哀切の鐘・希望の鐘

教会の鐘にせよ寺の梵鐘にせよ、鐘の音色にはドコカもの悲しい響きがある。
「祗園精舎の鐘の音、所業無常の響きあり」。
北海道の「札幌の時計台」はどんな音色で時を知らせるのだろうか、また日本人が多く移民したブラジルやハワイの農地に響いた鐘の音はどういう響きをしたのだろうか。
故郷を離れた開拓者の苦闘の心と、鐘音の響きとはキット「共振」してきたに違いない。
数年前に行ったドイツ・ロマンチック街道の街々に響いていた鐘の音は、地に繋がれた人の思いが天に向かって一瞬解き放たれたようにも聞こえた。
しかし地にツク人々の思いがそれほど嬉々としたものとてあるはずもなく、鐘音にはヤハリ哀愁がつきまとう。
実際に、世界中の鐘にまつわるエピソードに哀感ただようものが多い。
韓国・慶州博物館横で見た大きな鐘にはアル「悲話」が秘められており、その音は「エミレー、エミレー(お母さんの古語)」と叫ぶ子供の音のよう響くという。
また古時計には擬似的な「鐘」が仕組まれているため、時の知らせ自体が妙に哀切感をおびる。
1874年、音楽家ヘンリー・ワークは劇場公演のツアーに加わるためイギリスに渡っていた。
旅の際に止まったホテルは、ダーラム州ピアスブリッジの川沿いにある小さな民宿「ジョージ・ホテル」であった。
宿の玄関をくぐったワークは、ジョージ・ホテルに置かれていたロングケース・クロックに目が留まった。
なぜなら、動いてもいない古びた時計が、わざわざ目立つ玄関ロビーに置かれていたからだ。
針の止まった古時計に興味を持ったワークが尋ねると、ホテルの主人はとあるエピソードを静かに語り始めたのだった。
ヘンリー・ワークが訪れる数年前まで、ジョージホテルはジェンキンズという二人の兄弟が所有するホテルだった。
彼らは生涯独身だったが、地元の人々からの信頼も厚く、人付き合いのいい兄弟だったという。
ジョージホテルのロビーには、2mを超える大きな木製の時計が置かれていた。
それは、ジェンキンズ兄弟の兄が生まれた日に購入されたロングケース・クロックで、ジョージホテルの顔となっていた。
この大きな時計の正確さには定評があり、宿泊客が馬車の出発の時刻を知るのにとても役に立っていたという。
時間がズレたりすることは一日もなく、一年中正確な時を刻み続けていたそうだ。
ある日、ジェンキンズ兄弟の弟が病に倒れ、そのまま亡くなってしまう。すると、今まで正確に動いていた大きな時計の時間が急に遅れ始めた。
最初はほんの数分程度の遅れだったが、弟の葬儀が済む頃になると、修理士が注意して管理していたのにもかかわらず、大きな時計は徐々に遅れの度合いを増し始め、ついには1日に15分も遅れるようになってしまった。
弟の死から1年以上経過したある日、後を追うように今度はジェンキンズ兄弟の兄が亡くなった。
彼の死を聞きつけてホテルのロビーに集まった友人たちは、大きな時計を見て騒然としたという。
というのも、時計の針は「11:05」、すなわち彼の死の瞬間の時刻を指し、動いていたはずの振り子もその動きをまったく止めてしまったのだからだ。
この時計は、ジョージ・ホテルに現在も展示されている。
ジョージホテルのオーナーから聞いた大きな時計のエピソードは、ヘンリー・ワークに強いインスピレーションを与えた。
強い創作意欲に掻き立てられたワークは、その日一晩中寝ずにコノ逸話についての曲を書き上げた。
この曲が今日我々の知るアメリカの歌曲「大きな古時計」の原曲となった。
ワークがこの曲を早速アメリカに持ち帰り発表したところ、たちまち多くの人々の賞賛を得て、この作品はミリオンセラーになった。
そして、日本では平井堅の「大きなのっぽの古時計」で始まるアノ曲でヒットした。
♪真夜中にベルが鳴った おじいさんの時計
お別れの時が来たのを 皆に教えたのさ
天国へ昇るおじいさん 時計ともお別れ
今はもう動かない その時計♪
