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同級生という運命

誰かと幼馴染であったこと、同級生として過ごした時期があったとことが、人の運命ばかりか国の運命を左右することもある。
先日亡くなった李香蘭こと山口淑子は、幼馴染の出現によって「地獄に仏」を見た人である。
1930年代、戦争中満州・中国に進出した日本は「五族協和」をとなえ、日満華合作の映画が数多く制作されていた。
「萬世流芳」が大ヒットにより、中華民國の民衆から人気を得た李香蘭は、北京飯店で記者会見を開いた。
この会見が終わりかけた時、一人の中国人記者が「あなたが”支那の夜”など一連の日本映画に出演した真意を伺いたい」と立ち上がった。続けて記者は、「あの映画は中国を侮辱している。
それなのにナゼあのような日本映画に出演したのか、中国人としての誇りを捨てたのか」と詰問した。
彼女は、「二十歳前後の分別のない自分の過ちでした。あの映画に出たことを後悔しています。どうか許してください」と答えた。
すると彼女が予想しなかったことが起こった。会場内から大拍手が沸き起こったのである。
戦後「李香蘭」は、日本軍に協力し中国を裏切った「漢奸」として裁かれようとしていた。
そんな折「李香蘭」が中国人ではなく日本人であることを間一髪証明してくれたのは、幼き日の奉天時代の親友であったロシア人女性であった。
このロシア人女性の働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、「日本国籍」であるということが証明されのである。
結局、李香蘭には「漢奸罪」は適用されず、国外追放となった。
1945年日本の敗戦とともに山口淑子は博多港に着き再び祖国の土を踏んだ。
そして自ら出演した映画で、知らず知らずのうちに自分が国策のなかで利用されたこと、また映画で描かれた世界と格差に満ちた現実の世界との違いに苦しんだことをインタビューで答えている。
山口淑子が再び祖国の土を踏んだ福岡の博多港には赤い帆を象った「引き揚げの塔」がたっている。

たまたま同じ教室で席を隣り合わせた二人が友となり終生のライバルとなる。
互いの技能を高めあい、それぞれが世に知られた業績をあげる。
そうした関係は、日本にいったいどれくらいあるのだろうか。
福岡の地には、親友でありライバルである「永遠の隣」であるがごときケースを見出すことができる。
美術の世界の青木繁と坂本繁二郎、政治の世界の中野正剛と緒方竹虎である。
福岡県久留米出身の画家の二人、青木茂と坂本繁二郎は、久留米藩(有馬家)の士族の家に生まれ、高等小学校の同級で、久留米在住の同じ小山正太郎の画塾不同舎の同門でもあった。
坂本が小学校時代に絵をはじめ早くから教師級友の注目を集めていたが、青木はその頃文学にふけっていた。坂本の方から青木に絵の手ほどきをしたのである。
ただ本格的な画家としての歩みは青木が先で、早熟な青木は親の反対をうけながらも東京にでて本格的な画家としての歩みをはじめたのである。
二人は作品の傾向でも生き方でも対照的であった。馬を題材とした作品で知られる坂本に対して、青木は旧約聖書や古事記など古典に題材を求めた。
青木の鮮烈な色彩に対して坂本の朦朧とした色彩、青木の早熟で奔放不羈な生き方に対して坂本の晩成の律儀固陋とした生き方であった。
 青木が早くからその絢爛たる才を発揮していたころ、坂本は会社で漫画を描いていた。
青木の存在が重く坂本にのしかかったのか、坂本は青木の死んだ年より創作をはじめている。
 ただ青木は東京勧業博覧会に出した「わだつみのいろこの宮」が3当賞末席となり、その屈辱と憤怒から北九州各地を貧窮のなかに漂泊する。
そして1911年結核のため30歳の若さで福岡市の病院でなくなった。
その骨は遺言どおり筑後の兜山(ケシケシ山)に埋められ、その作品は死後に注目をあつめた。
 一方、坂本は65才の時、画商・久我五千男にその絵を発見されるまで黙々と馬の絵を描き続けていた。久我の献身的な努力によって坂本のアトリエに眠っていた作品がようやく陽の目を浴びることになった。
