物語が花咲くまで

ひとつ物語を生むのに、養分が必要だし、それを吸い取る土壌がなければならない。
その土壌は、何の運命の導きか、乾いた土に水が注がれるように「外国」を吸い取った。
そして物語は、原作の翻訳として誕生するが、その物語に魂が吹き込まれるためには、日陰で光を待ち受けるような時間も必要であった。
またその物語は、日本の子供たちに紹介しようとしたため、自ずから日本語の可能性を広げることにもなった。
このようにして物語を生み出した女性が、「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子である。
NHKの連続ドラマ「花子とアン」で、その名が世に広く知られるようになった。
だがもう一人、すこし先輩に同じように物語を生んだ女性がいた。
アメリカの作家バーネットの原作を「小公女」と題して翻訳した若松賤子(しずこ)である。
若松賤子の人生も、村岡花子のようにドラマチックだが、なにしろ会津出身なので昨年のNHK大河ドラマの主役・新島八重とカブル。
、 そして、若松賤子の人生は、自ら翻訳した「小公女」の物語と重なる。
「小公女」のストーリーを簡単にまとめると次のとうりである。
舞台は19世紀のイギリス。セーラ・クルーは、英領であったインドで資産家の父ラルフ・クルーと共に暮らしていたが、7歳の頃に父の故郷イギリスのロンドンにあるミンチン女子学院に入学する。
父の要望もあり、特別寄宿生として寄宿舎で生活し、聡明で心優しいセーラはすぐに友人にも恵まれる。
しかし、11歳の誕生日に父親の訃報と事業破綻の知らせが届き、生活は一転する。
ミンチン院長は、それまでの出資金、学費などを回収出来なくなったとし、セーラの持ち物を差し押さえた上で、屋根裏部屋住まいの使用人として働く様に命じる。
突如訪れた不幸と、不慣れな貧しい暮らしの中でも「公女様(プリンセス)」の気高さと優しさを失わずに日々を過ごすセーラ。
ある日、窓から迷い込んで来た猿を届けに行ったことから、飼い主の富豪こそが父の親友であり、父の事業の成功を告げ、遺産を渡そうと、セーラを捜し求めていたことが判明する。
セーラは隣の家に引き取られ、貧しかった時に苦労を共にしたベッキーも一緒に引き取り、幸せに暮らすことになった。
さて、若松賤子(ペンネームだが、この名で統一する)は、戊辰の役で敗れたために一家離散の憂き目にあう。
父・勝太郎は藩の隠密として働き、ほとんど家におらず、母親の手一つによって育てられた。
父は、開城後も脱藩して函館で戦い抜く。
そのため1868年8月23日に、官軍が会津若松城下に乱入した時、父親はおらず母子は戦火を逃げまどい、4歳の賤子に生涯消えることのない記憶を刻んだ。
最後まで幕府軍について敗れた会津の人々は、青森斗南に強制移住させれる。
賤子の父・勝太郎も斗南に移されるが、母は病弱のため同行できず、母と姉妹2人は若松城下に残った。
その後、父は行方不明となり、一家は離散状態となる。
また、生活上の労苦を一身に背負った母親は、賤子が7歳の時に28歳の若さで亡くなる。
そんな時、横浜の織物商・山城屋の番頭の大川甚兵衛が、たまたま商用で会津若松に来ていた。
そして賤子の才に惚れ込み、養女に迎えることにしたのである。
賤子は養女として横浜に移り住み、経済的に恵まれ、当時としては珍しい女学校に入学ができ、その才能が開化する。
そして自宅近くのプロテスタント宣教師メアリー・エディ・キダーの英語塾に入学し、聖書の教えや賛美歌を通じて英語を学んだ。
実は賤子は、都会のなれない環境と言葉にふさぎがちだったが、新しい言語との出会いは新しい世界との出会いを意味し、一気に明るさを取り戻した感があった。
しかし、山城屋が突然に倒産したため、その番頭だった養父とともに賤子は東京へ移りすんだ。
ところがキダー先生の英語塾が寄宿制のアイザック・フェリス・セミナリー(フェリス和英女学校)として開校したのを幸いに、再び横浜に戻り、フェリス和英女学校でキダーの下で学業に専念することになった。
その頃の賤子は、教会に通って英文の書物をんだり、教会新聞の編集を手伝ったりして見聞を広めていった。
17歳の時師と仰いだ初代校長・キダーが帰国するが、後任に就いたユージーン・サミュエル・ブース も彼女の才を見抜いていた。
彼女が会津で儒教で培われた美徳に、キリスト教精神が加わり、フェリスの高等科を優秀な成績で終了し、晴れて第一回卒業生となった。
そして卒業式では、英語の卒業講演を行なったが、この頃には、父の隠密名であった「島田」を名乗っている。
そしてブースの強い要望を受け、母校フェリス・セミナーに残り、教壇に立つここととなり、生理学・健全学・家事経済・和文章英文訳解の4教科を教えた。
また20才にして、フェリス和英学校の増改築での落成式では、女子教育と社会的地位向上について演説し、来賓たちはその明快な主張に驚きをもって聞き入ったという。
