歴史的「譲歩」

1961年5月20日、参議院庶務課に「参議院議員辻政信がラオスで行方不明」という情報がもたらされた。
政治家が異国の地で消息を絶つケースはあることだとしても、「ラオス僧」に変装していたという情報まで飛び交った、この辻政信とはいったい何者か。
辻政信は、旧日本陸参謀にして戦後はベストセラー作家、そして参議院議員に転身したという異色の政治家である。
数々の作戦に従事した「作戦の神様」、清廉潔白の士と謳われる一方、悪魔、無能、下克上の権化といった悪評も絶えない。
辻政信は1902年10月11日、石川県の今立という山里で誕生した。
父の亀吉は「炭焼き」の仕事をしていたが、漢書を嗜む教養人であり、政信もそんな父の影響を受けて読書好きに育つ。
父は政信が幼いうちに他界するが、臨終の際、息子に「えらい者になれ」という言葉を残した。
辻政信の人生を振り返ってみると、この言葉こそが彼の関心事のホボ全てを占めたといってよい。
当時の農村にとって「えらい者」とは、師範学校を出た教師、あるいは士官学校を出た軍人のいずれかを指すが、辻は軍人の道を目指した。
幼年学校こそ補欠合格だったが、その後の辻は休日も机に噛り付いて猛勉強を重ね、士官学校では首席で卒業した。
その後入学した陸軍大学校でも相変わらずのガリ勉を続け、優等の成績で卒業、恩賜の軍刀を拝領する。

ところで10年ほど前、鹿島茂という大学教授が「人間の歴史はド-ダの歴史である」と主張され、「ド-ダ学」なるものを提唱されていた。
教授は、ド-ダ学は「東海林さだお」の漫画に啓発されたそうだが、教授が提唱するところの「ドーダ学」とは、人間のコミュニケ-ションのほとんどは、「ド-ダ おれ(わたし)はすごいだろう、ドーダ、マイったか」という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析しようとする学問なのだそうだ。
教授によれば、人間は誰しもどこかにドーダ心を秘めているが、芸術家などの表現者や歴史を動かした人物などにその類型を見出すことができるという。
ドーダとは「自己愛に源を発するすべての表現行為である」と定義され、画家でも音楽家でも表現者といわれる人々は、結局、朝から晩までド-ダすることを考え、ドーダしたくてしょうがない「ドーダ人間」なのだともいえる。
ピアス・刺青・スプリットタンなどをよそおう若者は、それによって他者との差異化を図ろうとする、つまりオレはお前達とは違うんだゾ的な表現者であり、これもドーダ人間の行動類型にいれられる。
またアキバ系などにみる通り一点集中主義ドーダ、高級車愛好者などのように一点豪華主義ドーダなどのエピゴーネンもいる。
人は誰しもがドーダ心を秘めているが、それを子供っぽいくらい前面に出すのが「ドーダ人間」といってよい。
またドーダ人間は、おばあちゃん子であったり一人っ子だったりして「自己愛」が損なわれることなく肥大化しているケースが多い。
最近の号泣地方議員や中学生のLINEはずしへの激昂議員などに、そうした類型を思い浮かべる。
またドーダ人間は、「ドーダ、すごいだろう」を見て欲しいため、「どーぞ」と相手に一歩譲ったり、相手の話を聞いたり、奉仕したり要するに相手を活かすことにはあんまり関心がない。
一方、自分がカナワナイ課題などに直面した時などには、意外にも諦めや撤退がとても早いのも特徴的である。
実は冒頭に陸軍参謀・辻政信を紹介したのは、ドーダ人間の典型をみる思いがしたからだ。
辻政信が携わった主だった出来事には、ノモンハン、マレー侵攻、ガダルカナル攻略といったものがあり、このうち、マレー侵攻における辻の評価は高い。
無論、彼一人が作戦を仕切っていたわけではないが、果断な作戦で敵の虚を突き、シンガポールを陥落させた功績の多くは彼に帰せられるものである。
この作戦において辻は新聞記者相手の広報も担当しており、記者達は彼がよどみなく語る名作戦の数々に感嘆した。辻に「作戦の神様」という異名が冠されたのはこの頃である。
しかし、辻その他の作戦における彼の評価は非常に低い。
特にノモンハン事件は、単なる不毛な土地の国境争いで無益に多数の兵を消耗したとして悪名高い。
同じようにガダルカナルでも、彼は敵を見くびって惨憺たる結果に終わっている。
戦績とは別の方面でも辻は悪名を残している。
ノモンハンで捕虜になって帰還してきた部隊に自決を迫ったとされているほか、シンガポールでは「華僑は皆潜在的な敵である」とばかりに虐殺命令を出している。
とにかく辻は、人を悪い方向へと巻き添えにするドーダである。
サイゴンで終戦を迎えた辻は、中国に潜入して日本再建のための情報収集を図るという名目の下、7人の青年士官と共に僧侶に化けて同地を抜け出す。
やがて日本に帰国した辻は、しばらくの間、各地を点々として身を潜めていたが、戦犯指定が「解除」された翌年の1950年、世人がアット驚くカタチで姿を現した。
そして戦後の逃避行を描いた自伝小説「潜行三千里」を刊行、ベストセラー作家に躍り出たのである。
売り上げは目覚しく、辻はこの年の作家の納税額ランキングで10位になっている。
その後も辻は「ノモンハン」「ガダルカナル」といった人気作を矢継ぎ早に発表し、作家としての人気を不動のものとした。
しかし、辻は自分が作家として終わることを良しとしなかった。
父親の「えらいものになれ」という遺言が、リフレインのように彼の脳裏にひびいていたのだろうか。
ならば政治家だと、1952年、彼は参議院選挙に打って出る。
元軍人の間では眉をひそめる者も多かったが、作家としての人気、持ち前の「雄弁」が功を奏し、辻は見事初当選を果たす。
その後も彼は衆議院議員選挙に3回、参議院議員1回当選し、辻の選挙における強さを物語っている。
実は、鹿島教授は「ドーダ人間」の類型として饒舌だが人望がないことをあげておられるが、辻政信はそれにピタリ。
辻はドーダに憑かれていたといって人物だが、政界における辻は「一匹狼」の浮いた存在でしかなかった。
なるほど彼は時に正論を吐く。
しかしその正論を実現するため、他者を味方につけていくという能力に「絶望的」に欠けていた。
「荒唐無稽な綺麗事ばかり言う奴」とか、「お得意のスタンドプレーか」だと、周囲の人間は鼻白むばかりの思いで彼を見ていた。
そんな中、辻は「ラオスの左派パテト・ラオに、ソ連や中共、北ベトナムがどれほどの軍事援助をしているかを観察する」、「ハノイに行き、ホー・チ・ミン大統領と会見、ラオス、ベトナムにおける内戦停止の条件を聞き出す」という名目で渡航願いを出す。
起死回生を狙っての政治的業績作りか、それとも他の目的あってのことかはよくわからない。
ラオスのビエンチャンから徒歩で高原地帯に消えていったのを最後に、彼は歴史の表舞台から姿を消してしまった。

