それぞれの恢復

最近の世の中、成果や業績第一の社会で、周りのことや遠いことをおもんぱかる余裕はなく、人が考えることといえば目先のことばかりになっていく。
また芸能界のニュースを見ても、過去に名声を博した人であれば「過去の人」と思われたくない焦りがあったりするのだろう。
そういう時、成果とか業績とかとは無縁の人と接すと心が癒されることがある。
とはいっても、そんな人とは、なかなか出会えるものではない。
日本各地で見られる「ゆるきゃらブーム」もそういう息苦しさがあるのかもしれない。
今どきラフカディオ・ハーンの日本紀行文を読むと、日本で生きることの「幸せ」を教えられる。
それはハーンが日本在住によって心の傷が「癒される」体験が、そのまま現代の我々に伝わるからである。
それが「失われた日本」であったとしてもである。
ハーンは初めて日本の土を踏んだ4月の朝のことを、次のように書いている。
「朝の大気には言い知れぬ魅力がある。その大気の冷たさは日本の春特有のもので、雪におおわれた富士の山頂から波のように寄せてくる風のせいだった。何か はっきりと目に見える色調によるのではなく、いかにも柔らかな透明さによるのだろう。(中略)小さな妖精の国――人も物も、みな小さく風変わりで神秘をた たえている。
青い屋根の下の家も小さく、青い着物を着て笑っている人々も小さいのだった。おそらく、この日の朝がことのほか愉しく感じられたのは、人々のまなざしが異 常なほどやさしく思われたせいであろう。不快なものが何もない」。
自らが癒されようという人の表現は、しばしば第三者を癒す。
また、ゆっくりと「癒される」体験をされた作家の大江健三郎氏は癒しや恢復のことを数多く書いておられ、特に障害をもって生まれた息子の光さんの音楽について書いておられる。
大江氏は医師たちの援助によって光さんを癒すことに努めて、光さんという子どもが恢復していく過程に立ち会うことで、自分たちも癒されてきたと語っておられる。
そして、知能障害でイノセントな心しかない光さんという青年にとっても、音楽をつうじて同じように癒しが起こっている。
光さんの音楽には苦しいものや悲しいことが宿っており、それそのように表現すること自体に彼自身が癒されている。
そして、表現された者を受け止める人にとっても同じことが起き、それが芸術の不思議さだと語っている。
さらに大江氏は、新しい才能を持った若い芸術家が現れてくると、小説家、詩人であれ、音楽家、画家であれ、我々に知らなかった新しい世界を見せてくれる。
彼も、我々と同じ世界に生きているのだが、彼は「新しい秩序」の与え方を知っているという。
そして、私たちは彼に与えられたかたちを見て、自分の生きている世界はこういうものかと、あらためて理解するということができる。
その体験が、干からびた秩序で生きてきた人々に「癒し」をもたらすのである。

大江氏のいう「新しい秩序」を与えてくれる人というのは、才能豊かな芸術家ばかりではない。
2012年1月よりNHK大河ドラマ「平清盛」の題字の大役に抜擢され、一躍話題の人となった書家の金沢泰子さんも、知的障害をもつ自分の娘さんについて次のようなことを書いている。
「娘・翔子は知的障害をもつダウン症患者である。 翔子は社会の構造が解らない。数列もよくわからない。いわゆる科学的な知性は持たないので、地位やお金や、効率の良さ、合理性を求める社会に巻き込まれない。
現実からはるかに離れた地平にいる翔子は、実にゆっくりと幸せな日々を生きている。
知的な遅れがあるために学歴社会に入れない。私は長い間そのことを嘆いていていた。しかし学歴社会の外にいたことは、実はとても幸いなことであった、と後になって分かってきた。
学歴社会に入れないと試験を受けないで済む。試験を受けない翔子は競争心が養われなかった。競争心がないと、人を羨んだり、妬んだりしない。その上に、社会の構造が分からないので偉くなりたいとかお金持ちになりたいと思うこともない。
この様に俗世に欲望のない無心な翔子の心には、人に喜んでもらいたいという愛で満ちてくる。その思いはとても優しく、豊饒。
翔子の想いをめぐらす範囲は、せいぜい明日のお昼ごはんぐらいまでなので、未来を想って不安になったり恐れたりしない。将来に希望を持ったりしないし、過去を振り返り悔やんだりなどもしない。目標や計画を持たないということは、その刻その刻を百パーセントの絶対時間で生きられる。その時空はじつに豊かで、素晴らしい。予測的な不安がないのでいつもわくわくと楽しい。いつもニコニコしている」。
「翔子の平等意識は凄い。犬も人間も、偉い人も貧しい人もみな同じなのだ。<中略>この翔子が犬に名詞を渡す光景で私は命への想いが根本的ない変わった。私の平等の考えなどとても陳腐であったと反省する」。
「また、私は50年以上書道をやっているが、それは書の神様が降りてきてくれないかと、それを願って書いている。それが翔子には、まだ弱冠20歳台なのに、たまに降りるんですよ。まるで俵屋宗達が降りてきたように」。
