福岡にて産声

何かの「発祥之地」を示す石碑に出会うとしばらく足が止まる。
ここで生まれた偶然とか諸条件そして生みの苦しみ、また今日に至る展開を想像したりもする。
というわけで「発祥の地」にはどんな些細なものでもロマンを感じさせるものがある。
全国で「発祥之地」を示す石碑をさがすと、文明開化の中心地であった東京の銀座・築地、また幕末開港地となった横浜、神戸、長崎あたりが多い。
我が地元・博多は中世以来アジア大陸に近い港町として発展したため博多は中世期のいわば「最先端」の地であったために、こうした「発祥之地」を示す石碑に多く出会うことができる。
「蕎麦饂飩発祥」の碑・「独楽発祥」を示す旧小山町碑・「ういろう伝来」の碑・「山笠発祥の地」碑・「九州鉄道発祥の地」碑・「濡衣塚」(濡れ衣という言葉の由来となった故事の碑)、そしてなんといっても「扶桑最初禅窟」つまり日本最初の禅寺・聖福寺である。
聖福寺は近代において教楽社という施設をもち九州における初めての活動写真の上映地ともなった。
ところで聖福寺は栄西創建の寺で、日本における「茶伝来の地」でもある。
そしてこの聖福寺の和尚として今も博多市民に慕われているのが、仙厓和尚である。
仙厓の功績のひとつは、それまで顧みられることがなかった栄西の「興禅護国論」の価値を再発見したことにあり、その意味で栄西の思想的継承者といえる。
仙厓自身、栄西の生きかたそのものにも共鳴している。
仙厓は聖福寺こそ日本で最初に創建された禅寺であることを自負しつつも、一方で禅僧最高位を示す紫衣を二度も拒否し、福岡藩の悪政に苦しむ庶民の姿を描くという反権力・反骨の姿勢を貫いた人物である。
この仙厓の書く絵をこよなく愛したのが石村萬世堂の三代目社長であった。
三代目社長石村氏はホワイトデーの仕掛け人で1977年バレンタインチョコのお返しの気持ちを「チョコを優しくつつんだマシュマロで」という発想から、バレンタインデーの1ヵ月後にマシュマロデーを設けたのである。
博多はホワイトデーの発祥の地でもあった。
さらに福岡は長崎に近く、中国の菓子や南蛮菓子からつくった和菓子が創案され現在も人々を楽しませている。
銘菓「鶏卵素麺」は、南蛮菓子の趣があるが、中国の点心から発達したものといわれ、 博多の豪商大賀氏が書院・落成式に三代藩主・黒田光之を招いた時に進呈したのがはじまりといわれている。
大賀家の松屋利右衛門が長崎で点心つくりを学び、日本の風土に適応するように手を加えて完成させたものである。
聖福寺に隣接した妙楽寺には「ういろう伝来の地」がある。
元が明に滅ぼされた時、その官職にあった人物が逃亡し博多に来て帰化し、漢方薬としてつくったものをその子供が京都で接客用の菓子として作り直したのである。
これが「透頂香」(別名ういろう)とよばれ評判となり各地に伝わったが、新幹線開通いらい名古屋の「ういろう」の方が有名となった。
また長谷川法世の人気漫画「博多っこ純情」に登場する櫛田神社は、山笠祭りで有名であるが、この神社には公費では世界最古といわれる図書館「櫛田文庫」が付属していたことはあまり知られていない。
福岡の人々は今でも、中洲をはさんで西側が中世以来の港街・博多とよび、近世期以降発達した東側の新興の地を福岡と、分けて呼ぶこともある。
中洲は、九州最大の繁華街として有名であるが、1847年に福岡藩精錬所が開設され、1887年の九州沖縄八県連合共進会から急速に発展し、測候所、電話局、電灯会社、商業会議所、取引所もできて、中洲は九州・近代における「文明開化」の地であったのだ。
さらに、福岡女学院は日本のセーラー服の発祥の地である。
福岡女学院は、1885年福岡市呉服町に「英和女学校」として生徒数二十数名で発足した。
その後、天神校舎・平尾校舎を経て現在地の福岡市南区日佐に1960年に移転した。
1915年にアメリカからエリザベス・リー校長が9代目の校長として着任した。
