上杉治憲、「鷹山」として再登板

上杉治憲(鷹山)は、米沢藩の第9代藩主として、困窮した藩財政を再建したことで知られている。
上杉鷹山は、あの上杉謙信の系統である。
会津上杉家は、会津に移封されたときの藩主の養子・景勝(謙信の姉の仙桃院の息子、つまり謙信の甥)を初代とする。景勝同様、鷹山も「養子」である。
上杉鷹山は(宮崎県)高鍋藩主・秋月種美の次男として江戸屋敷で生まれた。幼名は松三郎で、16歳に元服して「治憲(はるのり)」と改名した。
そして、1769年に19歳の時に米沢へ入国している。実父は日向・高鍋藩の第6代藩主・秋月種実であり、彼はその二男であった。
実母は筑前(福岡)秋月藩の第4代藩主の娘で、この母方の祖母が、第4代米沢藩主(綱憲)の娘であったことが縁で、鷹山は10歳の時(1760年)に、米沢・第8代藩主・重定の養子になった。
さて江戸時代後半の各藩の財政難は、前半の急速な商工業経済の伸張によって幕府や全国諸藩に共通した問題あったから、単に「財政再建」というのであれば、特段、米沢藩だけの問題ではなかった。
にもかかわらず、上杉鷹山の財政再建や藩政改革が有名なのには、全国的な財政難の中でも、米沢藩がとりわけひどい状態だったからである。それには、上杉家特有の歴史的背景があった。
上杉家は、上杉景勝が豊臣政権の五大老の一人で、豊臣秀吉によって「会津120万石」と佐渡金山を与えられていた。
それは,関東に配した徳川家康の背後を押さえ、伊達政宗を封じるために必要と秀吉が判断した財力であった。
しかし秀吉の没後、上杉家は石田三成と連携して、徳川家康と正面から対立するも、関が原の戦は家康が勝利。家康は上杉家を潰すことはせず「米沢30万石」に減封した。
なおも続く対立構造の中で軍事力を維持しなければならない上杉家は、120万石規模の家臣団をそのまま抱え続けた。
当時の財政担当の直江兼続(なおえかねつぐ)の徹底した支出削減によってある程度の財政改善はみられたものの、第3代藩主上杉綱勝が急死すると、跡継ぎをめぐる混乱から米沢藩は15万石にまで減封されてしまう。
危機感を抱いた一部の藩士たちは、養子に迎えられ元服したばかりの鷹山に、藩再建のすべてを託したのである。

1961年1月、第35代アメリカ合衆国大統領に就任したジョン・F・ケネディは各国の記者団相手の記者会見に臨んでいた。
その席上で、日本人記者が「日本人で最も尊敬する政治家は誰ですか?」と質問した。その時ケネディは、「YOZAN UESUGI」と語った。
記者は予想外の答えに驚いたが、逆にケネディ大統領によって「上杉鷹山」が掘り起こされたということである。
記者の中には、米沢藩にあって財政難や人口減からの「V字回復」を成し遂げた「上杉鷹山」の名さえ知らない人もいたくらいだ。
ケネディの就任演説には、「国家があなたに何をしてくれるか問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい」と語った有名な箇所があるが、この国民と国家の関係について、上杉鷹山(治憲)は、後任の治広に「伝国の辞」とよばれる言葉を残している。
「国家(藩)は、先祖から子孫へと伝えられるものだから藩主の私物ではなく、人民は、その国家(藩)に属するものだから、これまた藩主が私有するものではない、そして藩主はその人民と藩のために存在するものであるから、ゆめゆめ、藩主のために国家(藩)や人民があるとは思うな、ということである」。
ちなみに、「鷹山」は彼の藩主隠居後の名乗りであり、藩主時代は「治憲」といった。
この治憲が養子に入った頃の上杉家は、経済危機の真っただ中で、八代藩主・重定は財政悪化の建て直しは無理だと、幕府に領地返上を願い出るほどだった。今でいう「自己破産」の申請である。
