アジアの架け橋

たしかに、見上げられることも、見送られることもない「地上の星」のような人々がいる。
戦前日本で、人知れずアジアの独立運動の志士を支援した人達も、そんな人々である。
彼らは学校の教科書に載ることもなく、かえって日本のアジア侵略への布石を敷いたという「色メガネ」で見られたりもする。
その代表に福岡の玄洋社の存在があるが、モシモこの名に抵抗を覚える人でも、日本とアジアとの間で真の友情をもとに「架け橋」になろうとした市井の人々がいたことを知っておきたい。
熊本の宮崎三兄弟が中国の孫文を助け、新宿中村屋の相馬夫妻がインドのラス・ビハリ・ボースを匿った。
また、作家遠藤周作の順子夫人の父にあたる岡田幸三郎もビルマの独立運動を支援した。
ちなみに岡田氏の甥が俳優の岡田英次である。
岡田幸三郎は、慶応卒業後に台東拓殖会社に就職し台湾に赴任し、製糖工業の実態調査のためにジャワ・インド・ビルマなどに出張を繰り返すうち、欧米の植民地支配から脱出しようとするアジア民衆の動きに共感をもつようになった。
岡田氏はビルマ独立を支援する南機関の人々を社員ということにして自由に行動できる便宜をはかったうえ、資金援助をしたりもした。
彼らは日本軍上層部とは違い、「アジア人のアジア」という大義以外何の野心も栄達心もない義侠の人々であった。

さて、近年福岡県の高校からベトナムへの修学旅行が増えているという。
福岡空港からベトナムの首都ハノイまで約5時間の直行便があるのが魅力のひとつだが、その背景には2008年、県とハノイ市が友好提携を締結し、翌年には在福岡ベトナム総領事館を開設したことがある。
九州からの進出企業は40社を超すため、地元経済界でつくる九州ベトナム友好協会や県が修学旅行の実現を働きかけたのである。
2013年は、日越外交関係樹立40年にあたり、明善高、玄界高、三潴高、朝倉高の4校がはじめてベトナム修学旅行を実施している。
そして何より、ベトナムには高校生が体験学習として学ぶ教材が数多くある。
まず新生ベトナムを象徴するように、地上68階高さ262メートルの高層ビル「ビテクスコ・フィナンシャルタワー」に登る。
眼下の夜景は、ホーチミン市に暮らす約720万人の生活の光であふれていた。
さらに、ベトナム戦争の資料を展示するホーチミン市の戦争証跡博物館がある。
ここでは山のように積み重なる遺体、戦争で使用された兵器、枯れ葉剤で奇形に生まれた胎児などの生々しい展示を前に、人々は立ちすくむ。
振り返ってみれば、福岡空港にはかつて板付基地があり、米軍の戦闘機がベトナム北爆に向かった時代があった。
今の高校生が同じ空港から、その戦跡にふれる修学旅行をしているのだから隔世の感がある。
ベトナムといえば、福岡市の劇場・博多座は「ミス・サイゴン仕様」なのだそうだ。
ミュージカル「ミス・サイゴン」を上演するには帝国劇場でも約1ヶ月の改装工事を行うほどの舞台が必要となる。
ところが、博多座では計画段階から「ミス・サイゴン」オリジナル演出版の上演を想定して設計されている。
本物のキャデラックが舞台に現れる上に、巨大なホーチミン像、特にサイゴン陥落のシーンで登場する実物大のヘリコプターは圧巻である。
さらにこの公演では、出演スタッフの事故や怪我がついてまわり、実際に主役の故・本田美奈子さんが怪我のため4ヶ月入院したこともあった。
その博多座で、2009年10周年記念の年に、ようやく待望の「ミス・サイゴン」が約3ヶ月上演された。
これが帝国劇場以外の初の公演となったのである。
「ミス・サイゴン」は、ベトナム人の少女と米軍兵士の究極の愛の物語である。
さて物語の舞台は、陥落直前のサイゴン(現在のホー・チ・ミン市)である。
フランス系ベトナム人(通称エンジニア)が経営するキャバレーでのアメリカ兵クリスと17歳のベトナム人の少女・キムの出会いから始まる。
この戦争に大きな疑問を持つクリスと戦禍ですべてを失い、何とか生きるすべを求めてこの店に働きに出たキムとの二人の出会いは、いつしか恋愛に変わるのに時間を要しなかった。
お互いに永遠の愛を誓いながらも、サイゴン陥落の混乱の中で、米兵救出のヘリコプターの轟音は無情にも二人を引き裂いていく。

ところでベトナム独立の父ホーチミンは広く知られているが、もうひとり士志士ファン・ボイチャウの名前はあまり知られていない。
ファン・ボイチャウはシバラクの日本滞在後に中国に渡り、ベトナム独立運動を起こした。
ではファンと日本との関わりはどのようにして生まれたのだろうか。
2013年には日本・ベナム国交樹立40周年企画としてスペシャルドラマ「パートナー」が制作された。
そこには歴史の教科書にはない、日本人とベトナムの人々との知られざる友情の物語が語られていた。
ドラマは、ひとりのベトナム人青年の逃亡劇から始まる。海上を逃れた青年の名前はファン・ボイ・チャウ というベトナム独立に奔走した人物である。
