ロサンゼルスの山火事の映像をみながら、なにかで読んだ「火」「空気」「水」「土」の循環の話が思い浮かんだ。
古代ギリシア人は、火と水と空気と土を「四元素」の離合集散ととらえていたが、映像の中に目にみえるのは、元素としてではなく、大地の現象としてである。
現代社会は、シンボリックにいえば「火」が生み出した社会である。特に火と関わりが深い物質が「鉄」で、古代から現代文明までそれは一貫している。
日本のヤマト王権がどうして権力を握ったのかについて、最近の教科書では「鉄」といいきっている。
ヤマト王権は百から朝鮮半島南部・弁韓の地の鉄に目をつけ、そこから鉄を獲得するルートを確立していた。
ヤマト王権の王は当時「おおきみ」とよばれていたが、埼玉や熊本の古墳から出土した鉄剣や鉄刀に「ワカタケル」の文字が見つえるのは、「おおきみ」から各地の権力者に、下賜されていたと推測される。
ちなみに、「ワカタケル」は5Cの雄略天皇と推定されている。
また、奈良県の古墳に、「鉄の延べ板」が数多く出土しているが、朝鮮半島南部の古墳から出土した「鉄の延べ板」とそっくりであることから、それらが輸入していたことがわかる。
逆にいえば、当時ヤマト王権には、鉄が作れなかったのだが、日本で鉄が作られたことを示す神話がある。
出雲のヤマタノオロチ伝説で、ヤマタノオロチの体そのものが「野だたら」製鉄で炉から流れ出した銑鉄を表しているとみなされるからだ。
さて「ギリシア神話」にも、「火」にまつわる伝説がある。
プロテウスは土と水から神の形を象った人形を作った。それを気に入ったゼウスは生命の息吹き吹き込み人類を創造した。
ゼウスが人間と神を区別しようと考えた際、プロメテウスはその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。
彼は大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。
そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。
プロメテウスはゼウスが美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるように計画していた。
ゼウスは騙されて脂身に包まれた骨を選んでしまい、怒って人類から火を取り上げた。
この時から人間は、肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命を持つようになる。
プロメテウスは、ゼウスによって火を取り上げられ、自然界の猛威や寒さに怯える人類を哀れみ、火があれば、暖をとることもでき、調理も出来ると考え、ヘーパイストスの作業場の炉の中にオオウイキョウを入れて点火し、それを地上に持って来て人類に「火」を渡した。
人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その火を使って武器を作り戦争を始めるに至った。
「火」がもたらした文明は、現在「地球温暖化」をもたらした。その影響がもっとも先鋭的に現れるのが「極地」である。
2025年1月現在、世界最大の氷山が南極海を漂流している。その巨大氷山が「野生生物の楽園」と呼ばれる島に衝突する恐れがある。
巨大氷山の面積は、東京都の1.6倍で、厚さは東京タワーを超えるおよそ400メートル。世界最大の氷山で、なぜこんな巨大なものが漂い始めてしまったのだろうか。
極地の温暖化で湖が形成されると、その水が氷の隙間から、氷山の下に流れ込み、浮力が生じて大陸からはずれてたからである。
そして、あと数週間で衝突する恐れがあるイギリス領「サウスジョージア島」には、それはペンギンやアザラシなどが生息する。
サウスジョージア島はおよそ3700平方キロメートルで、氷山とほぼ同じ面積。もし氷山が島に衝突したら、どのような影響が考えられるのか。
専門家は、海底にたまっている土砂が巻き上げられ、氷が砕けてその周辺は氷山が散らばる。
生き物にとっては餌を取りに行くルートが断たれるので、陸の上に生活しながら海で餌を取っている動物にとって、大きな影響がでることにちがいない。
CNNによると、2010年に南極大陸に生息するペンギンの群れが、およそ2900平方キロメートルの氷山によって餌場までの道を閉ざされ、16万羽だった群れが1万羽まで減った事例があるという。
専門家は、せいぜい100年ぐらいのこれまでの経験ではわからないようなことが起きる可能性があるという。
さて大地が森を失い熱を増すと、空気が暖められ空気が動く、つまり風となり、風は砂塵を巻き上げる。
アメリカのジョン・スタインベックは映画化された「エデンの東」という名作があるが、小説「怒りの葡萄」には、1930年ごろの中西部の荒れた農地を捨て、西へ西へと向かう農民が描かれている。
スタインベックは東部のイリノイ州シカゴと、西部のカリフォルニア州サンタモニカを結んでいた国道を移動する人々を次のように描いている。