治憲にとっては九州のことは知っていても、東北に土地勘などはなったくない完全アウェイであった。
しかも小さな大名家から上杉家のような名門家にやってきて、その養子の立場で改革を期待されるというのは、異例づくめである。
こういう場合、先例や従来のしきたりに妥協しながら改革を行わざるをえない一方、事態を客観的に見ることができ、とらわれない自由な改革ができるということもある。
新藩主・治憲がまずやったことは、藩主自ら率先して倹約することであった。
木綿の衣服に一汁一菜、奥女中は50人から9人に減らし、藩主の生活費は、それまで7分の1にまで切り詰めた。
しかしながら、治憲の義理の父で先代の重定は贅沢三昧で、隠居所として能舞台付きの大邸宅を建築し、踊りや歌に明け暮れていたのである。
倹約の難しさを悟った鷹山は、二人の家臣(竹俣当綱・莅戸善政)を抜擢し、新しい増収策を探らせた。
治憲は米の増産をはかるため、藩士にも田畑の開墾にあたらせた。しかし、この治憲の改革は藩の重臣たちの激しい反発にあった。
名門上杉家の伝統を伝統を無視しているとして、改革の中止を訴えたのである。
1773年6月、門閥の重臣7人が改革の一切を止めるよう、藩主を城内の一室に軟禁し、改革に対する四十五箇条からの建言書を突きつけ、直接の談判を行ったのである。
いわゆる「七家騒動」だが、あわや「お家騒動」に発展するかに思えたが、治憲は彼らの要求をきっぱり断り、返す力で重臣らを厳しく罰したのである。
二人が隠居閉門、首謀者は打ち首として、保守派を実力で排除したのである。
保守派の抵抗を乗り切った鷹山は、竹俣当綱(たけのまた まさつな)を中心に本格的な財政改革に乗り出す。
このとき竹俣は「樹養篇」とよばれるプランを献上する。内容は漆の木100万本を藩全体に植えるというものだった。
漆の中にはロウの成分があり、蒸して圧力をかけることによってロウを取り出すことができた。採れた実を藩が買い上げ、そこからつくったロウを専売にすることで藩の増収を増収を図ろうとした。
しかしそこには思わぬ誤算があった。
同じころ西日本ではハゼから採れるロウが登場し、漆ロウ以上に品質がよく、収量も多いため急速に市場に浸透したのである。
米沢藩は、上杉謙信の命日には飲酒を禁じていたが、竹俣が命日の朝まで飲酒していたのが発覚。改革の中心人物の公費の乱用、過剰接待、専制的な面に批判が集まり、治憲は竹俣を隠居させ禁固の刑に処した。
竹俣の処分から半年後、もうひとりの片腕・莅戸善政(のぞきよしまさ)も隠居を願い出た。
さらに翌年の1783年に浅間山が大噴火を起こして、日照不足で米の収量が激減する「天明の大飢饉」がおき、米沢藩の財政はさらに悪化する。
結局、治憲は35歳にして藩主の座を退くことになり、先代の重定の実子が藩主の座につくことになった。
藩主の座を退くことになった上杉治憲は「鷹山」として、「改革の精神」を残すために、ある言葉を次の藩主に託すことにした。それが前述の「伝国の辞」で、君主の身勝手な行動や贅沢をいさめるものであった。
しかし、上杉家の名に恥じない藩主就任の儀式などに巨額の費用をつぎ込んでしまい、年貢徴収の不正などで農民は田畑を捨て逃げていった。
そして13万いた人口は9万人にまで減少、上杉治憲の藩主としての改革は表面上、完全敗北とも思えた。
しかし、鷹山が残した「伝国の辞」など改革の精神は残り、時間が経過するとともに「鷹山待望論」が澎湃として沸き起ったのである。そして上杉鷹山としの再登板による二度目の改革が始まる。

1790年11月、鷹山は藩士に対して改革への意見書の提出を求めた。そして藩の上層部にだけしか明かさなかった「藩の財政状況」」をはじめて公開した。
藩士達から多くの意見が提出されたが、その中には、かつて辞任した「莅戸善政を呼び寄せよ」というものが多くあった。