ところで坂本のアトリエは、久留米の石橋美術館に復元され、青木の骨が埋められた筑後のケシケシ山には記念碑が立っている。
もうひとつの親友・ライバルの関係は、政治の世界の中野正剛と緒方竹虎である。
二人は小学校から高校まで同期で、大学は早稲田と一橋と異なるものの緒方は中野と同じ早稲田に移り、さらに同じ朝日新聞に入社する。
二人は規を一にして歩むものの、政治の世界にはいってからは、それぞれが異なる政治意識をもち袂を分かった。時に会うことがあっても政治の話をすることは避けたという。
 二人の性格は対照的で「修猷山脈」(西日本新聞社刊)の中に次のように書いてある。「天才的な中野の感性は一時も休まることなく、常に新しいものを求め続け、あらゆるものにキバをむき、そして果てる。その一生は自刃という悲劇的な最後を完結するための傷だらけのドラマだった。人の意を受け入れ、時を知り立場をはかった緒方の一生は、中野とは逆に平穏であった。肉親、知己の愛に恵まれ、後世に名を残し、眠るように大往生をとげた」。
 福岡市早良区の鳥飼八幡の近くには、太平洋戦争期に東方会を結成して東条英機内閣と対決し謎の自刃をとげた中野正剛の銅像がある。
この銅像横の「中野正剛先生碑」の文字は、中野正剛の幼き頃からの親友・緒方竹虎の書によるものである。
緒方は中野の葬儀委員長を務めるが、東条内閣に睨まれていた中野の葬儀委員長を務めることは勇気ある行動であった。
政治に対する考え方は異なったが、二人の友情が失われていなかったことを物語っている。

中野正剛や緒方竹虎が卒業した修猷館は江戸時代からの藩校であるが、この藩校が明治期も旧制中学として存続するのに貢献したのが、元福岡藩士の金子堅太郎である。
この金子のハーバード大学における同級生が、なんと、あのセオドア・ローズベルトがある。
二人の関係が日露戦争の結末に大きく関わることになるとは、誰にも予想することはできなかっただろう。
ところで江戸時代の末、福岡藩には全国でめずらしく二つの藩校があった。
世に儒者として名高い貝原益軒の学派より藩校・修猷館が創設され、徂徠学派の亀井南冥により藩校・甘棠館が創設された。
甘棠館(西学問所)を創設した亀井南冥は志賀島の金印が光武帝より授けられたものであることを解明した学者であった。
ただ徂徠学は幕府に批判的立場をとっていたため次第に危険思想とみなされた。
亀井南冥の学派は藩により禁じられ、南冥は晩年、大宰府で不遇の時を過ごし1814年に甘棠館とともに自宅が焼失し焼け死ぬという悲壮の生涯を送った。
その後、甘棠館の再興は許されず廃校となるのである。
一方、修猷館(東学問所)は、明治維新後は廃止に追い込まれえるが、旧藩主の黒田長博や卒業生の金子堅太郎の努力により復興が認められた。
金子は藩閥政府の下では優遇されることが少なかった福岡藩士の中で、伊藤博文に見出され大日本憲法制定などに関わった人物である。
戦後極東国際軍事法廷でA級戦犯として死刑に処された唯一の文民でありまた唯一の福岡県出身の総理大臣である広田弘毅も修猷館出身であった。
金子堅太郎はハ-バ-ド大学でセオドア・ロ-ズベルト大統領と同級生であったために伊藤博文枢密院議長に日露講和条約の斡旋を依頼にアメリカに派遣された。
その時、金子はアメリカを日本寄りにすることは不可能であり「暗黒の地」に向かう気持ちであったという。
しかし門戸開放をとなえ中国大陸への利権に関心をもち始めたアメリカにとってロシアはうとましい存在となったことや、アメリカの伝統的な専制君主嫌いがロシアから離反させ日本びいきにさせていたことは、金子にとっても予想外のことであった。
セオドア・ロ-ズベルト大統領は講和条約斡旋をひきうけることになるが、それにしても伊藤博文は、日露戦争のこうした先の展開を読んだうえで金子を自分の側近にしたわけではあるまい。
ロ-ズベルトと金子堅太郎がハ-バ-ド大学の同級生であったことも何かの「めぐり合わせ」という他はない。
