新鮮!「法案修正」国会

2025年6月22日に通常国会が閉幕した。石破内閣は、物価対策や裏金問題の対応で批判をあびつつ支持率は低迷しているものの、「少数与党」の国会というのは、”はじめてみる風景”もあって新鮮な感じがした。
石破「少数与党内閣」を、安倍「一強内閣」の頃と比較してみると、よほど健全な国会の姿なのではなかろうか。
「与党が譲歩する国会」は、多様な意見が取り込まれるということでもある。
2012年12月、自民党安倍政権が成立し、民主党から自民党が政権を奪還するや、安倍総理大臣は、「アベノミクス」と呼ばれる経済政ち出すとともに、日銀人事は「リフレ派」とよばれる人々に入れ替えた。
この人事に日銀トップとして政府に対峙したのは、白川方明総裁で、当初この人事に消極的な姿勢を示したものの、日銀の独立性を定めた日銀法の改正をちらつかされ、受け入れる覚悟を決めた。
現在、アメリカでは連邦銀行の政策そのものについて大統領が圧力をかけていることが問題視されているが、露骨な人事干渉は「日銀の独立性」を保つうえで、悪しき前例を作ったことになる。
また安倍内閣では、内閣官房と内閣府に集中的な改革を実施し、各省幹部人事を内閣官房・官邸がコントロールすることができるようにした。
そのため「官邸政治」ともいわたが、忖度政治の土壌ともなって、森友問題などを引き起こした。
また当時「国会軽視」という言葉がよく聞かれた。政府が集団的自衛権などの重大事項を国会で議論されることもなく、閣議決定で次々と決めたからだ。
そのひとつが、「検察官の定年延長」をめぐる問題で、閣議決定で安倍首相寄りの黒川検事の定年延長により、様々な案件で「刑事訴追」を免れるためのシナリオではないかという疑いがもたれた。
また、検察庁法改正により、内閣の”恣意”で検事の定年を延長できるようになれば、一検事の問題におさまらず、後々までも”検察の独立性”が侵されことになる。
この由々しき事態に世論は反発し、自民党は今国会での検察庁法改正を見送ることになった。
また、安倍総理が体調不良で菅内閣が引き継いだが、独立性を旨とする「学術会議」で7人の学者が任命拒否されたことも、国民に政治不信をもたらしている。
個人的に、あまりの横暴さに驚いたのは、国会議員の要請にもかかわらず、「臨時国会」が開かれないことであった。
森友・加計学園問題を追及するため、憲法が定める4分の1を超える国会議員が臨時国会の召集を要求したが、当時の安倍内閣がなかなか召集しなかった。
憲法に「何日以内」と明記されていないことを逆手にとって約3か月後にようやく召集し、なんとその冒頭で衆議院を解散したことである。
これは、党利党略のための「解散権」の乱用ということに他ならない。
ところで日本の政策形成過程では、官僚および官僚機構が政策形成や政治において、主要かつ重要な役割を果たしている。
逆にいうと、官僚でないか官僚経験のない人材が、政策や法案をつくったり、それらの作成に関わることは非常に難しい仕組みになってしまっている。
日本の法案の大半は、「内閣提出法案」であるが、その党内における審議や審査のプロセスでは、官僚が与党の政策を審議する会合に参加し、法案の作成や修正および説明、裏での調整など法案作成のかなり多くの部分を引き受けている。
「議員立法」の場合は、議員や他の人材がもっと主体的に動き、衆参の法制局などの立法補佐機関がサポートするものの、官僚機構と比較すると、それらの補佐機関はかなり脆弱で消極的である。
ところで自民党には、「政務調査会長」をトップとする「政務調査会」があり17の「部会」に分かれている。
自民党が与党である場合、政府与党として提出する法案は必ずこの「部会」を通る。
「部会」は全会一致が原則であり、様々な利害関係を持った自民党の議員がはげしい議論を行う。
この部会において承認された法案は自民党内の議決機関である「総務会」に付託され、自民党として正式に承認する。
このように党内で徹底的に議論し、異論も含め党内で合意形成を行うことで「自民党が合意した法案」として党議拘束がかけられ、全員が賛成することになっている。
「党議拘束」に違反した造反者には、党除名などの処罰がくだされる。
「政務調査会長」が自民党の「三役」に数えられ、幹事長・総務会長に並ぶ重要な役職と捉えられているのは、務調査会のなかの「部会」が非常に重要な意味を持つからである。
こうした「事前審査制」には様々な問題があるが、最大の問題は、法案決定のプロセスが国民から”見えないもの”になってしまうことである。
こうした根回しのききすぎた情況にあって、与党からの内閣への質疑がほとんど形式的になるのは当然といえば当然である。
つまり法案等の不備を与党議員が国会の質問でついたり、国会での常任委員会での審議を踏まえて、与党が単独修正したり、政府が修正したりするといったことはほとんどない。
