グランパの真実

日本で唯一タイタニックに乗り合わせた人物といえば細川正文という人物で、ミュージシャンの細川晴臣の祖父(グランパ)にあたる。
鉄道省の海外出張でイギリスに赴いていたが、帰国にさいして事故にあった。
ところが、新聞で女性や子供がいたのに「先に逃げた」という批判をうけ、弁明の機会もなく世間でたたかれ、ツイニ仕事をやめざるをえなかった。
一乗客にすぎない細川氏が先に逃げたからといって、なぜそれほどたたかれたのか、個人的には違和感を覚える。
当時の日本社会はイマダに「サムライ意識」が根強かったのか、それとも公務員という立場も微妙に影響したのかもしれない。
しかし、こんな無念の祖父がいることを知ったなら、なんとか祖父の名誉回復のために立ち上がりたくなるのも自然の情だろう。
実際に、一族の要請により再調査が行われ、細川氏の名誉回復が図られている。
今年話題を呼んだ映画「永遠のゼロ」でも、皆から卑怯者といわれた祖父のことを調べた孫が登場した。
孫にあたる姉・弟は、祖母が数年前に亡くなった時、「おじいちゃん」が祖母の二度目の結婚相手であり、母親の「実の父」つまり血の繋がりのある祖父がイタことを初めて知る。
二人は、厚生労働省や戦友会へ問い合わせをし「祖父」を知る人々を訪ねる。
二人が最初に会った元海軍少尉は「祖父」宮部のことを「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と吐き捨てた。
姉弟にすればソノ言葉がやはりひっかかった。
ソンナ臆病者の祖父がどうして特攻隊を志願したのか、そして最後にはどうして「立派に」敵の艦船に体当たりをして自決したのかということであった。
さらに二人は、宮部久蔵を知る人々に会うなかで、祖父が「生きて家族の元に帰る」と言い続けていたことや、部下たちにも残された家族のためにも「命を大切にすること」を語り続けたということを知る。
そして、あの時代にそれを貫くことがイカニ勇気がいることだったかという話を聞く。
また宮部がソノ高い飛行技術ゆえに、米空母搭乗員をして「悪魔のようなゼロ」と震え上がらせたことも知った。
ところが、或る時点で宮部はそれまで自分を「断ち切る」ように、勇猛に敵の艦船に体当たりをして戦死する。
それらが最後の飛行直前にナゼ飛行機を「別の隊員」と入れ替わったのかという謎を含めて、推理ものを解くように明らかにされていく。

20年以上も前に、小沢健二というシンガーソングライターが人気者になっていた。
東大の現役学生で、おぼちゃん風でオザケンともよばれた。
テレビの歌番組で、小沢健ニがタモリに「自分の祖父は右翼の超大物」と語った場面があった。
えっ!と思ったのは、小沢と名のつく右翼の大物ナンテ聞いたことがなかったからだ。
後で知ったことは、小沢健二の祖父は小沢開作という人物で、世界的な指揮者小沢征爾の父にあたる人物である。
開作の次男はドイツ文学者・小沢俊夫であり、俊夫の子供がミュージシャンの小沢健二である。
小沢開作について色々調べてみると、世間が抱いていた「右翼」のイメージと実際の小沢開作とは随分と開きがあるようだ。
さて、小沢ファミリーの歴史は、戦争中に日本からの多くの移民先となった中国の東北・満州の地と分かちがたく結びついている。
かつて満州で「反日感情」渦巻く中で、日中の「架け橋」になろうと夢をみて活動した人々がいた。
「李香蘭」の名で知られた日本人女優・山口淑子もそのひとりであったのだろう。
また、小沢開作という人も満州の地にあって、そういう夢を真摯に求めた人であった。
小沢開作は、この満州の地で歯医者の仕事をしながらも、この地を「理想郷」とすべく日本人移民団の若いリーダー格として、また同時に現地の満州人とも運命を共にしようとしたのである。
戦後、理想郷であるハズの「満州国」は、日本軍部がでっちあげた大ウソで、謀略と軍事力を駆使して中国を侵略した日本の「傀儡国家」ということになった。
その結果「五族協和」や「王道楽土」という言葉を日本の帝国主義的侵略を覆い隠すスローガン、あるいは侵略の「旗印」ソノモノと見る傾向がある。