ローズベルトが、日露戦争終結においてポーツマス条約の斡旋に乗り出したのは、ハーバード大学の同窓生であった金子堅太郎の働きかけもあったと言われているが、生来の日本贔屓ということと無関係ではないかもしれない。
ローズベルトは幼少の頃から病弱で体を鍛えるためにボクシングなどをしつつ、日本の武士道にも触れ、「アメリカ人初」の柔道茶帯取得者となった。
さらに東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その「英訳文」を軍の将兵に配布したりもしている。
そして「武士道」に大変感銘を受けて、忠臣蔵の英語訳本を愛読していたとのエピソードが残っている。
ところで、このセオドア・ローズベルトと柔道を通じて親交のあった人物のひとりに竹下勇がいる。
竹下は、日露戦争中は潜水艦の購入を画策したり、中立国経由で伝わるロシア情報の分析にあたり、ポーツマス会議では日本側随員の一人となっている。
日露戦争の前後に「アメリカ大使館付武官」としてアメリカに滞在し、柔道を通じてセオドア・ローズベルトと親しくなり、アポなしでホワイトハウスを訪問してもトガメられないほど深い仲になっていた。
ちなみに、原宿の「竹下通り」の名は竹下邸があったことに由来している。

ハーバードでの同級生といえば、戦後初の「経済白書」を書いた元一橋大学教授の都留重人と、世界的ロングセラー「エコノミクス」の著者でノーベル経済学章経済学者のポール・サムエルソンは大学院における同級生である。
実は都留氏は、旧制八高(現在の名古屋大学)時代に日本の中国侵略に無届で学校を欠席してストライキを行ったため、後に通産大臣となる河本敏夫らとともに除籍となっている。
日本の大学に入れなくなり、アメリカのカレッジにはいり1年間学んだ後にハーバード大学の学部に進んだ。
ハーバード大学では優等賞を取得し卒業、同期でただ一人大学院に進学した。
大学院ではポール・サムエルソンはじめ綺羅星のごとき経済学のビッグネームと同期であった。
都留氏は、かつて学んだカレッジの後輩でらハーバードの3年生に移ってきた女性をサムエルソンに紹介して、二人は結婚した。
サムエルソン夫妻は3つ子を含む6人の子供をもつが、都留氏はそれに貢献したのは自分だと何かに書いている。
1940年、都留氏は同大大学院で博士号 を取得し、そのままハーバード大学講師となった。
都留氏は、そこでハーバード・ノーマンという人物と接点をもつ。
カナダの外交官で、後にGHQ(連合国軍総司令部)幹部ともなるハーバート・ノーマンは、カナダ人宣教師の息子として長野県軽井沢町に生まれた。
日本語も堪能で、GHQ内で強い発言力を持っていた。
ノーマンは17歳まで神戸のカナディアン・アカデミーに通い、トロント大学、ケンブリッジ大学、ハーバード大学で学んだ。
1939年外務省に入り、翌年東京のカナダ大使館に語学官として赴任する。
だが太平洋戦争が勃発すると、1942年本国へ送還された。
終戦後、日本史家としても知られたノーマンはGHQ(連合国軍総司令部)スタッフとして「再来日」する。
彼は農地改革、財閥解体、婦人解放など民主化政策を遂行するマッカーサーを慕い、マッカーサーも日本の「実情」に詳しいノーマンを重用したといわれている。
1946年にノーマンは「駐日カナダ代表部主席」に就任し、その3年後にはマッカーサーの推奨で「特命全権公使」に昇格した。
しかし「冷戦」が始まるや、GHQは日本を反共防波堤とする「逆コース」へと移行した。
民主化政策は経済復興政策にスリ換えられていった。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサーは公職追放令を「逆用」して共産党幹部を追放し、かえって保守政党を「擁護」する動きサエ見せた。
そして警察予備隊の創設から500名にものぼるジャーナリストへの「レッドパージ」と続き、ノーマンはマッカーサーから次第に「距離」を置くようになっていった。
マッカーサーはその年「原爆使用も辞せず」の発言で解任され、ノーマンもその2ヶ月後に本国へ召喚されている。
