契約・交渉・とりなし

人は、この世ににあって「なぜ」と問いたくなるような運にも、災いにもめぐりあう。
そんな視界不良の人間に、神はかく祈りなさいという「祈り」を授けた。
それは一般に「主の祈り」といわれるものだが、それは次のような短い内容である。
// 天にまします われらの神よ
御名をあがめさせたまえ 御国をきたらせたまえ
御心が天になるごとく 地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
私達が罪あるものを許すように、我らの罪をも許したまえ
われらを試みにあわせず 悪より救いいだしたまえ
国と力と栄とはとこしえに汝のものなればなり
//(マタイ6章)。
以上たしかに、現代人に必要な祈りだと痛感するが、今の人々はこの中の「御心が天になるごとく」とか「御国をきたらせたまえ」などの言葉をどのように受け止めるだろうか。
まくら言葉か、オマジナイのようなものか。
ちなみに御国とは「神の国」、天上の国が地上に実現した国、もっといえば天が地に「降りて」実現する神の国のことである。
そして、この「主の祈り」は、少なくともこの世の出来事は自律的に起きているのではなく、天の采配で起きていることを教えている。
さもなくば、そもそも祈りなんていらないものだから。
また「ヨハネ黙示録」を読むと、地上に起きていることは、天に起きていることの「反映」であるという印象さえ受ける。
イエスでさえ「天国は激しく襲われている」(マタイ11)と語ったが、まして人間にはどうにもコントロール出来ないことがイツデモ起きうるのであり、そこで「悪より救いいだしたまえ」という祈りがある。
そしてパウロは、「絶えず祈れ」(Ⅱテサロニケ5)というほどに、祈りは重要なものなのだ。
そこで人間に求められていることは、次のトウリ。
「ことごとに、感謝をもって祈りと願いとを捧げ、あなた方の求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ4)。
ところで、イエスは天界や神の国のことをしばしば「たとえ」を使って語ったが、それは「たとえ」で語らねば地につく人間には理解し難いものだからといえる。
しかし逆の言い方をすれば、「たとえ」でならば伝えられる程度には、天国や神の国はコノ世に似た処だとも解釈できる。
そうした「たとえ」の中に登場するぶどう園、管理する者、裁く者、訴える者、訴えられる者、弁護する者(とりなす者)などは、人間が歴史的に作り上げた役割や制度のように思いがちだが、実はその型は天界にも存するものではなかろうか。
我々はコノ世に生き、この世界認識の制約下に生きているのだが、むしろ天界からみてコノ世は影のように一時的なもので、地上に生きている人々は寄留者のようなものかもしれない。
パウロ自身も、我々はこの世にあって旅人であり寄留者であり(ヘブル11)、我々の国籍は天にあると語っている(ピリピ3)。
ところで、神学者や哲学者は、神を「全知全能/絶対無謬」の超越者とか「根本原因」などと定義するが、聖書の「神」はそのようなものではなく、マサニ生きていて、人間と契約し、交渉し、仲立ちやとりなしをなし、時には人間の同伴者となって、コトを成し遂げていく存在なのである。
その意味では、神は創造者でありながら、被造物たる人間と対等にさえなるくらいに、自らを低くされる。
例えば、神とアブラハムの神との間で次のような「交渉」があったことが記されている。
神がソドムとゴモラを滅ぼそうとしていることを聞いたアブラハムは、神と次のような交渉をはじめた。
「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
もしや、その町の中に50人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。
その中にいる50人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。
全世界を裁くお方は、公義を行なうべきではありませんか。」(創世記10章)
