武将のスジ

動物の世界は、それぞれの種の性質によって群れを作ったり作らなかったり、群れを作っても自分の子供以外は蹴散らす動物や、他の動物の子供の面倒を見たりする動物もいる。
狩の形態もその種の性格を反映して、単独で狩をしたり、見事な「連携プレー」を見せたりしている。
またそれを横取りする動物もいる。
またオス同志の戦いは、お互いの「威嚇」の段階で力関係が判別できると、劣った方はスゴスゴと引き下がるし、勝者も敗者の後追いをしない。
そして、強い者だけがメスを獲得する。
動物の世界は多様で複雑な生き方があるように見えるが、スベテが「種の保存」という目的にカナッテいるのは驚きである。
動物は意志ではなく遺伝子の振る舞いでそうしているのだが、マルデ「種の保存」こそがルソーのいう「一般意志」であるかのようだ。
ところが、人間の場合はこうはいかない。
自尊心や名誉があるので、負けるとわかっても戦うし、復讐を恐れる恐怖心もあるので、相手を徹底的に「滅ぼさず」にはおかない。
また、戦わずして引き下がっては外から、「弱腰」といった批判も受けることもある。
戦国時代の3人の武将・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のうち、信長も秀吉も大きな「負け戦」をしたことがない。
ところが家康は若い頃、「三方ケ原」というところで武田信玄に「大惨敗」を喫している。
武田信玄が上洛のために家康の領内を通過するが、家康としてはいかに相手が強大であっても、領内を「黙って」通らせるわけにはいかない。
そこで若き家康は果敢に戦いに挑むのだが、当時最強といわれた武田軍団に軽く蹴散らされてしまう。
しかし家臣団は負けるとわかっていても果敢に野戦に挑んだ若い家康を「支え」ようと固い結束をしてくのである。
ちなみに、浜松城に戻った家康は、「絵師」を呼んで恐怖にユガンデ引きつっている「自画像」(しかみ像)を描かせている。
家康が並の武将でないことは、あえて一番無残な時の自分を描かせて、人目につくところにこの絵を置いていたというところ表れている。
無敵を誇る女子レスリングの吉田沙保里選手が、「屈辱」の銅メダルを自宅にいつもぶら下げいているのに似ている。
ちなみに、この家康の「しがみ像」は、岡崎市美術館で今日でも見ることができる。
一般に武士には「武士道」というものがあって、何よりも「名誉」を重んじる。それは、「生きる」ことよりも大切なこととして教えられる。
もしも、その振る舞いが「名誉」を傷つけるものであれば、「一族の名折れ」として後世まで語り継がれることになる。
幕末期に、安藤信正は坂下門外で、刺客に襲われて背中を切られた、ツマリ「逃げた」という武士としてアルマジキ行為につき批判を浴びて「老中職」を辞任した。
貴族の名誉はその血によってスデにきまるが、武士はソノ生き様がタエズ問われるということである。
同じく戦う者であっても「忍者」は違う生き方をする。
甲賀流宗師家21代氏によると、武士は命より名誉を重んじるが、情報を集め伝える役割の忍者は「死ぬ」ことは許されず、自分の欲望を抑え、薬草で病気や怪我も直すもののだそうだ。
つまり、忍術とは歴史の中で培われてきた総合的な「生存技術」であるという。

「武士道的精神」は現代にも生き、戦時中の「生きて虜囚の辱を受けず」という言葉にもよく表われている。
そして今日生きる人々の政治家や財界人のなかにも、祖先が武士つまり「武将スジ」の人々がいる。
例えば、鳩山家は、岡谷の美作の勝山藩主の留守居役として江戸につめていた鳩山重右衛門の四男が明治で一番の法律家といわれた鳩山和夫である。
また男女雇用均等法を作った厚生省の女性キャリアの先駆者・赤松敏子は、室町時代の有力守護であった赤松家をルーツとする。
また、戦後の代表的な思想家の鶴見俊輔のご先祖には、高野長英がいる。
蛮社の獄で幕府に追われた医者・高野長英は、薬品で「顔を焼いて」別人に成りすましたが、幕吏に発見され捕縛される直前に自刃した。