辻政信の生涯は、1番になりたくてなれなかった人間の悲劇を表しているが、歴史の中には「1番」を風よけにして走るような賢人はいくらでもいる。
また譲歩して相手に「優先権」を与えておいて、時間をかけて実権を奪取する知恵者もいる。
その典型的な出来事として、徳川家康の江戸入府だとか、徳川慶喜の大政奉還に見られる歴史的「譲歩」を思いつく。
織田信長亡き後、織田の後継者を任じる「ド-ダ」豊臣秀吉は、五大老の筆頭格である徳川家康に三河の地より江戸の地に国替えを命じる。
江戸には武蔵野という原野が広がり人間が住む地としてはほとんど「未開の地」といってもよかったが、家康は秀吉に匹敵する実力(実際、小牧・長久手の戦いで勝利)を充分に持っていたが、あえてことを構えずに「どーぞ」と秀吉の言葉に従う道を選択する。
つまり家康は秀吉の命令通りに三河から江戸へと国替えをする。
この歴史的譲歩は並々ならぬ決断であったであろうが、この決断により徳川270年の継続と江戸・東京の大発展に繋がった。
さらに日本史の中で一番の「歴史的な譲歩」は、なんといっても「大政奉還」ではなかろうか。
大政奉還とは、幕府打倒を狙う薩摩長州に機先を制し肩透かしをくらわせるように、幕府側のほうから天皇への政権返上を申し出た出来事である。
幕府方の狙いは政権を名目の上で朝廷に返せば、薩長方としては倒幕の名目を失ってしまうのである。
これは戦乱を避けると同時に、政権返上後の雄藩による共和政体の下で依然として徳川家が実権を握り続けることをよんでの戦略的譲歩であった。
いわば徳川家は、朝廷と幕府とのニリ-グ制での一方の盟主でなく、一リ-グ制下の「実質上」の盟主をめざしたともいえる。
ただし、薩長軍の司令官・西郷隆盛は、徳川家ヌキの雄藩対等の共和政体を構想していたの対して、徳川慶喜は将軍の地位をおりても朝廷下で自分が摂政関白に匹敵する地位につき「独裁制」を続けることを構想していたのである。
そうした徳川家の目論見を潰すために暗躍したのが、朝廷内で薩長側に与していた岩倉具視である。
妹・和宮は徳川家茂にとつぎ、徳川慶喜に非常に親しみを抱いている孝明天皇の下では、そうした「徳川構想」が実現する可能性がきわめて高かったのである。
薩長サイドとしては、孝明天皇の存在自体が大きな障壁であった。
ところがあまりのタイミングのよい時期に孝明天皇が亡くなった。当然にこの死には、岩倉らの暗躍が噂された。
その後、小御所会議での薩長側の徳川家の辞官・納地の要求と、それを拒絶する徳川家の間の戦いである戊辰戦争を経て、それに勝利した薩長土肥前により明治新政府が誕生するのである。
結局、徳川慶喜の「大政奉還」は、時の流れに抗うことはできす、彼の構想するような共和体制を築くには至らなかったものの、あの時点での「遠望深慮」にもとづく歴史的譲歩ではなかったか、と思うのである。

