女達の関が原

今年の体操世界選手権では、黒人の台頭がめだった。
人種間に本質的な能力差があるはずもなく、結局は環境とか機会の差なのだということをあらためて思い知らされた。
そして、それは男女の差についてももいえることだ。
折りしも今年の「ノーベル平和賞」は、17歳のマララ・ユフザイさんのノーベル平和賞は、襲撃をうけて瀕死の重傷を負いながらもイスラム社会における女子教育の権利を訴える姿が人々の心を揺さぶった。
さて、安倍政権は女性の活躍推進を成長戦略の柱と位置付け、2020年までに指導的地位に占める女性の割合を30%に引き上げる目標を掲げている。
そして、厚生労働省は、女性の管理職の割合利などその登用に向けた数値目標の設定と公表を企業に義務付ける女性活躍推進法案を了承した。
義務付けの対象は従業員300人超の企業とし、それぞれの企業が独自に目標を設定できるようにした。
法案は企業に女性登用の取り組み加速を促すのが狙いである。
何しろ日本は、国際比較して女性の取締り役員の数の割合は調査した先進国45か国中44位なのだ。
これでは、グローバル社会の中で「人権意識」が低いとみなされても仕方がない。
また女性の社会進出の進展で、女性の感性がこれからの市場開拓や社会の活性化にとっても価値が大きいという認識が高まっていることが背景にある。

2004年の映画「ステップフォード・ウィフ」は、あまりにも輝かしい経歴を築いた女性達に対して、肩身が狭くなった男達が仕掛け「罠」を描いたサスペンス・コメディである。
この映画は、ニコール・キッドマン演じる女性敏腕プロデューサーの大演説にはじまる。
この映画に登場する女性達はすべて、以前バリバリのキャリア・ウーマンで、男達をアゴでつかって仕事をしていたの人々である。
ところが、ニコール・キッドマン演ずる主人公は、ある事件の責任をとってTV局を辞職する事となり、夫のウォルターは失意のジョアンナをつれて再起をはかろうと、ステップフォードという美しい町へとやって来る。
そしてこの美しい町に住むのは美しくも従順な完璧な奥様方。しかしこの町には「秘密」があった。
妻に頭が上がらなかった夫達が、理想の妻、甲斐甲斐しくも仕える妻を創り上げるという秘密。
それは、女性達の能力を恐れた男たちが、「フタ」をかぶせてしまうという話でもある。
さらに、男達はどこかで封印されたきた女性達のタフネスを恐れ、女性達のプチ・ロボット化に長い間いそしんできた、そんなことを暗示する映画「ステップフォ-ド・ワイフ」である。
ところで1975年の「国際婦人年」というのが日本もそれを批准し、それから10年をめどに男女同権への歩みが進められた。
高校で家庭科が男子必修になったのはその流れの一つである。
そして企業社会における男女平等の実現にむけた男女雇用均等法ができたのはタイムリミットぎりぎりの1985年だが、当時の労働省の女性キャリアが、大企業に意見を聞いたところ、当時の経団連会長が「日本経済は男女差別の上に成り立ってきた」と臆面もなく言い放つくらいの人権意識の低さだった。
日本社会がようやく男女同権にむけて具体的な行動をはじめた1970年代はじめ、山本リンダの「どうにもとまらない」(1972年)「狙いいうち」(1973年)が大ヒットした。
この歌につき、作詞家の故・阿久悠は、女性がどんどん自由に活動できる日がこなければ、日本の繁栄はないという意図をこめて作ったという。
しかし一方で少しやり過ぎだと思ったのかどうかはよくしらないけれど、1976年には「北の宿から」では、「着てはもらえぬセーターを 寒さしのいで編んでます」などと、なかなかいないような女性を歌い、あえて時代と逆行してみせた。
また尾崎紀世彦の「また逢う日まで」(1971年)の「二人でドアを閉めて、二人で名前消して」と「男女同権」の時代にマッチしていて、しかも別れをとても明るくドライに歌った歌さえもあった。
ところで、阿久氏は淡路島で生まれで少年時より野球を愛し、その体験を小説「瀬戸内少年野球」に書いた。
阿久氏はそれにより直木賞を受賞しているが、高校野球に関する詩を数多く書き、新聞でいくつか発表している。
しかし野球好きの阿久氏にとって本人さえ予想しないロング・ヒットは、山本リンダの♪ウララ ウララ ウラウラで~♪ではじまる「狙い撃ち」ではないだろうか。
何しろ高校野球の歴史が続いて行く以上、「狙い撃ち」は甲子園のアルプススタンドで永遠に演奏され続けるだろう。
実は山本リンダが「狙った」のは外角高めのストレートなどではなく「玉の輿」だったのだが、阿久悠氏の「野球好き」の魂がこの曲に乗り移ったという他はない。
一方、阿久悠の名前を不動にしたのは都倉俊一と組んだピンクレディーのヒット曲である。
振り付けのみならず歌詞の斬新さも従来にないものだった。それでは、なにゆえに「ペッパー警官」なのか。
阿久氏が歌詞に登場させる警官の名前をつけようと考えていたら、テ-ブルの上に「ペッパ-」と名のついた飲料があったからだという。
さらに、日本の歌謡曲史上最も斬新と思ったのが「UFO」の歌詞であった。