高野長英は満鉄総裁・東京市長の後藤新平の大叔父に当たっており、後藤の娘婿が政治家の鶴見祐輔(俊輔の父)である。
また戦後の代表的な経済人に井深大(いぶか まさる)がいる。
井深大は、盛田昭夫とともにソニーの前身・東京通信工業を「創立」する。
そして井深の一族に、飯盛山で自刃した白虎隊士・井深茂太郎がいる。
井深大は、幼少の頃、青銅技師であった父親の死去に伴い、愛知県安城市の祖父もとに引き取られ、そこで育った。
井深茂太郎は会津藩内における青年文士の名を挙げれば、必ずその「筆頭」に数えられた秀才であった。
若松城(鶴ヶ城)の城南の地に地蔵堂があり、深夜この堂に行く者があると必ず怪しい事があるという噂があった。
茂太郎はブラブラとその辺を徘徊し、わざわざ地蔵を「罵倒」して夜明けに至ったが、遂に何事も起きなかった。
茂太郎は帰って人々に向かい「世の中に化物などいるものではない。化物は憶病者が自分の心の中でこしらえるものだ」と語ったという。
しかし井深茂太郎は迷信などを進ぜずに、科学的な面をみせている。
戊辰の役が起きると、茂太郎は三十七人からなる「白虎士中二番隊」に編入された。
西軍破竹の勢いをもってまさに城下に迫らんとするや、これを戸ノ口原に迎え撃ったが戦い遂に利あらず、退軍して飯盛山上に自刃した。
この時茂太郎16歳であった。
この人を祖先にもつ井深大は、早稲田大理工の学生時代から奇抜な発明で知られていたが、ソニーの創業者として、戦後を代表するイノベーターとなったのである。

現代史の中に、武将スジの人々を探してみた。
その一人が、いまだに強烈な「存在感」を示すのが、甘粕正彦である。
映画「ラストエンペラー」で坂本竜一が演じた人物といえばピンとくる人も多かろう。
甘粕家の祖先は山形米沢藩家老・甘粕家である。
甘粕が誇りとする先祖は甘粕近江守である。川中島の決戦で、上杉謙信の軍が武田信玄の本陣を突いて戦っている最中に、新手の武田勢1万人が上杉勢の後ろから襲いかかろうとした。
それを待ち受けていた甘粕近江守隊千人は、鉄砲の一斉射撃でまず武田勢の勢いを止めた。
次に、川に馬を乗り入れた甘粕近江守は大薙刀を風車のように振り回して敵を次々となぎ倒した。
恐れをなした武田勢は甘粕隊を遠く迂回してやっと上杉本隊に攻めかかった。
甘粕近江守は自隊の陣容を崩すことなく近寄る敵を撃破し、途中多くの味方の負傷者を収容しながら敵の真っ只中を撤退していった。
甘粕近江守の奮戦のおかげで上杉謙信も危機一髪の状況から、無事脱出できている。
ともあれ、川中島の合戦の勇士を先祖に持つ矜持、上杉藩の侍としての伝統、郷土の空気が自身の鋭敏な資質と結びつき、甘粕正彦という人物をを形成したのであろうか。
  一方、同じ武士スジでも甘粕正彦とは対照的に、体制への「反骨心」をタギラセタ人物もいる。
福岡の広津家は、学者のスジと武家のスジを合わせたような家である。
広津家は、福岡県・八女福島に江戸時代より続く「儒者」に溯ることができる。
豊臣秀吉の島津征伐の時、当主・島津義久が降伏した後も秀吉に抗戦し、矢が秀吉の輿に当たる事件を引き起こし、罪せられたのが島津蔵久である。
この蔵久から何代か後に、久留米の有馬家に仕えた「儒者の家柄」が広津家であった。
そして、明治時代「この家系」から一人の小説家が生まれた。
広津柳朗で、日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて本能の発動から犯罪を犯す人々を描いた。
ソノ息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判」批判がライフワークとなった。
その際、広津氏の戦う道具はペンであり、武器は「言葉」に対する感性であったといえる。
1949年、鉄道に関わる「不可解」な事件が相次いだ。下山事件・三鷹事件・松川事件である。
同年8月、福島県の松川駅(福島市)付近で、列車の脱線転覆事故が起きた。