実際に、ある時計屋さんよれば、修理を長年やっていると時計がアル時間で止まるのか、説明できないような「不思議な時計」に出会うという。

鐘の音の哀切感をもっともよく表現したクラシックの名曲に「ラ・カンパネラ」、正確にいうと「パガニーニによる大練習曲 第3番 嬰ト短調」がある。
いわずと知れたリスト作曲で、「ラ・カンパネラ」はイタリア語で「小さな鐘」という意味である。
クラッシクファンではなくとも、この曲の良さはよくわかる。
繊細な技巧と、哀愁を帯びた響きによって、聞くものを次第に幻想的かつ妖艶な世界へと導いていく。
リストは、1831年にパリのオペラ座で初めてニコロ・パガニーニの演奏を聴いた。
パガニーニは、当時ヴァイオリン界の鬼才としてセンセーションを巻き起こしていた大スターであった。
彼のヴァイオリンが人々を熱狂させたのは、華麗な演奏技巧や豊潤な音色に加え、それまでの常識を破った奏法やステージ衣装、立ち振る舞い、破天荒な私生活等のスターの要素を充分備えていたからだといわれる。
当時20歳の青年リストにとってパガニーニのステージは大きなインパクトがあり、「自分はピアノのパガニーニになろう」と決心したという。
リストはパガニーニの演奏技巧をピアノの「鍵盤上に再現」してみようと考え、全曲のピアノアレンジに取り掛かかった。
リストは天才的な演奏技術を持って、古典音楽の技術的な限界に挑戦し、鍵盤楽器の可能性を極限にまで追い求めた。
ちょうどこの頃のピアノは改良が進み、音の響きが豊かになるにつれ、より新鮮な作品や困難な技巧をピアニストは求められていた。
1831年から34年にかけて作曲し、「パガニーニによる超絶技巧練習曲」を37年頃にパリで出版した。
日本では、フジコ・ヘミングの演奏でこの曲はよく知られるようになった。
彼女のピアノが奏でる「壊れそうな」鐘の音色の響きが、他の演奏家のものよりも、心に奥にまで響いてくるように感じる。
フジコ・ヘミングは「一つ一つの音に色をつけるように弾いている」と語るが、演奏ごとに彼女の心を映すかのように違う音色をしていて、イツ聞いても飽きさせないものがある。
女子フィギュアスケート浅田真央選手による2009年~10年シーズンの新プログラム(フリー)曲として決定されたのは、ラフマニノフ作曲の「前奏曲嬰ハ短調」という曲で、「鐘」または「モスクワの鐘」などの愛称で親しまれている。
ラフマニノフの熱烈な女性ファンから匿名で送られてきた一通の手紙に端を発するといわれている。
そこにはポーの詩のバリモントによるロシア語訳が添えられており、彼女はこの詩が音楽にとって理想的で、特に彼のために作られたようなものだと主張していたのだ。
この手紙の送り主はモスクワ音楽院でチェロを学ぶ学生であったことが、ラフマニノフの没後に明らかになった。
そういうわけでラフマニノフの「鐘」は、クレムリン宮殿の鐘の音にインスピレーションを受けた作品とされるが、ラフマニノフの創作において、少年時代からノヴゴロドやモスクワで耳にしてきた「教会の鐘の音」は着想の主要な源泉だったといわれている。
リストといいラフマニノフといい、教会に響く鐘の音が大音楽家の「創作の源泉」であったことがよくわかる。

「鐘の音」が戦争の始まりを告げる場面として、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の中で、街の鐘がけたたましく鳴り響くシーンがあった。
それはトラップ大佐のファミリーが暮らすオーストリアの町に「ナチスが侵攻」したことを告げる鐘の音であった。
ファミリーは、コンクール会場を気づかれないように逃げ出し、そしてスイスの山をこえて逃れる。
オランダ・アムステルダム「西教会の鐘」も、ナチスにまつわる歴史を秘めた鐘となった。
ベルギーと並んで、オランダもカリヨンの発祥地、カリヨンの本場といえる。