新任のリ-校長ははじめ日本語が話せず、何とか生徒と溶け込もうと、当時アメリカで流行していたバスケットボ-ルやバレ-ボ-ルを指導した。
ところがこれが思わぬ「不評」を買ってしまう。
当時の女学生の服装は着物にハカマで、これでバレーやバスケットをやると、どうしても汚れてしまう。
「この間洗濯したばかりなのに、もうこんなに汚れてしまって!」ぐらいならマダシモ、「すそを乱して飛び跳ねるているようでは、嫁のもらいてがなくなる」といった「苦情」まで寄せられた。
生徒達の表情はスポ-ツを通して日増しに明るくなるのに「反比例」して、悪評は日毎に増していった。
頭を抱えたリ-校長は、着物とハカマに変わる「新しい制服」はナイカと探し始めた。
いろいろ洋服屋を訪ねたり、雑誌をめくったりしたが、ナカナカいい制服は見つからない。
思案のあげく、リ-校長は自分がイギリスに留学していた時代に新調し、来日したおりにトランクに入れてきた「水兵服」を思い出した。
自分のトランクの中にコソ、大ブレイクの「種」が潜んでいたとは。
1921年彼女は早速、布地をロンドンから取り寄せ、知り合いの洋服屋のところに行き、リ-校長持参の「水兵服」をモデルに「試着品」を作らせた。
そして保護者にも披露しつつ「試作」すること8回、ようやくリー校長の「GOサイン」が出て、生徒150人分を3ヶ月がかりで縫い上げた。
そして、このセーラー服姿は、街行く人々の注目を集めた。
やがて函館のミッションスクールからの照会があり、洋服屋の主人は北海道に1ヶ月の出張となる。
さらに東洋英和(東京)・プ-ル(大阪)・九州女学院(熊本)・西南女学院(小倉)などから続々とサンプルの依頼が届き、洋服屋主人は「セーラー服づくり」に東奔西走の日々を送ることになる。
エリザベス・リー校長が「心血を注いだ」セーラー服のは全国に「先駆け」となったのである。
この時完成した「セーラー服」は、現在の福岡女学院の制服とホトンド変わらないということは、それだけリー校長のセンスの先見性を物語っているといえよう。

「福岡発祥」のものが多いのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の兵站基地となったということも関係がある。
秀吉は、物資の調達のために博多の有力商人を多くもちいたために、秀吉は深く博多商人達との関係を築いたのである。
現在福岡県庁のある東公園あたりはかつて千代の松原とよばれたところで、秀吉はここに千利休や高山右近をまねいて茶会を開いている。
「千利休の釜かけの松」など秀吉主催の茶会の跡が残っているが、茶会もそうした商人達を掌握するためのひとつの手段であったであろう。
福岡の地は13世紀の元寇以来、荒廃していた。朝鮮半島での破壊者・秀吉は、福岡では実は建設者であった。
博多に到来し筥崎八幡宮に本営を置いた秀吉は、博多の町を復興し新たな町割りを行なったのである。
山笠祭りで知られる「流れ」は、この町割りが原型となっているのである。
その秀吉の町割りの中心が博多駅から海側に延びる現在の大博通りである。
そして秀吉は、福岡滞在の折に様々なものを残している。
1592年に豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加した黒田長政は、朝鮮陶工を福岡に連れ帰り、はじめ鞍手郡鷹取山に窯を開かせた。
四代・黒田綱政はその朝鮮陶工の子孫を福岡城下近くの西新あたりに住まわせ、藩の御用窯を作らせた。
これが現在、早良区藤崎にある高取焼味楽窯である。
高取焼味楽窯は、藤崎近くの紅葉山裏手にあり、中には亀井味楽氏の作品を集めた「味楽博物館」もある。
ここを訪れる人は少ないが、閑静な住宅街の中にあり、なかなか面白い空間である。
博多の料理の中にも秀吉が遺したものがある。
博多郷土料理の筑前煮、別名がめ煮は秀吉が朝鮮出兵のおり、唐津名護屋城に滞在中、豊後からすっぽんと野菜、コンニャクを一緒に煮込んだ料理が献上されたことにはじまる。