「第66号は逃亡する人たちの道である。土埃と荒廃の土地から、咆哮するトラクターと衰微する所有権から、南からゆっくりと侵入してくる砂漠から、テキサス州から吠え立ててくる嵐から、土地になんの豊かさももたらさず、かえってそこにあるわずかな財産を奪う洪水から、避難する人たちの道だ」。
この小説の「砂嵐」の描写は圧巻であるが、工業化のもたらした負の遺産が「ダストボウル」と呼ばれる砂嵐となって現れたのである。
一方、1983年から89年までNHKで放映された「大草原の小さな家」は、遡って大農場地帯が形成される前の「西部開拓時代のアメリカ」を描いたドラマで、自らの手で自然を切り開き、家族同士が深い愛情で支え合うといった理想化された開拓生活の様子が描かれている。
このドラマでは、インガルス一家が1870年代から1880年代にかけて、幌馬車でアメリカの中西部ウィスコンシン州―カンザス州―ミネソタ州―サウスダコタ州と移り住んでいる。
ここでは、米中西部に入植した白人農民は、作物を植えるため大平原を耕したことがわかるが、約60年後この地域を大砂塵が襲うのである。それが「怒りの葡萄」で描かれた時代である。
オクラホマ州から25万人という巨大な流民があふれ、彼らは3000キロも離れたカリフォルニアを目指すのである。
流民にとっての希望はカリフォルニアの果樹園で、果実を摘み取る季節労働者になることが夢であった。
しかし、労働市場の競争は激しく、賃金はきわめて低いものであった。
そしてオクラホマ出身の彼らは「オーキー」という蔑称で差別されることにもなった。
映画化された「怒りの葡萄」では、若き日のH・フォンダ演ずる主人公トム・ジョードが刑務所を仮出所し、実家に帰るところからは始まる。
折からの砂嵐の中、トムたちは家にたどり着くが、家には誰もいない。
トムの留守中、一体何があったのか。途方に暮れるトムたちの前に近在の農民ミュリーが現れ、事情を説明する。
彼によると、この地の小作農たちは、干ばつとそれに引き続く大砂塵、そして1台で小作農15戸分もの働きをするキャタピラーを備えたトラクターなどの大型農業機械のために農地を追われ、新しい仕事と土地を求めて次々にカリフォルニアへ向けて移動しつつあるという。
結局、ジョード一家も土地を追われることになり、新天地カリフォルニアを目指す旅に備え、家財道具一式を売り払う。
それで200ドルを得た一家は、おんぼろトラックを購入し、それに必要最小限のもの一切合切を詰め込んでカリフォルニアに向けて出発する。
彼らを追い出した「元凶」は何なのか。
直接、家を押しつぶしたのはブルトーザーとその運転手だが、もちろん、運転手の背後には彼を雇っている「会社」があり、さらにその背後には会社に金を貸している金融資本、すなわち「銀行」がある。
こうした容赦の無い資本主義経済というシステムに対する憤りと、人々の間に生じた経済格差についても書いているは、「怒りの葡萄」というタイトルに込められている。
「西部では、移住民が国道に増加してくると、恐慌が起った。資産のあるものは、その資産のために恐怖にとらわれた。かつて飢えたことのない人々が飢えた人々の目を見た。なにひとつ、ひどい不自由をしたことのない人々が、移住民の中に欲望の炎を見た。そして町の人びと、おだやかな近郊の人々は、自分を防衛するために寄り集まった。彼らは、自分たちのの方が善で、移住民の方が悪だと、むりにも自分に言い聞かせた」。
ところで原作者のスタインベッグの両親は共稼ぎで生計をたてていたため、その息子を大学にやる資力に欠けていた。
彼は奨学金でスタンフォード大学にゆき、結局、資力が続かず中退した。専門は海洋生物学であった。
というわけでスタインベックの文学には、人間を社会的存在ばかりではなく「生物レベル」の視点からみる点が特徴である。
原作で、カリフォルニアに大量の果実や穀物が実っているのに、一方には飢えた人々が多くいるのに、それらの果実や穀物が収穫されず、むざむざと腐れ果てていく様子を描いている。
なぜ、こういうことが起こるのか。大農園・大資本による果実の価格操作と農業労働者に対する賃金操作の結果なのである。
かくて、富めるものは一層豊かになって土地と資本を増やしていくが、貧しいものは一層貧しくなり、わずかに持っていた農地までも失ってしまう。
スタインベックは、社会的問題にとどまらす、大農場の開拓が異常気象をもたらすという「生態的」な問題を含んでおり、それは現代的な視点から見直してみるとなお色あせることなき作品である。
農民たちを土地から追い立てたもう一つの原因である「大砂塵」は果たして単なる「自然の猛威」とした片付けられるか、という問題である。
大砂塵に最も激しく見舞われた地域がオクラホマ州やカンザス州を中心にした、アメリカ中部の「大草原地帯」であったことを考えると、単に天災とばかりは言えない側面が浮かび上がってくる。