何しろ歌の主人公は「地球の男にあきてしまった」というのだから、一体、この女性はどんな欲情を抱いているのか。(そういえば、この女性は宇宙人でしたね)
最近、「草食系男子」なるものがメディアで取り沙汰されている。「草食系」は従来のがむしゃらに女性に対して押しの姿勢の「肉食系」と対極にある姿として、総称される言葉である。
「草食系」とは、草原にタダタダ草を食むために茫洋と佇む羊のようなイメージがある。
この「草食系」男子の亜流の一つとして「添い寝男子」というのも現れた。
体調を崩していたり、失恋などで精神的に弱っている女子のもとへ、「今日、ボク添い寝しに来てあげましょうか?」と現れる「添い寝男子」もいるそうな。
その生態につき詳しくは知らないので、立ち入ったコメントは控えるが、男が男たることに疲れているようにも見える。
また一方で、女性は女たることを嫌ってオヤジに進化しているようにもみえる。
こういうオヤジとヒツジとでは、男女の駆け引きや、何が飛んでくるかわからない恋愛の緊迫感なんてありそうもない。
ドリーム・カム・トゥルーの「決戦は金曜日」やABBA(アバ)の「恋のウォータールー」は男女の恋愛を決戦になぞらえたものであった。
ちなみに、ウォータールーはナポレオンの運命を決した最後の戦いである。日本語に訳すと「恋する関が原」かなんかでしょうか。

日本にもニコール・キッドマン演じる「ステップフォード・ウィフ」のように土井たか子さんのように演説が似合う女性もいるにはいるが、彼女らの演説がどれほどの人々の心を揺り動かすことができるのかは疑問である。
映画「極道の妻達」にみる岩下志麻、十朱幸代や三田佳子らの男衆を前にした演説は確かに迫力があったが、いかんせんフィクションである。
ところが今から700年以上も前に、そもそも女性が男達の前に立つこと自体さらには話をするだけでも考えにくい時代に、たった一人の女性が多くの武者達の前にで放った大演説は確かに武者達の心を揺り動かしたようだ。
鎌倉幕府、源頼朝の妻・北条政子の承久の乱を前にして行った演説である。
平家全盛の時代に、伊豆の豪族北条時政の長女、とはいってもかなりの田舎娘だった政子は罪人として伊豆に流されていた源頼朝に恋をした。
親の反対を押し切り、半ば駆け落ち同然にして2人は結ばれることになった。
政子の父・時政は源頼朝の監視役であったのに、よりによって娘・政子が頼朝と恋仲になってしまおうとは苦りきった思いもあったであろう。
しかしこの結婚を最終的に認めたことが、北条氏の命運をも変えてしまうのだから歴史とは面白いものである。北条氏は、以後、源氏方に鞍替えして平家方と戦っていくことになる。
1180年、皇族の一人・以仁王が源頼政とともに平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。
頼朝もそれに呼応して、緒戦の石橋山の戦いで惨敗し北条時政、義時とともに安房に逃れたものの、再挙し東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じた。
頼朝は数万騎の大軍に膨れ上がり富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧し鎌倉に本拠をかまえた。
1185年には頼朝の弟・義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすが、平氏滅亡後、源頼朝と義経は対立する。
結局、頼朝は東北・衣川で義経を破り、義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼして1192年に鎌倉幕府を開いている。
政子は、頼朝の女性に対する博愛主義に手を焼き、恋敵の家に火をつけるなどの気性の激しさものぞかせている。
その頼朝も1199年1月、不慮の死でなくなり長子の頼家が家督を継いだ。
政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれた。
苦労しらずの頼家は、自分思い通りの政治を望み、老臣たちを疎み、若い側近たちを重用した。
御家人たちから反発が起きるのは自然の成り行きである。
頼家の専制を抑制すべく1200年に、北条時政、北条義時を含む老臣による十三人の合議制が定められた。
頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉され、後に暗殺されている。
この時、政子は頼家への愛をとるか、夫・頼朝が敷いた路線を踏襲し守りぬくか、という決断が迫られていた。
そして息子・頼家を切り捨てるという非情な決断をしたことになる。
さらに1219年右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った政子の三男・実朝は甥の公暁に暗殺された。政子はこの悲報に深く嘆き、淵瀬に身を投げようとさえ思いたったと述懐している。
政子は使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願ったが、上皇はこれを拒否し、義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えた。
