皇女アナスタシア

現在巷では、映画「アナと雪の女王」が大ヒットし「アナ雪」ブームが起きているが、このブームがロシアの実在の皇女アナスタシアと重なる。
しかも、このアナスタシアは「彼女の伝説」をもとに映画化されたばかりか、アニメミュージカルとして「アナスタ」ブームを巻きおこしている。
映画の方はイングリットバーグマン・ユルブリンナー主演の「追想」、アニメの方は1997年に映画「アナスタシア」で、アナスタシアの声はメグ・ライアンが担当した。
さて実在のアナタスシアは、1917年のロシア革命によって滅亡したロマノフ王朝末期を生きた悲劇の皇女である。
アナスタシアの悲劇はロマノフ王朝の悲劇と読み替えられるが、それはどのように訪れたのか、簡単にロマノフ王朝の歴史を振り返りたい。
ロシア帝国を近代的な帝国にした最大の功労者がロマノフ王朝のピュートル大帝(在位:1682~1725)である。
しかしピョートル大帝に匹敵する男子はなかなか生まれず、この偉業を継いだのが女帝エカチェリーナ2世(在位1762~96)である。
彼女は、オーストリアのマリア・テレジアなどと比肩される「啓蒙専制君主」の一人である。
彼女は、ポーランドの大部分を併合し、トルコ艦隊を破って黒海沿岸を確保するなど、プロイセンなど西欧の新興列強国と友好関係を結び、南下政策を進めてオスマン帝国と交戦した。
そしてロシアを大国へと導いたばかりではなく、エルミタージュ美術館の創設など文化面でもロシアの水準をひきあげた。
実は、エカチェリーナはロシア人ではなくドイツ貴族出身で、ピョ-トル大帝の血をひくピョートル3世に嫁入りしている。
ロシアは当時辺境の野蛮国であり、ピョートル3世が少々頭が弱いといううわさもあって、ヨーロッパ王家や一流貴族の令嬢は、なかなか妃になろうという者はいなかった。
そこでドイツ貴族の中で一流でもなく、たいした美人でもないエカチェリーナが嫁ぐことになったのである。
しかしこの女性は、想像を超えた傑物であった。
そしてエカチェリーナは無能な夫・ピョートル3世を廃し、兵士らによる皇帝殺害を黙認して、帝位についたのである。
しかしその子・パーヴェルは、そんな母を愛することはできなかった。
その気持ちに呼応するかのように、エカチェリーナは無能な長男のパーヴェルではなく、その息子(つまり孫)で頭脳明晰なアレクサンドル(後のアレクサンドル1世)を皇位につけようとした。
しかし皇位を孫アレクサンドルに譲るという遺言を、正式に発表できないまま、1796年年に亡くなっている。
女帝の死後、長男がパーヴェル1世(在位1796~1801)として即位し4男6女と子宝に恵まれるが、母を嫌って皇位継承は男子に限るという法律を定めた。
そしてことごとく母エカチェリーナの政策に反対して南下政策を中止し、イギリスやフランスと敵対したため、これが結果的にパーヴェルの暗殺を招く結果となった。
しかしその子のアレクサンドル1世は、ナポレオンの遠征軍を撃退し、欧州の中心たる大国として確固たる地位を築いた。
しかしアレクサンドル1世には男の子が生まれず、弟のコンスタンチンに帝位を継がせようとしたが、肝心のコンスタンチンは帝位を継承する気がなく、妻と離婚してポーランド夫人と再婚した。
そこでアレクサンドル1世は、20歳年下の弟で将来軍人となるべく育てられていたニコライ1世を後継ぎに決定した。
ニコライ1世は「立憲君主制」を求めたデカブリストの乱を厳しく弾圧し、積極的な対外進出を目指したが、志半ばで1855年に死去した。
その跡を継いだアレクサンドル2世は近代化の妨げとなっていた農奴制を廃止して近代化を進めるものの、ポーランドでの反乱や後継者の早世で失意に陥り、1881年に没落したポーランド貴族によるテロで暗殺された。
このアレクサンドル2世の次がロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世で、皇女アナスタシアの父親である。
そしてニコライ2世は、日本と縁深い人物である。
ニコライ2世は、日露戦争当時のロシア皇帝というばかりではなく、その10年以上も前ニコライがいまだ皇太子だった頃に日本を訪問し、滋賀県大津を訪問した時に津田三蔵巡査に突然切りつけられた。
ニコライ2世は命には別条はなかったものの、これが世にいうこれが大津事件(1891年)である。
さて、このニコライ2世と妻アレクサンドラとの間に四人の娘が生まれたが、その末娘こそがアナスタシア・ニコラエブナであった。
ニコライ2世は男子誕生を期待していただけに、女子誕生を知った時に気持ちの整理のためか長い散歩に出かけたといわれている。
生まれたばかりのアナスタシアには姉には、6歳のオリガ、4歳のタチアナ、2歳のマリアがいた。
父母は、娘達にも深い愛情を注ぐが、2人そろって社交嫌い。特に母のアレクサンドラは、ロシア宮廷の堅苦しいしきたりに馴染めず、世継ぎも生めないことから肩身が狭く、公式行事の参加も嫌がった。
