平安時代の白河法皇の言葉に「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」という言葉がある。
白河法皇と比較するのもなんだが、幼き日のわが心をザワつかせたもの3つをあげよといわれたら、「食品サンプル、映画の看板絵、マネキン」をあげたい。
この3つのアイテム調べてみると、いずれも大きな功労者とでもいうべき人物が存在した。
まずは、食堂のガラスケースの中の食品サンプル。まるで魔法としかいいいようのないリアルさ。
焼うどんがイカ墨のように黒ずむほど手入れしてないものもあれば、中には、宙に浮いたフォークにパスタがまいた斬新なものまである。
今どき、料理メニューは、ホームページでみれば確認できるのだが、昭和の料理サンプルはどうやって作っているのであろうか。
なにしろ日本で生まれ、日本にしか存在しない食文化のひとつ。それは、大正の終りから昭和のはじめ、三人の日本人が関係しており、そのうち二人までが医学模型からの「転向組」なのである。
西尾惣次郎(にしお・そうじろう)は、ノーベル賞受賞者(田中耕一)を生んだ京都の島津製作所で、寒天で型を採って植物・病理サンプルをつくっていた。
大正時代から昭和の時代へと移行する頃、デパート、まだ百貨店が増え始め食堂がにぎわってくる。すると食品サンプルが必要になったけど誰もつくれない。そこでで、島津製作所に依頼がきた。
そして西尾惣次郎が食品サンプルを作り、後に京都市東山に「西尾製作所」を設立している。
もう一人の医学出身から食品サンプル製作者は東京にいた。
関東大震災が起き、東京日本橋の白木屋百貨店も被害を受け、急ぎ仮店舗をつくった。
この仮店舗では、木馬などの遊技場も作り、食堂を設けたが、この食堂に医学関係の須藤勉が食品サンプルを作って、店頭に陳列した。なお、白木屋仮店舗では食券制度もスタートしている。
さて食品サンプル制作の最大の功労者が岩崎滝三である。
岐阜県郡上八幡に生まれた岩崎の父親は、木彫や書が得意で、滝三も幼い頃から絵が上手だった。
自伝に「子供の頃は気弱なイジイジとしたご性格」と書いている。
「いじめられっ子で一人遊びが大好き」とかで、ある日、使い終えた筆の供養のためにちょうちんに火をともすと、水たまりにろうそくのロウが落ちた。
「梅の花びらのように白く咲いてかたまった」と感じた少年は、ロウを畳や布に押し付けて模様を写して遊ぶようになり、それを「ろうの彫刻」とよんだ。
大人になって同郷のすずと結婚して大阪にでて職を転々としていた頃、「本物そっくりの食品見本を見た!」とという噂を聞き、「きっとそれそれはロウだろ」とピンと来た。その食品見本を取り寄せたいと思ったところ、親戚が本物そっくりと食べ物の模型をもってきた。
それは料理のイメージを伝える見本が必要なため、人体模型などの作り手がロウや石膏で料理の模型を作ったものと推測した。
夫婦が入手したサンプルは京都の西尾惣次郎のものだった。
滝三は、画才のある自分ならもっと精巧に作って新たな産業に出来ると考えた。
滝三は、すずと自宅で模型で試作を重ねた。型を採り、パラフィンを流し込めばいいと考え、ゼラチン、寒天、石膏の型で実験すると寒天がいちばん。
パラフィン(石蝋)はリアルだけどもろい。「紙か綿くずで裏打ちしてみたら?」と妻のアイディアをためしてみると、これで大成功。
すずが台所で作ったオムレツの周りに、溶かした寒天を流して型を取る。寒天が固まったらオムレツを外し、ロウ(パラフィン)を流し込む。
固まったロウに滝三が絵筆で彩色する。出来上がりを見たすずも本物と見紛うばかりの出来栄えだった。
1932年、作品第一号の誕生だった。
この第一号オムレツ・サンプルを「記念オム」と名づけ、夫婦で乾杯したという。
そして岩崎は食品サンプルで事業を始める。
岩崎は営業にも力をいれた。サンプルをあちこち見せ歩き、顧客を増やしいった。
料金設定は、レンタル方式が顧客にも経営者側にも都合がいいと考えた。
というのは、メニューが変わったり、サンプルが汚れているとすぐに引き取り手入れをすることにしたからである。
仮に100円のラーメンだと、貸料を月々10倍の1000円に。
飲食店は、それまで本物を作って飾り、その日に捨てていたから30日分のロスになるので、コストが3分の1になる。
1932年大阪市北区に「食品模型岩崎製作所」を創業、ついに食品サンプル産業がスタート。
これをもって世界にひとつ、日本発の日本にしかない食品サンプル業のはじまりである。
ヨーロッパにも食品サンプルはない。メニュー第一の文化で、フランス人などは現在でも10分から15分はメニューで議論するのが普通で、実際にこれが楽しいみたいである。
