権威と憧れ

先日、或る「講演会中止」の新聞記事に、目線が留まった。
山梨市が社会学者・上野千鶴子さんに「介護」をテーマとする講演を頼んでいたが、新しい市長が難色を示し中止となったという。
市長は、上野さんが過去に行った発言や著書である「セクシィー・ギャルの大研究」のタイトルなどを問題視したようだ。
市民の一部より、上野さんは「公費を使って催す講演会に相応しくない人」としてクレームが寄せられたタメである。
しかし、市民の多くは上野さんの歯に衣を着せぬ「講演会」を期待しており、講演を求める意見が殺到した。
そして市長は「長講演中止を撤回して、テーマを介護にかぎるとした上で、「講演会」は予定どうりに行われた。
振り返れば、市長サイドの過剰な「自己規制」だったのだが、面白かったのは上野さんが「中止を撤回すれば講演する用意はある」と宣言したことである。
ある新聞では上野さんの「寛容さ」を評価していたが、上野さんは市長の「講演中止」がもたらす「反響」をヨンダだうえで、ボールをなげ返した感じさえする。
その余裕は、そうした「ヨミ」に支えられたもので、「論争」とか「ケンカ」に馴れた人かと推測した。
実は、上野千鶴子さんは京都の短大の助教授だった頃から、数々の著作で気鋭の社会学者としられた。
その彼女が、1993年には東大助教授となった時には、正直驚いた。
東大の教授会で「公費で採用するにふさわしくない人物」という意見がでてもおかしくはないと思ったからだ。
ソノ分、東大も「一皮」むけたのかとも思った。
思い起こせば1987年、東京大学ではたった「一人」の若い研究者を「助教授」として採用スル/シナイで「ひと騒動」があった。
東大教養学部に「ポスト・モダン系統」の人材採用の打診が同教養学部の西部邁教授にあり、社会科学科内に「選考委員会」が組織された。
その結果、西部教授は東京外大アジア・アフリカ言語文化研究所助手(当時)の中沢新一氏を推薦した。
この時点で、社会科学科内の24名の教員のうち、反対したのは1人だけだったという。
しかし翌年になると、そうした「選考過程」を無視した動きが起こり、学科間の「感情的対立」が表面化していった。
それが、社会科学科内の「不一致」を印象付けたカタチとなり、教授会での「中沢氏採用」の否決となってしまったのだ。
そして、西部教授らはこの「否決」に抗議して東大を辞職した。
東大では当該学部が組織した「選考委員会」の選考がマッタク無視されたというのは、「前代未聞」のことであったという。
「中沢氏不採用」は、たとえマスコミにしられた人物でも、学問的実績に乏しい人物を採用するのはフサワシクナイということだったのか、詳細はよくはわからない。
しかし、少なくとも古色蒼然たる「権威の殿堂・東京大学」というイメージを我々に印象ヅケル結果になったことだけは確かであった。
ところがソノ騒動からおよそ10年後、中沢新一氏と同年代の上野千鶴子さんが東大教授に就任されたのだから、東大にもようやく「風穴」が空いたのかという気がしたのである。
このたび山梨市で一度出た「公演中止」の話が、個人的な興味をひいたのは、そうした過去の東大人事の騒動のことを思い起こさせたからだ。

さて、大学教授とえば名物教授や人気教授がドノ大学にもいるが、自分の学生時代を振り返ると、テレビやマスコミに登場する教授や助教授の講義は確かに教室が一杯になることが多かった。
しかし教授の講義を聞きながら、生意気にも、この教授は本当に「学者」として真摯なのかと思ったりしたものだ。
学問的業績と現実の行動も伴なう人気教授なんて、そうそうイルものではない。
しかし、そういう人物をアエテ探すならば、社会科学関係では東大の吉野作造や丸山真男らが思い浮かぶ。
吉野作造といえば「民本主義」である。
日本の天皇制と民主主義を調和させた「民本主義」の登場は、当時の学生達に「光明」を与えていたといってよい。
なぜなら天皇制の下で「人民主権」のデモクラシーを唱えることは「危険思想」と見なされたからである。
当時の論壇の登竜門「中央公論」では、吉野論文は常に「優先的」な扱いをもって掲載された。
その最も長大な論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの道を論ず」は、「民本主義」の立場を明らかにした「画期的」な論文であった。
吉野教授はデモクラシーを、権力の由来たる主権の「在り処」から捉えるのではなく、デモクラシーが目指す政治の在り方といいう「目的」として捉えたからである。
「天皇主権の政治」といえども「民衆の福利」のためになされてきたのだから、それは民衆の意向に反したものではなく、そのようにあるべきと説いた。
現実政治において「議会主義的要素」を取り入れることは、けして天皇主権の「国体」と矛盾するものではないとした。
そして、従来の「民主主義」という訳語は権力の「所在論」としての人民主権であって誤解を招きやすいので、それと区別して自分が説く立場を「民本主義」とするという。
「民本主義」は、天皇制と民主主義を巧みなレトリックで「調和」させたにスギナイという感じもする。
