大刀洗のゼロ

松本清張の「ゼロの焦点」は、ある殺人事件の容疑者を辿ったら、終戦直後の「或る風景」にたどり着く。
当時多くの日本人が立ち尽くした焦土という「原点」の意味を込めて、「ゼロの」というタイトルが付いたように思う。(違うかもしれません)
そして現在大ヒット中の映画「永遠のゼロ」のゼロは、単に戦闘機のゼロ戦を意味するダケではなく、特攻機の投入は大日本帝国が行き着いた「ゼロ地点」であり、日本の再スタートがソコカラ始まったという意味が込められていたように思える。
その意味では、爆心地を意味する「グランドゼロ」にも通じるような「ゼロ」ということだ。
10年以上前に「個人的」に取材した特攻基地・福岡県大刀洗町の元特攻隊員や元軍属から聞いた話と重なったという点で、映画「永遠のゼロ」は、特別感慨深いものがあった。
この映画は、司法試験に失敗し怠惰な生活を送っている弟へ、フリーライターの姉から「祖父」のことを調べるので手伝わないかと誘われたことで始まる。
実は、自分が大刀洗を調べようと思いついたのも、映画と同じく「ファミリー・ヒストリー」を探ろうという動機に基づくものだった。
「永遠のゼロ」の中の姉弟は数年前に祖母が亡くなった時、「おじいちゃん」が祖母の二度目の結婚相手であり、母親の「実の父」つまり血の繋がりのある祖父がイタことを初めて知る。
そして姉弟は、その「祖父」の思いも知らなかった「実像」に出会うことになる。
海軍の名簿からは「祖父」の名は宮部久蔵で、海軍航空兵として1945年、南西諸島沖で戦死(享年26歳)したことがわかった。
二人は、厚生労働省や戦友会へ問い合わせをし「祖父」を知る人々を訪ねる。
二人が最初に会った元海軍少尉は「祖父」宮部のことを「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と吐き捨てた。
つまり、特攻隊長として秀逸な飛行技術を持ちながら、宮部は戦いを避けているようであったというのである。
戦後一転して大罪人扱いされ、戦争で腕を失い過酷な人生を送ってきた元海軍少尉は、「わしも特攻で死にたかった」と語った。
コノ弟にとって「祖父が海軍航空隊一の臆病者」という言葉がやはりヒッカカッた。
ソンナ臆病者の祖父がどうして特攻隊を志願したのか、そして最後にはどうして「立派に」敵の艦船に体当たりをしたのかということであった。
さらに二人は、宮部久蔵を知る人物に会い続けるうちに祖父が「生きて家族の元に帰る」と言い続けていたことや、部下たちにも残された家族のためにも「命を大切にすること」を語り続けたということは知る。
そしてあの時代に、それを貫くことがイカニ勇気がいることだったかという話を聞く。
また宮部がソノ高い飛行技術ゆえに、米空母搭乗員をして「悪魔のようなゼロ」と震え上がらせたことも知った。
そして、「或る時点」で宮部は臆病モノといわれた自分を「断ち切る」ようにして敵の艦船に体当たりをして戦死する。
それは最後の飛行の直前にナゼ飛行機を「別の隊員」と入れ替わったのかという謎とも繋がり、ソレラが「推理もの」を解くように明らかにされていく。

個人的に福岡県大刀洗町を何度か訪れ、元特攻隊員や軍属だった方と話す機会があった。
それは母が1989年に応募した或る「エッセイコンクール」で、特攻隊員との出会いと別れを描いたエッセイ「返り花」が特選となり新聞に掲載され、その直後から、戦時中に大刀洗で過ごした方々から、ひっきりなしにお祝いやら感想の電話をいただいたことと関係する。
どれほどの人々が「戦争」を胸にシマって生きているかを実感したからだ。
母親がソノ数年後に倒れ長期間意識不明に陥ったために(今は回復)、母が雑誌などに投稿するために書き散らした文章を読んで整理しているうちに、母親の思い出の地「大刀洗」を訪ねてみようと思い至ったのである。
