ショッキング・ブルー

どんな色にも特別な意味をみつけようと思えば、きっと「何か」が見つかるだろう。
そして人間にとって、もしも青が特別な色であるとするならば、海の色であり、空の色であることから、生命の始源と結びついた色といえるかもしれない。
また、青が人間にとって特別な意味をもつもうひとつ理由は、青色を人工的に実現するのが技術的に難しいという「ハードルの高さ」なのかもしれない。
最近日本にやってきたフェルメールの絵「真珠の耳飾の少女」は、頭にまいた青いターバンが印象的であるが、芸術家にとっても「青」は高いハードルをもった色ではないだろうか。
バラの色といえば、赤や白がよく知られるが、サントリーがバイオ技術によって青いバラを実現できたのはごく最近であった。
つまり英語「Blue Rose」は不可能の代名詞とされてきたのだが、サントリーは改修した小ホールを多くのアーティストの、「新たな挑戦」の舞台とし「ブルー・ローズ」と名づけている。
もっとも、英語のブルーには「憂鬱な」という意味もあるので、希望を表す「バラ」とは結びつきにくい言葉ではあるが。
自然の世界には、青を異常に志向する鳥がいることにも、青が生命の始原と繋がる色であるということを思わせる。
オーストラリアのケアンズあたりにいるアオアズマヤドリという鳥のオスは繁殖期になると小枝など平行に組み合わせた構造物(あずまや)を作り、それはメスへの求愛の印で、中央を飾ってメスを導きいれようとする。
面白いのは、巣の周りに青色をした、ペットボトルのキャップ、ボールペン、ビニールテープ、紙等青いものなら何でも集めて飾り付ける。
そしてメスは、オスの芸術的センスを試すかのように、あづまやの周りをめぐり歩き、気に入ったらついに「バージンロード」を通ってオスと結ばれる。
そして、オスが作成したあずまやは繁殖のための巣としては使われず、交尾後にメスは木の枝や葉を組み合わせたお椀状の巣を作り、卵を産むのである。
つまりオスの作ったあづまやは、実用品ではなくあくまでも己のセンスをメスにアピールする目的で作った「芸術品」なのである。
さて、ギリシアの島々は、オーシャンブルー・一色の世界といってよい。
中には「青い洞窟」の荘厳なる世界で泳げるメイス島などの隠れたスポットもある。
シンクロ・ナイズド・スイミングの小谷実可子さんが囲まれたギリシアの島の古代壁画にある特別なメッセージを受け取った。
それは小谷さんの生命の根源に触れるような体験に連なるものだった。
小谷さんが出合ったのは、ギリシャのクレタ島にあるクノッソス宮殿に描かれた、イルカと一緒に共存していた人たちの姿であった。
数年後に小谷さんは、何かに導かれるようにイルカと泳ぐ場面に導かれるが、それはコノ時みた壁画との繋がりを意識せざるをえない経験であったという。
それは野生のイルカとの出会いであったが、メダル争いにしのぎをけずってきた自分の人生の転機となったからである。
シンクロはスポーツであるが、水を讃え、水を表現する水の巫女のような要素がある。
実際に、小谷さんにはシンクロ競技中に水の中で息を止めてもほとんど苦しくなくて水と一体化するような体験があった。
小谷さんは、ソウルオリンピックに出場後、名も知らぬアメリカ人の男性から突然電話をうける。
「君の演技は素晴らしかった。でも水の中には君よりももっと美しく泳ぐもの達がいるから会いに行こう」と誘われるようになった。
毎年ように電話をかかってきて、シンクロだけが全てじゃないとまで言われたことに、余計なお世話だと思っていた。
ところが次のバルセロナオリンピックで補欠になりアスリート人生に不安を覚えた時、「シンクロだけが全てじゃない」というその男の言葉が引っ掛かった。
そして1993年、男のいうとおり、小谷さんはイルカを見にバハマに行った。
そしてイルカと並走するように泳いだ時に、体の中に電流のようなものが走った。
海と一体化した時、自分のちっぽけさを知りつつ幸福感に浸った。そこからの人生観が変わった。
それからは、イルカと対面するためにいつもピュアな気持ちでいようと心がけるようになった。
結局、小谷さんはオリンピックに出たのもイルカと出会うためではなかったかとさえ思うようになったという。
小谷さんはバハマで野生のイルカと泳いだ時点で、遠くギリシアの島々における古代壁画との出会いを思い出し、自分は見るべきものを見るべくここに導かれたと思ったという。

青が人間の本源と結びついた色であることは、ソ連の女性飛行士・ガガーリンの一言「地球は青かった」に始まり、日本の古墳の中には鮮やかな青が見つかることしばしばである。
青の勾玉で青銅器の青も美しいものであったであろう。
井上靖の小説「天平の甍」にみるとうり、「あおによしと奈良の京の咲く花の におうがごとく いまさかりなり」と歌われた平城京の青い甍の情景などが脳裏に浮かぶ。
