は長引き、警護は深夜まで続いた。
ケネディは特別だった。浮名を流したの女性は少なくとも6人いて、エージェントは密会する部屋の前で延々と立ち続けた。
彼らは、事前に上司から忠告された。「君はこれからたくさん”くそ”みたいなことを目にする。大統領に関することだ。それについては忘れろ。自分のなかにとどめておけ。妻にも言うな」。
日本の平安時代に女性の元に通う皇族や貴族はどうだったであろう。その逢瀬に至るまで警護にあたったのは武士(侍)である。
10世紀後半、天皇と上皇が京都と奈良で対立しあった薬子(くすこ)の変で、蔵人所が設けられその下に「滝口の武士」がもうけられた。
「滝口」は詰所の場所を指すが、かたや院では「北面の武士」や「西面の武士」が設けられた。
彼らは、上皇の外出の際にはその警護に随伴したのか。それが”くそ”みたいな私用であっても、それが政局を大きく動かすこともある。
11世紀半ば、時の権力者は藤原兼家、かねてから自分の娘である詮子の子である懐仁親王(のちの一条天皇)の即位を実現するため、花山天皇の早急な退位を画策する。
そして次男道兼と策謀を用いて、花山天皇を出家させる。その際、道兼には、警固の武士までつけていた。
一条天皇を即位させることに成功し、権勢を極めた。
そして兼家の三男が藤原道長で、道長は兄道兼の子・藤原伊周(これちか)と権力争いを繰り広げたが、思わぬ出来事が味方する。
996年1月、藤原伊周、隆家兄弟が花山法皇に矢を射かける事件が起きた。
藤原伊周は、鷹司小路の邸宅に住んでいた為光娘・三の君に秘かに通じていた。この鷹司殿には、為光娘の四の君も住んでいた。そこに花山法皇が密かに通うようになる。
伊周はてっきり花山院が三の君の元に通っていると”勘違いし”、弟の隆家に相談した。
そして伊周と隆家は花山院が明け方近く鷹司殿から帰るところに矢を射かけた。この矢は花山院の袖を貫通し、花山院は大慌てで帰宅する。
花山院は法体にも関わらず愛人通いをしていたことが表沙汰になることを恐れ、事件を表沙汰にすることをしなかった。
伊周からすれば計算どおりだったかもしれないが、どこからかこの話を聞きつけた藤原道長は、これを「伊周追い落とし」のチャンスと考え、動き出す。
そして伊周と隆家は敵失で失脚する。兼道の長男藤原道隆(伊周の父)は、日頃の大酒飲みが祟って急死。その後、次男の藤原道兼が関白・氏長者に就任するが、道兼は流行病で没していた。
藤原道長は「氏の長者」をめぐる対立において、さしたる策謀を弄することもなく勝利者になるのである。
さて1963年11月22日、テキサス州ダラスをケネデイが訪れる運命の日、大統領夫妻の到着を大勢の人々が迎えた。
南部は人種平等を求める政策に反発が強い土地であった。再選にはここでの支持が必要だった。この時、28人のエージェントが警護に当たっていた。
ケネディと妻ジャクリーンをもっとも近くで警護していたのが、31歳のクリント・ヒルだった。
シークレットサービスはパレードの直前、ケネデイからある指示を受けていた。「シークレットサービスは後ろの車にしてくれ、もうすぐ選挙がやってくる。私にとって重要なのは国民との距離の近さだ」。
大勢の人々がいる時は、大統領専用車のステップに立つことになっていたが、それが許されなかった。
容疑者がいるエルム通りに入った時、教科書会社の倉庫から3発の銃弾が発せられた。
1発目はケネデッィののどを襲い、2発目ははずれ、3発目は頭部に命中した。
現場写真によれば、他の警護官は音の方向に反応しているのに、ヒルだけは大統領をみている。ヒルはケネデイの異変に気づき、大統領専用車は走り出した。
ヒルとケネデイとの距離は6メートル、3ッ発目発射まで6秒あった。
ヒルは早く狙撃者と大統領夫妻の間にはいらなくては。これ以上ない位の速さで走った。車に手が届きそうになった時、3発目の銃声が聞こえた。大統領の血や脳の一部が全身にふりかかった。
また撃ってくるだろうと思い、脳を拾おうと後部にはい出したジャクリーンの腕を掴んで席に戻らせた。そしてさらなる銃撃に備え、ジャクリーンに覆いかぶさった。
そして車は全速力で近くの病院に向かったが、銃撃から30分後の午後1時、大統領の死が発表された。
ケネデイ暗殺から1時間半後、ジョンソン副大統領が大統領専用機の中で、大統領就任の宣誓をした。
容疑者のオズワルドは、事件の二日後暗殺され、ケネディ暗殺の真相は謎を残したままとなった。
それから約20年後の1981年 第40代ロナルドレーガン大統領が就任。警護部長のジェリー・パーである。クリント・ヒルの4年後輩で、
