違うリングで戦う

先日、被爆二世の福山雅治氏が、「被爆」で黒こげになりながら芽吹いた「被爆クスノキ」をテーマにした新曲を発表した。
作詞作曲は福山氏で「涼風も、爆風も、五月雨も、黒い雨も、ただ受けて、ただ空を目指し」という歌詞がある。
「被爆クスノキ」というのは、長崎の爆心地から約800メートル離れた山王神社に二本あるという。
このクスノキの樹齢は約500~600年で、原爆で枯れ木のようになったが、新芽を吹き復興に向かう被爆者を勇気づけた。
山王神社の宮司さんも、「空を目指し」「葉音で歌う」など一節一節から、原爆に遭いながら立ち直り、青々と茂るクスノキの姿が浮かんでくると語っている。
かつて中国の新聞に「日本女生最想嫁的男性名人、排名第一的是影」と紹介された福山氏につき、個人的にはそのルックスに何ら親近感も親和感も持てないが、氏のつくる歌には意外にも共感がもてるものが多い。
思い出せば、福山氏と偶然にも街で遭遇したこともあった。
10年ほど前に、東京有楽町を一人歩いていて、ちょうど日本放送の前にさしかかったら、20~30名ほどの女性の集団からワッと嬌声があがっていた。
そこにはナント、白い服で身を固めた福山氏がタクシーに乗り込もうとしているではありませんか。
さすがに30代女性達の固い垣根をかき分けるほどの勇気はなかったので遠見にすぎなかったが。
福山氏の歌にはマヨイや挫折感がふっと含まれていて、迷える人々の心へすっと沁み込む。
例えば「虹」などは、そんな曲のひとつである。
「♪ただ雨にうたれ 虹を待っていたんだ 疑いもせずに ただ地図を広げて ただ風を待っていたんだ こたえもなく♪」。
歌詞がドギツクないのがいいが、「化身」のように激しく戦いの埒外にハジキ出されそうな人々の苛立ちをも表現しているようなものもある。
「♪消せぬ後悔も 癒えぬ傷跡も たしかにあるから せめて今だけは忘れさせてくれ キエタイ ニゲタイ アイタイ いま聖女になって抱いてくれ ふるえる心眠らせて 遊女のように抱かせてよ 汚れた世界を壊して 君は愛の化身♪」
さてかような歌つくりを行う福山君とは一体何者なのか知りたく、ひとつの本をよんでみると、福山君のベースには「旅」があるようである。
福山君は旅についてこんなことを書いている。
「旅行に行くと悪いことばかり考えるんですよ。ツアーなんか行ってホテルの部屋で一人、なんていう時には、決まっていやな思い出とか、そんことばかり浮かんでは消え、浮かんでは消え、ってパタ-ンなんです。旅っていうのは、そもそも自分のイメ-ジを変えるものだったりするじゃないですか。過去を忘れるためとか何とか。まあそういう願望があって旅に出るんだと思うんだけれど、過去を忘れるというより、より強調するための旅になったりするんです、今までの場合。あ~ぁ、おれはダメなヤツなんだなぁ」。
旅の中には自分の「居場所」を求めてということがあるが、福山氏にとって故郷長崎はよほど厭な過去でもあったのかと思いつも、朝鮮戦争でアメリカ兵で父を失った草刈正雄にも似ているかと思った。
草刈氏は小倉の4畳半一間で日本人の母と身を寄せ合うように生きていたという。
小学生より新聞配りや牛乳配達などで家計をささえつつ、本のセールスをしながら定時制高校に通った。
知人の強い勧めもあり、福岡市で開催されたファッションショーを観に行った際スにカウトされ、17歳で高校を中退し上京している。
福山氏もあまり裕福ではなかったようで、小学校の5、6年生の頃から新聞配達のアルバイトをしていて、将来は音楽の先生になりたかったようだが、家庭の事情で進学をあきらめた。
長崎の工業高校時代に通い兄とバンドを組んで音楽活動をはじめ、いつしかミュージシャンに憧れるようになった。
そんな福山氏は、意外なことに茶道部に所属していて、その理由はお菓子が食べられるからだったそうだ。
個人的に知り合いの女性にそいう人がいたが、男子でお菓子を食べたくて茶道部に入ったというような人は、聞いたことがない。
福山氏の当時の生活が、それだけ苦しかったということかもしれない。
福山氏はバスで学校に通っていたそうですが、近くの女子高生のファンクラブができて「バス停の君」いわれていたという。
「バス亭の隅」でポツネンとしていた自分の高校時代とえらいちがいである。
ところで工業高校といえば、世界的建築家の安藤忠雄氏は大阪の工業高校のボクシング部に所属していた。
チャンピオンをめざしてボクシングに明け暮れていた。
17歳でプロのライセンスを取得したのだが、後の世界チャンピオン・ファイティング原田がジムを訪れ、圧倒的な肺活量など体力の違いなど、あまりの能力の違いにボクシングに抱いた夢を見事にフンサイされた。
安藤氏にしてもわずか二年間のボクシング修業ではあったが、リングに上りコーナーでイスを取り出し水を飲み、孤独に一人耐え真剣勝負を戦った体験が何よりも代えがたい体験になったという。