福岡県大刀洗町は文字通り「いくさ」と関わりの深い町である。
大刀洗町の町名は、南北朝の戦いで南朝の菊池武光が川で血刀を洗ったことからつけられた。
太平洋戦争の末期には神風特攻隊の基地として知られるようになった。
母はこの太刀洗近くに生まれ、幼少の頃より「太刀洗」の名前をよく聞いていた。
戦争中、太刀洗ですごした人々の「生の声」が聞けたらと思いJR太刀洗駅を降りると、戦闘機が屋根上に置かれた平和記念館がすぐに目にはいってきた。
とりあえずこの記念館に入ってみると特攻隊員の遺書や戦争中に使用された日用品の数々が展示してあった。
その展示品の中でキワダッテいたのは、博多湾から引き揚げられ復元された97式戦闘機である。
この平和記念館を建てられた建設業者の渕上宗重氏は、神風特攻隊の出撃基地であった鹿児島県・知覧に行ったときに、そこに「太刀洗基地分校」という名前が書いてあるのに気づいた。
分校である知覧にアレダケの平和記念館があるのに、本校の福岡県太刀洗町には記念館もないことを遺憾に思い、自費でこの記念館をJR太刀洗駅に建設することにしたのである。
この記念館で私は、漫画家の松本零士氏の父親から寄贈された戦闘機の車輪のホイールが展示してあるのを見つけた。松本さんの父親は、太刀洗飛行場のパイロット育成のための教官だったそうである。
氏の漫画「宇宙戦艦大和」などの中には、そうした父親像がきっと反映されているのだと思った。
さてこの平和記念館をでて、太刀洗飛行場の旧営門にむかった。
旧営門には慰霊塔と「西日本航空発祥の地」の碑がたっているが、飛行場跡にはビール工場がたっており、ほとんど旧飛行場の面影はない。
その後行く当てもなくなり、道を尋ねようと営門前にある佐藤美容室に立ち寄った。
そこで出会った人が佐藤月路(仮名)さんである。
佐藤さんは、お客が手が空いていたせいもあり、私を近くにあるいくつかの飛行場遺跡に連れていってくださった。
旧飛行場で使っていた井戸、飛行機の射撃訓練を監督する監的壕跡、そしてくずれかかったレンガが残る憲兵隊跡などであった。
佐藤さんの両親は、戦争時よりこの場所で理髪店を開いておられ、佐藤さんの母親は故里をはなれた特攻隊員に「お母さん」と慕われていたそうである。
そして出撃間近い特攻隊員に料理をしたりお菓子をだしたりしてつかの間の交歓の時をすごしたそうである。
が太刀洗で最初に出合った証言者・佐藤さんもやはり、知覧基地の鳥浜トメと同じように隊員達の母として隊員達に接しておられたのではないかと思う。
伊藤さんの話の中で印象的だったのは、今なお旧飛行場関係の方がこの地を訪れ、営門にすがりついて泣きくずれる姿を見かけるそうである。
この場所にはあまりにも重い思いが詰まったところなのだと思う。
最初の訪問から数カ月後、佐藤さんに会いに再びここを訪れた。
その時、NHKでJR甘木線が紹介された時の伊藤さん出演のビデオを拝見させていただいた。
それかの数ヵ月後のある夏の日、特攻隊員自身の「生の声」が聞きたいと三度目に大刀洗を訪れた。
JR大刀洗駅の待合室に佇んで私の願いが空しく過ぎ去ろうとしていたその時、コンビニエンスストアの袋をもって私の向かいの席に座った老人が、私に思わぬ道を開いてくれた。
誰か特攻隊員の知り合いはいませんかと尋ねたところ、自分は太刀洗飛行場で特攻機の整備をしていたといわれた。
仕事上、松下氏(仮名)は特攻兵とのつながりが深く松下氏の印がなければ、最終的に特攻機は飛び立つことができなかったそうである。
そうした立場で一番つらかったことは、まだ少年のあどけなさが残る航空兵を送り出すときだったそうである。
