聖書の最も不可解な箇所のひとつが、カナの結婚式でのイエスと母マリアとのやりとりである。
//カナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
ここには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた//(ヨハネの福音書2章)。
このエピソードの前半、母マリアがイエスに「ぶどう酒がなくなっていまいました」という言葉に対して、イエスがマリアに語った「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」という返答は、人間的には正気か?とさえ思ってしまう。
実は日本語訳では「婦人よ」だが、原語では「女よ」という言葉が近い。自分の母親に対して「女よ」とはなんというよそよそしさだろう。
聖書によれば「母マリアは聖霊によって身ごもった」(マタイの福音書1章)ということなので、イエスが母マリアと血肉の繋がりではない存在であるとしても、である。
それに、母の「ぶどう酒がつきました」という言葉に対し、イエスの「私の時はまだきていません」という応答には、一見かみ合う要素が見いだせない。
ところが、このやりとりが神と人との「旧い契約」から「新しい契約」へと移行するメッセージであることに気が付けば、しっかりかみあっている。
聖書は、兄弟間の確執の話が多いが、よく知られた話が、「カインとアベル」の物語である。
カインとアベルはアダムとエバとの間に生まれた人類創生2代目である。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。それぞれが、神へ捧げものをするが、なぜか神は、アベルの捧げモノを気に入り、カインの捧げモノを受け入れなかった。
ただ違いをいうと、カインは地の産物を持って捧げものとしたのに対して、 アベルは羊の群れのういごと肥えたものを捧げものとした点である。
兄弟の両親時代にさかのぼれば、アダムとエバのエデンの園からの追放後、「地はのろわれる」とあるので、地の産物はそのままでは「潔きもの」として受け入れられない一方、子羊の捧げものは血で浄められている。
パウロは信徒への手紙で、「ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない」(へブル人への手紙9章)と述べている。
神に捧げものを受け入れてもらえなかったカインはアベルを妬み、アベルを野に連れ出して殺してしまう。
神がカインに「お前の弟のアベルはどこにいるか」と問うと、カインは「知らない、わたしが弟の番人でしょうか」とシラをきる。
それに対して神は、「あなたは、何をしたのか。あなたの弟の血の声が土の中から私に叫んでいます」と告げると、カインは自分の犯した罪を認めたうえで、神に訴える。
「わたしの罰は重すぎて負い切れません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。
それに対する神の答えは、とても意外なものだった。「誰でもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるだろう」と。そして神は、カインが殺されないように「しるし」をつけ、カインを守ろうというのである。
使徒パウロは、この出来事につき信徒への手紙で次のように書いている。
「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」(へブル人への手紙12章)
ここで、アベルの血は何を訴え、死してなお何を語っているのか。その答えは、前述と同じパウロの手紙にある。
「新しい契約の仲保者イエス、ならびにアベルの血よりも立派に語るそそがれた血である」(ヘブル人への手紙12章)。
この言葉を素直によめば、イエスの血とアベルの血が一脈通じるものがあるということであり、アベルの血は神に復讐を願うどころか、むしろカインの”罪の赦し”をさえ訴えているということである。
旧約聖書の掟では、祭司は定期的に神に捧げものをした。その捧げものというのは、アベルが捧げたように、ういごの子羊を殺して捧げるのである。
つまり祭祀は神殿において、アベルの捧げものを踏襲してなされるのである。
さて話を「カナの結婚式」に戻そう。ぶどう酒は血にたとえられるので、母マリアの「ぶどう酒がなくなりました」という言葉は、こうしたアベルの血の訴えるところの「赦し」の終焉を意味すると推測できる。
それは次のパウロの次の言葉で知ることができる。
「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである」(へブル人への手紙10章)。
この言葉にあるように、アベルの血が訴える「赦し」は、来るべきよいことの”影”であるにすぎず、これから本体が現れるということだ。
そのように理解すると、イエスの「あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」という言葉がよく理解できる。
さてイエスは、時が満ちて母マリアより生まれた。マリアはその喜びと畏れを次のように祈っている。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます」(ルカの福音書2章)。
イエスは30歳を過ぎたころから、自らを「神の子」として現わされるれる(ルカの福音書3章)が、イエスが最初に行った奇跡がカナの結婚式なので、この段階では、「私の時はまだきていない」ということだ。
ではイエスがいう「私の時はいつか」というと、最大のヒントはイエスの最初の奇跡「水をぶどう酒に変える」ということの中にある。
「水が葡萄酒にかわる」という奇跡は、聖書全体がかかるほどに奥深い奇跡である。