ケネディ暗殺の時、シークレットサービスの一員として強烈な敗北感を感じていた。
ケネディを守れずアルコール依存症になったクリント・ヒルのことが目に焼き付いていた。
このようなことは自分の警護下では起こさない。知力・体力・すべての持つ力を注ぐという気持ちで臨んだ。
大統領就任から2か月後の3月30日、パーはワシントンのホテルでスピーチを行うレーガンの警護についていた。
この日、エージェント66人で警護にあたっていた。スピーチを終えホテルを出てきた時、大きく鋭く耳をさすような音が聞こえた。19年間この音を聞くことがないことを願っていた。
最初の銃声がしたとき、パーは大統領のズポンのベルトをつかみ、右手で彼の頭を押さえ車に押し込んだ。専用車の車をあらかじめ開けていたいたこと、パーの反射的な行動が大統領の命を救った。
大統領を救った者がもう一人いる。若手のティム・マッカーシー。身を投げ出し、大統領の弾除けとなったため、銃弾を浴びていた。
この銃撃で4人が負傷したが、マッカーシーは肝臓を貫かれる重傷だった。
容疑者はその場で逮捕されたが、犯行動機は、世間の注目をあびたいという理由だった。
レーガン大統領も負傷していた。防弾ガラスから跳ね返った弾があたり、心臓からわずか2.5センチのところに弾が当たっており緊急手術が始まった。
パーにとってレーガンはシークレットサービスを目指すきっかけとなった人物であった。
パーが9歳の時に見た映画「シークレットサービスの掟」(1939年)で、主演は当時二流俳優のレーガンだった。はらはらする瞬間が次から次へと現れた。そして危機一髪の脱出。
パーによれば、レーガンの顔にはいかにもアメリカ人らしい笑みが輝いていて引き付けられ、パーの中で何かが目覚めたのだという。
レーガン暗殺未遂事件から12日後、レーガン大統領は無事退院した。弾除けとなったジムマッカーシーの手術も成功していた。
パーはレーガンに幼いころみた映画の話をした。レーガンは、「あれは私の一番安物の映画のひとつだ」と笑った。
1936年2月25日、東京は記録的な大雪に見舞われた。雪が深々と降り積もる中、総理官邸は和やかなお祝いムードに包まれていた。
その主人の総理大臣・岡田啓介は、選挙を終えたばかり。官邸にいたのはいつも岡田啓介を身近で支える人ばかりあった。
その中には、岡田総理を父のように慕う秘書官の福田耕(ふくだたがやす)がいた。
秘書の福田が自分の官舎に戻ったのは日付もかわった26日の午前1時過ぎであった。そして午前5時ごろ、凄まじい銃声が静寂を破り、目が覚めた福田は外を眺めた。
福田の目に飛び込んできたのは、数多くの歩兵部隊が向かいの首相官邸を取り囲んでいる姿であった。
彼はすぐに官舎を飛び出そうとしたが玄関に居た兵に制止された。
後にわかったことは、この日、首相官邸を襲ったのは陸軍の歩兵部隊約300人、同じ頃には別の部隊が警視庁などを襲撃、陸軍省を含む東京の中枢を占拠した。
異変を知って官邸に松尾伝蔵陸軍大佐が私服警官とともに駆けつけた。
そして、間もなく襲撃部隊が官邸になだれ込んできた。
見つかるのは時間の問題だった。
そんな中、福田は応援を頼もうと、憲兵隊曹長に電話を掛けるが、かつてない大クーデターの前に為す術がなかった。
そのとき福田が耳にしたのは、兵たちの万歳の声、それは岡田首相の殺害を意味するものだった。
そして襲撃から4時間経った26日午前9時、寝室には遺体が安置された。
首相官邸は襲撃部隊に完全に制圧され、静けさを取り戻していた。
福田は同僚の秘書官を伴い線香を上げたいと官邸の中に入った。ところが寝室に通された二人は予想もしない事態に直面した。
遺体は岡田首相ではなく義弟で私設秘書官の松尾伝蔵大佐だったのだ。
そして二人は女中部屋に向かった。そこには身を固くして座り込んだまま動かない女中たちの姿がいた。
尋ねると女中の一人が「お怪我はありません」と答えた。
福田たちはこのとき岡田首相が無事であることを直感した。
さらに女中たちは押入れの前から動こうとしないのに気づいた。
福田らは、適当な理由を作り将校を女中部屋から遠ざけ、押入れの中の首相の生存を確認した。
事情を聞くと襲撃直後に、捜索を続ける下士官により押入れが開けられるが、女中の「料理番のお爺さんです。風邪をひいて休んでます」の答えに下士官は部屋を立ち去ったという。
女中たちは怯えて動けないふりをして首相を守り通してきたのだった。
それでは、岡田首相と誤認されて亡くなった松尾伝像大佐に何が起きていたのか。時間を遡ってみよう。
松尾伝蔵大佐は、襲撃部隊の侵入を知って岡田首相を女中部屋の押入れに押し込むと自らは庭に立ち襲撃部隊を待ちうけた。