とはいえ安倍総理の長期政権(8年か月)は、一朝一夕にできあがったものではなく、これまでの戦後、とりわけ1990年以降の改革の賜物なのである。
まず、小選挙区制の下で政党執行部に権限が集中するようになったことが原因があげられる。
候補者の公認や、資金提供などで執行部が強い権限を持つようになると、候補者は党幹部の意向を”忖度”して行動しなければ当選もおぼつかない。
次に、橋本行革によって官僚機構に対する政治、とりわけ”内閣の優位性”が増してきたことなどが背景にある。

2024年10月に行われた衆議院選挙では、自民党が単独で過半数を獲得できず、連立政権を構成する公明党との議席と合わせても、過半数を獲得できなかった。
つまり、「少数与党」という事態がおきて、自民党と公明党は野党との協力を余儀なくされる形で政権運営を行っている。
政権発足当初、自民党と立憲民主党の国会対策委員長が会談し、自民党は17ある常任委員長のうち、政府の予算案を審議する重要ポストである予算委員長を含め、野党側に8つを配分することを提案し、合意した。
そして、予算委員長は、立憲民主党に割りふられることになり、 30年ぶりに野党議員が務める予算委員長には、立憲民主党の安住淳が就任した。
この歴史的な局面を通じて、日本の政治がどのように進化するのか期待したいところである。
2024年度通常国会がスタートして、政府提出法案は59本中、58本が成立、成立率は98%なので多数与党の国会と比べて遜色はない。
その分、政府提出法案は、修正を余儀なくされたということである。
実際に提出後に修正されたのは12本で、2割に上った。
2000年度以降の修正率は5%から11%なので、かなり高いということがわかる。
興味深いのは、25年度予算を巡っては、”衆参両院”で予算の修正が行われたことだ。
自公政権は、衆院審議で日本維新の会が求めた高校授業料無償化を受け入れ、当初の政府案を修正、維新の賛成を得て衆院で可決した。
審議が参院に移った後、石破茂首相が高額療養費制度の自己負担上限額引き上げについての野党などの批判を踏まえて、再び予算案を修正し、参院で可決後に衆院へ回付した。
参院で修正された予算案が衆院の同意を得て成立するのは現行憲法下で初めてのことであった。
また、ともあれ、本会議での”予算修正”は衆議院では29年ぶり、参議院では”初めて”となり、”歴史的な出来事”というべきものだった。
質疑で立憲民主党の大西健介が「高額療養費の引き上げ凍結は多とするが、衆議院通過からわずか3日後の方針転換には憤りを禁じえない。野党の意見を聴き入れて協力を求める謙虚さと決断力を失った石破内閣の政権担当能力に疑問符を付けざるをえない」と批判した。
これに対し、石破総理大臣は「見直しは制度の持続可能性を高めるためだったが、検討プロセスに丁寧さを欠いたという指摘を重く受け止め見合わせることにした。予算案が衆議院を通過したのちに、再度修正することになった経緯は大変申し訳ない」と改めて陳謝した。
ところで、国会ではさまざまな議論がなされているが、法律を作ったり、予算を決めたりするためには”原則”衆議院と参議院の両院の賛成が必要である。
ただ、場合によっては片方の議院で賛成されたものの、片方の議院で反対されることがある。
そこで両院の意見を合わせるために開かれる議会が両院協議会であるが、そこで話し合いが行われ、出席協議委員の3分の2以上が賛成した場合に、両院協議会の成案となる。
この成案は衆議院と参議院の議会であらためて議決されなければ、国会の意思にはならない。
ただ両院協議会は、必ず開かれる場合とそうでない場合があり、開かれる条件については、どちらかの院が、もう一方に院に対して「両院協議会を開いてほしい」という開会請求を出し、受諾されることが必要となる。
衆議院の優越には、予算の議決・条約の承認・法律案の議決・ 内閣総理大臣の指名などがあるが、予算については、予算先議権(予算は参議院より衆議院で先に審議される)がある。
両院協議会では衆議院から10名、参議院から10名の協議委員が選ばれるが、一般的に衆議院は与党から、参議院は野党から議員が選ばれる。
2025年度予算は、両院協議会は開かれず、参議院で可決された再修正案が衆議院に回付されて改めて本会議で採決が行われた結果、”全員一致”で同意することが決まり、その結果新年度予算は2度にわたる修正を経て成立した。
参議院で修正された予算案が、衆議院の同意を得て成立するのは今の憲法のもとでは初めてである。
こんな複雑な経過をたどったのも、「少数与党」の国会では、与党だけでは法律を成立させられないので、一部の野党に賛成にまわってもらうために、野党側の言い分を聞きながら審議を進めたということでもある。