現在、九州博物館で開催中の「台湾・国立故宮博物館展」の展示品の中で大きな注目を集めているのが青花磁器である。
青花は、白磁の釉下にコバルトで絵付けを施した磁器のことで、青花とは中国における染付の呼称である。
元代に始められた手法で、当時、西方ペルシヤより輸入されたコバルトを使い、濃厚な青で複雑な文様を表わしたものが多く、重厚な器形と調和し力感に満ちている。
きめが細かく純白に近い磁器質の胎土と釉下に施された青色の文様は、長期間使用しても退色・剥落することはなかった。
明代に入ると、景徳鎮に官窯が設けられ、明初の永楽・宣徳年間には様式・技術ともに洗練され整美な作風を誇り、その後も長きに渡って生産が続けられる。
その彩色には、ゆかしさ、すがすがしさといった美感があり、この点は意匠をこらした貴重の芸術品にせよ、生活を飾る日用品にせよ同じことが言える。
コバルトの使用は紀元前7世紀には既に見られ、その一方釉下への彩絵技法は唐以前の遺物から確認できている。
つまり、青花技法を生み出す土壌は早い段階から形成されたにもかかわらず、その登場は元代に至るまで確認されていない。
音楽の世界では、青色がバンドの名についた「ショッキング・ブルー」を思い出す。1969年世界的な大ヒットとなった「ビーナス」は、確かに鮮烈でありショッキングでさえあった。
日本では、1980年代のニューミュージックの旗手・八神純子さんの歌には、「みずいろの雨」「Mr ブルー 私の地球」なんかの歌詞に青が登場する。
また「サマー イン サマー」という曲にも、「コバルトの蜃気楼」というフレーズが登場する。
ニューヨークの朝焼けを「パープルタウン」と表現し、青の衣装でステージに立たれることが多かったので、青系統がお好きなようだ。
八神さんは1958年、八神製作所創業家出身で後に同社第4代会長となる八神良三の長女として名古屋市に生まれた。
八神製作所は、愛知県名古屋市中区に本社を置く医療機器専門商社である。
1871年八神幸助の創設した「八神商店」は、日本における西洋医療機器の輸入商社の先駆けとして歴史に名を残している。
約3000坪の邸宅で育った八神は、3歳からピアノを、小学校1年生から日本舞踊を習った。
また、幼い頃から歌が大好きで、自宅でも壁に向かってザ・ピーナッツやシャーリー・バッシーの歌を唄い続け、両親を呆れさせたという。
個人的に、八神さんの実家の八神製作所のルーツに青と縁付く何かを見つけようとしたが見当たらなかった。
さて、青に縁がある仕事といえば「藍染め」がある。
福岡県宗像出身の石油王・出光佐三の実家は「藍問屋」で、その見妙な色具合をつけるのに調合した仕事が、出光飛躍のきっかけとなる「オーダー石油」の発想につながった。
ところで「藍」とは、染料に使う藍草のことで、藍草で染めた布は藍草よりも鮮やかなショッキング・ブルーとなる。
藍染のきものは、鎌倉時代にはすでに武家の間で愛用されていたよだが、そもそもは藍の実が漢方薬として中国から伝わったともいわれている。
蓼藍には解熱、解毒、血液浄化などの作用があるといわれ、防虫、防カビ、防臭効果もある。
虫のみならず、毒蛇も寄せつけないといわれ、また、藍で染めた布は強く、燃えにくく、保温にも優れていることから、昔から道中着や火消しの半被、機関士や水夫の制服など、仕事着に広く用いられてきた。
蚊帳、産着、手拭などの日用品に藍染が多く用いられているのも、こういった藍の効能あってこと。
日本人が藍染を愛してきたのは、藍の力をよくよく知っていたのである。
そして深い藍は、高貴な色・紫にも近く、格式の高さをイメージさせることから、日本人はこの色を愛してきたのであろう。

スウェーデン王立科学アカデミーは、2014年のノーベル物理学賞を、実用的な青色発光ダイオード(LED)を開発した赤崎勇名城大教授と天野浩名古屋大教授、中村修二米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授に授与すると発表した。
青色の登場でLEDは赤、緑とともに光の三原色がそろい用途が拡大。
消費電力が少なく、耐久性が高い特長が注目され、白熱電球や蛍光灯に代わる白色照明のほか、携帯電話などのディスプレー、交通信号などに広く利用されている。
授賞理由は「明るく、省エネルギーの白色光を可能にした効率的な青色LEDの開発」ということである。
選考委員会は、世界の電力消費の4分の1が照明に使われる中、LEDが資源の節約に大きく貢献したと高く評価した。
LEDは先に赤色や黄緑色が開発され、電気機器の動作表示ランプなどに応用されたが、発光に高いエネルギーが必要な青色の実現は難しかった。