この頃、養父が死去するが、行方知れずだった実父が妹と共に東京に住んでいることを知らされ復籍したものの、このころから肺結核を病んで吐血するようになった。
そんな折、「女学雑誌」の編集者として名を知られた巌本善治(いわもとぜんじ)が、講演者としてフェリス和英学校に来校し、賤子と知り合うことになった。
蔵本善治も、キリスト教の洗礼を受けており、女性に対する考え方への共感から、その思いは信頼から愛情へと発展していった。
そして巌本の勧めにより、「女学雑誌」にペンネーム「若松賤子」で初の紀行文を発表した。
「若松」は故郷の名称から、「賤子」は“神の恵に感謝するしもべ”という意味であり、この発表が後の「小公子」へとつながる。
賤子は、海軍士官との婚約を破棄し、巌本と結婚したのだが、その結婚式で「花嫁のベール」という詩を夫に贈っている。
「われはきみのものにならず、私は私のもの、夫のものではない。あなたが成長することをやめたら、私はあなたを置き去りにして飛んでいく。私のこの白いベールの下にある私の翼を見よ」
この言葉に、夫である新島襄が新妻の八重に対して、「亭主が東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」と語ったのを思い出す。
八重は、「愛」という言葉がまだ新しく、また妻は夫の後ろにつき従うのが当然だった時代に、“愛夫”と呼んだ。
世間は、新島を肩を並べて歩く八重につき「悪妻」と非難したが、新島は別に気にする風でもなく、八重もまたそのスタイルを変えようとはしなかった。
新島は八重にについて「彼女は決して美人ではありませんが、やることが非常にハンサムです」と語っている。
さて、結婚を機に若松賤子はフェリス・セミナーを退職し、夫が教頭を務める明治女学校で教壇に立つようになった。
巌本善治は、明治女学校創立の発起人の1人で、1885年東京飯田町に開校し、2代目の校長となっている。
その頃、賤子は二葉亭四迷等の言文一致体に出会い、それを活用した文章を雑誌に投稿し、女流文学者としての名を高めていった。
若松賤子は1893年、小公女を「セイラ・クルーの話」という題名で雑誌「少年園」に発表し、連載が行なわれた。
「小公女」の日本での紹介はこれが初となる。
また、夫婦の間に1男2女 を授かるものの賤子の病は進行し 賤子は病と闘いながらも創作意欲は衰えず、病床から作品を送り続けた。
ところがそんな巌本夫妻を悲劇がおそう。
1896年2月 深夜に明治女学校の校舎・寄宿舎・教員住宅の大半を焼失した。このとき巌本は病の賤子を背負って脱出している。
しかし賤子はこの学校焼失に 大変な衝撃を受け生きる意欲を失ったようだった。そしてその5日後に心臓麻痺で死去した。
その後、明治女学校は現在の豊島区巣鴨に校舎を移転するが、ついには1908年に閉校した。
「小公女」の連載は若松の死により中断され、未完のままで終わった。
若松賤子は妻として、3人の子供の母として、教育者として、言文一致の口語訳文の文学者として生きた。
一方で、日本女性を英文の評論で海外に紹介し続けた英文雑誌の記者として、短い生涯を駆け抜けた。
また、単なるの外国文学の翻訳者だけでなく、近代文学の開拓者でもあり、樋口一葉にも多大な影響を与えた。
ちなみに、天才バイオリニスト巌本真里は、長男・荘民の娘である。

1893年、村岡花子は、山梨県甲府市で生まれた。
父の実家は静岡で茶商を営んでいた。
父は熱心なクリスチャンで、花子も幼児洗礼を受けている。
父親は親戚とのしがらみと決別し、一家で上京し南品川で、葉茶屋を始めた。
貧しい暮らしながら、父親は花子に高等教育を受けさせる道をつけたいと願い、10歳の花子は麻布の東洋英和女学校に寄宿生として入学した。
東洋英和では学業が厳しく進級もままならず、孤児院での奉仕活動が義務付けられた。
しかも付属小学校から上がってきた生徒達は早くから英語教育を受けていたが、英語をまったく知らなかった花子は、父親の期待に応えるためにも、猛勉強を始めた。
猛勉強のかいあって、花子の英語の成績は群を抜くようになり、図書室にあった本を読み漁った。
その中に、カナダ人作家ルーシー・モード・モンゴメリの「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」があった。
この原作者と花子とのかかわりは、この時初めて生まれたといってよい。
また花子は、短歌を習うため、歌人・佐々木信綱の元に通った。
文芸の世界でホトンド唯一確立された職業が「歌人」であり、佐々木信綱門下は女流歌人の登竜門でもあったからである。
そのうち花子は、東洋英和の先輩でアイルランド文学の翻訳者としても知られる歌人を紹介され、23歳で東洋英和の高等科に編入してきた柳原百蓮とも親交を深めるようになった。
柳原百蓮もまた佐々木信綱に師事し、実は佐々木信綱を花子に紹介したのが柳原百蓮だったのである。