そんな夫妻は、首都ペテルブルクから南に25キロのところにあるレクサンドル宮殿に行くことが楽しみであった。
宮殿の裏の湖には、「子どもたちの島」があり、姉妹達はそこに、それぞれ自分の家を持っていた。
末娘のアナスタシアは4姉妹の中でも一番小柄で、性格も明るく茶目っ気たっぷりで、よく人の真似をして笑わせるのが好きな子だった。
アナスタシアにつき、たまにそのヤンチャぶりが笑いを誘うか、両親や姉弟ほどは詳細に公式記録を取られず、ロシア革命を生き延びた人々の証言も、宮中での彼女の情報は断片的なものでしかない。
しかし、アナスタシアが3歳になろうとする1904年2月、日露戦争が始まる。
日露戦争では大国ロシアは日本に破れ、そしてロシア全土で敗北の抗議が広がっていく一方、この同じ年の8月に皇室にとって男子誕生の喜ばしいニュースがあった。
待ち望んだ男子アレクセイ・ニコラエヴィッチの誕生でこの男子こそは、ロマノフ家に幸せを運んできてくれたようにも思われた。
しかし、アレクセイは血の止まらぬ血友病という難病を抱えた非運の皇太子だった。
そしてこの難病こそは結果的に、ロマノフ王朝に微妙な影をなげかけることになる。
しかも父ニコライ2世はよき家庭人ではあったが君主としての資質に欠けていた。
そういう人々の心の隙間に入り込んだのが、怪僧ラスプーチンである。
皇后アレクサンドリアは、知り合ったばかりのラスプーチンという巡礼僧に心を奪われるようになる。
後世でも超能力者として知られることになるこの怪人物は、皇后や皇女たち、お付きの女医、さらには、多くの女性の心を魅了して、宮廷内に深く入り込み大きな影響力を持つようになる。
きっかけは、皇太子アレクセイの病で、ラスプーチンは、最初宮廷に呼ばれた時、ベッドに横たわるアレクセイに何事かやさしく話しかけたのである。
すると、アレクセイは急に見違えるように元気になって、ベッドから上半身を起こし、ラスプーチンの不思議な話に耳を傾け出したのである。
そんな息子の姿を見て、母親のアレクサンドラは、目から涙が溢れてくるのを止められなくなった。
それ以来皇后はラスプーチンの言うことなら、どんなことでも心から信じて疑わなくなった。
いつも身近に置き、ことあるごとに彼の考えを仰ぐようになった。
ラスプーチンは子供達の保育室への出入りも認められるようになり、保育室に勤務する女性は出入りを禁止しようとして苦情も入れたが、逆にアレクサンドラによって彼女は解雇された。
しかし、こうした皇后のフルマイはラスプーチンを嫌う他の聖職者や権力者の憎しみと反感を買うことになった。
彼らにしてみると、ラスプーチンによって自らの権威が地に墜ちかねないからである。
実際、この怪僧の存在こそなければ、陰謀や革命も起きていなかったかもしれない。
そしてラスプーチンは、1916年に暗殺された。
しかいこうした王室の乱れは、ロマノフ王朝から知識人や国民を離反させ、反体制グループが台頭する一因を成した。
さらに第一次世界大戦への参加により国民生活はますます困窮し、ロマノフ王朝はまさに風前のともしびとなった。
民衆の不満は最高頂に達し、宮廷の内外でもテロや陰謀が頻発していた。崩壊はいつ訪れてもおかしくないあり様だった。
1914年に勃発した第一次世界大戦も3年目になると、ロシアは戦いに疲弊し、民衆の不満は最高頂に達し、嵐が起ころうとしていた。
そして1917年早春、ついにその日はやって来た。
手に手に武器を持った民衆が、粉雪の舞う広場になだれ込んでゆく。
人々は口々に「自由を!」「平和を!」などと叫びながら走っていた。
かくして2月革命によって樹立された臨時政府は、独裁君主体制の廃止を宣言。ここに皇帝ニコライ2世は退位し、ついに300間続いたロマノフ王朝も終焉の時が訪れたのである。
臨時政府によって監禁された皇帝一家は、ウラル地方のエカテリンブルクに移送され、そこにある大きな館に幽閉された。
この頃、ニコライ2世の家族は長女のオリガ21才、次女のタチヤナ20才、三女のマリア19才、四女のアナスタシア17才、唯一の男子であった皇太子アレクセイに至ってはまだ14才だった。
結局、1918年7月17日にエカテリンブルクの館において銃殺隊によって裁判手続きを踏まないまま家族・従者とともに銃殺された。

しかし、ロマノフ王家は滅びたものの、末娘アナスタシアだけは生きているという噂が広がった。
銃撃で傷を受けて意識不明となったが、彼女に好意を持つ兵士によって密かに助けられ、どこかにかくまわれたというのだ。
アナスタシアという名前には「復活」の意味もあってか、彼女の生存の伝説がささやかれるようになった。
こうした背景があって、皇女アナスタシア姫が難を逃れて生き続けているというミステリーが数多く出版された。