野党側にしても修正を勝ち取ってアピールしたい一方で、財源を求められることで、現実的な”落としどころ”を探ることが必要である。
したがって、ある意味で政策決定過程が「見える化」した部分がだぶあったことが新鮮に映った。
今国会で、修正して成立した法律には次のようなものがある。
第一に、年金制度改革関連法では、基礎年金の底上げ措置につき、自公と立民が協議して修正して合意に至った。
第二にサイバー攻撃を未然に防ぐ能動的サイバー防御を導入するための法律は、衆議院で自公と立民・維新・国民とが協議して、憲法が保守する「通信の秘密」を不当に制限しないと明記するなどの修正が行われた。
第三に予算の裏付けとなる税制関連法では、与党の自公が国民民主との税制協議で示した内容、つまり年収103万円の壁を見直して、所得税の課税最低限を160万円に引き上げることを盛り込んだ修正が行われた。
一方で成立しなかった法案もあるが、多くは「議員立法」である。
立憲・維新・国民がそれぞれ独自に出した「選択的夫婦別姓」をめぐる法案である。
野党側委員長の下で、28年ぶりに衆議院法務委員会で審議が行われたが、採決は見送られ継続審議となった。
企業団体献金をめぐっては、禁止を訴える立民・維新・共産・れいわと規制強化を主張する自公国民との協議が行われたが、意見の隔たりが埋まらず採決は見送られた。
衆議院は少数与党なので野党側がまとまれば議員立法でも法案を成立させることができるが、野党内で意見が一致せず結論がえられていない。
一方で野党がまとまって出した法案があった。それがガソリン税・暫定税率廃止で、与党側が審議入りに難色を示し、野党側が反発を強め、自民党の委員長の解任決議案を提出し、委員長は解任された。
野党側が提出した衆議院財務金融委員会の井林委員長の解任決議案は、衆議院本会議で採決が行われ、野党側の賛成多数で可決され井林委員長は”解任”された。
衆議院で委員長の解任決議案が可決されたのはいまの憲法のもとでは”初めて”である。
立憲民主党など野党側は、ガソリン税の暫定税率を7月廃止する法案を衆議院に提出したが、与党側は7月からの廃止は拙速で混乱をもたらすなどとして審議入りに難色を示した。
野党側は国民生活に密接に関わる法案で、審議入りしないのは認められないと反発を強め、法案を審議する財務金融委員会新たに選ばれた阿久津氏は記者団に対し「公平公正な委員会運営を肝に銘じなければならないが、ガソリンの暫定税率の問題は1歩でも半歩でも前に進めなければならない」と述べた。
ところでガソリン暫定税率は、もともとは1974年にできた文字通り「とりあえず」の税金で、「道路を作るお金が足りないから、ガソリンに上乗せしよう」ということで、当時の田中角栄政権にて始まった。
その時は、あくまで“期間限定”という扱いだったが、その後も延長されてきた。
2008年に一度期限切れになったが、そのあとすぐに復活したもの。
しかし、最終盤には野党7党提出のガソリン税暫定税率廃止法案が衆院を通過し、与野党が会期末間際まで激しい攻防を繰り広げたのも際立った。 
また、米の値上げがいつまでも続く中で、政府の「備蓄米」に注目が集まるようになった。
備蓄米制度は1993年の平成の米騒動をきっかけにスタートした。
備蓄米放出を渋ったのは、米価が下がってJAが反発するのを恐れているからともいわれている。つまり、農林族議員も農水省も、JAの顔色を窺っている。
なにしろ農林族の江藤拓が農林大臣をつとめ、幹事長の森山裕は農林族のドンといわれる人で、これではコメの値下がりは期待できない。
しかし、江藤大臣の「米買ったことありません」失言により更迭され、小泉進次郎大臣が就任した。
値が下がりようもない競争入札をやめて直接取引にして、備蓄米が安く放出されるようになり、コメの値段は下がり始めた。
ただ値下がりが好評でも、出来ることならなぜ早くやらなかったという批判にもなる。
ただ、「少数与党」の国会の下で、与野党の間で国会改革の機運が高まったことが重要である。
2022年6月に、経済・学界の会員構成された「令和臨調」は、”長期的な財政の予測”などを行う独立機関を国会に創設するよう求めた。
それを受けて、「超党派」82人の中堅若手議員が国会外でで議論し、4部会に分かれ1年間で47回もの会議を開き、財政の部会では「独立財政予測機関」の設置案まとめた。
そんなメンバーも所属政党に戻って与野党議員として改めて顔を突き合せたら、途端にまっとうな議論ができなくなってしまう。いっそ82人で新党を作ってみてはというささやきも聞こえる。
国会閉幕の日、参議院の前哨戦である東京都都議会選挙では、備蓄米放出もバラマキも自民党に有利に働かなかったことが判明した。
これで参議院選挙後の石破内閣の退陣が予想されるが、内閣提出法案でもその多くが”修正”されるものだと教えてくれた、「少数与党」内閣であった。