それに対して神は、もし、ソドムに50人の正しい人がいたならソドムを滅ぼさないと語った。
聖書でいう「正しいもの」とは道徳的倫理的に正しい者という意味ではなく、神を信じ崇めるものと捉えるのが正しい。
しかし、アブラハムは50人という数字に少し不安を抱いたのか、50人から40人、40人から30人、30人から20人、20人から10人へと数を減らして、「10人正しいものがいたら滅ぼさないでください」と交渉し、神は「その10人のために滅ぼさない」と言われた。
実はこの町にアブラハムの甥であるロトの一族がすんでいたのだが、ソドムとゴモラには10人の正しい人もいなかったのか、その町は滅ぼされてしまう。
そして神が滅ぼしたソノ地には、現在「死海」が広がっている。
そして、神が町が滅ぼす場面を振り向いて見てはならないという神の命令を破ってロトの妻は「塩の柱」となったとあるが、その「塩の柱」も一応存在している。
このの出来事では、アブラハムの「とりなし」が無力になるほどにソドム・ゴモラの人々の「不信仰」が蔓延していたことになる。

聖書における全知全能の神は、人間サイドの祈りや訴えや「とりなし」を受け入れて、行おうとすることを変えうる柔軟な神である。
その例が「出エジプト」で出来事では、神はモーセの「とりなし」の訴えによって、神が下そうとした「災い」を思いとどまった出来事である。
イスラエル人は、エジプトの奴隷状態から救い出され紅海での奇跡などを経てシナイ山の前に集まった。(出エジプト20)
ところが、イスラエル人は、モーセがシナイ山に登って律法を与えられている間、モーセの兄アロンに圧力をかけて自分たちの神として金の子牛の像を作らせた。
そしてその偶像を崇めで飲んだり食べたりして楽しんだ。
神はイスラエル人が早々と神の掟から離れ去って行ったのを見て、イスラエル人に対して怒りをあらわにし、モーセにイスラエル人を滅ぼし、別の国民をイスラエル人の代わりにすると言われた。
しかし、モーセは、神に次のように訴えてトリナシた。
「主よ、大いなる力と強き手を持って、エジプトの国から導き出されたあなたの民に向かって、なぜあなたの怒りがもえるのでしょうか。どうしてエジプト人に、”彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすのだ”と言わせてよいのでしょうか」。
さらにモーセは、神が先祖アブラハムにその子孫を増やし、神が約束したこの地を皆子孫に与えて、長くこれを所有させるという「約束」を思い出すように訴えた。
その訴えに対して、「すると神はご自分の民に下すと言われた災いについて悔いた」(出エジプト32)と聖書はいっている。
この出来事は、人間が神に対して、言い表しをもって熱心に訴えれば、神はそれを受け入れる存在であることを示している。
聖書には神に対する言い表しやとりなしがとても重要なことを教えているが、それは今日よく使われる「説明責任」という言葉と無関係ではない。
ところで聖書に「聡明で美しい」と讃辞を与えた女性がいる。
アビガイルという女性で古代イスラエルの名君ダビデ王の妻、すなわち一国の王妃となった女性である。
ところがこの女性は再婚で、最初の夫ナバルが死んだ後に、ダビデのたっての求婚を受けて妻となっている。
求婚を受け入れたとはいっても、その時ダビデはサウル王の執拗な追跡の目を逃れて此処彼処と放浪している不遇の時期であった。
ダビデといえば、ペリシテの戦士巨人ゴリアテを倒して以来、一躍国民的英雄となった。
その後の戦いにも連戦連勝し武勇を内外に響かせた。
主君サウルは有能な部下を持ったことを喜べばよかったが、器が小さかったのかダビデの存在が気になり、ダビデの名声をねたみ、ついに自分の座が奪われるのではないかとの強迫観念にかられた。
ダビデはいわれなき罪でサウルに狙われることになるが、ちょうど源義経(牛若丸)が源頼朝に追われて奥州に逃れたように、ユダの荒野を逃亡し流離うことになったのである。
そんな苦境の中にあったダビデだからこそ、アビガイルの聡明さに気持ちが惹かれたともいえる。
それでは、アビガイルという女性はどのように賢い女性であったであろうか。