松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件である。
線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが「故意に」何らかの目的をもって「工作」したことは明らかであった。
こうした「謎」に満ちた「三事件」に共通した点は二つあった。
第一には事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたことである。
その背景には鉄道における定員法による「大量馘首問題」があった。
国民の大半は共産党の仕業という「政府談話」を信じ、広津和郎でさえその例外ではなかった。
実際に、国鉄の労組はそれによって、「世論」を味方にすることもできず、「馘首」は相当スミヤカに行われていったという。
第二には、これらの事件の背後にアメリカ占領軍の影がチラツクことであった。
列車転覆の工作に使われたと思われるパーナには、外国人と思われる「英語文字」が刻んであった。
さて、興味深いのはこの事件の真相ばかりではなく、小説家の広津和郎がナゼこの裁判を終生のテーマとしたかということである。
広津氏は「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかった。しかし松川裁判批判は書かずにいられなくて書いた」と語っている。
広津氏自身はモトモト、三つの事件を「共産党の仕業」と思い込んでいた。
ところが、広津氏がこの事件に関わった契機は、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による「無実の訴え」である文集「真実は壁を透して」を読んでからである。
この文章には、一片のカゲリもナイと直感した。
しかし広津氏はアクマデ小説家であり、「刑事事件」の専門家ではない。いわば「素人」である。
当初は「素人が口出しをするな」「文士裁判」「老作家の失業対策」などとはげしい非難中傷を浴びた。
広津氏は松川裁判の「虚偽性」を暴くために、「新しい証拠」を見つけたり、「極秘資料」を探したりしたわけではない。
そもそも公開された資料自体がキワメテ少なかった。
広津氏はアクマデモ「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の「虚偽性」を追及していったのである。
裁判記録は、通常文学者が使うような「濡れた」言葉ではなく、「乾いて」いるといっていいが、言葉であることに変りはない。
広津氏はソノ乾ききった「言葉」の背後にあるナマナマしい真実を暴くために、言葉の端々を「吟味」していったのである。
だから、広津氏の最大の武器は、論理的思考と文学者としての「言葉のアヤ」に対する「嗅覚」あったといえる。
その吟味の結果、警察が当初、組合に属しない立場の弱いものを捕まえて「嘘の自白」を強制し、その「調書」から「架空の」組合員による「共同謀議」にもっていこうという「プロセス」をウキボリにしていった。
つまり「最初に結論ありき」の「国策捜査」であったのだ。

安倍首相は、父・晋太郎氏の夫人は岸元首相の長女で、また父親は反骨の政治家といわれた安倍寛氏である。
そして遡ること10世紀、11世紀の安倍宗任の「末裔」るあるとう。
それをさらに遡れば、「奥州征伐」などで名高い阿倍比羅夫に辿り着く。
安倍宗任は、1051年の前九年の役にて源頼義、源義家率いる源氏に破れ、大宰府に配流された奥州(陸奥国)の豪族である。
その後、安倍家は山口県大津郡日置村に移り、江戸時代には「大庄屋」をつとめ、酒や醤油の醸造を営み、やがて大津郡きっての「名家」と知られるようになった。
安倍首相の祖父の安倍寛が日置村村長から山口県議会議員などを経て、1937年に衆議院議員に当選し政治一家となった。
安倍首相の父の晋太郎氏は元毎日新聞の政治記者であったが、昔の新聞記者仲間によると安倍家のルーツは岩手県(安倍氏 (奥州))であり、「安倍宗任の末裔」だと言っていたという。