三寅はまだ二歳の幼児であり、政子が三寅を後見して将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになった。
1221年皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は挙兵に踏み切った。
承久の乱のはじまりである。
上皇は「義時追討」の宣旨を諸国の守護と地頭に下した。
上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。
武士たちの朝廷への畏れは依然として大きかったのである。
ここで政子は御家人たちを前に歴史に残る大演説をする。として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。
ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と涙ながらの名演説を行った。
これで御家人の動揺は収まった。
軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、政子は積極策を支持して幕府軍は出撃した。
幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がった。
後鳥羽上皇は、思わぬ幕府軍の出撃に狼狽し、幕府の大軍の前に各地で敗退して後鳥羽上皇は「義時追討の宣旨」を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流されたのである。
さてNHK歴史大河ドラマ「黒田官兵衛」に登場する豊臣秀吉の正妻ねね(北政所)も、関が原の戦い前において豊臣秀吉家臣を揺り動かすだけの器量をもった女性だったと想像する。
ドラマでは、黒木瞳が演じている。
ねね14才で、木下藤吉郎時代の秀吉と結婚するが、高砂は、土間の上にむしろを敷いただけであったという。
秀吉にとっては、上司の娘であった。秀吉は、身分の高い女性を好むがねねの場合も同じであった。
子供はなかったが、ねねはよく秀吉を支え、子飼いの武将を多く育てた。
秀吉の身分が高くなると、ねねも同じように出世し、当時の女性の中では最高位の従一位を授かる。
どんなに、高貴な女性が秀吉の側室となっても、淀殿が子供を産んでも、その地位は揺らぐことはなかった。
豊臣家は、それだけねねに負っているところが多いのだろう。
また、ねねは、若い頃の事を隠さずに語る気さくな人柄であったようだ。
そこで、秀吉とねねがものすごい勢いで尾張弁をしゃべっていたために、侍女がけんかしているのではないかとはらはらしていたというエピソードである。
秀吉が死ぬと大阪城を出て、京都に隠棲し「北政所」とよばれた。
関ヶ原では、秀吉子飼いの秀吉子飼いの福島正則らがみな徳川方についたのも、徳川家康の実力だけではなく、ねねの影響力があったと思われる。
また、甥っ子の小早川秀秋の裏切りは、完全に徳川を勝利に導いている。
下克上を生き抜いてきたねねにとって、次の天下が見えていたのだろうが、秀吉の子・秀頼を生んだ側室・淀君に対する対抗心があったことはいうまでもない。
豊臣は秀吉だけの力で出来たのではないと北の政所も自負はあったであろう。
1615年 大阪の陣で、豊臣秀頼は滅亡した。
ねねは、炎上する大阪城を京都の高台寺の二階建ての茶室から見ていたという。
さて、安倍政権は「先ず隗より始めよ」という言葉にならってか、女性閣僚を4人もいれて男性議員からの嫉妬をかっているらしい。
終戦後、マッカーサー改革により1946年 男女普通選挙が始まった。
もの珍しさも手伝ってか、その時の女性議員の当選者はなんと38名もいた。
ちなみに直近の衆議院選挙の女性当選者数は44人だから、今日に迫る数の女性議員が誕生したのである。
しかしこの時、女性が閣僚に入ることはなかったし、次の選挙以降は女性議員は激減している。
戦後初の選挙に当選者の中には、女性解放運動の先駆者である市川房枝などもいた。
民主党の菅直人元首相の師匠にあたる人である。
日本社会には、女性が表立って指導的立場にならずとも、鎌倉時代の北条政子、戦国の世の北政所、江戸時代では春日局、また地元福岡でいえば玄洋社の社員を数多く育てた幕末の高場乱(たかばおさむ)、昭和の時代では市川房枝など大きな政治的影響力をもつ女性は多く現われた。
彼女達は影響力はあるにはあったが、今日達成しようとしているような「数字」に出ないような立場の女性達なのである。
日本では、女性の力が確実に社会に反映されることコソが社会の活性化に繋がることは間違いない。
しかし、外国とは様々な社会的文化的背景が異なっている中、日本において指導的立場の女性登用を、数値目標だけをかかげてその達成に努力するとかえって男性からは「逆差別」という声が聞こえそうである。
それよりも、保育所増設など女性が働き易い職場環境を整えるのが先決で、そういう方向で努力すれば、自然と女性管理職が増えていきそうにも思いますが。