ユダのパランに大規模に牧畜業を営んでいるナバルという大富豪がいた。その妻がアビガイルである。
夫ナバルはアンマリ賢いほうではなかったようで、性格的にも合わなかったことが読んでとれる。
或る時ナバルは、羊の毛の刈り取りの祝宴が開いていた。
ナバルは親類や周辺の縁者を招待して、自分の偉容を内外に示す意味も込めて、「王のような宴会」と記してあるほどの盛大な祝宴であった。
そのナバルの地にダビデは逃れてきたのだが、荒れ野を放浪する身でありながら、毎日600人の部下を養わなければならならず、食糧の提供を願い出た。
ダビデ軍団は荒れ野に潜む傍ら、荒れ野に出没するならず者や略奪者達からナバルの羊飼いたちや羊を幾たびも守っており、使者を派遣して食糧提供を申し出た。
しかしナバルはそれを拒否したばかりか、ダビデを「脱走奴隷」呼ばわりして侮辱し、使者たちを追い返してしまう。
怒ったダビデは、武装した400人を連れて祝宴の只中のナバルを襲撃するために出立をした。
ナバルの従者からこのことを聞いた妻アビガイルは事の重大さを悟り、自らの判断ですぐにも大量の食糧をダビデに送った。
そして夫の非礼を詫びてトリナシ、なんとかダビデの赦しを得ることに成功した。
家に戻ったアビガイルは夫にすぐに報告しようとしたが、なにしろ夫は酔っぱらっていたので、翌日夫にすべての成り行き打ち明けた。
その事実を知るや、ナバルは卒倒状態となり10日後に死んでしまったという。
それでも、アビガイルの迅速な行動によって、ナバルの下の多くの人々の命と財産が守られたことになる。
ナバルの死を知ったダビデは、アビガイルに結婚を申し込み、アビガイルもその申し出を受け入れた。
伊豆に流されて流托の身であった源頼朝と一緒になった地元有力者の娘・北条政子を思い出すが、アビガイルはなぜダビデの結婚の申し込みをスンナリ受け入れたのか。
それは、夫ナバルの非礼を「とりなす」ためにダビデ語った次の口上からうかがい知ることができる。
「主(神)があなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人様(ダビデ)に成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられるとき、無駄に血を流したり、ご主人様(ダビデ)自身で復讐されたりしたことが、あなたの躓きとなり、ご主人様(ダビデ)の心の妨げとなりませんように。主(神)がご主人様(ダビデ)を幸せにされたなら、このはしためを思い出してください」(Ⅰサムエル24)。
アビガイルは、ダビデが将来王となる人物であることを見抜いていたこと、それよりも富豪である夫にはない神の愛が常に寄り添う人であることを見て取ったのであろう。
そしてアビガイルのとりなしの訴えを聞いて、ダビデは、自分の怒りに身をまかせてナバルを滅ぼうとした軽率さを恥じたという(Ⅰサムエル)。

聖書に登場する人物の中で、アビガイルに並んで美しく聡明な女性がエステルである。
さて聖書は旧約聖書39巻/新約聖書27巻の全66巻を集めたものだが、不思議と神や主が登場しない巻がある。
自分が気がついた範囲では「雅歌」もうひとつは「エステル記」である。
「エステル記」の歴史的背景を述べると、ユダヤ人は大国アッシリアやバビロニアによって攻められ多くの民が捕虜として強制連行され、ペルシア王国の領土内にコミュニティーをつくっていた。
ペルシア・クセルクセス一世は、ペルシアの首都スサで王位に就き、その3年後に180日に及ぶ「酒宴」を開き、家臣、大臣、メディアの軍人・貴族、諸州高官などを招いた。
その後、王はスサの市民を分け隔てなく王宮に招き、庭園で7日間の酒宴を開くが、王妃ワシュティも宮殿内で女性のためだけの酒宴を開いていた。
最終日に王はワシュティの美しさを高官・市民に見せようとしたが、なぜかワシュティは王の命令を拒み、宴席にさえ出ようとはせず、王はすっかり立腹してしまった。
王は側近から、こうした噂が広まると女性達は夫を蔑ろにするという助言をうけ、王妃ワシュティを追放した。
そして王は大臣の助言により「新たな王妃」を求めて全国各州の美しい乙女を一人残らずスサの後宮に集めさせた。