さて日本では、大正から昭和にかけ、サラリーマンという中産階級が登場、この方々に喜ばれる百貨店が必要に。阪急電鉄、甲子園、宝塚歌劇などを創立した小林一三(こばやし・いちぞう)も、洋食が普及するにつれ「これからは食堂中心の百貨店を作る」という理念とも合致した。
そして当時日本一の大食堂「阪急梅田食堂」をつくった。このスケールだと、メニューを見て注文、帰りに代金支払い方式では間にあわない。
メニューの種類も数も増え、混雑をふせぐためにも食品サンプルの需要が増えていったのである。
戦争中、岩崎滝三は、故郷郡上八幡へ疎開する。その間も、研究し続け技術開発を。統制品のパラフィンを節約する方法を考え出す。
0.05%までにしたのでほぼゼロに。その方法は珪藻土にフノリをまぜ、石膏の型に入れて固める。これをガスで急速に乾燥するという。
現在は合成樹脂を使っているが、当時のパラフィンは貴重品だった。
戦争が激化すると食糧難となり何もない。そこで「ない食糧」をビジネスにした。
戦争であるからには、人が亡くなる。すると葬儀が営まれ、死者に心ばかりのご馳走を供したい気持ちとなる。死人であるから実際にを雇用しつつ、「葬儀用供物」を作ってたのである。この発想は的を射ていて、戦争を乗り切ることができた。
東京にも進出し、日本が高度経済成長へと向かう中、東京では喫茶店が大流行。すると、コーヒーはもちろん、スパゲッティ・ナポリタン、パフェ類、デザート、ケーキなどのサンプルが必要になり、結果としては東京でも成功
することが出来た。
現在も郡上市八幡町には、「岩崎模型製造株式会社」があり、敷地内の「サンプルビレッジいわさき」には体験施設や展示コーナーもある。
また、長良川鉄道には「食品列車鉄道」もはしり、郡上八幡自体「食品サンプル」の町とよばれるほどだ。
福岡県春日市に本拠を置くユニークな屋号の看板業者「看板奉行」。広告塔、ネオン塔、ディスプレイ塔などあらゆる看板の製作を行なう。
創業60年を超える老舗だが、興したのはかつて福岡で「映画看板の神様」と言われた人物だ。
我が青年期に至るまで最も視覚に訴えるのが、映画館に掲げっれた看板絵である。
福岡市は、かつて面積あたり日本一の映画館の数を誇った。
ピーク時には中洲エリアに21館あったとされる。
福岡市出身の芸能人が多いのもそのことと関係があるのでないかと個人的に思っている。
1922年、アインシュタイン博士の公演も「大博劇場」という映画館で行われたのだ。
福岡の街を飾った映画絵を書いた中心人物が、城戸久馬之進である。
映画館のほとんどの看板を手がけた。
「荒野の7人」「駅馬車」などの西部劇や「失われた世界」などの話題作も手掛けた。
城戸は1918年2月飯塚に生まれた。尋常高等小学校卒業後、14歳で周りから絵の才能を認められてはいたが家庭の事情により、美術大学進学への夢ならず商業絵画の工房へ入門する。
ところが、師よりの絵画指導は無く独学で技術を習得し師匠に認められ18歳で独立する。
その後21歳にて招集を受け戦地へ出征し4年間の兵役を経て
除隊したあと小倉兵器工場に勤め終戦を迎える。
しばらく映画業界から遠ざかるも生活に貧窮し、1947年「映画広告業界」への復帰を思いながら、福岡の地に可能性を求めた。
その後、若かりし日の才能に新たなる磨きをかけ商業美術(映画広告業界)でメキメキと頭角を表わし「城戸画房」を設立、多くの弟子を育て優秀な人材を輩出する。
指導においては、我が身の独学という苦労を弟子にはさせまいと厳しく徹
底した指導にあたる。
その絶頂期には全国から福岡に優れた絵描きありと訪問者多数あり、「日本-」との声もあった。
ハリウッド関係者がプロモーションで福岡を訪れた際城戸氏の看板を見るや「アメリカにもこれだけのものを描ける人物はいない」という最大級の賛辞を得た。
1963年社名を「城戸工芸社」と改め長男に会社を任せ45歳で引退する。
城戸は博多の祭りも愛し、引退後には「山笠」や「十日恵比寿」などの祭りを細密に描いた。
そして若き日の夢であった「純粋絵画」へと邁進することとなる。
1967年に初めて日展に作品を出店するといきなり入選を果たし、翌年にも入選し連続入選となった。
その後も公募展への出品や個展を重ね晩年は、最後の弟子となる三男
城戸久務の指導にあたる。
そして城戸久務の工房こそが、「看板奉行」である。
日本で等身大の人形といえば、江戸末期から明治にかけて広がった見世物人形としての「生き人形」の存在がある。それらは、博覧会などでいわば和装の人形として制作されてきた。
我が幼き日に、福岡市一番のデパート岩田屋入ってインパクトがあったのは、洋装の「生き人形」マネキンであった。ショウウインドーの中のマネキンは、はっとして足を止めて眺めたくらいに。
1875年、京都の島津製作所がの創業。初代島津源蔵による教育用理化学器械の製造からのスタートであった。