また、ダメと思ったら早く見切りをつけるイサギヨサもよかった。
ファイテイング原田とのボクシングをあきらめ建築家を志した。つまり「違うリング」で戦い世界的な建築家となった。
安藤氏は高校を卒業する時点で完全にボクシングと縁を切ったものの、大学に進学する余裕もない自分に何ができるかと自ら問うた時、「物づくり」が浮かんだ。
安藤氏は、大阪住吉の物作り職人がたくさんいる長屋で育ち、家の側には鉄工所、ガラス屋、碁石屋があり、互いに助け合いながら懸命に生きていた。
安藤氏は次第に建築に目覚めて、通信教育を受けるなどして建築を学び、一般の大学の建築科で使われる教科書をアルバイトしながら読んでいったという。
そして食事代を切り詰めてまでも海外の雑誌を取り寄せるなど、できることはすべてやっていった。
このへん案外、ボクシングの減量体験も役立ったのではないだろうか。
そんな安藤氏はある日、海外の雑誌で近代建築の巨匠ル・ゴルビュジェに出会う。
安藤氏はル・ゴルビュジェが自分と同じように独学の人であり、体制と戦って道を切り拓いてきたことを知った。
その頃、インテリアや家具のデザインなどで生活できるようになり建築事務所を開いたが、世界中の建築を見たいという気持ちを抑えられなくなり、シベリア鉄道経由でヨーロッパに渡った。
ノルウエーから始まり、パリでゴルビュジェの建築を見て、ギリシア・スペインと下り、船に乗ってインドへ、そしてフィリピンに立ち寄って終わる旅だった。
それは、「住まう」とは何かを超えて「生きるとは何か」を問う旅になったという。
しかし「独学の建築家」安藤忠雄氏は、あらゆる意味でファイターであるように思う。
さて、福山氏はミュージシャンになりたいと思ったが、高校卒業後父親が亡くなり兄も自衛隊に入隊していたため、母親をひとり残して東京に行くことができず、地元の電気会社に就職することになったが、あまり仕事には身が入らなかったようだ。
上京する時は、さすがにミュ-ジシャンになるとはいえず古着屋になると言って出て来たそうだ。
福山氏が東京ではじめて生活をしたのが東京都昭島市の福生(ふっさ)である。
福生といえば横田基地の町で、村上龍の芥川賞受賞作「限りなく透明に近いブルー」の舞台となった町である。
最近亡くなった大滝永一も、この街に居を定めて音楽活動に励んだ。
いわずと知れた数々の名曲を生み出している日本音楽界の大御所である。
大滝は、1969年に細野晴臣(ベーシスト 後にYMOにて世界で活躍)・松本隆(作詞家)・鈴木茂(ギタリスト、現在編曲者)と共に「はっぴいえんど」を結成する。
この「はっぴいえんど」というバンドは、「日本語でROCKするのは無理」と言われた時代に、日本語をのせるROCKにこだわり、今でも日本の伝説のロックバンドとして名を残している。
福生はミュージシャンをひきつけるのは、基地があることが大きい。
横田基地の軍人用に造られたハウスに住みば一軒家の、騒音を気にしなくても良い「スタジオ兼、練習場」が手に入る。
ミュージシャンが集まれば自然にライブハウスやクラブなどの音楽的環境も出来上がってくる。
そして音楽的な成長度で言えば常に日本の先を行っていたアメリカ。
福生に居ればアメリカの音楽を肌で感じることも出来るし、横田基地の米兵を相手にライブをする事により音楽的センスも磨かれていくことになる。
大瀧詠一以外にも、細野晴臣(YMO)、忌野清志郎、ジュンスカイウォーカーズ、ZIGGY、などが福生で頻繁にLIVEをしていた。
さて、三沢基地が寺山修司、佐世保基地が村上龍の文学に影響したように、福生基地での青春が福山氏の「精神性」に何がしかの影響を与えているのかと想像する。
また、2009年8月11日「長崎原爆の日」FMのレギュラー番組に出演した福山氏は、「父親はもろに被爆しました。母親 も厳密に言うと被爆してることになる。
だから僕は被爆2世ということになる」といっている。
さて、福山氏がデビュー時のオーデションで歌った歌が泉谷しげるの「春夏秋冬」であった。あの歌の歌詞に「♪季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち 夢のない家をでて 愛のない人に会う♪」といったフレーズがあり、当時の福山君の心情を物語っているようにも思う。
そこには、福山君の本質的な「旅人性」と重なるものを感じる。
さて、福山氏はある面接で、特技を聞かれた際に「材木担ぎ」と答えている。
福生で生活していた時にピザ屋の配達、日雇いの運送屋のアルバイトそして材木屋でアルバイトをしていたようである。
ライブ活動をしながら1988年にあるオーディションに合格し、俳優デビューした。
1993年 フジテレビ系ドラマ「ひとつ屋根の下で」で人気に火がつき、歌手としてもブレイクする。
