ふるさと創生

福岡市唐人町において、亀井南冥没後200年イベントが、10月25日、11月15日、22日に行われる。
亀井南冥は黒田藩西学問所・甘棠館(かんとうかん)の館長で、志賀島で見つかった金印を「後漢の光武帝が倭奴国の使者に賜った印綬」と特定した人物である。
ちなみに黒田藩・西学問所が「甘棠館」で、東学問所が「修猷館」である。
2001年4月に建設された「唐人町西地区再開発ビル」の場所は、かつて亀井南冥が甘棠館を開いたところ。
ここから青雲の志を持った人達が数多く世に送りだされた。
当地の協同組合はこの地に快適な住空間と商業機能の融合を目的に、広場を中心とした「唐人町プラザ・甘棠館」を建設し、その2階に地域コミュニティの核となる会議場施設(劇場とカルチャー教室)を設置した。
劇団シューマンシップと内浜落語会中心に「甘棠館SHOW(笑)劇場」を盛り上げ、商店街の集客力の向上と来街者の滞留時間の延長を目指している。
特に2014年は、亀井南冥没後200年、金印発見から230年の節目に年にあたる。
この年に創立20周年を迎える劇団シューマンシップは、12月24、25日の2日間「亀井南冥伝~金印の謎の男~」を博多座にて上演する。
一方、内浜落語会は、唐人町商店街寄席第200回記念を迎え、2015年2月14日(土)に第2回甘棠館登竜門寄席を開催するという。
こういう動きは、今喫緊の課題「ふるさと創生」への動きの一つとして注目したい。

最近、「エリザベス・タウン」(2005年)というアメリカ映画をみた。
「すべてを失った僕を、待っている場所があった」というサブ・タイトルであった。
新進気鋭のシューズ・デザイナーが、会社で大きな損失をだして会社を首になり、恋人にも別れを告げられる。死さえ考えていた折に、父の訃報が届く。
自分が生まれ育ったケンタッキーの山懐にあるエリザベスタウンに帰郷したところ、自然豊かさや思わぬ人々の暖かさにふれる。
帰郷した失意の男が、心癒されていく奇跡の6日間を描いた映画であった。
帰省の途中で飛行機の中でであったフライト・アテンダントの新たな恋人との出会いもあった。
『無難に生きてきた者には、大失敗は起こらない』
『大失敗しても根性でしがみつくの、笑って見返してやるの、それが偉業ってもんよ。』なんて言葉に励まされる。
少々出来すぎた物語だったが、長く都会生活を送った者がふるさとそのものに「癒される」部分は共感できる。
日本にも「エリザベスタウン」に似た小説がある。題名はそのものずばりの「帰省」。
日本の明治期、過剰人口にあった地方農村青年が東京に出て行くという人々の新しい動きが起きていた。
大志を抱いて東京にでたものの中には、夢破れ煩悶の中に過ごすものも多くいた。
青年達は、故郷に錦を飾ることを誓って出たため、何するでもなく帰郷することは、自分の敗北を受け入れることを意味することだった。
そんな時代に、福岡・朝倉出身の詩人・宮崎湖処子は「帰省」という本を書き、それが当時の大学生の間で大ベストセラーとなった。
この作品は、当時の上京し挫折した若者の気持ちを代弁していたからである。
朝倉三奈木の富農に生まれた宮崎は東京専門学校(早稲田)の政治学科に入学する。
しかし東京は同じ野心をもつ地方青年らで溢れ、宮崎自身慣れぬ生活から精神的にも経済的にも追い詰められいった。
そんな時宮崎に父の訃報が届くのだが、エリザベス・タウンの青年とは違って帰郷することができなかった。
政治家になることを夢みて上京した以上、志を遂げるまでは何があっても帰らぬつもりだった。
また今の自分を故郷の人々に晒した場合、家族をはじめ親戚知人はどのように迎えてくれるか不安でもあった。