「私は鍛錬と努力を重ね、その果てにあまりに観念的になりすぎていいたのだろう。きっと翔子のようにその瞬間に生き、障害によって育まれた純粋度が保たれたた魂の領域で書く字が感動を呼ぶのでしょう。ただただ、誰かに喜んだもらいたく、ただただ、その時の想いを無心に書く。そんな書に、私の書などかなうハズがない」。
とはいえダウン症の娘を授かった時の金沢さんの悲嘆は相当なものがあったそうだ。
4年ほどまえにNHK「こころの時代~光明を探して」に出演された時に、絶望のどん底から、娘の金澤翔子さんを書家として開花させた軌跡を語られた。
金沢さんは、34歳の時に能の世界で知り合った夫と結婚し、念願の子どもを授かったのは42歳の時であった。
しかし、子供がダウン症だと告知された時、あらゆる希望が無くなり、今でも悔やみが残るのは、初めて抱いた時に、ダウン症だと言われていたので「これからこの子をどうしよう」と泣きながら抱いたこと。
子どもは初めて見る世界が母親の世界。翔子が初めて見た世界が「どうやって死のう」という母親の姿だった。
これはもう取り返しがつかない。翔子に申し訳ないこととだった。
それまで自分は順調に好きなことをやってきた文学少女だったので、「知的でないものは美しくない」とまで、ひどいことを言っていた。
それまで、もし男の子だったら日本一の能楽師に、女の子だったら日本一の書家にしよう、という思いが強かっただけに非常な衝撃を受けた。
当時の日記に「翔子の生命を救うべきなのかいまだに迷う。ミルクの量を少々減らしてしまったりして、その後すぐに後悔に悩む。翔子が大きくなるのが怖い。ゆりかごの中で殺してあげなければ・・・。私は悪い母親であろうか」とまで書いている。
クリスチャンであった夫はダウン症をものともせず、ひるんだ事はなかった。
しかし娘が14歳のときに心臓発作に倒れ帰らぬ人となった。
今は母娘の家族になってしまったが、そして娘は書家として注目され、父親の夢だった個展も開くことが出来るまでになっている。

人には不慮の事故や過失からすべてを失いそうになることがある。しかしそうした「暗闇」から抜け出た人は我々に生きる希望を与えてくれる。
この5月、テレビ番組で、2005年の朝に発生したJR福知山線の脱線事故で夫を事故で失ったピアノ講師原口佳代さんが紹介された。
事故から3年後母を脳腫瘍で失い、絶望のどん底から立ち直った。
その力となったのが、さだまさしの隠れた一曲「奇跡」だったという。
原口さんは脱線事故後はうつ病を患っていたが、2008年母と大好きだった、さだまさしさんのコンサートに訪れた。
そして帰りがけ購入したCDを車中で聴き、アルバム最後の曲、「奇跡」の中の「どんなにせつなくても必ず明日は来るながいながい坂道のぼるのはあなた独りじゃない」という歌い出しで涙が溢れた。
その翌年、支え続けて来てくれた母を脳腫瘍で失った。
2011年秋、原口佳代さんは、友人を介し広島県でさだまさしさんのコンサートで楽屋に通され、さだまさしさんと対面する。
さだまさしさんは、その後「僕は歌手として、切なさ、悲しさ、おかしさを歌っています。 とくに「奇跡」は簡単な気持ちで歌えるものではなく、歯を食いしばって歌う曲。 原口さんの心の扉をたたくことができ、これまでがんばってきてよかったと思います」と語っている。
元アナウンサーの菊間千乃さんの「暗闇」からの復帰も、われわれを励まし癒してくれる。
菊間さんは早稲田大学法学部卒業して1995年念願かなってフジテレビ・アナウンサーになった。
父は、バレーボールの名門・八王子実践高等学校監督であるのだが、そのことが彼女の運命を「微妙」に左右する。
入社試験で「今日のファッション」についてかれ、ファッションが「ファッショ」に聞こえてしまい、政治用語である「ファッショ」を一生懸命に語ったそうだから、よほどキマジメな性格であることは間違いない。
入社後は「森田一義アワー 笑っていいとも」のテレフォンアナに抜擢されたのを皮切りに、「あるある大事典」などの番組を担当しアナウンサーとしての実績をつんでいた。
そして、父の縁もあったであろうかバレーボールワールドカップ、バレーボール・ワールドグランプリといったバレーボール中継のMCを担当するなど、幅広くに活躍していた。
しかし1998年9月2日突然の不幸がふりかかる。
当時リポーターを務めていた「めざましテレビ」のコーナーで、災害時に高所から脱出する避難器具の体験リポート中であった。
マンション5階の窓から落下、地上のマットに叩きつけられ、全治3カ月の重傷(腰椎圧迫骨折)を負い入院した。
生放送の番組内で起こった事故であっために、視聴者に衝撃を与えた。
器具を開発した社長自らが出演し、袋から取り出した器具のロープを結びつけたのが柱ではなくその場にあったソファーであったため、ブレーキがきかなかったのだ。