小沢開作は、表面的には、満州の荒野に浪漫を求めた日本男児、軍部の手先、満州浪人の親玉ぐらいにしか映らないかもしれない。
しかし実際には「五族協和」の精神を旨に、それを現実のものにしようと努力した人々が少なからずいたのである。
この小沢開作という人物は、そうした理想を素朴に信じ実現しようとしたヒューマニストであったといってよい。
一方で小沢は、「喧嘩の小沢」とよばれるくらいに、東条英機ら軍人ともよく喧嘩した。
しかし小沢の夢も、満州を支配した軍人や官僚たちによって次第に裏切られていく。
関東軍・高級参謀で戦略家の石原莞爾や板垣征四郎が満州の実質的な支配者となった。
小沢は当初、この石原・板垣コンビに心酔して、南満州鉄道の若手社員で結成された「満州青年連盟」と活動を共にしたのである。
つまり満州国の理想「五族協和」「王楽道土」を実現すべく、そこに活動する人々の「イデオローグ」的役割(内面指導)を果たしたのである。
しかし、石原・板垣らの脚本・プロデュースによる満州事変をもって、小沢が満州に抱いた理想も夢も色あせていく。
ところで小沢開作と妻さくらとの間に出来た三男・小沢征爾の名前の「征」と「爾」は、満州に進出した日本陸軍の関東軍高級参謀・石原莞爾と板垣征四郎の両者の名前からそれぞれ一字をとって名づけられた。
当初小沢は彼らにそれほど心酔していたということもいえる。
満洲国は、1932年から45年までのわずか13年間、現在の中国東北部に存在した国家である。
小沢開作らが満州で見た夢は、農業指導をし、現地の人々共に農地を開拓し、種を植え、作物を育て、道路を作り、町を作ることであった。
小沢開作のように現地の人々への医療活動も行ったり、協働で助け合ったが、それでも土地を奪われたカタチの満州の人々に受け入れられるのは困難であった。
小沢開作はその働きの多くを人に語らなかったが、夫人の小沢さくらが書いた「北京の碧い空を」という著書によってその一端を知ることができる。
中国には唐辛子だけを売って生活しているような貧しい集落がたくさんあって、それらの村を日本軍が占領した。
その上に鉄道も占領してしまったので生活に困っていたが、そこで開作がトラックなどを村に提供して、唐辛子をどんどん外に売りさばく手助けをした。
そういうことをあちこちの村でやり、村民から感謝の銅板をもらい、そこには20ケ村くらいの名前と共に小沢開作の名前が刻んであったという。
またこの地に日本人移民と同じように来ていた朝鮮人の農民が中国人に虐殺されたことがあったが(万宝山事件)、その時傷ついた朝鮮人を助けたりもした。
しかし小沢は、満州が単なる日本軍の労力給源、軍馬給源、宿営拠点といった「兵站地」と化していったことを知るにつて、官僚・軍人達との間に違和感を抱くようになる。
小沢開作は満州が軍人と官僚の国になってしまった現実に挫折し、奉天を去り北京へ向かった。
ところが小沢家が北京に移り住んでらからも、日本人や朝鮮人に対する暴力が広がり、小学生が学校に通うにも、関東軍による保護が必要であり、あまりに不穏な情勢の中で、学校を閉鎖することもあった。
ついには、小学生の通学を領事館警察隊が護衛しなければならないという、異常な状態まで日常化してしいった。
そして、満州全土に軍を展開する満州事変が起きる。
小沢家が日本に帰国する直接のきっかけとなったのは、小沢がだした雑誌「華北評論」が、かなり激しく軍を批判することを書いたために「発禁処分」となり、すべて回収しなければならなくなることがあったためである。
また、出版関係者さえもが憲兵隊にひっぱられることまでもおきた。
また、妻のさくらからすれは、生まれた4人の子供には日本で教育を受けさせたいという気持がはたらいたようだ。
小沢開作は、華北臨時政府の内面指導のための組織である新民会を支えるが、そこでも失望した開作は1944年に帰国し、その後二度と中国の土は踏まなかったのである。
帰国してからの小沢は、東京立川で生活したが味噌の会社をやったり、友人に誘われてミシン会社などをしたが、いずれもあまり成功することができなかった。