しかし、吉野教授は普通選挙の実現や下院中心の議会主義など、それまで社会主義者でなければシナカッタような大胆な主張を行い、「大正デモクラシーの旗手」とよばれるようになったのである。
さてこの大正デモクラシーの流れに乗って、大阪朝日新聞は「米騒動」の弾圧を行った寺内内閣を最も先鋭的に批判していた。
しかしソノ記事に中国の古典を引用した言葉に、「皇室の尊厳」を損なうような表現があったとして、右翼からのイイガカリ的「攻撃」をうけるようになった。
そして大阪朝日新聞の社長が実際に右翼の襲撃をうけ、スッカリ弱腰になった結果、社内の「政府批判分子」を排除することになった。
そして、論説陣の一人である丸山幹治という人物が「抗議の退社」をした。
この丸山幹治こそは誰あろう、政治学者・丸山真男の父親である。
大阪朝日は右翼の襲撃以降、すっかり論調をかえ「変節」していくが、吉野教授は、朝日社長を襲撃した右翼団体「浪人会」を中央公論誌上で徹底的に批判したのである。
怒った右翼が吉野宅を訪れ「抗議」したところ、吉野は「立会演説会」を開いてどちらが正しいか聴衆に判断してもらおうと提案した。
そして1918年11月27日、吉野作造と浪人会の「対決」が、神田神保町の会場で行われた。
学生達は、大阪朝日新聞が右翼の襲撃にチジミあがっている中でも、吉野先生は一人で敢然と戦っていると宣伝し、「吉野先生を守れ!」と叫んだ。
この演説会には、東大以外にも早稲田、法政、明治、日大などの学生達や、吉野と同郷(仙台)であった「友愛会」(後の総同盟)を組織した鈴木文治などの労働運動家も多数参加していた。
また、吉野が理事長だった東大YMCAは、吉野教授の身辺を守ろうと「柔道四、五段」の力自慢も、講壇の真下の席を占拠したのである。
(なんか株主総会を思い浮かべますが)。
討論会は、吉野1人、浪人会側から4人が参加して行われたが、会場においては吉野教授の「支持者」が圧倒的で、右翼団体は完全にアウェイ状態に置かれていた。
吉野は、「暴力」をもって思想にアタルことは、それがいかなる主張であろうと絶対に排斥せねばならない、立憲治下の我が国で、国民の制裁をなす権限は天皇陛下にある。
この陛下の赤子に対して個人が勝手に制裁を加えることが是認さられるならば、それこそ「乱臣賊子」ではないか。
国体を破壊するのは、浪人会一派の方ではないのかと、巧みなレトリックを駆使して主張した。
アセリ出した浪人会の一人が聴衆の一人に「鉄拳」を加えると、吉野は数万語の演説よりも今の一事が「浪人会」の本体を示しているとたたみかけた。
聴衆からは万来の拍手がわきおこり、会場からでた吉野はタチマチ群集の手によって、絶叫と歓声うずまくなか、胴上げされたのである。
この「立会い演説会」は、吉野を応援するために学生達が各学園の学生を動員したこと、演説会場では「学生の力」で右翼を圧倒し大勝利をおさめたこと、および学生達を異様に高揚せしめた点で「歴史的」なものだったといってよい。
これを契機として、こうした学生の活動を継続して日本のデモクラシーをサラニ進展させようとして学園に様々な団体が生まれたのである。
その代表的な存在が東京大学の「新人会」で、コレコソが後の「学生運動」のルーツといってよい存在なのである。

戦後の学園闘争で、1969年の東大安田講堂の攻防が記憶に刻まれている。
吉野作造の「応援団」を母体に生まれたのが学生運動だったし、学生達の標的の1人となったのが、丸山真男だったのだから、皮肉な話ではある。
ソノ年中止になった東大入試をうける予定だったのが、芥川賞受賞作「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1966年)で知られた庄司薫である。
高校の頃読んだ庄司薫の小説は、日常の若者言葉で書かれてあって、はじめて「自分達の世代」の小説が登場したように思った。
その思い入れのためか、この小説にまつわるエピソードをいくつか覚えている。
庄司薫氏が作品の中で、ピアニストの中村紘子さんに憧れていると告白したため、彼女の招待をうけついには結婚されたこと。
サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」の翻訳文体に近いなどの批判を受けたことなどのエピソードなどである。
この庄司薫氏は、東京大学法学部に在学の頃、政治学者・丸山真男のゼミに所属していた。
丸山真男は、右翼の攻撃に変節した大阪朝日新聞を抗議の退社をした丸山幹治の息子である。
今年は、「丸山真男生誕100周年」で各地で「しのぶ会」が開かれている。
丸山は30歳の時に、大学助教授でありながら、陸軍二等兵として教育召集を受けた。
大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られたというエピソードがある。
そして「赤頭巾ちゃん気をつけて」には、丸山真男をモデルとした「憧れの教授」が登場する。
小説では主人公のカオルが兄とともに銀座を歩いていた時に、その教授とばったりと出会い、オチャすることになった場面がある。