隊員達がどんなに手をふって出撃しても、下をむいて何もいわずに手をあげて送り出すことしかできなかったと言われた。
映画「永遠のゼロ」で飛行場っで最後の別れのシーンの時、この松下氏の話を思い出した。
松下氏によると大刀洗飛行場周辺では、いまだに航空機を整備した際のボルトやナットが埋まっているそうである。
松下氏はそうした物を見つけると宝物のように持っているのだと、私にそうして拾ったものをポケットから出してみせてくださった。
そういえば「永遠のゼロ」でも航空訓練生になぜかナカナカ「可」を出さなかった「宮部久蔵」の姿が描かれていた。
松下氏にネットで紹介したいので写真をとらせてくだいというと、「私の人生は終わりました。どうぞご遠慮なく」といわれた。
そして写真をとる時に、温和な表情が見事に軍人(軍属)の顔になった瞬間がとても印象的であった。
別れの時、松下氏が私に紹介してくださった人物が、元陸軍パイロット平原氏(仮名)であった。
私は、ある老人ホームの広場で元陸軍パイロット平原氏と出会った。
平原氏は甘木市出身で、東京帝国大学卒業後、陸軍中野学校に入校した。ご本人の表現では、中野学校では「口にはだせないような個室教育」を受けたと言われた。
陸軍中野学校を出た後、平原氏は陸軍参謀本部に入った。参謀本部では、小間使いや使い走りのような仕事が多かったそうであるが、通常では知りえない情報に接することが多かったそうである。
平原氏は以前に私費で航空術を学んだ経験があったそうで、突然特攻隊隊長に任命された。
この頃は、自分の能力とエネルギーのすべてを空中の戦いに注ぎ、特攻隊長として名を馳せたそうである。
一番悲しかったことは、敗戦ではなく済州島上空での空中戦で多くの部下を失ったことだと言われた。
「永遠のゼロ」の宮部久蔵のように、常日頃死ぬことが必ずしも忠ではないと部下に言っていたそうだ。
平原氏は戦後しばらくの間、中央官庁の仕事につくが公職追放処分をうけ、その後今日に至るまで甘木山中で山林の仕事をして生きてこられた。
年老いてもなお精悍な姿が、精神の強靭さを物語っているようであった。
ところで大刀洗飛行場周辺には、飛行機工場・航空廠などもあり多くの人々が働いていた。
現在はほとんど利用客のいない甘木線西太刀洗駅のプラットホームが異常に長いのは、かつての繁栄の名残である。
当時、軍都とよばれた太刀洗すぐ近くの甘木市には、軍需工場での勤労奉仕のために「女子挺身隊」が結成され、多くの女子寮がもうけられていた。
甘木に行って初めて知ったのは、甘木市内にあるほとんどの寺がそうした「女子挺身隊」の寮になっていたことである。
そうした寮のヒトツにあてられていたと聞いた甘木商店街すぐ近くの法泉寺を訪れた。
法泉寺住職は戦争中の話しを色々としてくれた。
「永遠のゼロ」でも、訓練中に着陸に失敗して亡くなった訓練兵の姿が描かれていたが、この大刀洗基地でもそれが数件起きて、訓練兵の亡骸が時々寺に運ばれてきたそうである。
また住職は、一枚の額縁に入った飛行機の写真を持ち出してきて私に見せてくださった。
住職が示した写真は、法泉寺の信徒がドイツのメッサーシュミットから購入したという飛行機で、その飛行機は寺から軍に献納されたものであった。
そして寺のお堂には、額にはいった飛行機の「命名書」がいまだにかかげられていた。
命名書によるとその飛行機は「浄土真宗板部」と名づけられ、当時の陸軍大臣・「杉山元」の名前が明記してあった。
戦争末期、物資に欠乏していた軍に対して献金・献品運動がおこなわれていたことは知っていたが、まさか寺が戦闘機を軍に献上するとは驚いた。
住職自身、「全国で唯一うちの寺だけでしょう」と豪語されていたが、アトで色々調べてみると、こうした寺の「検品」は全国的にあったようである。