1970代に炭化ケイ素系半導体の青色LEDが作られたが、暗くて実用的ではなく、次に結晶が作りやすいセレン化亜鉛系での実現を目指す研究が主流だった。
しかし、赤崎氏は松下電器産業(現パナソニック)東京研究所に在籍していた73年、性能がはるかに優れた窒化ガリウム系の青色LEDの開発を始めた。
名古屋大工学部教授に転身後の89年、天野氏らと同系の青色LED開発に世界で初めて成功した。
製品化に向けた技術開発は、当時日亜化学工業(徳島県阿南市)に在籍していた中村氏が先行し、93年に同社が発表。
赤崎氏の技術は豊田合成(愛知県清須市)によって95年に製品化された。
特許をめぐり両社は訴訟合戦を繰り広げたが、青色LEDは急速に普及した。
赤崎氏らは窒化ガリウム系半導体で青色レーザーも開発。
この技術を発展させた青紫色レーザーにより、光ディスク「ブルーレイ」が実用化された。
信号機は、学校で赤青黄と教えられていたが、青がどうして緑でしかないのはどうしてだろう、とは小学生の頃より思っていた。
しかし近年、信号は本当の青色に変わり、小学生にもようやく納得できる色になったのではないかと思う。
この青色を発する発光ダイオードを開発した人が中村修二氏である。
発行ダイオ-ドとは自然界にない人工的な「発光する石」を作りだす技術である。発光ダイオ-ドはコスト高ではあるが「球切れ」の心配がなく半永久的に使え、しかも外光の反射もないので視野性においても優れている。
中村修二氏がとりくんだLED技術とは、炭化珪素に電流を流せば発光するという原理を応用したもので、赤・オレンジ・黄緑については早い段階から実用化が進んでいた。
しかし中村氏がこの青色ダイオ-ドを研究する始まりは徳島県阿南市にある日亜化学という会社においてであった。
そして5年の歳月をかけてその開発が成功する。赤(R)・緑(G)が成功しもし青(B)が実現すれば、RGB三色を同じ点で同時に発光させれば「白」を発光させるという技術が実現するのである。
これを一般の照明に使えば同じ明るさ電球や蛍光灯に比べ大幅な省エネになるという極めて日常的な技術なのでもある。
中村氏は、徳島大学大学院卒業後、農村地帯にある日亜化学に入社した。
京都の一流企業にも内定していたのだが、学生結婚して身重になっていた奥さんのこともあって自然豊かな徳島に残る決意をした。
開発課のたった一人の研究員としていくつかの技術を開発し製品化に成功はするものの、コストばかり高く売れるものはなく人事の評価もしだいに低くなり、仮に製品化になってもその製品の製造には全く関わることなく、また新しい製品の開発といったサイクルの繰り返しだったという。
振り返ってみると中村氏なりの実績を残せたという満足もある一方、特許申請や論文発表はまったく認められないという閉鎖性が会社にはあった。
会社から「売れる」と言われたことをそのままやってきたのに、しだいに「会社の無駄飯喰い」とまで罵倒されるようになっていく。
全く評価もされず給料もあがらず、10年間で残った数字は「赤字」だけということになってしまった。
中村氏は自分なりに優れた商品を開発しえたと小さな誇りを抱いていたのだが、仮に画期的な商品であっても売れて利益につながらないかぎり、企業社会の中では評価されないということを知ったのである。
そして中村氏はキレたのだ。
ここから中村氏の「破滅的」とも思える、とことん人生がはじまる。
会社のいうとおりにやってもろくなことはない、という結論である。
あとは辞める他はないのだが、辞めかたを考えたのである。
迷惑かけついでに自分が好きなことをやって辞めることを決めた。
人が正しいと思うことの反対をやろう。そして取り組んだのが開発が不可能ともといわれていた青色発光ダイオ-ドであった。
中村氏は上司の命令を無視し続けるような態度をとり続けよくも会社にいられたと思うが、その点この会社にはおおらかなところがあったといえる。
中村氏は小さい頃より人付き合いがよく、会社にはいっても農閑期のソフトボ-ル大会など誘いがあれば断れない性格であった。
ところが中村氏の「怒り」は彼の生き方を大転換させ、全くの「孤独と集中」にはいっていくことになる。
中村氏は「孤独と集中」が良いアイデアを生み出すことを今までの経験からよく知っていた。
中村氏がすごいのは、自身の成功パターンである「孤独と集中」の中、その思考は座禅の世界に入り込むようにますます研ぎ澄まされていったそうある。
あまりの集中に、車の運転中に信号を見忘れる、妻が話しかけても聞こえない、歩いていると電柱にぶつかる、といったことが続発していく。
中村氏は常にまだどん底までいっていない、どん底までいって這い上がるしかないところまでこう、と決めていた。
そして深くバウンドしたボ-ルが高く飛び跳ねるように、「ショッキング・ブルー」とめぐり合う時が訪れたのである。