秀吉や兵たちは精がつく料理として大変喜んだということが伝えられており、大分県では亀煮とよんでいたが、博多に入ってスッポンのかわりに博多特産の鶏をつかって煮〆を作った。
これが博多のがめ煮となったのである。
さらに秀吉と関連あるものが福岡からアジアにひろがりつつある合鴨農法がある。
そもそも鴨を水田に放飼する農法は、わが国では約400年前安土・桃山時代に、豊臣秀吉によって推奨されたと伝えられている。
これは、鴨が飛び立つことによって、敵の夜襲を知るという軍略的な意味もあったのである。
その農法は、まず合鴨の旺盛な食欲を利用して、イナゴなどの害虫や雑草を食べてもらう。
さらに田んぼの中を合鴨が泳いだり、足やくちばしでかき回すことで、酸素が稲の根元まで行き渡る。
自然のエサを食べた合鴨のフンは優良な肥料となり、稲の成長を促進させる効果があり、農薬をまったく使わず、自然界のサイクルによって稲作を行う。
この伝統的な農法は近畿地方を中心に行なわれたが、戦後の増産主体の近代化農業の中で、非能率的で時代遅れの農法として、忘れ去られてきた。
この合鴨農法を再発見し実践したのが福岡県嘉穂郡桂川町に住む古野隆雄氏である。
古野氏は九州大学農学部の大学院で学んだが、農業の研究者としてよりも農業の実践化としての道を選び1977年福岡市から故郷・桂川町に戻った。
そして富山県の有機農業家が残したメモを手がかりに合鴨農法に挑んだ。
夫人もよく働いてくれた合鴨に感謝をこめて、合鴨一羽を完全に使い切る合鴨料理の研究を続けておられる。
そして海外からも多くの若者が合鴨農法の研究するために古野氏の農場を訪れるようになった。
そして知人の研究者の勧めで合鴨農法を英語に翻訳して海外にも紹介した。
古野氏は、合鴨を使った稲作をアジアを中心に世界中に広げることに功績があり、2000年スイスのシュワブ財団により「世界で最も傑出した社会起業家」のひとりに選出された。
これにはビル・ゲイツも選出されており、古野氏の「合鴨農法」の再現は、徹底したローカル性の追求がグローバル化する好例を示されたといえよう。

1980年に首相となった大平正芳氏は香川県の貧農出身だが無類の読書家であった。
苦学して旧制高校に進学し、大病を患いキリスト教の洗礼をうけたという。
駐日大使のE=ライシャワー氏が日本の政治家の中で、最も信頼できる政治家として大平氏の名をあげた。
長年大平氏に秘書官として仕えた娘婿の森田一氏(元運輸相)は、毎朝おはようございますと言葉を交わすと、今日もこの人と一日暮らせると思うだけで幸せだったそうだ。
実際に接しないと、テレビ画面だけではなかなか伝わらないものだ。
そして、大平氏には温厚な面ばかりではなく激しさもあった。
官僚時代の先輩の故池田元首相は、間違っていると思ったら遠慮せずに直言する大平氏のブッキラボウさが気に入って、官房長官や外相の要職につけた。
大平氏は「鈍牛」などと称される一方で、当時共産党の不破前委員長は、大平氏は議論を尽くすと回答をだし、その回答は必ず実行する信頼できる協議相手だったと回想している。
要するに、大平氏は愚痴や不平を漏らさず、協調性を重視して粘り強く交渉していく。
それこそ「農民の魂」を感じさせる人であり、その力量は大舞台でより生かされたという。
" 当時、そうした「農民の魂」を宿していた多くの日本人がいたし、内閣総理大臣の中にも、大平氏のような”農魂”を抱いていたがいたのである。
そういえば、大平氏としばしタッグを組んだ故田中角栄元首相である。
田中氏は幼少の頃より雪深い新潟の地で牛追いで家計を助け、東京に出て土建屋として成功したが、「貧農出身」という処で大平氏と共感しあうものがあったと思う。
ただし北国の農民のルサンチマンを背負っていた田中氏の魂は、鈍牛といわれるような農民の魂に収まることはできなかった。
そして「日本列島改造」を旗印に、コンピューターつきブルドーザーといわれるほどの突進力をみせた。
1980年6月、衆参同時選挙戦の最中に大平正芳首相が突然に亡くなられたことは、国民に大きな衝撃を与えた。