カリヨンとは、ラテン語の“四個で一組”が語源である。
フランドル地方(ベルギー、オランダ)の伝統楽器で、14世紀ごろ、時刻を知らせる教会や物見塔、鐘楼の大鐘が鳴ることを事前に知らせるための「前打ち」と呼ばれる小さな鐘が付け加えられたことに始まる。
アムステルダムの西教会のカリヨンつまり西教会の鐘楼は、1638年に建造された。
塔の高さは約85メートルで、アムステルダムで最も高い鐘楼で、7.5トンの時報(時打ち)用の鐘も付いている。
この鐘楼に、1658年に鋳造された鐘と、1959年に鋳造された鐘とが組み合わされて50鐘のカリヨンが付いているという。
西教会と、西教会の鐘が世界中に知られるようになったのは、「アンネの日記」によるところが大きい。
アンネ・フランクの一家が、ナチス・ドイツの目から逃れて隠れた「隠れ家」は、西教会のすぐ側にあった。
隠れ家の小窓から、西教会の鐘楼がよく見えた。
隠れ家に移って5日目の1942年7月11日の日記には、「お父さんもお母さんも姉のマルゴットも、15分ごとに時を打つ、西教会の鐘の音にまだ慣れません。私は慣れるどころか、最初から、鐘の音がとても素敵に聴こえます。とくに夜は、鐘の音が私に何か安らぎを与えてくれます」と書かれている。
また西教会は、画家レンブラントが埋葬されていることでも知られている。
日本にも戦争にまつわる「鐘」のエピソードが1950年代に英訳され世界に伝えられたことがある。
長崎大学医学部放射線科の医師・永井隆博士が書いた「長崎の鐘」の英語約のことだが、1週間ほど週間ほど前の新聞で、「長崎の鐘」の「映画化」の話があり、あらためて「映像」によってそれが伝わろうとしている。
イギリス・バーミンガム在住の双子の映画監督が、原爆にまつわる歴史を調べたとき、「被爆体験」をまとめた永井博士の代表作「長崎の鐘」の英訳本を読んだ。
英訳本の裏表紙には「永井博士はガンジーやキング牧師と並ぶ20世紀の偉人」と記してあったという。
それをキッカケに、「長崎の鐘」の映画化を思いたち、今年2月中には完成するという。
被爆した長崎の街並は、コンピュータグラフィックで再現した。
ところで「長崎の鐘」は、長崎市・浦上地区浦上天主堂「アンジェラス(アンゼラス)の鐘」を指している。
浦上天主堂浦上天主堂本聖堂の建立着工は、1895(明治44)年に遡る。
資金難から工事は途絶えガチで、本聖堂が完成したのは、1914(大正3)年であった。
1925年には、高さ26mの双塔部が建て増しされ、フランス製大小2個の鐘「アンジェラスの鐘」が取り付けられた。
「アンジェラス」とはラテン語のAngelus Domini(主のみ使い)という語で始まる「お告げの祈り」および,その時刻を知らせる教会の鐘を意味する。
その起源は,朝・昼・晩の教会の祈り(時課)に人を集めるために鳴らしたものである。
後に、その時刻にどこにいても〈お告げの祈り〉をして神の子の受肉の秘義を記念するために「アベ・マリア」を唱えるようになったという。
キリスト教国では,時計の少ない時代から朝・昼・晩に正しい時刻を知らせ,民衆の生活に深い宗教的影響を与えた。
浦上天主堂は東洋一の大聖堂として、日本のカトリック教会のシンボル的存在となった。
1945年8月9日午前11時2分、長崎に原爆が落とされ、「浦上天主堂」は倒壊し、双塔も、「アンジェラスの鐘」とともに崩れ落ちた。
全壊した天主堂の瓦礫の中から、小さい方の鐘は壊れてしまっていたが、ナント大きい方の鐘がホボ無傷の状態で掘り出された。
同年12月24日のクリスマスイブに、仮設の支柱を建て、再び「アンジェラスの鐘」が鳴らされた。
1959(昭和34)年、戦後の苦しい生活の中から、「浦上天主堂」が再建され、「アンジェラスの鐘」の鐘も、右塔に設置された。