というのも、この地域は、そもそも年間を通じて降水量が少なく、その意味では耕作には適さない土地だったのである。
この地域の土壌・気温・降水量などに最もふさわしい植生は背の高くない草であり、それゆえ大草原が拡がっていたのである。
前述の『大草原の小さな家』で描いているように、19世紀から20世紀にかけて、多くのフロンティア・スピリットに溢れた開拓農民が草原地帯に入植し、開墾して耕作を開始したのだった。
このような努力は、一時的にはアメリカの農業生産力を高め、特に第一次世界大戦中、アメリカはヨーロッパの穀物倉庫として多大の利益を挙げた。
しかし、この地域の開墾は、生態学的にみれば、安定した状態にあった極相の破壊、あるいは「生態系の破壊」を意味していた。
そして本来、耕作に適さず、むしろ草原を利用した牧畜に向いている土地を強引に耕作地にしたツケは、いつかは払わねばならない。
耕作によって表面を覆っていた草を失い、露出した土地は、この地方をしばしば襲う干ばつによって乾燥し、1930年代、折からの強風によって砂塵となって舞い上がった。
そのように考えると、痩せた土地を、多大のエネルギーを使って開墾し、努力の割には多くを報われず、挙げ句の果ては、農業の資本主義化に取り残され、土地を追われたジョード一家のような開拓農民たち。
彼らには残酷な言い方だが、「大砂塵」は開拓の結果として起こった「人災」とも言えそうだ。
スタインベックの生態的・生物学的視点からみると、農業地帯というのは自然界の異常な単純化、いわば「自然界の変態」であることを思い知らされる。
アメリカの色分けされた農業地帯を見る時、南部のコットン(綿花)ベルト・中西部のコーン(とうもろこし)ベルト・北部の小麦地帯、中部の放牧地帯・東部の酪農や混合農業地帯に分けられている。
これらを「適地適作」を旗印に、穀物メジャーとよばれるアグリビジネスとよばれる大企業が経営を行っているのだ。
火から水から空気ときて、最後は土の話をしたい。
ところで「農業」とは、人間にとって都合のいいものだけを育てようとする試みである。
狩猟から農耕に移った時、人類はたくさん種子を得られる単年生作物に注目し、単年生作物が生き残れるようには工夫をしなければならない。
その一方で、その土地や環境に最も適応した植物が雑草で、ハンディキャップなしで競争すれば、作物の分が悪い。
そこで人はすきなどを使って耕すことで、土壌環境を一変して雑草を根絶しようとした。
「耕す」ということは、土壌を白紙状態にすることで、土の中から他の植物を一掃し、育てたい作物が生き残るための最良の機会を与えることである。
ほかの植物が群生していると、必要とする水、栄養、日光を奪われてしまう。
水分と栄養を確保し、日光があたるようにすることで、単年草は潜在能力を最大限に生かせるようにした。
「耕す」ことで、雑草を抑え、種をまく苗床を準備し、肥料を土に混ぜ込む。これにより作物の種子は、雑草よりも早く発芽して競争に勝てるというわけだ。
確かに、こうした効果は短期的には農家にとって利益になるが、長期的には土壌の侵食や有機物の減少をもたらし、土を劣化させていることが、ますます明らかになってきた。
地球は46億年の歴史のうちの最近の5億年で土ができている。
国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)によると、世界の温室効果ガス排出量約520億トン(CO₂換算)のうち、農林業などの土地利用によるものは4分の1を占める。
土壌は巨大な炭素の「貯蔵庫」で、大気には約3兆トン、森林などの植生にはCO₂に換算すると約2兆トン分がたまっているとみられているが、土壌にはその2倍以上の5.5兆~8.8兆トンがあるという。
表土だけでも約3兆トンを貯蔵している。
「耕す」ことで、植物の根や微生物が地中にため込んだ炭素が大気中に放出されるのである。
「農業は工業ではない」「土壌の力をないがしろにしていいのか」という危機感が、急速な工業化と同時代に示されていく。
巨大な土ぼこりが黒い雲となって東海岸にまで到達し、これをきっかけに「不耕起運動」が起こりった。
そして、アメリカ政府は「土壌保護局」をつくって、この時期に「循環」を重視する様々な農法が誕生していることは、注目に価する。
ところが、第2次世界大戦後には、もう一度「農業の工業化」に向かうアクセルが踏まれた。
それは、「トラクターの登場」という20世紀に決定的ともいうべき変化が起こったためである。
トラクターは内燃機関を持ち、非常に短時間でかつダイナミックに土を深く耕すことができるようになった。その功罪は、「怒りの葡萄」でも描かれた。
低所得者はわずかな賃金で作った食糧を、わざわざエネルギーを使って輸送し食肉や燃料生産に使うことで、「気候変動」という脅威を大きくして食糧生産自体を危機に追い込んでいる。
「火」からはじまった文明が、今日の技術をもってしても対応し難い山火事の頻発をもたらし、さらに地球温暖化を加速させている。