襲撃の下士官の「撃て!」の一声で一発の銃弾が松尾大佐の顔面を捉え、松尾大佐は即死した。
襲撃部隊のリーダー格の香田大尉、栗原中尉らも将校らも岡田首相と面識は無く、欄間に掛けてあった肖像画と見比べ「岡田首相本人」であると判断したのだ。
実際に、岡田首相と松尾伝蔵は、顔や体型がよく似ていた。
そして福田は、岡田首相を救援に動き出した。
政府に応援を要請するため宮内省に使いを送る一方、官邸内を歩き襲撃部隊の警戒態勢を調べた。
岡田首相が隠れていた女中部屋の押入れから脱出するには廊下を通って玄関に出るしか道はなかった。
しかし見張りの兵が寝室前と玄関に立って常に警戒しているため、通過するのは至難の業だった。
ところが事件発生から14時間が経った午後7時、ラジオや新聞の号外が岡田首相の死を伝えた。それを聞いた親戚が早く弔問させるよう訴えてきたのだ。
27日午前9時かつて福田応援を求めた憲兵隊曹長がやってきた。
彼も女中から岡田首相が無事であることを知った。
そしてこの二人の出会によって「奇跡の脱出劇」が始まった。二人が考えたのは、次のような奇想天外な作戦だった。
まず弔問客を官邸内に入れ、小坂の部下たちが兵の注意を逸らし、岡田首相を焼香を終えた弔問客ということにして玄関を通過させ車で脱出するというもの。
寝室と玄関の見張りに怪しまれずに通過できるかが成功の鍵を握った。
弔問客の誘導から首相の脱出まで各人の役割分担が決められた。
福田は弔問客を入れさせてほしいと頼み、交渉の結果10人程度という条件で許された。
一方、憲兵隊軍曹は岡田首相を弔問客に変装するための着替えを用意し、部下が見張りの注意を引きつける間に、女中部屋に届けることができた。
そして27日午後1時、いよいよ作戦が決行された。
予定通り弔問客が官邸内に足を踏み入れ、しばらくして岡田首相を廊下に連れ出した。
ところが心神を消耗した岡田首相は歩ける状態ではなく、福田と軍曹で抱きかかえるように部屋を出た。
寝室の見張りを突破し玄関前の廊下を進んだが、慌ただしく走ってきた3人にただならぬ気配を感じたのか、見張りの兵が身構えた。
尋問しようとしたその瞬間、軍曹はとっさに「病人だ、死体を見たからだ」と答えた。
見張りの兵は、最後まで弔問客が1人多いことに気が付かなかった。
そして3人は遂に玄関を出た。直後、岡田首相を乗せた車は官邸を脱出。事件から32時間が経った午後1時20分、首相は無事救出された。
救出後「君、たばこを持っているか?」が総理の初めての言葉であった。
その2日後、二・二六事件は終結した。周囲の命懸けの行動が首相暗殺という事態を防いだ。
命を救われた岡田啓介首相は、事件を防げなかったことに責任を感じ辞職し官邸を去った。
そして事件から16年後に84歳でこの世を去った。
岡田元首相は、2・26事件で、自分を守って亡くなった5人の位牌を作り自宅で供養し続けた。
ところで、昭和天皇が「狙撃」されたことがあるといったら、多くの人は驚くかもしれない。
ただしそれは皇太子時代のこと。銃弾はハズレたものの、車の窓ガラスを破って同乗していた侍従長が軽症を負った(1923年虎ノ門事件)。
狙撃犯の難波大介は、その場で取り押さえらえれた。
ところで、一度狙撃された経験をもつ昭和天皇が21年から29年にかけ8年間にわたる「全国地方巡幸」の勇気は大したものだと思う。
国中をまわって戦争で多くを失った国民に声をかけ励まされたが、決死の覚悟がなければ、全国巡幸などできなかったに違いない。
虎ノ門事件における警備の「現場指揮官」だったのが、当時警視庁・警務部長の正力松太郎で「懲戒免官」となり、その後読売新聞社長におさまっている。
正力は、アメリカの野球を習いに武者修行にでかけていた野球人を集めて「職業野球」を構想し「読売巨人軍」を創設する。
そして正力の執念で実現したのが、1959年6月25日の天皇臨席の試合。この日の後楽園球場での巨人・阪神戦は史上初の「天覧試合」である。
この時ロイヤルボックスには、天皇・皇后・女官2名、セ・パ両リーグ会長を含む20人の幹部たちがいた。その幹部たちの一人が正力松太郎であった。
試合は4対4で新人投手の村山がマウンドに上り7、8回を抑え、9回裏先頭の長嶋茂雄に立ち向かった。
そして2ストライク2ボール、長嶋の打球が左翼スタンドに吸い込まれ、ドラマは終わった。
ちなみに、両陛下が野球観戦できる時間は21時15分までで、両陛下退席まで「残り3分」の劇的幕切れだった。
それは「虎ノ門事件」で懲戒免官となった正力松太郎のリベンジの機会でもあったにちがない。