俳優佐藤浩市(64)が2025年4月放送のNHK「ファミリーヒストリー」に出演し、父で俳優の三國連太郎のルーツに迫った。
VTRは浩市の妻、亜矢子の証言から始まる。亜矢子は生前の三國から「私は佐藤じゃないんだよ。本当は佐藤じゃないんだよ」などと言われていたという。
三國の母、小泉はんの故郷は伊豆半島の漁村。小泉家は嵐で収入源の船を失い、一家離散。はんは広島県呉市に奉公で出るも、17歳で追い出された形となって帰郷する。
長年取材してきた作家が、三國が「おなかにもう僕はいたのかもしれない。広島の軍人のところで、妊娠して追い出されたんじゃないか、というような話をされていました」と、語っていたことを打ち明けた。
身重の状態で帰郷したはんは到着した沼津港で気分が悪くなってしまう。その時に介抱してくれた男性が佐藤正(ただし)だった。
一晩かけて事情を聴いた正は、はんの全てを受け入れることを決めたという。
正の仕事は伊豆松崎で桶屋をやって、牛用の桶から棺桶なども作っていた。
遺体の埋葬なども請け負い、けがれ意識から人々から低い存在とみられ辛い仕事でもあった。
軍隊にはいり底辺から抜け出そうと電気の仕事をおぼえたが、反骨心からか軍隊の権威主義に失望した。
1923年1月、2人の間に長男の政雄が誕生、のちの三國連太郎である。正の子として出生届を提出し、2人の子供として育てていくことを決心し、結婚した。
佐藤政雄(三國)は静岡県下田の中学に進んだ。
父は教育熱心で厳しく、三國は父から烈火のごとく叱責されることもしばしばでった。
それが愛情からくるものであることはわかったが、学校生活の規律と寮生活に息苦しさをおぼえ中学を中退する。
そして14歳の頃に意を決し、下田港に停泊していた貨物船で中国に密航する。
そこから朝鮮半島にわたり、ダンスホールのボーイや弁当売りをしながら、孤独な日々を過ごしたという。その後、帰国し沼津港にたどり着いている。
その時、五歳年上の女性と知り合い結婚、長女が生まれたが2歳でなくなって女性とも別れた。
その後、三國は大阪の鉄工所や造船所で働き、19歳の時に召集令状が届いた。父の正が嫌った軍隊から逃れようと佐賀県・唐津に逃れたこともあったが、母親に通報され居場所が突き止められて捕らえられた。家族としては当然なことでも、このことは三國にとって大きな傷となった。
そして、20歳にして中国の戦地へ渡った。
現地で終戦を迎え、収容所に入れられた。そこで妻帯者は早く帰国できるという内規を知り、娘のいる家庭に相談をしたという。
その娘と偽装結婚して1946年6月に帰国がかなった。
その時、擬装結婚した女性ととともに宮崎で暮らし、バスの運転手などをし、翌年12月に娘深幸(みゆき)が生まれた。
その1年後に三國は家を出て行ったが、妻は三國に文句のひとつつも言わなかったという。
その後、三國は鳥取県の倉吉に移り住み、ここで運命の出会いがあった。
三國はカメラ好きで近くの住宅街のミタ写真館に出入りするようになっていた。
「佐藤」(三國)の二枚目ぶりに注目した店主は、進駐軍兵士から借りたジャンパーを着た「佐藤」の写真を、彼の知らないうちに新人俳優を募集していた映画会社の松竹に送ったのだ。
それが、27歳で佐藤が「三國廉太郎」として映画デビューするきっかけとなった。
三國をさっそく主役に抜擢したのが木下惠介監督で、当時の助監督は「三國さんの中に感じられる人間の弱さももろさも、それがあの面つきと、あのハッタリの中にほの見えているところに、木下はひどく人間を感じたのではないか」と語っている。
それは三國の生きざまが顔に現れていたということだ。三國自身は、差別されながらも自分を育てた父・佐藤正の生きざまなくして”俳優・三國廉太郎”はなかったと勝てっている。
三國の場合は本当の父は調べればすぐわかることであったが、自分のアイデンティティが「育ての親」にあることをしっかりと認識していたのだった。
さて最近TVニュ-スで、三國と同じように14歳で家を出た人がいることを知った。
江蔵智(えくらさとし)さんで1958年4月10日ごろ、東京都立墨田産院で生まれた。
都電の運転士で生活リズムが不規則だった父。酒に酔っていない時に会話した記憶はない。
アルコールに依存していた父は母ともけんかが絶えず、酒に酔うと江蔵さんを殴った。
小学生の頃、晩酌をする父の前で酒のつまみに手を伸ばすと、「食べるんじゃない」と怒鳴られ顔を殴られた。
なぜ父は自分にばかり手を上げるのか。息の詰まる世界に耐えかね、14歳で家を飛び出した。
飲食店などを転々として住み込みで働いた。中学校にもほぼ通わなかった。
子ども時代親戚から「誰とも似ていない」と言われていたという
親戚が集う場で、幼い頃からそう言われてきた。
「父や母と、血がつながってないのではないか。江蔵さんがそう疑問を抱いたのは、97年に母が体調を崩して検査した時だった。