1980(昭和55)年、ローマ法王の訪日に際して、赤レンガの外壁と、ステンドグラスの窓に改装され、現在の美しい浦上天主堂に再生された。
ところで「アンジェラスの鐘」が「長崎の鐘」となったのは、当時、長崎医科大学放射線科部長であった永井隆博士が「長崎の鐘」を著したことによる。
永井博士は、長崎医科大学で放射線医学の研究に従事し、白血病を患った。大学の研究室にいたときに被爆し、被爆患者の救援活動をした。
1945年、長崎に原爆が落とされ、妻を失い自らも被爆して重症の身ながら永井博士は「救援活動」を続けていた。
翌46年には、寝たきりの状態になり、47年には、周囲の人たちが建ててくれた「如己堂」に移り住んで、執筆活動に専念した。
「如己堂」は原爆で無一文となった浦上の人々が博士のために建てたもので、博士は“己の如く隣人を愛せよ”という意味から「如己堂(にょこどう)」と名付け2人の子ども達と共に暮らした。
北側の壁に香台、本棚を取り付け、その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置き、寝たきりの博士は執筆にはげんで「長崎の鐘」や「この子を残して」というメッセージ性の高い作品を書いた。
現在この如己堂は、多くの人に受け継がれている永井隆博士の恒久平和と隣人愛の精神の象徴となっている。
そして1949年に米軍から発行が許可された「長崎の鐘」は、大きな反響を呼び、ベストセラーになった。
また同年、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、歌手藤山一郎でレコード化された「長崎の鐘」は、大ヒットした。
「なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」と歌詞にある通り、この浦上天主堂「アンジェラスの鐘」別称「長崎の鐘」は当時、長崎の被爆者たちにとどまらず、戦後の日本の全国民を慰め励ましたのである。
そして現在も、5:30、12:00、18:00の1日3回、「長崎の鐘」は鳴らされている。
長崎に「長崎の鐘」があるなら、同じく広島にも「鐘」があってもいい。
そして実際に「平和の鐘」というものがある。
広島市への原子爆弾投下後、反核と恒久平和を願って建設された広島平和記念公園内に設置されている。
平和公園内には、毎年8月6日の広島平和記念式典で鳴らされる鐘、平和公園の訪問客用に常設されている鐘、毎朝8時15分に鳴るチャイム、の3つの鐘があるという。

「鐘」をモチーフにした曲が、震災で大きな被害を受けた淡路島と東北を結ぶことになった。
2010年3月22日、作詞家阿久悠(2007年死去)の出身地である兵庫県洲本市五色町(淡路島)の「ウェルネスパーク五色」に、阿久の顕彰モニュメント「愛と希望の鐘」が設置された。
この「顕彰碑」は、1972年3月25日に発売された和田アキ子のシングル「あの鐘を鳴らすのはあなた」をモチーフにしたものであった。
除幕式には、この曲を作曲した森田公一や和田アキ子も出席した。
もともとホリプロが和田アキ子に「歌唱賞」をとらせるべく阿久悠に作詞を依頼して出来たのが「あの鐘を鳴らすのはあなた」だったが、それが本当に実現してしまったのだからスゴイ。
さて淡路は1995年に大震災に見舞われたが、ちょうど「愛と希望の鐘」の設置の1年後に東日本大震災がおきる。
東北の被災者支援の義援金の募金活動の一環として、同年3月17日にホリプロが「あの鐘を鳴らすのはあなた基金」を創設したという。

♪あなたに逢えてよかった
 あなたには希望の匂いがする
つまづいて 傷ついて 泣き叫んでも
 さわやかな希望の匂いがする
町は今 眠りの中
 あの鐘を鳴らすのは あなた
人はみな 悩みの中
 あの鐘を鳴らすのは あなた
あなたに逢えてよかった
 愛しあう心が戻って来る
やさしさや いたわりや ふれあう事を
 信じたい心が戻って来る♪