1791年1月、鷹山はこの声を背景に莅戸を藩の重職・中老に任じ、改革のプランを作成させた。
そして「上書箱」を設置して、門閥や家柄にとらわれず優れた意見書を積極的に採用した。
その意見の一つが、かつの「漆100万本計画」を批判したうえで、新たに桑を増やし養蚕をすることで、四民が繁昌すると提言している。
これを受けて鷹山は桑の苗木の無料配布、桑畑にかけていた税金の禁止し、養蚕の技術指導を行うなど、農民の生産意欲を高めようとしたのである。
こうして「養蚕」は米沢藩内に深く根付いていった。
また鷹山は武士にも養蚕を奨励し、「絹織物」の生産も手掛けるようになった。
その際、越後や信濃から技術者を招き、最新鋭の織機なども導入した。そしてこれを下級武士の妻や娘たちに学ばせた。
以前から栽培された青苧(あおな)や紅花(べにばな)などの染料の原材料をそのまま藩外へ売り渡していたが、これを使って藩内で染め上げることにした。
いわば地元で生産された生糸に付加価値をつけ、「米沢織」という新製品をうみだしたのである。
また全国市場に通用する「透綾(すきや)」というヒット商品が開発された。
「透綾(すきや)」は、透けて涼やかな絹織物で、このような商品はほとんどなく、これを開発した武士は多くの富を得ることができた。
上杉鷹山は1823年3月、72歳で亡くなるが、その翌年には米沢藩は借金のほとんどを返済したのである。そして藩が潤うとともに、人口もV字回復していった。

上杉鷹山の成功には、養蚕技術の育成などにおいてく、商人の協力があったが大きい。
改革の中心人物だった莅戸善政が酒田の豪商「本間家」より具体的な指導を受けていた。
本間家の庭園には、様々な土地の岩が配されている。
山形県酒田といえば「北前船」の寄港地として有名。これらの岩々は積荷の米俵をおろした帰路に重さ調整するた岩で、それを持ち帰ったものである。
こうした「北前船」を通じての商業の発展とともに、上杉家が米沢藩に入国する前に藩主として封された会津の商人とも関係が推測される。
最近、「ディール」という言葉がさかんに使われているが、近江商人の行き方に、「三方よし」という言葉がある。二者の「ウイン・ウイン」ではなく、「自分よし、相手よし、世間よし」という考え方で、ここでいう「自分」というのは、企業のことであり、相手というのはお客のことある。
すなわち企業が儲かり、お客は適正価格でよい品物を得られる、すると、世の中もよくなっていく。この「三方よし」を実現すれば、結果として、企業は「永続的な繁栄」を遂げることになるであろう。
近江商人の「三方よし」を、地方行政や地域振興に生かした武将が、近江商人発祥の地の1つである日野の城主「蒲生氏郷(がもううじさと)」である。
彼は幼少時、織田信長のところに人質に出されていたが、信長は彼を非常に可愛がり、信長はやがて自分の娘ふゆを氏郷に嫁がせた。
信長が死んだ後、後継者を指名をする「清洲会議」が開かれ、氏郷も有力な候補者の1人になったはずであったが、これを恐れた豊臣秀吉が、氏郷を日野から、伊勢の「四五百(よいほ)」という土地に異動させた。
大名が異動するのにあわせて、商人も一緒に移動するが、四五百には伊勢商人がいた。
氏郷は「伊勢商人か日野商人か」の二者択一を行わなかった。そのために地名を松阪に変えて、「松坂商人」という、新しい地域名になじんだ商人群を作り出した。
氏郷は続いて、かつて伊達政宗が治めていた会津の黒川に城を与えらる。ここでも黒川を「若松」に変え、当時「杉妻(すぎのめ)」と呼んでいた地域全体を「福島」に変えたのである。
したがって蒲生氏郷の後に会津に入国した上杉家にも近江商人の「三方よし」の考え方も伝搬していたに違いないのである。
上杉鷹山の改革で一番驚くのは、経済から民政、教育・飢饉対策まで多方面に目が行き届いていることである。