立川の生活では、交流のあった評論家の小林秀雄ととっ組み合いの喧嘩をしたりしたという。
また、小沢開作は政府から要注意人物としてマークされたが、特高警察と話をするうちに彼らも次第に引き込まれ、開作のファンになっていったという。
そしてしばらく雑誌の記者をしたりした後、川崎で再び歯医者をはじめた。「歯医者復活」である。
ところで、三男の小沢征爾は小学校4年生頃ピアノをはじめたが、ミシン会社をやるために一家が小田原に移った頃6年生になって本格的にピアノを習い始めた。
ちなみに、上述の「北京の碧い空を」に掲載されている写真は小沢征爾ファンにはとても貴重なものが多い。
国際コンクール入賞後の小沢征爾がバーンスタインと共に凱旋帰国した時の写真、小沢氏の伴奏で5歳の佐藤陽子がバイオリンをひく写真、成城学園で松尾勝吾(天才ラガー松雄雄二の父)や後の歌手で俳優の小坂一也とラグビーをしている写真などもあった。
戦後の小沢開作は、市井の一歯科医として生きていったが、唯一際立ったエピソードは、指揮者として世界的に有名になった息子にお膳立てしてもらい、ロバート・ケネディと面会したことである。
JFKの弟であるロバート・ケネディは暗殺さえなければ、当時米国大統領に一番近いところにいた人物であった。
小沢は、当時のベトナム戦争に直面した米国の危機が、日本の体験した満州の苦い経験に酷似する様を建白したという。
1970年11月21日、小沢開作は突然が亡くなったソノ三日後、三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で自決している。

数年前に、NHKのドキュメンタリー番組で俳優の浅野忠信氏の家族の歴史を追ったものがあった。
浅野忠信氏は、太宰治の生涯を描いた「ヴィヨンの妻」などに出演し、永作博美との共演で「酔いがさめたら、うちに帰ろう」で一躍注目された。
最近浅野氏は、この夏封切りのハリウッド映画「マイティ・ソー」に抜擢されたのだが、浅野氏にとってハリウッド進出には、ある「特別な思い」が秘められていた。
それは、一度もあったことのない祖父の俤を追うためにものでもあった。
日本は敗戦後にアメリカによって占領されたが、アメリカは日本と戦ったことのない、つまり憎しみを持たない若い初任兵を日本に送った。
おそらく浅井氏の祖父もそういて日本に送られたアメリカ兵だったのだろう。
浅野氏自身が調べた限りでは、祖父が日本人女性との間に生んだ自分の母を日本に残し、朝鮮戦争後にアメリカに帰り、既に亡くなったことを知り得たのみであった。
しかし、アメリカの映画出演がきっかけで、いまだ会ったことのない祖父への思いがつのった。
この番組「ファミリーストーリー」は、浅野氏のお母親である順子さん(60歳)とともに祖父(順子さんの父)の「その後」を探していくという企画だった。
それは浅野さんの自らのルーツを突き止めたいという強い思いからだったが、母・順子さんにとっても、4歳の時に別れた父の「素顔」を知ることにつながるハズである。
番組スタッフは、浅野母子に代わって、日本国内のみならず、アメリカ、中国に飛んで取材を重ね 、浅野氏の祖父に関する事実が、次々に明らかになっていった。
1947年、アメリカ進駐軍の兵士で日本にきていたウィラード・オバリング氏は浅野イチ子という女性と結婚した。
その時ウイラード氏は23歳で、イチ子さんは再婚で38歳だった。
二人の娘である浅野氏の母・順子さんは、4歳の時一人アメリカへ帰った父とはその後全く音信が絶えて消息がわからない。手元にあるのは父の名前と両親が結婚した時の写真だけである。
アメリカは移民の国であるから、家族や先祖の消息やルーツを探す「支援センター」が各地にあり、番組スタッフがそこで探すと「ウィラード・オバリング」の名前を見つかった。
住所は、ミネソタ州ウィノナで、現在そこにはウィラードさんの一番下の弟ゴードンさんが住んでいた。
この故郷の地名「ウィノナ」も先住民(インディアン)の言葉で、先住民との関りの大きい土地だった。