しかし父の一周忌に兄の強い催促で帰省したところ、抱いてきた不安とは裏腹に人情と平和のすめる故郷があった。
それは、都会とは違う理想の田園郷のように思えた。
さらに幼馴染の女性の優しいもてなしをうけ、実際にその女性が後の宮崎夫人となっている。
宮崎にとっての6年ぶりの帰省は、故郷礼讃を育くみその体験が「帰省」を書く契機となった。
そして1890年6月民友社より刊行され、故郷を賛美する田園文学の最高峰として絶賛をあびたのである。
ちなみに、宮崎の故郷に近い甘木公園内には、宮崎湖処子の「子守り歌」の記念碑が立っている。

愛媛県松山の「坊ちゃん劇場」は、西日本初の地域文化発信の常設劇場で、最近では、平賀源内を描いた、奇想天外 歌舞音曲劇「げんない」を上演した。
平賀源内は、讃岐・高松藩出身で江戸時代中期の博物学者、作家、陶芸家、発明家として才能を発揮し、日本のレオナルド・ダ・ビンチと称される。
坊っちゃん劇場には隣接して天然然温泉「利楽」があり、洞窟風呂や釜ふろをはじめとする10種類以上の入浴設備があり、中でも野天風呂は西日本最大級だという。
さてこの劇場で取り上げられる人物としておかしくはない一人の人物が思い浮かぶ。
大正から昭和へと時代が遷り変わる頃、愛媛県の寒村で20歳前後の一人の青年がリヤカーをひき、各家庭から古紙を回収していた。
1909年(明治42年)生まれの井川伊勢吉の若き日の姿だが、小柄な体躯には青雲の志がつまっていた。
伊勢吉は経営手腕を発揮し、パルプから紙まで一貫して作る製紙工場を立ち上げた。
需要の転換を見据えて和紙から洋紙に主力を移し、主に新聞用紙でシェアを伸ばした。
そして1943年、この井川伊勢吉が社長として他の製紙会社と合併する形で「大王製紙」が誕生した。
しかし、1960年代はじめに、資金繰りが悪化し倒産の危機を迎えた。
しかし伊勢吉はこの倒産の危機を子の井川高雄とともに乗り切りった。
親子は二人三脚で奔走し、日本の高度成長が追い風になり、3年で更生手続きを完了した。
父の伊勢吉が新聞用紙と段ボール原紙に主力をおいたのに対して、二代目は父を説得して会社名よりも有名なティッシュペーパーのブランド「エリエール」を生みだした。
また高雄は、知名度をあげるために、同社は女子プロゴルファー養成を始め、1982年に「大王製紙エリエール レディスオープン」をスタートさせた。
高雄の戦略は当たり、61年にはティッシュペーパー部門で国内シェアトップとなり、63年には東証への再上場を果たしたのである。
高雄は地方の製紙会社を次々と買収するなどして勢力を拡大し、買収した企業は井川家の一族が大株主となり、一族が強い影響力を持った形で大王製紙グループが形成されていった。
高尾は、その強気の営業姿勢から、「四国の暴れん坊」ともよばれた。
さて、高雄の嫡男が井川意高(もとたか)である。
高尾氏は帝王学をたたき込むため、息子に惜しみなく愛情とカネを注ぎ込んだ。
愛媛から東京までジェット機で塾通いをさせ、東大卒の社員を家庭教師につけた。
息子は期待に応え、名門・筑波大付属駒場高校、東大法学部を経て同社に入社。父親の庇護の下、会社でもエリート街道を突き進んだ。
そして高雄が顧問の立場で見守る中、平成19年6月、三代目の井川意高は42歳の若さで大王製紙の社長に就任した。
ただ皮肉なことに、父親による三代目育成過程で普通ではない金銭感覚が身に付いてしまったようだ。
大学時代からは高級クラブ通いをはじめ、政治家や芸能人など派手な交友関係を好み、その中で国内の違法カジノにはまった。
さらなる刺激を求め、多額の金額が動くマカオ、シンガポールのカジノへと手を伸ばした。
当初、大きな利益を得ることもあったことが、その深みにはまったと語っている。