その時代、北米ではマッカーシー上院議員をはじめとする「赤狩りの嵐」が吹き荒れていた。
そして、本国に帰国したノーマンを待っていたのは、カナダ連邦警察による「審問」であった。
GHQでも指折りの反共主義者チャールズ・ウィロビー少将はノーマンの思想を危険視し、「ノーマンにはスパイ容疑あり」とのレポートをFBIに送っていたのである。
確かにノーマンは日本の戦時中の「共産主義者」釈放に一役かったし、ノーマンが日本で「発見」した安藤昌益の思想にせよ「共産主義」に通じるものがある。
あるいはウイロビーは、アメリカ人でもないのにGHQで大きな顔をしていたノーマンを目の敵にしたのかもしれない。
またノーマンが学んだことのあるケンブリッジ大学は、当時「共産主義」の活動が盛んなところであった。
ノーマンは英ケンブリッジ大に留学していた1935年、イギリスの情報局保安部がノーマンを共産主義者だと断定し、第二次大戦後の51年にカナダ政府に通報していたことが明らかになった。
この時期のノーマンは、33年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学して急進的な雰囲気に染まり、社会主義者クラブに参加していたことが知られている。
当時、共産主義者はソ連のスパイだという前提で次々と「審問」にかけられたが、その多くは中傷や捏造された「情報」に基づいたものであった。
被審問者は共産主義者だった「罪」を告白し、別の共産主義者の名を当局に告げることで赦される。
ソレ拒めば「議会侮辱罪」に問われるため、友人を売り、それもできず追い詰められて自殺する者さえいたほどであった。
ほとんどヨーロッパ中世の「異端尋問」を思わせられる「異様な」時代の雰囲気だった。
結局、4週間にも及ぶ審問においても、ノーマンがスパイという「証拠」は見つからなかった。
しかし1953年ノーマンはニュージーランド高等弁務官という、事実上の「左遷」をクラウことになる。
スパイ容疑のホトボリがさめた1956年、ノーマンは「駐エジプト大使」としてカイロに赴任する。
その当時エジプトはイスラエルと敵対していいて、エジプトのナセル大統領は「スエズ運河国有化」を宣言し、イギリスは経済制裁でコレに応えた。
そして、イギリス連邦に属するカナダに「不信感」を抱くナセルを、ノーマンは根気よく説得し「国連軍」の導入と「連合軍」の撤退を実現させた。
このとき、国連軍に「紛争調停」という新しい役割を見出したカナダ外相(後の首相)ピアソンは翌年ノーベル平和賞を受賞している。
その「影の功労者」が、ハーバート・ノーマンであったのである。
一方アメリカでは、スエズ戦争勃発直前にノーマンがベイルートで接触したエマーソンという人物の「喚問」が行なわれていた。
エマーソンは、ノーマンとともにGHQの任務で日本の「共産党幹部」を釈放したことがあり、ノーマンの「再審問」は確実となったのである。
ノーマンが共産党員だった「証拠」はないが、ノーマンにアノ辛く苦しい4週間の「審問体験」が蘇ったに違いない。
ノーマンはこれからまたも尋問に耐えながら、外交官として生き残るためには、友人を売らなければならないのかという思いがよぎったかもしれない。
ハーバード時代に親しかった都留重人がアメリカ議会で、自分は学生時代にコミュニストになり、ノーマンと親しかったと証言した。
このニュースをエジプトで聞いてノーマンは衝撃を受け、珍しく鎮静剤を服用する。
その1週間後の11957年4月3日、ノーマンはカイロで日本映画「修禅寺物語」を観る。
帰宅後、映画からメッセージを受け取ったような気がすると妻に語っている。
翌日、カイロの9階建てのビルの屋上に登り、そこから投身自殺。妻と日本にいる宣教師の兄宛の遺書が残される。
そこには「時」が自分の本質的な無実を証明するとあった。
ノーマンの自殺から約3年後の1960年、心ある人々は「赤狩り」のあまりの邪悪さや理不尽さに「反感」を抱き、サンフランシスコ市民が市会議事堂を包囲して「聴聞会」の開催を阻止し、悪夢のような「赤狩り」は幕を閉じた。