しかし、弟曰く「兄ウィラードには日本に娘がいたことを全く知りませんでした」と。 そしてゴートンさんの証言で、オランダからのアメリカへの移民であったオバリング家の開拓の歴史が初めて明かされた。
浅野忠信さんは、よくインタビューなどでアメリカン・インディアンの血が入っていると語っていたが、ゴートンさんによればそういう事実はなく、両親はオランダからの移民だということが判明したのである。
片言英語のイチ子さんが「先住民」土地に住んでいたことと、先住民の血がはいったこととを聞き間違えたと推測される。
オバリング家の生活は厳しくウィラード氏は高校にも進学出来ずアルバイトをして、やがて16歳で軍隊に入隊したという。
そして、ケンタッキー州フォートノックス基地で「調理兵」として働いた。
ところで、ウィラード氏と結婚した順子さんの母つまり浅野忠信さんの祖母であるイチ子さんの生涯もウイラード氏に負けず劣らず波乱に満ちたものであった。
戦前両親と満州の大連に渡り、そこで最初の結婚するが、子どもができなかったこともあり数年で離婚している。
その後日本に帰り、芸者の置屋をしていた父親の仕事の関係で芸子になるが、終戦となり親も他界し、一人故郷の広島へ引き上げて来るが、そこは原子爆弾が投下されたバカリの荒れ野でしかなかった。
そこで横浜に出て行き、友人からウィラード・オバリングを紹介され恋愛し二人は結婚した。
二人は横浜に家を買い、優しいウィラード氏との幸せな結婚生活が続くはずだった。
しかしここで二人を引き裂いたのも「戦争」だった。
ウイラード氏が朝鮮戦争に出兵していた時に順子さんが生まれたのである。
しかし、朝鮮戦争終結後に駐留軍の撤退が始まり、ウィラードさんもアメリカに帰ることとなり、妻子も一緒に連れて行こうとした。
しかし、英語もわからず15歳も年下の夫との「先行き」に自信が持てなかったイチ子さんはアメリカへ同行する道を選ばなかった。
ウィラード氏は単身帰国し、イチ子さんも彼への思いを断ちきるかのように、結婚写真を真二つに切ったという。
一方、アメリカへ帰国して4年後にウィラード氏が再婚したことを知った。
その再婚相手の女性は、連れ子の二人の男の子を持つ女性で、ウィラード氏は、この家族を支えるために生涯必死に働いたという。
戦争中、調理兵として各地を転戦した経験を生かし、アメリカ帰国後にはレストランなどでコックとして働いていた。
ウィラードは非常に真面目に誠実に職務に励み給仕長として賞をもらったことでもわかる。
番組では、その再婚した妻の連れ子である義理の息子ジェームズがインタビューに次のように語った。
「当時、決して生活は楽ではありませんでした。それでも父は、家族を支えるため一生懸命働き続けました。人生とはこう生きるんだと行動で示してくれました」と。
年月が過ぎ、ウィラード氏が日本に残した娘(当時4歳)の順子さんも結婚し二人の男の子が生まれた。
その次男が浅野忠信である。
1992年、今から約20年前、ウィラード氏は67歳の生涯を閉じた。そして、イチ子さんも数年前に92歳の生涯を終えた。
そして、義理の父ウィラード氏が亡くなり、義理の息子が遺品を整理していると、父のぼろぼろになった財布から出てきたのは、日本に遺してきた娘順子さんの「写真」だった。
番組では、この事実に落を流す順子さんの姿、浅野氏の胸張り裂けるような思いが伝わった。
それでも二人にとって嬉しい事実は、父であり祖父であるウィラード氏が、大変誠実な愛情深い人であったことである。
ウイラード氏は、日本に残した妻子をケシテ忘れることがなかった。
またウィラード氏は、再婚した義理の息子たちをも父親として一生懸命育てた。
そんな素晴らしい父であり、祖父であったということが、今回の番組スタッフの努力を通じて明らかになり、ウィラード氏が残した子や孫に伝わることになった。
そのウィラード氏の義理の息子たちが、ウィラード氏にとって血を分けたただ一人の娘・順子さんや孫の浅野忠信氏と対面する場面が、番組の最後を飾った。