血液検査の結果から、自分が両親からは生まれない血液型だと判明した。
それでも、事実を受け入れられず、そういうこともあると自分に言い聞かせながら生きてきたという。
2004年、江蔵さんと父母のDNA鑑定をしたところ、父と母のいずれとも血縁上のつながりがないと分かった。
血の繋がった父母はどんな人なのか、兄弟はいるのか。自分が何者なのかを知りたいと調べたところ、病院に”赤子の取り違え”があったが判明した。
だが、当時の産院は88年に閉院しており、役所に対応を求めても相手にされなかったという。
江蔵さんは出生の事実を知ってから自力で血縁上の父母を探し求めるも、いまだたどり着くことはできていないでいた。
そして2025年3月、63歳の江蔵さんは、生みの親を特定する調査を都が行わないのは人権侵害だとして、東京都を相手取り東京地裁に提訴した。
訴訟と並行し、江蔵さんは自力で生みの親を探した。自分の誕生日近くに生まれた人で、墨田区内で暮らす人を一軒一軒訪ねたり、戸籍受附帳を開示請求したりと調べ続けたが、手がかりは得られなかった。
血縁上の父母を探すのは、自分だけのためではない。
父は「まだ探してんのか」「今さら会ってどうするんだ」と理解を示さなかった。一方で、母は父のいないところで「(産んだ子の)顔だけでも見たいよ」と江蔵さんに本心を打ち明けた。
父親は5年前に他界。89歳になった母は認知症の症状が進み、会話もほぼ困難になってきている。
幼い頃、父に殴られた時に間に入ってかばってくれたのは母だった。
「もう手遅れかもしれない。それでも、生きているうちに産んだ子どもにひと目でも会わせてあげたい」と語る。
訴状によると、原告側は都に対して、江蔵さんの生みの親を特定する調査をすることと、生みの親に連絡先の交換について意思確認することを求めている。
血縁上の父母の意向を無視して直接訪ねるのではなく、あくまで江蔵さんが面会を希望していることを伝えた上で、実際に対面するかを決めてもらいたいというもの。
弁護側は、調査に協力しない都の対応が、分娩助産契約に付随する義務に違反していると主張。さらに、「子どもの権利条約」(日本は1994年に批准)が定める子どもの「出自を知る権利」を侵害していると指摘する。
江蔵さんの代理人の弁護士は、記者会見で「子が親を知ることは基本的な人権で、アイデンティティーそのもの」と強調。訴訟を通じて「親を知りたいと悩む人たちの出自を知る権利を保障する法的根拠ができるよう、議論が進んでほしい」と訴えた。
病院の「赤ちゃん」の取り違えによって、まったく違う人生を歩んだという数奇な人生は、数奇すぎてその思いを想像することさえ困難だが、多くの人びとは、”自分の人生とアノ人の人生が入れ替わっていても、少しも不思議ではなかったといったことが、結構あるのではなかろうか。
個人的な話だが、1974年東京丸の内で起きた8名死亡重軽症300人余りの三菱重工業爆破事件にあやうく巻き込まれそうな体験がある。
2時間の時間差であったが、自分が被害者になった可能性ばかりではなく、事件に関係した指名手配犯の顔写真を時折見ながら、誰がこの指名手配犯であっても不思議ではないと思うほど善良そうな顔をしていた。
その犯人は、偽名を名乗って川崎で普通に暮らしていたが、最近、路上にに倒れていたことから病院に運ばれ、検査の結果、余命いくばくかの癌宣告を受けた。その時、自分の本名「桐島聡」を名乗り、その4日後に亡くなっている。
さて、東京大学の物理学を学んだ親友が一方が被告席にいて、他方が傍聴席にいる。それはサリン事件の裁判席の状況だが、傍聴している側の人物が、自分が被告人と入れ替わっていても、少しも不思議ではなかったと書いている。
それは、ほんの些細な運命のいたずらだったかもしれないと。
1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。
地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだが、その中に豊田亨(ただし)という人物がいた。
豊田元死刑囚は東大物理学科で究極の素粒子理論を研究する優秀な学生だった。
その豊田と面会を重ねてきたのが、伊東乾(いとうけん)である。その交流は、著書「サイレント・ネイビー」に詳しい。
「大学1年で知り合い東京大学理学部物理学科、同大学院で共に学んだ親友が突然行方知れずになったのは1992年3月。次に彼が私達の前に現れたときは地下鉄サリン事件の実行犯となっていた」。
だが、弁護士から連絡があり伊東が接見するようになった99年時点では、自らの罪を認識し、完全に正気に戻っていた。
教祖の過ちを認め、公判では「今なお自分が生きていること自体申し訳なく、浅ましい」と語り、深く悔いていたのだ。