晋太郎は安倍一族のユカリの地を家人に調べさせ、地域の市町村役場などを丹念に回りながら、各地に古くから伝わる「家系図」を調べ歩いていた。
その結果、山口県長門市・油谷町に住み着いた一族が宗任の流れをくむ者たちであること、青森県五所川原の石搭山・荒覇吐(あらはがき)神社に始祖である宗任が眠っていることナドを調べ上げた。
そして1987年に晋太郎氏と夫人、息子の晋三夫妻の五人で荒覇吐神社を訪れている。
ナオ案内役を兼ねて晋太郎たちに同行したのが画家の岡本太郎であり、岡本もまた安倍一族の流れをくむ一人として、自らのルーツに関心を持って調べたことがあったという。
晋太郎は新聞記者を経て1958年に衆議院に当選して、「総裁候補」の一人と目されるようになった。
選挙の演説会では「岸総理の女婿」と紹介されることが多かったが、「安倍寛の息子」と、小声でツビヤイていたらしい。
ちなみに、現首相の安倍晋三氏は、生まれる前に祖父・寛氏は亡くなっている一方、母方の祖父・信介氏に子供の頃から可愛がれていたから、「岸信介の孫」という意識の方が強烈で、そのせいか、安倍晋三の政治手法は、岸信介を思わせる部分が多分にある。
また最近までTPP交渉の最前線に立っていた経済産業省の甘利大臣の祖先・甘利 虎泰(あまり とらやす)は、戦国時代の武将・武田氏の家臣で、武田二十四将、信虎時代の「武田四天王」の一人である。
甲斐源氏・一条忠頼の流れをくむ武田氏の庶流にあたる。
甲斐国巨摩郡甘利郷(山梨県韮崎市旭町付近)を領していたと考えられている。
板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らとともに武田信虎時代から仕え(名前の「虎」字は信虎から偏諱として与えられたもの)である。
1541年の晴信による「信虎追放」の主導的役割を果たしたのが面白い。
武田家の宿老で、「甲斐国志」に拠れば最高職位「両職」を務めた譜代家臣とされるが、信虎期の来歴や行政責任者としての実務を示す史料は少ない。
「甲陽軍鑑」は虎泰を「荻原常陸介(信虎の軍師)に劣らぬ剛の武者」と評し、山本勘助も虎泰の見事な采配ぶりを感嘆している。
1547の佐久郡北部の志賀城攻めに参加。関東管領上杉憲政が後詰の援軍を派遣したため、虎泰は板垣信方とともに別動隊を編成して伏撃し、小田井原の戦いで大勝してこれを打ち破った。
1548年2月14日に武田晴信が小県郡に侵攻して村上義清と戦った上田原の戦いにおいて、板垣信方を討ち取って意気上がる村上勢から晴信を守り、初鹿野伝右衛門らとともに戦死した。
さて武家スジの者達の特徴は、何よりも「名誉」を重んじることである。
しかし、赤穂浪士の浅野匠守にみるとうり、「誇り」を傷つけられて江戸城内で刀を上げたことが藩の「改易」(取り潰し)となるに至り、その忠実な家臣の運命にまでにその影響がおよぶこともなった。
ご祖先の中に歴史に名高い「あの人」や「かの人」がいるというのは、誇りであったり、刺激であったり、時には重荷であったりすることもあるのだろう。
そして、彼らは本人も意識せずとも「ご祖先様」を意識しつつ、行動したり振舞たりしているのでなかろうか。
例えば、ナポレオン3世は、叔父さんであるナポレオン1世を意識して皇帝になったし、「外征」を繰り返したが失敗し国民の信を失った。
安倍首相はどうだろうか。
祖父である岸信介は日本での内乱を米軍が鎮圧することを許した旧日米安保条約を不平等だと考え、安保改革にい踏み切った。
安倍首相は、集団的自衛権の行使が実現できれば、日本も米国を守ることができる。
これは日米同盟がより「対等な関係」となり、真の「独立国家」へと近づくというわけだ。
アメリカの牽制を無視したカタチの靖国神社参拝も、こう見るとサホド矛盾した行動ではない。
しかし、武将スジにある国のリーダーが、名誉や誇りを重んじるあまり、「国益」を損ねるバカリか、一国の生存を危うくすることもありうる。