会社の金を持ち出し、まるで、ティッシュのごとく万札をまき散らし、井川意高は2011年6月特別背任横領で逮捕された。
祖父も父親も意高に教育にも愛情にも力を注いだが、三代目をいろんな意味で創業の「ふるさと」から離れるように育ててしまった。
その結果「欲」に勝る「志」までは育てるまではできなかったようだ。

大王製紙・井川家のルーツの愛媛県で、「地元愛」に根ざして起業をした人がいる。
大藪崇氏で愛媛・今治の手ぬぐい「今治極上手布 伊織」を世界に売りだしている。
愛媛大学在学中は、パチンコに明け暮れていたようだが、何よりスゴイのはその「起業コンセプト」である。
大藪氏が事業を行う上で最も大切にしていることは「志」の無い事業は取り組まないことだという。
そして「義」と「志」を持って事業に取り組むことを強く意識している。
事業は自らの志を全うするための手段であり、従業員は同志である。従業員はただ働くのではなく、思いを共有し、共に志に向かって挑戦する仲間であり、その過程で一人一人の人間的成長、生活の向上が図れるように事業を組み立てていく、というものだ。
さらには、愛媛の抱える直近の大きな問題として「道後温泉本館」の改修工事があげられる。
工期が約7年と非常に長く、愛媛観光のみならず愛媛経済に与える打撃は計り知れない。
そのピンチを乗り越えるためにも「道後温泉本館」と双璧をなすような集客の柱が必要であり、そのためのビジョンとして、まずは「伊織」を全国、そして世界に展開し、「伊織」を世界一のタオルショップに成長させる。
また、今愛媛で起きていることは地方都市共通の悩みであり、今後は日本全国をターゲットに新たな魅力作りに取り組み、日本全体がより面白い国になるように全力を尽くす。
またミッションステートメントとして「事業活動を通じて現代社会の抱える諸問題を解決する」というものを掲げ、地域活性、農業、高齢化社会、環境を重点項目としてこれらの抱える問題にチャレンジしより良い世の中作りに貢献させてもらうのだという。
大藪氏は、ふるさと創生の旗手として活躍しておられる。
さてもう一人、「地元愛」に裏打ちされた起業家の一人が四国香川生まれの真鍋邦大氏である。
ただ真鍋市の起業コンセプトは、大藪氏と対照的にファジーである。
四国への想いがある若者「1000人」会議をたちあげ、若者が触れ合うことで、地元を見直すきっかけとするのだという。
1000人いればそれぞれが目的を持っているだろうから、こちらから目的を与えことはしない。
要するに真鍋氏は、四国のことを想う人たちが出会う素敵な場を作ることで、自然と色んな化学反応が生まれるのを期待するものである。
真鍋氏の略歴を紹介すると、1978年 香川県高松市生まれで、高松高校卒業後、東京大学経済学部へ。野球部では副将を務めている。
2005年 リーマン・ブラザーズに入社するも、会社はその3年後にリーマンブラザースは経営破綻する。
リーマンショックで職を失った時、皆に「大変でしたね」と言われたが、そうは思わなかった。
それなりの給料をもらっていて恵まれて働いていたから、自分で情況を変えようとは思わなかったと思う。
しかしある日突然会社が何もなくなって、自分のやりたいことが自由に選択できるように思った。
眞鍋氏は、会社の経営破綻に関係なく、30歳どう生きようかということを真剣に考えていて、30代のうちに海外に行きたいと思っていた。
ある日突然会社がなくなった時、稼がなければとか、この先どうやって食べていこうとか考える前に、自分が自由に使える時間が出来て「よし!海外に行こう!」と思えた。
アメリカに数ヶ月に行くことになるが、その間に1ヶ月間の空白の時間ができて、10何年ぶりに実家に戻り実家で暮らした。