かつては上杉謙信や直江兼続が体現し、その後の幕府政治の不安定さが証明してきたバランスの大切さに、鷹山は当初から気づいていた。
鷹山は米沢藩の再建を大倹令(財政策)と藩校設立(学問教育)に同時に取り組むところからスタートさせ、鷹山自身生涯を通じて倹約と学問に励んだ。
鷹山は一回めの改革は躓いたが、二度目の改革では倹約という縮小経済ではなく、莅戸善政を中心に新田開発や産業振興の重点を置き、商人と交流し協力をえるようにした。
農民たちは苦労をして米を作れるようにしたものの、農民がいくら頑張ったところで米を中心に農業を盛んにするのは無理がある。そこで治憲は、東北地方の気候や土地柄にあった植物を植えることを推奨した。
それも、飢饉にそなえた救荒食を考案し「かてもの」としてまとめた。
しかし、ただでさえ農民は他藩へ逃げ出してしまっていて、残っている者は米作だけで手いっぱいであり、とても他の植物を管理している余裕がない。
こで治憲は、まずは老人や子供に鯉の餌やりを担当してもらい、それで育てられた鯉を販売する。妻や母は機織りや糸を紡いだりする。
そうした利益の一部は当人たちに還元することによって、老人や女性の生活的自立も図れると考えた。また、藩士の家の空いているところに桑などを植えるなど、空いてる土地なども有効活用しようと考えた。
この時代、平等という概念はない。
社会は士農工商で分かれていて士は士のやるべきことを、農は農のやるべきことをというのは当たり前のことだった。
しかし、藩士達の中にも少しずつ参加してくる者たちが現れ始めた。荒れ地が開墾され始め、水田以外は桑や漆の木などを植え、池や沼には鯉が泳ぎ始めた。家からは機織りの音が聞こえ始めた。
鷹山の成功の背景には鷹山や藩士たちを導いた、細井平洲をはじめとする学者たち、同じ目的に向かって自分の持ち場で尽力した中級家臣たち、米沢藩を見捨てず指導し続けた商人たちの存在も見逃せない。
それでも、彼らの力が引き出され、一つ方向に束ねられ生かされていくためには、上杉鷹山のような優れたリーダーが必要であった。
さて江戸時代の東北地方に鷹山と同じように外国人によって「再評価」された日本人がもうひとりいる。
カナダ人外交官ハーバート・ノーマンは、宣教師の子として日本で暮らしたことがあるが、江戸時代の安藤昌益(あんどうしょうえき)を「忘れられた思想家」として、日本人にその名を知らしめた。
安藤は出羽国(秋田藩)出身で、身分・階級差別を否定して、全ての者が労働(鍬で直に地面を耕し額に汗して働く「直耕」)に携わるべきであるという、徹底した「平等思想」を唱え、弟子たちが「自然真営道」という書にまとめた。
フランスのルソーを思い浮かべるが、秋田藩と米沢藩は隣接しており、安藤の思想が鷹山に影響した可能性もある。
それにしてもケネディ大統領は「上杉鷹山」の名前をどうして知ったのだろう。
1894年に英訳された内村鑑三の「代表的日本人」の中のひとりとして上杉鷹山がとりあげられている。
2014年、ケネディ大統領の娘にあたるキャロライン・ケネディ大使が米沢を訪れ、スピーチを行い、父親のケネディ元大統領が鷹山公を称賛していたことに触れた。
「父は『一人でも世の中を変えることができる』とよく話をしていた。しかし鷹山公ほど端的に言い表した人はいない。『なせばなる』」と。
<参考>
〇上杉 鷹山(うえすぎ ようざん/1751年~1822年)
名言「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」。
〇安藤 昌益(あんどう しょうえき/1703年~1762年)
思想「彼の生きた社会を”法世”とみなし、法世以前に”自然の世”があったと考え、法世を自然の世に高める具体的方策を提唱した」。