水が「霊界において」血に変わることによって実現することであり、それは旧約聖書のモーセの奇跡「ナイル川の水が血に変わる」出来事があった千年以上もの昔から与型が示されていたのである。
それはイエスの十字架とその救いである「洗礼」を暗示しているのである。なぜならイエスの名による洗礼とは、イエスの血で人間の罪が洗い清められ贖われることを意味するからである。
天地創造時のアベルより後に、イエスはこの世にあらわれるが、イエスは天地創造の以前に存在している。
「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」(ヨハネの福音書1章)。
さらにパウロは、ただ一度だけのイエスの十字架の血が、アベルの捧げものを踏襲して行われてきた歴代の祭祀たちが子羊の血よりも、優れた血であることを述べている。
「すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、”敵をその足台とする”ときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである」(へブル人への手紙10章)。
ここで、”敵を足台にする”とは、後述するように、”ヘビのかしらを砕く”と同じ意味である。
そして、この言葉によって、「カナの結婚式」での場面で、料理長が花婿に言った「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」という言葉がよく理解できる。ここで、よいぶどう酒とは、イエスの血を表しているからだ。
また、イエスはなぜこの奇跡を人々の前であからさまに行わなかったのであろうか。聖書は、ただ「水をくんだ僕たちは知っていた」と語るのみである。
神が女性に対して「女よ」とよびかける場面が「創世記」にある。
神がエデンの園の中央の「善悪を知る木の実」を食べないように命じたが、女がヘビにそそのかされて木の実を食べ、それを人にもすすめて食べたため、二人は自分達が”裸”であることを知る。それからの神と二人とのやりとりは次のとおり。
//あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記3章)//
さて人間は、エデンの園で必要なものを自由に得ていたのだが、人間が「善悪を知る木」を食べて以来、自然界では「あざみといばらを生じた」とある。
だが、自然における最大の異変は、人間が「死ぬ存在」になったということである。
そして、神を見上げて生きていた人間が、自らを客体視しはじめたのか、”裸であること”いまや無防備であることに気づいたようである。
女がすべての人の母となってエバと名づけられるが、エバはヘビに騙されて「死」を持ち込んだ。
神は「わたしは”恨み”をおく、おまえ(ヘビ)と女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に」とある。
ここで、もうひとつ重要なポイントは、「女から生まれるものがヘビの頭を砕く」と預言していること。この「女から生まれるもの」とは誰か。
それこそがイエスであり、”死人の蘇り”の初穂となって「滅びのなわめ」すなわち”死”を打ち砕き、救われしものに永遠の命を与えるということである。
イエスの母に対する「女よ、わたしとなんのかかわりがあるか」という言葉は、まだヘビを打ち砕くという「わたしの時」がいまだきていないということである。
イエスが聖霊によって母マリアの胎内に宿ることで、イエスと母が”係る”こととなったのだが、イエスの十字架から復活によって死に打ち勝つことにより、イエスはマリヤは「真の結びつき」に入ること強い言葉で示したのだ。
イエスが母親に語った「あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」と、全く同じ言葉が発せられる場面がある。
それは、なんとイエスの言葉ではなく、悪霊から発せられたものである。
イエスがガリラヤの地に着いた時に、悪霊につかれた二人の者と出会う。
二人は手に負えない乱暴者で、誰もその辺の道を通ることができない程であった。
その時彼らがイエスに叫んだ。「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきてわたしどもを苦しめるのですか」。
そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が崖から海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった(ルカの福音書8章)。
他にも「けがれた霊」につかれた者が、「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるかわかっています。神の聖者です」と語っている(ルカの福音書4章)。
以上、二つの出来事から、悪霊の元締め(へび)も、イエスのいう「私の時」をよく知って怯えていることがわかる。
さて、イエスが血肉の関係について語る場面がある。
//イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。
ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです//(ヨハネの福音書12章)
かつて、母マリアに「女よ、わたしとなんの関係があるか」と言ったイエスが、その時語った「私の時」つまり十字架の時をむかえて、母マリアに次のように語りかけている。
//イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った//(ヨハネの福音書19章)。ちなみに、この弟子とはヨハネである。
これは、新たな共同体「教会」を示唆している。