そして場面は100年前の日本の静岡の海岸に移り、そこにひとりの外人が漂着した。
外人は脚を撃たれて、漁師たちが騒いでいたところ、当地の医師である浅羽佐喜太郎は診療所に連れて行きこのベトナムからきた青年を患者として秘かに匿った。
ふたりは、漢字による筆談によって会話を交わすうちに、ファンも次第にこころを開き始める。
1883年以来、ベトナムはフランス領インドシナとしてフランスの統治下に置かれていた。
そんな中、日露戦争が勃発し、大国ロシアに日本が勝利したという事実を知ったベトナムの政治団体・維新会のリーダーであったファン・ボイ・チャウは、1905年日本へと密出国し静岡の海岸へ漂着したのである。
ファンの渡日の目的は、フランスに対して独立戦争を仕掛けるための武器の調達であった。
浅羽医師は大隈重信を通じて犬養毅にファンを紹介するが、犬養はいまベトナム人に武器を渡せば、フランスとの関係が悪化すると拒否した。
そこで日本とベトナムの差を感じたファン・ボイ・チャウはベトナムに向けて啓発本を書いて、ベトナムから留学生を日本を呼びたいと浅羽に申し出た。
1905年、ファンは一度ベトナムに戻り、街頭で独立の志士を募り、犬養、大隈の提案により、ベトナム独立運動を目覚めさせるために多くの若いベトナム学生を日本に留学を促したのである。
これが、いわゆる「ドンズー(東遊)運動」のはじまりである。
そしてベトナムからの出入国が禁止されていた困難な状況下で200人ものベトナム人が日本に学びに来た。
そして日本の教育や政治体制を学んだファン・チュー・チンという男はハノイに帰り、1907年、福沢諭吉の慶應義塾に倣って「東京義塾」を設立した。
ちなみに名称の東京はドンキンというベトナム語の漢字表記であり、当時のハノイ周辺を表す地名であり日本の東京とは無関係である。
しかしこうした動きに、フランス軍が黙っているはずがなく、留学生の親族を投獄し、送金を妨害するなどの措置をとった。
さらに1907年、日仏協約締結により、日本政府は正式にフランスのベトナム領有を認めることになり、翌年には、フランス政府の要請により、ベトナム人留学生の退去が命じられる。
そして日本に対しても留学生の引き渡しを要求してきたため、翌年にはついに日本政府が留学生の解散を命じた。
多くの留学生は日本を離れたが、ファン・ボイ・チャウは日本に残り、残った留学生の支援を続けたが、資金は底をついてしまった。
その資金援助をしてくれたのが、またしてもアノ浅羽医師であった。
浅羽からもらった金でファンが行ったのは、ベトナム人への啓発図書の印刷であった。
日本で印刷し、本国に持ち込もうという計画であったが、日本の官憲によって押収される。
そして間もなく、日本へ留学していたベトナム人留学生は全て国外追放となり、ドンズー運動は終わりを迎えた。
ファン・ボイ・チャウも日本から追放されることになり、日本の官憲から追われたファンは、浅羽佐喜太郎の元に別れの挨拶をした。
ファンは絶望し、浅羽の家を訪れ謝罪するが、浅羽はかえって激怒する。
「まだ終わっていない。あなたの本は、ベトナムの地でいつか芽を出す。私はファンさんと会えたことを感謝しているんですよ」。
ファンは再会を約束して別れるが、その時浅羽は結核を発症していた。
その後、ファンは中国に逃れて越南(ベトナム)光復会を設立し、武力によるベトナムの解放を目指した。
しかし、ファンはフランス総督府に逮捕され、死刑は免れたものの終身刑を言い渡され、コンダオ島に流刑される。
1911年に恩赦で釈放された後にフランスへ追放されるが、パリでホー・チ・ミンと活動を行い、1917年に再び日本を訪れた。
しかし浅羽佐喜太郎はファン・ボイ・チャウが日本を発った翌年の1910年9月にすでに亡くなっていた。
しかし浅羽医師が語った言葉がファンに伝えられた。
「私は、この地に来た時、既に死んでいたんです。ですが、ファンさんに会って、途方もない夢が叶うように思えたんです。だから、ファンさんには、、夢を実現してもらいたいんです」と。
そして、浅羽の死を知ったファンは自らの思いを刻んだ石碑を建てた。
この石碑は浅羽佐喜太郎家の墓所である常林寺境内に設置されたものである。
この高さ3mあまりの石碑には以下の意味の文言が刻まれている。
「われらは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む」。
しかしファンは1925年にサイゴンに帰国後、しばらくして病気で生涯を終えた。
静岡県袋井市には、現在でも「浅羽ベトナム会」という組織がにあり、ベトナムとの交流が続いている。

テレビドラマで浅羽左喜太郎という人物が静岡県の袋井の方と知って驚いた。
袋井から東に10キロほど町・掛川にも、アジアとの友好に貢献した松本亀次郎という人物がいたからである。
彼もまた「アジアの架け橋」とよぶに相応しい人物である。