そして次のように教授を表現している。
//たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ち止まったり、でも結局は何か大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える、限りない強さみたいなものをめざしていくものじゃないかといったことを漠然と感じたり考えたりしていたのだけれど、その夜ぼくたちを(というよりもちろん兄貴を)相手に、「ほんとうにこうやってダベっているのは楽しいですね。」なんて言っていつまでも楽しそうに話し続けられるその素晴らしい先生を見ながら、ぼくは(すごく生意気みたいだけれど)ぼくのその考え方が正しいのだということを、なんていうかそれこそ目の前が明るくなるような思いで感じとったのだ//。
1970年代半ばの自分の大学時代は、学生運動が「終息」の方向に向かおうとしていた。
しかしながら、学生セクト間の狂い咲きのような内ゲバによる流血や、「人違い」で暴行され死亡した学生の悲惨なニュースなどがいまだに伝えられていた。
コノ時代の雰囲気は、井上陽水の「傘がない」という歌によく表されていた。
そして「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、左翼思想にカブレタ若者(赤頭巾ちゃん)が「若さ」という狼に食い尽くされないようにというメッセージをタイトルにこめたものであった。
庄司薫は丸山真男教授に憧れを抱くのだが、「憧れ」にも様々な形がある気がする。
ハーバード大学のサンデル教授の講義は大変な人気で教室は常に満室だという。
そしてソノ「白熱教室」を見た時、正直コノ人が哲学(倫理学)を教える教授なのかと意外な感じがした。
サンデル教授が「権威主義的」とは程遠い、明るくてソフトな雰囲気を漂わせていたからだ。
ハーバード大学教授の個人的印象といえば、映画「ペーパー・チェイス」(1974年公開)に登場するキングフィールド教授のイメージによるものが大きい。
「ペーパー・チェイス」では、ハーバード・ロースクールの激しい競争を描いていた。
「権威の権化」のようなキングフィールド教授が、学生達一人一人に法の問題点を提示し質問をタタミかけてく。そこにいかなる情け容赦も妥協もない。
教授は学生の「論理の甘さ」ツキ、叩きのめすのがマルデ「趣味」であるかのようにもみえる。
そもそもハーバード・ロースクールに入ってくる男は、もともと尋常な頭脳の持ち主ではない。
異常な知能指数が高いのを自慢する男や速読術を心得ている男などもいる。
それでも、教授の緊迫した講義についていけず脱落者がでる。
ドンナ暗記力に優れていても、法律を現実に応用し使いコナセナイと思い知らされ、自ら命を絶つものもでる。
勉強についていけず「学生結婚」して妻が妊娠した事に耐えきれずに、自ら去っていった学生もいる。
主人公は学業は優秀であるが、知能指数も自慢するほどではない。その分を取り返すために猛勉強する。
この映画の面白さは、学生たちが人間扱いしない教授の鼻をあかしたいという一心でやっているような面があることだ。
そして二人の学生は、キングフィールド教授の何らかの「人間味=弱点」を見つけ一杯くわせてやろうと思ったのか、夜中に密かに図書館に忍び込み教授の学生時代のノートを持ち出したりもする。
そんな中、主人公は歳上の美しい女性と出会い恋人となる。そのうち、女性はナント自分がキングフィールド教授の娘で、しかも離婚訴訟中であることを打ち明ける。
、 この年上の女性を演じたのは、人気テレビドラマ「地上最強の美女バイオニック・ジェミー」のヒロインとして人気を博したリンゼイ・ワグナーであったのだ。
最終試験を前に主人公はもうひとりの学生とホテルに篭城し、ホテルの苦情もかえりみず、1週間寝食を忘れて試験勉強に熱中する。
この映画の「圧巻」は、その「猛勉強」ぶりにあるといってよい。
アメリカのトップの大学は、単位をとるためにコレホド勉強しなくてはならないかという思いにさせられる。
今時の若い学生に見せたい映画だが、残念ながらDVD化されていない。
最終試験も無事終わり、主人公はキングスフィールド教授のところに挨拶に行った。
だが1年間、写真をみながら「質問攻め」してきた教授は、主人公の「名さえ」覚えていなかったのだ。
少なくとも、教授はそのように振舞った。
しかし、ここまで学生に「認められたい」とモガキ苦しませる教授は滅多にいない。
そんな思いを抱かせるキングフィールド教授は、権威の権化を演じ続けたのかもしれない。
試験終了後、主人公は教授の娘と一緒に海岸に遊びに行く。そこに届いたばかりの成績表をもっている。
結果は見るまでもないと確信しているかのように、「成績表」を紙飛行機に折る。
そして紙飛行機は、何とも心地良く、風に乗ってとんでいく。
ラストシーンで、主人公が飛ばしたその紙飛行機には、教授の鼻はアカセズとも「負けなかった」という思いを乗せていたかのようだった。