そしてハリウッドでは、アナスタシア生存を題材にした1928年公開の映画「Clothes Make the Woman」が制作されて反響をよんだ。
実は冒頭で述べたイングリッド・バーグマン主演の「追想」(1956年)は、アナスタシアの生存伝説を下敷きにしてアメリカで制作されたものだが、これはリメイクである。
この物語は、ロシア皇帝ニコライ2世の一家がボリシェヴィキによって殺害されたと推測されてから10年が経過した時から始まる。
ロシア帝国の元将軍ボーニン(ユルブリンナー)はニコライ2世が4人の娘のためにイングランド銀行に預金した1000万ポンドのロマノフ家の遺産に目をつける。
ボーニンはセーヌ川に身を投げて救助された記憶喪失の女性アンナ・ニコル(イングリッド・バーグマン)を生存が噂されるアナスタシア皇女に「仕立て」て遺産を手に入れようする。
彼女に各種レッスンを施して「本物」らしく仕立て、デンマークで甥ポール王子と余生を過ごす皇太后(アレクサンドリア)との「涙の対面」にまでコギつける。
しかし、資産目当てでボーニンに協力するポール王子とアンナの数週間後の婚約発表も決まったが、ボーニンのアンナへの想いも「本物」になってしまい、二人が愛し合うという誤算が生じてしまう。
しかしこの映画のポイントは、皇太后はこうした芝居に気がつく一方で、アンナ・ニコルの咳から彼女が本物のアナスタシアであることに気がつくいう点である。
物語は、お芝居の中にホンモノがいるという意外な展開となるのだが、これはアナスタシアの生存へのホノメカシでもあった。
ただ、こうしたミステリーは、所詮娯楽話のネタに過ぎないと思い始めた頃、一つの衝撃的事件が起こった。
氷もまだ溶け切らぬベルリン市内を流れる運河のほとりに一人の女性が流れ着いたのだ。
その女性は体に深い傷を負い、軽い記憶喪失にかかっており、そのうえ、精神錯乱に陥って衰弱が激しかった。
やがて、介抱され自分を取り戻した女性は、信じられないことを口にし始めた。
自分は、かのロシア皇帝ニコライ二世の4女アナスタシアで、革命政府によって処刑されるところを運よく逃げて来たと言うのである。
そして病院を抜け出した彼女は、精神錯乱の末、市内を流れる川に飛び込み自殺を計った。
しかし、彼女は運よく助けられることになった。
しばらくして、回復した彼女は、自分はかのロシア皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタシアで、ボルシェビキ政府によって殺されるところを、間一髪、命からがら逃げ出して来たと主張し始めたのであった。
事実、その女性が持つロシア宮廷に関する知識は驚くべきものだった。
足がひどい外反拇趾であること、額に小さな傷跡があるという身体的特徴も一致した。
アナスタシアが、いつも前髪を切り下げにしているのもこのためなのであった。
それに加えて、彼女は、アナスタシアしか知り得ないと思われるようなことを知っていたりした。
これらの証拠や証言によって、彼女を本物と信じる派/信じない派に二分されてしまった。
彼女を信じる人々にとっては、やはり、アナスタシア姫は生きていた。噂は本当だったのだ。
そしてアナスタシア・ブームが巻き起こった。
その後、彼女は、アンナ・アンダースンと名乗り、ドイツでロシア王室遺産をめぐる訴訟を起こす。
何しろ、ロマノフ王朝の遺産となると、イングランド銀行に預金されている資産だけでも、数千万ポンドの価値があり、時価にすると数百億円を下らぬ巨額な資産である。
裁判は長期化する様相を見せ始めるが、その間アンナ・アンダースンは、彼女こそアナスタシアだと信奉する人々から、同情され手厚い施し物を受けて生活する身であった。
彼女は1984年に84才で亡くなるまで、最後の最後まで自分は正真正銘のアナスタシアだと言いはった。
果たして、彼女は本物のアナスタシアだったのか。
1991年にエカテリンブルク近郊で、ロマノフ家の遺骨が発掘された。
皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。
さらに、アナタスシアを名乗ったアンナ・アンダーソンは亡くなってから10年後の1994年に実施されたDNA鑑定でアナスタシアの母方の叔母の孫にあたるエディンバラ公フィリップ王配とは遺伝的な繋がりが認められなかった。
また、エカテリンブルク近郊で掘り出された遺骨は、その後の鑑定で皇帝一家のものと判定された。
こうして、DNA鑑定という最新の法医学の判定によって、謎に包まれた神秘のベールも払拭されてしまい、数十年の長きに渡って論争された「アナスタシア伝説」も、ようやく幕を閉じることになった。
しかし、アンナアンダーソンほど長期間にわたり、人々の好奇心を捉えてはなさなかった女性も歴史上数少ない。
彼女はアナスタシアの熱烈な信奉者で、いつしか自分が本当にアナスタシアだと信じ込んでいたのかもしれない。