1945年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾した事を知った重慶の蒋介石は、翌日午前10時重慶からのラジオ放送でメッセージを発した。
いわば、日本の「終戦の詔勅」に対応する蒋メッセージだ。その内容は全体的には勝利の喜びの言であり、かなり理想主義的なものだった。
このメッセージは、報復や無辜の日本人への攻撃を禁じたもので、むしろ「以徳報怨」のメッセージとして知られている。
日本が無条件降伏をしたとき、中国大陸には多くの兵士や民間人が取り残されていた。
武装解除され、行動の自由を失ったとき、武器を持たない兵士達は全くの別人になったといってよい。
これからどんな目に遭わされるか、どうやって日本に帰れるのか、いままで痛めつけてきた中国民衆にきっと報復されるだろうなどの不安だけが渦巻いて、いまにも絶望しそうな「弱い庶民」の姿に成り変っていた。
しかし蒋介石は勝利宣言をした後、「我が国民は襟度(プライド)を保ち、日本人に対して“怨みに報ゆるに 徳を以ってせよ」と呼びかけた。
彼の命令は徹底し、軍も報復することなく、武装解除した日本軍と民間人を整然と帰国させた。
満州ではソ連軍に酷い目に遭わされ、シベリア抑留と言う不当な扱いを受けた人々が多くいたのにである。
蒋介石の「以徳報怨」のメッセージに、在留日本人と日本軍はひれ伏したといってよい。
しかし蒋介石のメッセージや日本に国家賠償も要求しなかったことに対して、予想される共産党との戦いに備える必要があったからだともいわれている。
つまり、ソ連の介入が急速に進行しつつあり「国共合作」の前提である日本が降参した以上、中国共産党との勢力争いが、蒋介石の最大の関心事として浮上してきたからだとされている。
そこで日本軍ができる限りソ連軍や中国共産党に降伏するのではなく、日本支配地域と武器がなるべくスムーズに重慶政権に移譲される事が最も重要だったからだという解釈がされている。
ただ、蒋介石は毀誉褒貶の格差の大きい人物ではあるが、誇り高いカリスマであったことも確かである。
そして蒋介石の態度にはキリスト的倫理観が関係していたし、日本の士官学校への留学体験に対する恩義やそこで学んだ武士道も影響したかもしれない。
蒋介石の「以徳報怨メッセージ」の詮索はあれこれあるが、個人的には「歴史的譲歩」として素直に受け取りたい。
それによって混乱は避けられ、それによって中国人民は誇りを保ち得たし、日本人は無事帰国出来たのは確かだなのだから。

聖書は、人間側からみて神への接し方を教えてくれる。
それは、どうしたら神の祝福を受けられるかということなのだが、それはしばしばこの世の常識に反するために、「信仰」なくしては実践できない面があるのも確かである。
例えば世の中で人に優先権を譲ったりしたら相手にイイトコロをとられるし、馬鹿にされても黙っていたらナメラレルと思いがちである。
旧約聖書にアブラハムという「信仰の父」とよばれる人物がいる。
アブラハムは、メソポタミアのカルデアの地ウルよりパレスチナのカナンの地に住むが、カナンの地にはいるころ一族の数が増えて、家畜などをめぐり甥であるロトの一族と争いが絶えなかった。
そこでアブラハムは自分の一族とロトの一族とが分かれて生活をすることを提案する。
そしてアブラハムは丘にのぼって見渡す原野を前にして、ロトにどちらの道に行くか良いほうをロトに選択させるのである。
つまりロトに優先権を与えるが、ロトはその時点で見た目が「豊かで麗しく」見えた低地の方を選んだ。
ところが年月が経るに従い、ロトが住んだ場所は、ソドム・ゴモラという悪徳の町が栄え、ロトも神の使いを守るために自分の娘達を獣のような男達に差し出すという悲嘆をナメさせられている。
そしてついに神の怒りが発せられ、ソドム・ゴモラの町は滅ぼされる。
神の怒りの火で滅ぼされる中、神の恩寵によりアブラハムの親族・ロトの一族のみが助け出される。
その時、ロトの妻は神の命に反して焼き尽くされる町を振り返ったために「塩の柱」となったとされる。
ちなみに、ロトの長女がモアブでモアブ人の祖となっている。
一方、アブラハムが住む地は守られて祝福され、イサク・ヤコブとその子孫が繁栄していくのである。
アブラハムは、住むべき土地を選択する際に「優先権」を与えるのだが、それは、神が自分をドコに導こうとしているのかを探ろうとしているようにも見える。
神はアブラハムのそうした一貫した「信仰」の姿勢に、確実に祝福をもって応えたといえよう。