福山氏は、サクセスストーリーの主人公のように思えるが、福山氏の初期の自伝的な歌「明日のShow」を見ると、希望とは違った方向を歩んだようだ。
「♪憧れ描いた夢は、ちょっと違うけれど この場所で戦うよ 敗れたって何度でも 立ち上がれ あしたのShow♪」
福山氏のヒーローが漫画「あしたのジョー」であることを推測させる歌詞とタイトルだが、結局福山氏は「違うリング」で戦うことになったのである。

さて福山氏は歌のタイトルを「あしたのShow」をするくらいだから、漫画「あしたのジョー」に登場する矢吹丈に憧れを抱いたに違いない。
そして矢吹丈には「斎藤 清作」という実在のモデルがいたことはあまり知られていない。
仙台市内の農家に八人兄弟の次男として生まれた斉藤は、少年時代に友達とどろんこの投げ合い遊びをしていて、泥が左眼に当たったことが原因で左眼の視力をほとんど失った。
すぐに病院に行き治療すれば失明はしなかったらしいが、少年時代は裕福な家庭ではなかったため、病院に行けば親に迷惑がかかると思い黙っていたと後に語っている。
仙台育英学園高等学校在学中ボクシング部に入部、2年生時には宮城県大会で優勝している。
その後上京し、様々な職を転々とした後、ボクサーを目指し多くのチャンピオンを育てた「笹崎ボクシングジム」に入門している。
左目の障害を隠し、視力表を丸暗記してプロテストに合格しなんとかプロボクサーとしてデビューした。
同期には後の世界チャンピオンのファイティング原田がいた。
そして斉藤は、髪型を河童のように刈り込んだことから「河童の清作」と呼ばれた。
そして1962年、第13代日本フライ級チャンピオンとなった。
ノーガードで相手に打たせて相手が疲れたところでラッシュをかける戦術が、漫画「あしたのジョー」の主人公、矢吹丈のモデルになったともいわれている。
しかしこのスタイルとは、あくまで左眼が見えないハンデを相手に悟られないように、打たれても打たれても体をかわさなかった戦術であったにすぎない。
そして相手が打ち疲れた頃に反撃するファイトスタイルを用いた。
ファイテイング原田は、斉藤はどんなに打たれても倒れず、耳元で効いてない効いてないとささやき続けるため、対戦相手にとってはよほど脅威だったに違いないと語っている。
しかしその斉藤も、受けた頭部へのダメージにより、「パンチドランカー」となって引退する。
斉藤は、引退後に同じ宮城県出身ということでコメディアンの由利徹に弟子入りし役者として芸能界デビューする。
つまりボクシングとは「違うリング」で戦うことになり、芸名を「たこ八郎」とした。
芸名の由来は、自宅近くの行き付けの居酒屋「たこきゅう」から採った。
入門直後は、師匠の由利宅に住み込みだったが、まだパンチドランカーの症状が残っており、台詞覚えが悪くおねしょも度々あったため、本人がそれを気にし家を出て友人宅を泊まり歩いた。
受け入れた友人たちは、かえって斉藤の素朴で温厚な人柄に触れ、「迷惑かけてありがとう」と、邪険に扱うことはなかった。
また、毎晩のように飲み屋で過ごしていたが、請求が来ることはなかったというほど、誰からも好かれる芸人であった。
斉藤がその片鱗を見せたのは、高倉健主演の「幸せの黄色いハンカチーフ」のチンピラ役で鋭い動きを見せたシーンがあった。
人気絶頂期の1985年7月24日、神奈川県足柄下郡真鶴町の海水浴場で飲酒後に海水浴をし、心臓マヒにより死亡した。
新聞には「たこ、海で溺死」と掲載された。
さて、「あしたのジョー」の主題歌を歌った尾藤イサオは、寄席で百面相で活躍した芸人松柳亭鶴枝と同じく芸人の母との間に生まれた。
1953年に、曲芸師・鏡味小鉄の内弟子となり鏡味鉄太郎を名乗って、幼少時代は太神楽の曲芸師として活躍した。
ところが、高校時代はロカビリーなどの音楽に興味を持つようになり、1961年アメリカのハリウッドに渡り約1年音楽を学んだ。
帰国後はバンド「ファイア・ボール」の一員になり、東京都内のジャズ喫茶に出演するようになる。
そして1966年、ビートルズ日本公演の「前座」として内田裕也、ブルージーンズ、ジャッキー吉川とブルーコメッツ等と出演し、合同演奏を行った。
1969年に、ボクシングアニメ「あしたのジョー」の主題歌を歌い、これが尾藤の代表曲となった。
ちなみに、アニメソング「あしたのジョー」の作詞は、寺山修司である。
1970年代からは歌手としてよりも俳優としての活動が顕著となり、二枚目半・三枚目・小悪党などを演じてきた。
尾藤イサオも、生まれ育った芸人の世界とは「違うリング」に立った人であった。
あの「たこ八郎」こと斉藤清作が「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈のモデルで、福山雅治にとってのヒーローだったとはあまりにも意外である。
そして、矢吹丈を自分の血肉に変えた尾藤イサオも、生まれ育った世界とは「違うリング」で戦ったのである。