最高裁で死刑が確定した2009年以降は特別交通許可者として月に1度程度、接見し、様々な問題を共に考え、責任の所在や予防教育の必要を議論してきたという。
伊東が分厚い本など差し入れても、豊田は丹念に目を通し、正確な議論が記された端正な手紙を送り返してくれた。
「残された時間を精一杯生きる」と、落ち着いた表情で語る豊田君と、伊東はブロックチェーンや暗号の数理を考えたりした。
伊東が豊田との被告席と傍聴席は仕切りがあるだけで、自分が被告席にいても不思議ではないと感じたのは、豊田は真面目であったが批判力もあり、ユーモアもあって体育会系の健康な青年だったからだ。
ただ、修士論文の制作過程で「レビュー」することに終始している研究体制(修士)に不満をもつようになっていた。
伊東は豊田の悩みを次のように書いている。
「大きな夢と希望、それに野心ももって、東大で一番点の高い物理に進んだ。その中でも一番点の高い素粒子理論研究室まできた。それだのにやらせてもらえたのは先行業績のレビューだけ」。つまり、豊田はひとさまの専攻業績を丁寧にフォローするただの追認だけの創造性のない勉強に、嫌気がさしていたと述べている。
伊東はレビューはとても大切なことであると断りつつも、「仮に1セクションでもいいから、また下手でも失敗作でもいいから、関連の仕事で豊田のオリジナルのモデルの取り組みを指導してやる体制があったら、豊田はオウムに行かなかったと確信している」とも述べている。
伊東の著書「サイレント・ネイビー」は豊田ほどの優秀な学生がどうしてオウムに取り込まれていたかを宗教のみならず音楽やダンス、性欲や脳科学など科学的アプローチでせまり、「第四回開高健ノンフィクション賞」を受賞している。
伊東乾は現在東大で情報科学の教授である一方、音楽家(指揮者)として世界的にも活躍している。
また最近では、豊田の裁判を通じて日本の司法制度について大きな疑問を抱き、それについての著作も多いが、それは伊東自身の出生が、こうした問題を他人事ですまされなくしているようだ。
「早くに亡くなった私の父は学徒出陣で満洲に出征し、戦後ソ連に抑留されて4年間をシベリアのラーゲリで過ごした。隊で一人だけ生き残って国際赤十字の病院船で復員したが、30歳までは寝たきりの廃人だった。40歳で結婚して私をもうけたが、46歳で肺癌のために亡くなった。戦争は、私にとって教科書上や歴史や人ごとではなく、小学生以来、毎日の生活にちりばめられたルサンチマンだった」。
一方、豊田の家族は教員一家で、父は関西の高校の体育教師、祖父は高校の生物の教師で、校長まで務めた。弟は、関西の県立大学で哲学の教師をして、妹の夫も、高校の教頭を務めている。
父親によると、豊田について、「気の弱い、優しい子」「バカが付くくらい真面目で正直であった。周りに合わせるほうで、自分でリーダーシップをとることには慎重であったという。
豊田は1986年春に大学の入学手続きの為に上京し、東京駅の地下の書店で偶然、麻原の著作が目に止まった。『超能力「秘密の開発法」』とあったその本は、当時の多くの若者の心を惹きつけていた。
超能力の存在と、変貌への憧れ。頂点を極め、やがて訪れる時代の閉塞感への準備。世界が変わらないのなら、こちらが変わる。そこに新しい世界を見つけることへの理想があった。
伊東は、豊田との「分かれ」について次のように述べている。
「地下鉄に乗った同級生同士の、豊田と私を分けたものはなんなのか?
初めはほんの髪の毛ほどの差もなかった。ほとんど偶然のような小さな分岐点が次第に大きく私たちの生活を分けてしまった。いま、私たちは拘置所接見室の強化アクリル板で隔てられている。どうしても超えられない、薄く透明な樹脂によって」。
「小さな分岐点がポイントを切り替えていたら、二人の立場は逆だったろう。そして、いまもそのまま、小さな分岐点が私たちの社会に根深く残っている。豊田は私で、私は豊田だ」。
そういえば、写真家の横尾忠則が近年「Y字路」を主要なモチーフにしていることを思い出した。
豊田は、伊東との最後の二回の接見で彼はこう繰り返したという。
「日本社会は誰かを悪者にして吊し上げて留飲を下げると、また平気で同じミスを犯す。自分の責任は自分で取るけれど、それだけでは何も解決しない。ちゃんともとから断たなければ」。
さて伊東乾が豊田との交流を著書のタイトルにある「サイレント・ネイビー」とは、海軍はその行為についてはいっさい弁明をしないという、男の美学のようなものである。
東京裁判でA級戦犯となり絞首刑になった廣田弘毅首相がその代表的な存在であるが、豊田も自分の行為を一切弁明することはなかった。
著名なジャーナリストはそうした姿を「ポーカーフェイスの男」とか「指示待ち人間」と表現したが、伊東は親友としてその内面を知ってもらいったいという思いもあったであろう。
タイトルの副題は、「地下鉄に乗った同級生」である。