「弔い選挙」となり消費税増税を早くから訴えた大平政権への批判は一気に反転し、自民党が圧勝した。
今後も大平首相のような農民の魂を宿したような人物が首相になることはないだろう。
しかし大平氏が亡くなった翌年1981年に、地方の大都市にあって田舎の「農作物」を直接にデパートで売るということが始まった。
福岡で「産直」が産声をあげたのである。
あまり地元でも知られていないが、「産地直送」の流れは福岡の老舗百貨店から生まれたのである。
1981年、博多大丸は地元ナンバー・ワンの岩田屋に水をあけられ、商品戦略の見直しを迫られていた。
生鮮食品担当の古山氏は、浮羽郡(現久留米市)田主丸で成功していたある農園の話が頭に浮かんだ。
地元農協には加盟せず、青果市場に直接農作物を持ちこんでいたことから、手ひどい嫌がらせにあっていた。
農協の意向を反映したのか、市場はこの農家から持ち込んだ生産物を徹底的に安く買い叩いた。
ところがこの農家の「いずれは誰かが分かってくれる」という「信念」はスゴかった。
一箱150円でトマトを出荷し続けたのである。 すると消費者が、あのおいしいトマトを売ってくれと青果店に催促し始めたのである。
古山氏は、博多大丸に赴任して以来、九州各地の篤農家を訪ね歩いていた。
篤農家とは、農協の言いなりに農薬をばらまき、週末と夏休みだけ農業する兼業農家ではなく、熱心に農業を研究している、いわばプロの農家をさす。
そして古山氏は、九州各地に篤農家が以外に多いことと、その一方で流通の悪さに愕然としたという。
実は農協は生産物の「味」にはこだわらない。形と大きさだけを問題にする。
どんなにおいしい野菜や果物を生産しても、形が悪かったり規格外の大きさだと、農協はひきとりを拒否するのである。
仮に引き取ることがあっても、二束三文のはした金しか出さない。
農協を中心とした農作物の流通は全ての仕組みが農協の利益のために働いており、どんな品質のいい農作物を生産しても、農協に与しない生産者は徹底的に排除された。
古山氏は農家から百貨店に直接農作物を持ち込むことはできないかと考えたが、そういう物流の仕組みはなく、百貨店の担当者が生産者の家を直接まわって集荷するほかはなかった。
これが産直の始まりである。
しかし、扱っている品物はせいぜい10品目にすぎず、「産直」を発信するには売り場面積はあまりにも小さかった。
広告を出すにも野菜を広告にだす百貨店など聞いたことがなかった。古山氏は、酸もなくアクもなく渋みもないそのままサラダにして食べられるホウレンソウを見つけていた。
そして古山氏の熱い気持ちは、上司にも伝わった。
新聞の全面広告がOKとなり、その内容は「ほうれん草を生で食べてみませんか」だった。
この新聞広告は、当時の流通業者や生産現場に衝撃を走らせたという。
生でホウレンソウが食べられることの驚きよりも、それを百貨店の博多大丸が全面広告を出してまでやったという衝撃だった。
この衝撃こそが本当の意味での「産直」の産声と言ってよかった。
市場はせきたてられたが、市場はなかなかその要望に応えられず、最後にはようやく生産者にその声が届き、消費者と生産者の結ぶ独自の流通が生まれたのである。
1999年ようやく農業基本法が38年ぶりに改正された。
この改正で一番高く評価されるのは、「持続可能な農業」つまり環境保全型農業への転換がうたわれたことである。
安全な食品を求め有機栽培を支持した消費者が国を動かしたともいえる。
大平首相は、政治の責任を最後(死ぬ)まで捨てないとか、見識の深さとかいうものが大きいのかもしれない。
しかし、それ以上に劇場型のワンフレーズ首相とか金持ちのボンボン首相とか親の七光り首相なんかではなく、あ~う~唸りつつ迂回しても最善の結果(果実)を生み出そうという素朴な「農民の魂」だろう。
それは福岡の百貨店に「産直」の動きを誘引したあの篤農家たちの姿と重なるものがある。
産直の心は、「形」よりも「味」ということである。