花子はまた、キリスト教的奉仕活動を通して、日本基督教婦人矯風会の機関誌の編集に関わるようになり、花子は立場上かなり自由に編集する立場にあったため、自身の童話・短歌・随想・翻訳小説などをも掲載するようになった。
1913年、20歳で東洋英和女学校の高等科を卒業するが、卒業式では代表して、花子が英文で書いた卒業論文「日本女性の過去、現在、未来」を読んだ。
翌年、花子は東洋英和の姉妹校の英和女学校が、生まれ故郷の山梨に設立されたのを機に、貧しい実家を支えるための確かな収入の必要性から赴任を決意した。
こういう花子の経緯は、英語を学んでフェリス和英学校から明治女学校の教壇に立った若松賤子と非常に似ている。
花子はソコデ教師としてだけではなく、カナダ人の校長の秘書を兼ねる一方、矯風会の仕事を続けていた。
そして山梨英和の教え子たちが、花子が雑誌に小説を発表していたのを発見したため、彼女達に物語を語り聞かせたりするようになった。
しかし、花子が一番に感したことは、少女たちが物語を欲しているにもかかわらず、彼女たちにふさわしい読み物が少ないということだった。
英米に比べで、日本は少年少女の「心の指針」となる本が貧弱で、花子はこの現状を何とかしなければという思いが湧き上がった。
そして花子は、1919年に山梨英和の教師を辞めて東京に戻り、赤坂新町の婦人矯風会館に下宿し、プロテスタントの各派宣教師の共同出資で作られた築地の基督教興文協会の編集者となった。
そのうち、キリスト教関係の書物の印刷・製本を一手に引き受ける「福音印刷」の御曹司・村岡敬三と知り合う。
村岡と花子は、築地教会で結婚式を挙げ、大森に新居を構え、長男の道雄が誕生した。
新たな家庭生活のスタートに夢を描いた村岡夫妻だったが、1923年の関東大震災で、福音印刷の建物は倒壊し、70名の職人が焼け死んでしまう。
夫は福音印刷ばかりか身内のものをも失い、信用していた役員が、復興手続きのために預けていた印鑑と重要書類を持ち逃げしてしまった。
その時、夫は36歳で花子は30歳、すべてを失った感があった。
花子は、夫を支えるために、翻訳小説を毎月機関誌に寄稿し、息子に聞かせる物語を童話のカタチにして執筆していった。
だが、その長男も6歳の誕生日を前にして、流行病にかかり他界してしまう。
花子は悲嘆に暮れて生きる気力を無くし数ヶ月を過ごすが、マーク・トウェインの本を手に取り、寝食も忘れて丸二日間かけて読み通すうちに、神が自分に一つの使命を授けた気がした。
それはかつて思った日本には少年少女の「心の指針」となる本が貧弱であるという思いであった。
花子は自分の子を失ったが、日本中の子どもたちに「生きる勇気」を与えるような小説を翻訳することを決意した。
1930年37歳のとき、花子は夫と共に大森の自宅に「青蘭社」を設立し、子どもも大人も楽しめる家庭文学を提唱する機関誌を創刊した。
しかし、日米関係の悪化と共に、政府の圧力に屈せず英語教育を貫いてきた東洋英和女学校も、1938年にはご真影と日の丸の旗の奉戴を受け入れていた。
そして、親交のあったカナダ人宣教師ミス・ショーが、帰国することにななった。
実は、花子とショーとは、銀座に今もあるアメリカ人宣教師が設立したキリスト教関係書の出版社・教文館で一緒に働いていたことがあったのである。
出発の日、ショーは、見送りに来た花子に、「いつかまたきっと、平和が訪れます。その時、この本をあなたの手で、日本の少女たちに紹介してください」といわれ、友情の記念に「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」の原書を贈られたのである。
彼女が東洋英和女学校の図書館で出会ったことのある本である。
彼女の万感の思いに応えるためにも、花子は大森の家で「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」を訳し続けた。
空襲で焼きつくされるなか、花子の家は幸い焼け残り、終戦を迎えた時、700枚余りの翻訳原稿が積み上げられていた。
1946年、復興の準備のため、カナダ人宣教師たちが次々と日本へ戻ってきた。
空襲で焼けた、山梨英和と静岡英和の復興に取りかった。
そして花子が戦前に書いた童話や翻訳作品が、再編され復刻されることになった。
花子が翻訳した700枚の原稿は、1952年「赤毛のアン」として出版された。
花子に「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」を託したミス・ショーは、帰国した翌年に祖国カナダで亡くなり、原作者のモンゴメリも戦争中に亡くなっている。
しかし、カナダの人々の思いは花子に託され、プリンスエドワード島の自然の中で成長する孤児アンの日常を描いた物語は、日本の若い女性達を中心にその心をとらえ、大ベストセラーになった。
若松賤子:フェリス和英女学校ー明治女学校焼失ー「小公女」翻訳。
村岡花子:東洋英和女学校ー関東大震災ー「赤毛のアン」翻訳。
以上、似通った軌道を歩んだ二人の女性の「物語が花咲くまで」でした。