母の書いたエッセイ「返り花」の冒頭に、次のような文章がある。
//筑後路を走る甘木鉄道のレ-ルバスは、小郡、松崎と青田に包まれた静かな集落をすぎると無人駅太刀洗につく。

このあたり第二次世界大戦までは、爆音と軍靴の響きが絶えない一大航空基地であったが、今では見る影もなくキリンビ-ル工場が立ち、わずかに西日本航空発祥の地と記す碑と、忠魂碑だけが聳え立っている。
近年その駅の隣に太刀洗平和記念館ができたと聞いて、私は故郷のこの地を訪ねてみた。
館内には軍歌が流れ、飛行兵の軍服軍帽をはじめ、ここから飛び立ち自爆していった特攻兵の遺影や遺品が陳列され、飛行場施設や飛行訓練などが放映されていた。私は陳列されていた「太刀洗飛行場物語」を開いてはっとした。
三井郡立石国民学校にいたという特攻生還の人の手記が載っている。
鮮烈に浮かびあがってくる立石国民学校の思い出、それは戦争という深い感慨とともに蘇ってくる私の青春の思い出でもある。
昭和20年3月の空襲で太刀洗飛行場は兵舎を失い、私の勤める立石国民学校に引き揚げてきた。その中の特攻兵U軍曹は私にとって忘れることのできない人となった。
忽然としてその人を探してみたい衝動にかられたのである。
太刀洗飛行場物語の著者に電話し、立石にいた特攻生還のF少尉に連絡をつけていただき、F少尉は太刀洗特攻62戦隊の名簿の中からU軍曹の住所をしらせてくれた。
その夜Uに電話をいれた。彼は突然の電話に、自分の属していた戦隊の名も、分宿した学校のことも、全く思い出せないばかりか、私の名さえ記憶にないのである。
予想しなかったことでもないが、私にとっては痛打であった。すみませんが詳しい手紙を書いてくれませんか。一晩じっくり考えてみたいから、ということで電話は切れた。
その夜電話の余燼は私の胸をかきたてた。何という事であろうか。忘れ去られていようとは。
今日出撃か、あす死ぬか、あの逼迫した戦時下、抑えにおさえた青春の情熱そして終戦、人はみな生きる為に戦った時代、それもまた致し方ない成り行きなのであろうか。//
その後U軍曹は母のことを思い出し、しばらく手紙のやりとりをしている。
そして、母は金沢で着物の染色の仕事をしているU軍曹と金沢で再会を果たすことになる。
そして「再会」後、なかなか面白いことを知る。
母はそれ以前に、金沢兼六園を観光で訪問したことがあったという。
その際に、金沢城の庭園に水をひき結局は自害した「築城悲話」の人物・板屋兵四郎にひかれ、その話に基づいた俳句をつくって「俳句誌」に投稿したことがあったようである。
そして再会したU軍曹との手紙のヤリトリの中で、U軍曹が「板屋兵四郎の子孫」であったことを知る。
つまり特攻隊員の祖先は、「築城悲話」の主人公であったのだ。
U軍曹の手紙には、母とのこうしたメグリ合わせは「神様のはからい」であり、板屋兵四郎の墓前に報告するとあった。
「返り花」に次のような文章が続いている。
//神の化身とも思います特攻兵に対して、潔く死地に赴かせるのが銃後を守る者の務めであるとは思いながらも、なぜこんな立派な方が死んでしまわれるのかと、何ともやりきれない思いでした。 死なせたくないというどこにもぶっつけようもない思いを持て余していました私は、ある日つと歩み寄って、「特攻兵であることをご両親はごぞんじですか」と伺いました。 「いいえ」いとも簡単なご返事でした。もどかしい私の気持など伝える術もなく、こんな通り一辺の言葉に終わってしまったのでしたけれど、これを境に、二つの心は次第に求め合っていったようでした。//
母は「永遠のゼロ」のラストで語られたように、ゼロを「胸に秘めて」市井に生きたゴク普通のオバアチャンで、今もナントカ健在である。