掛川出身の松本は東京牛込西五軒町にあった宏文学院で、多くの中国人留学生に日本語を教えた。
宏文学院は当時、東京高等師範学校の校長をつとめていた嘉納治五郎が、清国政府の要請をうけて開いた中国人留学生のための予備校だった。
西欧列強の脅威を前にして、清国政府は1905年から1910年にかけて1万人を超える中国人留学生を日本に送った。
宏文学院は、帰国すれば近代中国建設の中心的役割を担う留日学生を育てることを目的に設立されたもので、日中友好の「架け橋」になるハズのものであった。
松本は小学校・師範学校で15年間、国語科の教員を続けてきたが、1903年37歳のとき突然辞職して、まったく未知の、中国人留日学生に日本語を教えるという仕事に飛び込んでいった。
そして、松本亀次郎は約80年の生涯のうち35年余りを中国人留学生教育に捧げた。
そのきっかけとなったのが嘉納治五郎が書いた一文であった。
そこには、小学校で真に力のある教育家が多年小学教育を担当すれば、児童の将来の心身発達の基礎を作ることができると強調している。
今までの教育界において、小学校教育の大切さをこれほど世に向けて発信した人物はいなかった。
そして松本は小学校教育の大切さを認めてくれた嘉納に心ひかれ、何らかのコンタクトをもったことが推測できる。
松本は静岡袋井の人だが、佐賀県師範学校で勤務したことがある。
その時の校長が、静岡師範・静岡中学在職中の校長でもあったため、この校長が招いたものだろう。
松本は佐賀師範で意外にも、方言辞典を編纂するという仕事を託された。
そして1902年6月に出版された日本で最初の方言辞典を編纂完成した。
そして松本はこの「佐賀県方言辞典」の出版により、初めて国語学者として世に認められた。
1902年といえば、嘉納治五郎は中国を訪問し清国政府の要請を受け、宏文学院の教授陣の強化が迫られた時期でもある。
嘉納は世に出ていない優れた人材を見つけだすことを常に心がけていたが、1903年4月嘉納はこの松本亀次郎を宏文学院に招いたのである。
松本は、尊敬する嘉納により招かれたことを誇りに思い、今後宏文学院に自らの人生を託すことにして、中国人留学生に日本語を教えることは自分の天命だと感じたようだ。
松本は1903年4月から1908年2月まで宏文学院で勤務したが、その中には後に世界的文学者となる魯迅もいた。
松本によると、魯迅は言語感覚において非凡さをすでにみせていた。松本に「流石に」の適訳がないといって嘆いていたこともあったという。
魯迅の日本文の翻訳は最も精妙を極め、原文の意味をそっくり取って訳出しておきながら訳文が穏当でかつ明瞭であったために、学生間では「魯訳」といって訳文の模範にしていたという。
魯迅はここに2年間在籍したあと、仙台へと向かっている。
このように日本最初の中国人留学生の教育機関として期待を集めていた宏文学院だが、留学生の激減により1909年7月に閉校を余儀なくされた。
しかし松本は1914年12月留日学生のための学校「日華同人共立東亜高等予備学校」を創立した。
予備学校創設という事業は同じであっても、嘉納の依頼者は清国政府であったが、松本の依頼者はたった一人の中国人留学生であった。
松本は東京府立第一中学校の教諭をしていたが、その時に湖南省出身の曽横海が、松本に日本語講習会の講師を依頼してきた。
湖南省出身者だけでも400人以上の留日学生がいることを知って、松本は私財を投じて学校を設立する決意をする。
そして東亜高等予備学校には、毛沢東の朋友となる周恩来が学んでいる。
個人的な話だが学生時代に神楽坂近くに下宿しており、この界隈が中国革命の震源地のひとつと知ってフタタビ訪れ、魯迅や周恩来の足跡を辿ったことがある。
地下鉄江戸川橋から牛込方面に歩くと周恩来が生活した山吹町界隈につく。
山吹町あたりは細い路地が迷路のように重なりあった所で路地をぬけたところが神楽坂である。
神楽坂には中国留学生達が集まり中国革命同盟会の機関紙「民報」などが発行された。
この周辺は若き中国留学生達が革命への血をたぎらせた場所でもあった。
1998年は日中平和友好条約締結二十周年であり、日中国交正常化に尽力した故周恩来総理の生誕百年にあたる。
東亜高等予備学校の創立者松本亀次郎氏の日中友好の理念の下、周恩来が1917年から二年間ここで日本語を中心に学んでいる。
千代田区日中友好協会は、東亜高等予備学校の跡地の愛全公園内(神田神保町2-21)に記念碑を建立した。
建立された石碑には、「周恩来ここに学ぶ―東亜高等予備学校跡―」と記され、さらに周恩来が千代田区で学んだ事跡を記した碑が建てられている。
神田小川町にある「漢陽楼」は周恩来ゆかりの中華料理店で、地下鉄神保町駅すぐ近くにある。
中国からの留学生にふるさとの味をと1911年に始めた中華料理店で、当時19歳の留学生、周恩来もここに通っていた。周恩来が好んでいた「小龍包」は今も人気メニューである。