仏具職人だった源蔵は、科学に関する知識を吸収するうちに、動物や植物、鉱石、そして人体も研究の対象としていった。
1886年に源蔵が創刊した「理化学的工芸雑誌」では、人体の構造や動植物の生態は座学だけで理解できるものではないと毎号のように訴えていた。
こうした源蔵の遺志を、息子である二代島津源蔵らが継ぎ、初代島津源蔵が亡くなった翌年の1895年に「標本部」が新設された。
最初は植物模型や鉱石標本の生産から始め、やがて人体模型を手がけるようになる。
従来の人体模型は漆を塗った石膏でできており重さに難があったが、島津製作所は紙に樹脂を塗った「島津ファイバー」を採用した。
軽くて発色が良く、水にも強いということで特許も取得して、最終的には138のパーツに分解できる模型も発表された。
「標本部」は「理化学器械」と並ぶ2大部門となったが、世界恐慌の影響でビジネスとして成立しなくなるようになる。
しかし、人体模型で培った技術をベースにして1925年にマネキンの生産を開始した。
当時は洋服の需要が急増しており、「展示宣伝用」にマネキンの輸入が増加していたことが背景にあった。
当初、島津製作所は、海外から輸入されてきたマネキンの修復を請け負っていたが、自社での生産に舵を切った。
1931年には、二代島津源蔵の次男・島津良蔵が制作に加わった。
島津良蔵は東京美術学校(現・東京藝術大学)で学んでおり、「芸術性」を取り入れた。
人体模型で培ってきた独自のファイバー技術や解剖学的な精巧さも相まって「島津マネキン」は市場で評価されるようになり、1932年には本社工場内にマネキン量産工場を開設。2年後には工場を移転して本格的な生産に入った。
最盛期には200人以上の工場従業員が年間約5000体ものマネキンを生産して全国生産の85%以上を占め、独占的地位を築いた。
マネキンの一大メーカーとなった島津製作所であったが、その後は戦時色の深まりとともにマネキンの生産と販売が中止された。
なにしろ1938年後半からパーマの自粛が叫ばれていたが、1940年にはとうとう禁止され、男子もイガ栗頭が奨励されるようになった。
またこの年には軍服をモデルにして作られたカーキ色の国民服が制定され、ファッションなどに気を使うことは許されない時代となっていった。
具体的には「奢侈品等製造販売制限規則」が公布され、マネキンは一体170円という価格から、賛沢品の対象にされたのである。
しかし島津良蔵ら首脳陣は、急遽上京して当時の商工省に陳情し、「制限規則でいうところの人形は愛玩用を目的とした高価な人形であって、「衣裳展示」の媒体としてのマネキンはこの政令に該当しない」と主張。いったん対象から外させることに成功した。
また国防婦人会の「西洋人の顔を作るな」という抗議に対しても、「立体的な人間の顔にすぎない」と切り返したとのエピソードが伝えられている。
とはいえマネキンは国策に沿うイメージで統制され、画一的な国民服を普及するための道具や、航空関係のテスト用という、ほとんど夢のない目的に使用されることとなった。
島津製作所では、戦後にマネキン製造は再開されることはなく、ゆかりがあった京都の各社に事業が引き継がれることとなった。
それぞれ毎年、全国各地で新作の展示会を開催してマネキンの普及に努め、戦後の急速な西洋化、商業の発展とともに、マネキン業も急速に発展した。
そして、京屋、平和マネキン、東京マネキン(現 トーマネ)など次々とマネキン事業を開始した。
日本における洋装の需要の高まりは、1931年に白木屋(東京)でおきた火災で、和服を着ていた女性が逃げ遅れたことがきっかけとなったといわれている。
もと島津マネキンの人たちによって設立された七彩、ヤマトマネキン、吉忠マネキンの三社は、1952年3月にマネキン業界の安定と造形美術業のモラルの向上に寄与する事を目的に「マネキン3社会」を結成し、この活動が後の日本マネキンディスプレイ商工組合結成のきっかけとなった。
1972年に75社が加盟して「日本マネキンディスプレイ商工組合」が初代理事長向井良吉で発足した。
向井良吉は、もと彫刻家で原型作家としてマネキン創作活動に多くの功績を残したと同時に、戦後は島津良蔵とともに七彩工芸(現・七彩)を創業して初代社長となり、マネキン復興にも力を尽くした人物で、次のように語っている。
「私がなぜマネキンをやりたくなったかというと、彫刻家は銅像を作ったり偉い人の彫像を作ったりという仕事ばかりだった。権威に関わった、なんら人間社会と具体的なかかわりが無い仕事で生きがいがあるのかと。やはり街の中に並んでいる人形の方が人間との接触が間近だし、彫刻家としての生きがいがあるのではと思ったんです」。
島津製作所は、仏具や供え物を製造した京都の伝統や、医療用人体模型の製造を背景として、我々になじみ深いマネキンばかりか食品サンプルまでも生みだしたのである。