スサは紀元前500年頃から大きなユダヤ人コミュニティーのある都市だが、そこに義父モルデカイと美貌の娘エステルがいた。
モルデカイはエステルを応募させ、エステルは後宮の宦官ヘガイに目を留められて王妃となり、誰にもまして王から愛された。
しかしエステルは、自分の出自と自分の民族つまり「ユダヤ人」であることは誰にも語ってはいなかった。
彼女の本名はハダサで、エステルはペルシア名であった。
彼女は強制連行されたユダヤ人の子孫だったため、二つの名を使い分けて生きてきたのである。
その後ペルシア帝国が台頭し、バビロン帝国が滅ぼされると、強制連行されたユダヤ人達も解放され、国を再建することが許された。
しかしそれでも帰国もままならず、異国の地に留まり続けなければならなかったユダヤ人も大勢いた。
エステルが生きた時代は、そのような差別と迫害の中を生きるユダヤ人たちの時代であった。
さて、王はエステルのために祝宴を開くが、その時モルデカイは二人の男が王を殺そうとしていることを察知し、エステルを通じてそのことを王に知らせた。
その結果、王は難を逃れることができ、その男たち二人は処刑された。
一方、王の下での最高権力者ハマンは、宗教的な儀式の場面などで自分に従おうとしないモルデカイに対する恨みを抱くようになった。
そしてハマンは、ユダヤ人全員の殲滅計画をめぐらせ、王にユダヤ人への中傷を繰り返し述べて、その計画を着々と進めていった。
そしてクジで選ばれた日に、すべてのユダヤ人を抹殺することが決定したのである。
これを聞いたエステルとモルデカイは悲嘆にくれ、そしてほとんどのユダヤ人は、自分達にやがて降ってくる災難を嘆くほかはなかった。
そこで義父モルデカイは養女エステルに言った。「この時のためこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」。
エステルはスサの全てのユダヤ人を集め、三日三晩断食するように命じ、その後、意を決して王に直接会いに行った。
その時代、王妃といえども王の身の安全をはかるため、「召し」なくして近づく者は死刑に処せられることになっていたのである。
しかし王は上機嫌でエステルとの面会を許し、エステルは王に最高権力者ハマンと共にに酒宴に開きたいという旨を伝えた。
その宴会の前日、なぜか眠れない王は、宮廷日誌を持ってこさせて家臣に読ませた。
するとモルデガイがかつて王の暗殺計画を察知し、王の暗殺を未然に防いだ記録をはじめて知り、さらにはソノ「恩賞」さえ与えていないことを知った。
そして翌日の宴席で、エステルは王に自分がユダヤ人であること、およびユダヤ人殲滅計画が信仰していること、さらにはその首謀者がハマンであることを伝えた。
その後王はハマンの計画を追及し、ハマンを柱にかけて処刑した。
実はこの柱、ハマン自らがモルデカイ殺害用に立てたものであった。
そして、首謀者ハマンの死とともに、「ユダヤ人ホロコースト計画」はスンデのところで阻止された。
その後、王妃エステルの義父モルデカイは、処刑されたハマンの空席を埋めるかのようにハマンの財産と地位を譲り受け、宰相となったのである。
「エステル記」は神も主も登場しない、聖書にあっては特異な書物だが、その物語のなかの登場人物を「神、サタン、人間」と読み替えると、よくその内容を理解できる。
ちなみに、サタンとはギリシャ語の元々の意味は「訴える者」であり、神に人間の罪や不信仰を訴える存在である。
それでは、この物語の主人公・エステルとは何を表す存在なのだろうか。
それは、神と訴えるものサタンとの間にに立つ、イエス・キリストの「雛形」なのである。
また、シュワティの座にエステルが座り、ハマンの座にモルデガイがすわった。
そしてモルデガイが架けらるハズの十字架に、ハマンが架けられることになった。
つまり、「エステル記」全体が「呪いを祝福にかえる」神を表している。
「あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主があなたを愛されたからにほかならない」(申命記23)。