悲鳴とともに菊間アナは画面から消え、コンクリートの地面に激突し、現場もスタジオも騒然てあったが、命があっただけでも幸運という他はない。
翌年には現場復帰したが、リハビリは1年に及んだという。
ところが健康を回復するヤ、今度は自ら招いたサイナンに見舞われる。
2005年7月16日、バレーボール中継後に他の社員とともに、当時未成年の男性アイドル・ユニットのメンバーだった男の子と飲酒していたことが発覚し、「無期限謹慎処分」を受けた。
これによって、自分に対する会社の雰囲気がイッキに冷ややかになったことを感じ取ったという。
そんな大きな過ちを犯したとは思えないが、スポーツ新聞などでは一面トップに出てさわぎにもなったし、生真面目な彼女からすれば相当つらいものだったに違いない。
ただ周囲の冷ややかさの中で、アナウンサー仲間が温かい励ましの声をかけてくれたことが、何よりも嬉しかったという。
これを機会として大学で学んだ法律を生かす仕事を考えるようになった。
実はアナウンサーの仕事と「並行」して、ある法科大学院大学で法律の勉強をしていたという。
そして弁護士を目指して司法試験の受験勉強に専念するため、2007年12月31日をもってフジテレビを退社した。
そして2010年、司法試験に合格し、ハレテ司法修習生となる資格を取得したのである。
菊間さんは、弁護士としては企業法務を多く扱う事務所に所属し、知的財産権、倒産、マスコミ関連など幅広く手がけフジテレビの顧問弁護士も務めているという。
自分の過失で会社に迷惑をかけたなら、顧問弁護士となって「お返し」できたことも、彼女の癒しに繋がっているのだと思う。

最近、テレビ番組で「波乱の半生」をシンガーの高橋真梨子さんの話も「恢復」という言葉ががよくあてはまる。
父・森岡月夫は広島鉄道局、母・髙橋千鶴子は広島市内銀行に、それぞれ勤務時、原子爆弾に被爆している。
父は国鉄務めの傍ら鉄道局のブラスバンドでサックス奏者として活躍していた。
このブラスバンドが母親の働くダンスホールなどにも出演していた。
これが、出会いとなり結婚し高橋が生まれた。
父の実家は父が内務省の役人を勤めた堅い家柄で、三人兄弟の仲で音楽にのめりこむような人間は父ひとりだったそうだ。
父親は元々手先が器用で、時計やラジオを分解して組み立てたり、カメラをやれば暗室を作って現像まで自分でやるようなタイプであった。
耳がよかった彼はジャズプレーヤーとして精進の傍らピアノの調律まで手がけていた。
戦後、父はプロのジャズクラリネット奏者として広島市内のクラブで働いたが、被爆が原因で長らく後遺症に苦しんだ。
そして父の音楽活動を阻んだ脱疽という不治の病であった。
血流障害が循環不全を起こし生体組織を死滅させる恐ろしい病気で、近年は糖尿病に起因することが多いが、被爆との関連などは未だに明確ではないようだ。
朝鮮戦争時、米軍基地が多くジャズが盛んでな福岡に移り、まもなく当時1歳だった真梨子も母に連れられて博多に転居した。
父は両足を壊疽で失うのだが、痛み止めのモルヒネを毎日打たないと耐えらえない状況で、母は生活費とモルヒネを買うために働き続けていた。
そんな生活に消耗する母と父はケンカの毎日だったという。
そしてついに、真梨子が二三歳のときに、父の方から家をでて、小学校3年歳の時に父母の正式に離婚した。
母はクラブなどのホステスをしながら家計を支えたが、父にとって妻の稼ぎで糊口を凌ぐことが耐えられなかったに違いない。
真梨子は母親の「髙橋」姓となる。父は広島に戻り、被爆の後遺症に苦しんだのち39歳の若さで死亡している。
このとき高橋が17歳の時だった。母は博多市内でバーをやりながら娘を育てた。
若い頃の真梨子は、父と別れた母の姿が許せなかった。
娘にとって自分を第一に考えてくれない母を相当恨んでいたし、新しい父になった男はしばしば母親に暴力をふるったし、幼い彼女は泣くほかなかった。
母を憎み、新い父を嫌い、早くから才能を見せ始めた歌で辛うじて自分を保っていたという。
地元のコンクールに出場して優勝して、評判になった歌声でペドロ&カプリシャスのボーカルになる。
そこで、後にかけがえのない伴侶となるヘンリー広瀬氏と出会っている。
高橋も後年、ウツ病を体験するなかで、夫のかけがえなさを知るにつれ、母親の孤独を理解できるようになった。
その母をコンサートに招待すると、真梨子の歌の中で一番好きな「フレンズ」では、涙を流して聞いていた。
母にガンが見つかってからは、病室でよく語りあうようになったが、母はしばらくして亡くなっている。
個人的に、高橋さんは一皮むけたと思う時期があった。カドがとれた感じだったが、それは母親と和解できた時期ではなかったのではなかろうか。
今コンサートをやれば、多くの観客が高橋真梨子を支持している。ジャンルは違うが安室奈美江さんにもそれがいえる。
苦しい環境や体験が、自らを癒しつつ、それが人々に「癒し」をもたらしているようだ。