人生は、何度でもやり直すことができる。しかし、それでも「たった一度の人生」なので、”替え”がきくわけではない。
そこで、他にも選択肢があったのではないかと思ったりするし、自分の選択肢が間違っていたと後悔しないように頑張ろうとする人もいる。
ただ人生に「死」が訪れることは避けられず、虚しさも無念の思いも残るにちがいないが、人生に「次」があり、それが「永遠の命」となると、限りある人生にも、全く別の意味づけが可能となる。
永遠なんて長すぎるという人もいるが、ダビデが「あなたの大庭にいる1日は、 よそにいる千日にもまさるのです」(詩篇84篇)と詠っているように、神と共にある「永遠」に時間は関係ない。
人生とは異なって「完全なもの」には、試行錯誤も、反復も必要なく一回きりで全うされる。
そんなことを想起させる「エピソード」がある。
イエスはガリラヤ湖畔にこられた時に、そこに二そうの小舟が寄せてあった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
その一そうはシモン(ペテロ)の舟で、イエスはそれに乗り込み、岸から少しこぎ出させ、舟の中から群衆にお教えになった。
話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
シモンが「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。
しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と、そのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。
そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と語った。
彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚き、シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。
すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った(ルカの福音書5章)。
以上のエピソードの特質は、イエスの言葉に漁師が従い、網が魚で一杯になり、漁師がイエスの弟子になるまでの過程で、すべてが「一度(or一言)」で全うされていることである。聖書で読む限り、どこにも躊躇も迷いもはいりこんでいない。
一方パウロは、「完全なもの」に反した場合について厳しいことを言っている。「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である」(ヘブル人への手紙6章)。
聖書を大局的に読むと、人類の歴史を「いけにえの時代」と「恵の時代」とに区分けができる。実際、今日いけにえを捧げる人などほぼいない。
新約聖書には、「いけにえと恵(憐み)」を対比したエピソードがある。
ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
パリサイ人たちがこれを見て、イエスに「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」といった。
そこでイエスは彼らに「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである」。
「また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる」。
そして 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。 人の子は安息日の主である」と述べた。
イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。
するとイエスは彼らに「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」(マタイの福音書12章)と答えている。
さて、「いけにえの時代」と「恵の時代」とは「旧い契約」と「新しい契約」に対応している。パウロは信徒への手紙の中で次のように書いている。
「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである」。
続いてパウロは旧約聖書の言葉を示しつつ「この御旨に基き”ただ一度”イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために”一つの”永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。 彼は”一つのささげ物”によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである」と述べている(へブル人への手紙10章)。
要するにパウロはこの手紙で、”ただ唯一”のささげものである「イエス・キリストの体」を”ただ一度”ささげたことで、それに与った者たちの「清め」が永遠に全うされたというのである。
つまり、「完全なもの」は一度だけで全うされるということにほかならない。
ところでイスラエルは紀元前15C頃エジプトで奴隷になり、神の導きに従いモーセと祭司アロンがエジプトのパロに「イスラエルの民を行かせ、荒野で神を祭らせよ」と願った。
するとパロは「主とはいったい何者か。私は主を知らない」と拒絶する。
その後、神の力あるワザがパロに”何度”も現われ(10の災害)、パロの長男が疫病で死亡するに及んで、パロはついにイスラエル人にエジプトを「去る」ことを許す。
ここで神の業が「1回」で済まなかったのは、「わたし(神)は彼(パロ)の心とその家来たちの心をかたくなにした。これは、わたしがこれらのしるしを、彼らの中に行うためである。また、わたしがエジプトびとをあしらったこと、また彼らの中にわたしが行ったしるしを、あなたがたが、子や孫の耳に語り伝えるためである」(出エジプト記10章)とある。
この神のワザがなされる際に、しばしば用いられたのが「アロンの杖」である。
この「アロンの杖」が印象的な場面は、紅海のほとりでモーセが手をあげると紅海が左右に分かれた場面である。この場面は、映画「十戒」のハイライトであるが、聖書にはモーセが「手をあげた」とのみ記されており、アロンの杖につてはふれていない。
また、パロに対してなされた力あるワザのひとつに、次のようなものがある。
主はモーセは神の言葉にしたがってアロンに、「あなたのつえを執って、手をエジプトの水の上、川の上、流れの上、池の上、またそのすべての水たまりの上にさし伸べて、それを血にならせなさい。エジプト全国にわたって、木の器、石の器にも、血があるようになるでしょうと命じた」(出エジプト7章)。