「里帰り」ではなく「暮らす」ことをしてすっかり考えが変わった。
眞鍋氏は、故郷香川に戻ってその魅力に強くひかれた。
マスメディアは「地方は疲弊している」というのは違うと思った。東京の方がよほど疲弊している。
東京で人生を謳歌できる人はいるにちがいない。しかし大事なのはそうじゃない人で思い通りに行かず苦しんでいる人が多すぎるということである。
大学に行ってそのまま就職している気がしている。それも悪くないが、いろんな選択肢の中から選んでいないことが問題である。
真鍋氏は、こういう選択肢もあるよっていうことを知ってもらいたいという思いもある。
東京には仕事があるからいくという人が多いけれどど、それはマスメディアがマスの情報しか流さないからで、地方の情報は知らないだけである。
実際、香川県の有効求人倍率は東京よりも高い、要するに香川の方が仕事をたくさん募集している。
田舎の人たちは、自然と寄り添えたり、こどもと触れ合う時間が長かったり、新鮮な物が食べられたりする。
単純に笑顔が多くて、田舎の人のほうが都会で暮らしている人より、実は心豊かに生きているんじゃないかなと思った。
ただ田舎の人は、このことはあまりに当たり前で、それがいいとかすごいことだと思ってない。
また、香川県は海の幸、山の幸がすぐに手に入るから。特別に贅沢な暮らしができ、この普通の暮らしは都会の人からしたらすごく魅力的だと思うくらい豊かだと思う。
また時間も、ゆっくりと贅沢に流れているように感じた。
香川にちどまらず、四国は豊かな自然と食文化、お遍路に象徴される人間味溢れるコミュニティが残る可能性の宝庫である。
さて、四国「1000人委員会」から実現した活動はいくつかある。
小豆島には大手の塾や予備校はなく、高校以上の高等教育機関がないことから、卒業後は殆どの高校生が島を離れる。
この状況では、中高生が具体的な大人像をイメージすることができない。
そこで始まったのがティーチングツアーである。
ティーチングツアーは、「小豆島の人に逢い、暮らしに触れ、産業を知ると共に、中学生の勉強のお手伝いをしよう!」とい う触れ込みでスタートした。
教育や地域活性に関心のある都会の若者が島の中学生の学習をサポートする学習支援ツアーで、月に1度(夏休みは毎週)、日帰りもしくは1泊2日で小豆島を訪れ、都会の若者が寺子屋教室を開催する。
都会に暮らす志ある若者が島を訪れ、中学・高校生に直接的な学習指導を行いながら、普段触れ合うことのない都会の若者と交流することで、感性を刺激し、やる気が喚起されることを期待している。
子どもたちは、島では中々出会えない「志」を持って夢に向かっている若者から勉強を教えてもらい、島外から来る若者は、純粋な子どもたちから普段にはない刺激を受ける仕組みである。
また、ガイドブックにあるような観光地・景勝地を訪れるのではなく、島を支える食品産業の担い手を訪問し、島で暮らす人たちと食卓を囲むことで、普通の観光ツアーでは味わえない本来の島の暮らしを提供することで、都会の若者にとっても価値観の見直しに繋がっている。
講師として参加した学生の中から卒業論文のテーマとして小豆島を取り上げたり、実際に島に移住してくる若者が、2012年度に1名、2013年度に1名と現れて始めている。
島の中学生の学力向上、教育環境の改善を第一義の目的として始めたが、指導に来た若者たちの中には島の人たちとの触れ合いの時間から、都会にはない島の暮らしの豊かさを実感し、生き方や働き方を改めて考えるきっかけとなっている。
また、町行政からの評価も高く、町単独予算として、次年度からも事業継続されるような取り組みが行われている。