ここでは、アロンが杖をとってそれを差し伸べるとナイル川の水が血に変わったことがわかるが、さらに”杖でナイル川の水面を打った”ことが明示的に示されている箇所がある。
パロの許しにより、イスラエル人たちの「出エジプト」が実現し、故郷であるカナンの地(現在のパレスチナ)を目指して旅をする過程で、レピデム(後にメリバとよばれる)というところに至った。
そこには水がなく、イスラエル人たちはモーセに、あなたは砂漠で我々を殺すために導いたのか」と不平を言い始めた。
民衆に殺されそうになったモーセが神に助けを求めると、神はモーセに「あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」と語った。
モーセはその言葉どおり、ホレブ山にあって岩を杖で打つと、岩から水が噴き出して、モーセたちは民衆のどの渇きを潤すことができた。
この場面では、何の問題もないように思えるが、ある「落ち度」があったことが後に語られる。
ところでモーセは、「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者」(出エジプト記34章)と述べている。
ただ聖書には、そんなあわれみ深い神が、どうしてそんな些細なことで怒りを発せられるかと、不条理に思われる場面がある。
例えば、カナンの地への旅の途中で、「契約の箱」にふれたウザという名の御者に起きたことである。
ウザが「契約の箱」を運ぶ途中、牛がよろめいたので、「契約の箱」に触れてしまったことで、神の怒りを受ける。
この契約の箱(神の箱)はしばらくアビナダブという人物の家に留まっていて、ダビデはその箱をエルサレムに運び上ろうとした。
契約の箱は牛車に載せて運ばれ、ウザとアフヨが御者を務めた。
ところが、牛が途中でよろめいたために、ウザが契約の箱に手を伸ばし、それをつかんだところ、神の怒りがウザに向って燃え上がり、ウザはその場で死んでしまう(サムエル記下6章)。
普通に考えれば、神のウザに対する怒りは不条理に思える。
しかし当時の神の定めでは、「契約の箱」はイスラエル12部族の中の「レビ人」が担うことになっていた。実は、ウザはアビナダブの息子で、「レビ人」に属してはいなかったのだ。
したがって神の怒りは、牛がよろめいた時点で、すでに顕れていたということである。
さて、前述の「モーセが岩を打って水が出た」出来事について、詩篇の作者のひとりアサフは次のように述べている。
「あなたが悩んだとき、呼ばわったので わたしはあなたを救った。わたしは雷の隠れた所で、あなたに答え、 メリバの水のほとりで、あなたを試した」(81篇)。
つまりモーセとイスラエルの民衆は”神に試された”のだが、神に従わなかったことが記されている。
「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」(民数記20章)とある。
ではモーセの”落ち度”とは具体的にどのようなものであったのか、聖書は次のように語っている。
主はモーセに「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」といわれた。
モーセは命じられたようにアロンのつえを取って、会衆を岩の前に集めて「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」と述べたうえで、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ(民数記20章)。
以前、モーセはアロンの杖を用いて、ナイル川の水を打ったことがあるが、この場面でモーセは、岩を”二度打った”とわざわざ書いてあり、その直後に民衆の前で、”神を聖なるものとしなかった”と書いてある。このことから、”岩を二度打ったこと”が神より責められていることが推測できる。
前述のとおり、完全なるものは「一度」で完成する。「二度」なしたということは神への不信を表したことになる。
あるいは「神の完全性」を否定するような行為、すなわち「神を聖なるものとしなかった」ということにほかならない。
モーセがなぜそうしたのかは聖書には記されてはいないが、繰り返し自分に向けられる民の不平に、その怒りを神にぶつけたように思える。
その後モーセは、カナンの地を見渡せるネゲブ山で亡くなり、波乱の120年の生涯を終える。
そしてイスラエルは、モーセの後継者のヨシュアに率いられてカナンの地を目指すことになった。
神の言葉どおり、モーセはカナンの地に入ることはできず、カナンにはいることができたのは、モーセに荒野で不平をもらした者たちではなく、新しく生まれた者たちであった。
聖書では、神が「岩」にたとえられている。特にダビデ王が「詩篇」の中で、詠った歌にはそれが多い。
例えば、「主はわが岩、わが城、 わが高きやぐら、わが救主、 わが盾、わが寄り頼む者です」(詩篇144篇)とある。
ところでモーセが「岩を打ってそこから水が出た」というのは、イエス・キリストの十字架の死と「聖霊降臨」を預言するもので神の権威に関わるものである。それを傷つけたことへの神の怒りは、ご自身が聖なる存在であることを示されたということである。
イエスは、「律法学者、パリサイ人は、モーセの座を占めています」(マタイの福音書23章)と述べている。
イエスを訴えた人々とは、律法学者やパリサイ人達で、「岩なる神」イエスを字架の刑にした。つまり「岩を打った」人々であった。
イエスの十字架の死に際して次のようなことが起きている。「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、”岩が裂け”、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った」(マタイの福音書27章)。
さらには、イエスが十字架で亡くなったことを確認した兵士の一人が槍でイエスのわき腹すと「すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハネの福音書19章)とある。
つまり「岩から水が出た」のだが、この水については、かつてイエスがのどの渇きを覚えて井戸の傍らで休憩していた時に出会ったサマリアの女に語った言葉が思いう浮かぶ。
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネの福音書4章)。
またイエスが過ぎ越しの祭りの前に、民衆を前に次のように叫んだ。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネの福音書7章)。
聖書は「生ける水とは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである」と告げている。