ゲタニウスロキ

現在の国立競技場はまもなく解体され、新しい競技施設に替わるという。
1964年10月10日に平和の祭典・東京オリンピックがあり、14日の間聖火が燃え続け8000羽の鳩が飛びたった場所である。
しかしその時から溯ること21年、同じ競技場のトラックを「隊列」が進んでいった。
戦局が悪化のした1943年10月21日、徴兵猶予を説かれた大学生が2万人以上が「出陣学徒壮行会」に臨んだのである。
スタンドの女子学生からは「海ゆかば」の大合唱が沸きおこったという。
このあたりは、戦時の思念も平時の記憶も焼付けながら「独特の雰囲気」を醸し出している。
だから、建物が新しくなっても、そうした雰囲気から逃れられない。
「ゲタニウスロキ」という言葉がある。「地霊」を意味するラテン語で、転じてその土地に宿る記憶、その土地ならではの雰囲気をさす。
18世紀、イギリスで「地霊」という観念が注目されたが、当時のイギリスの書物の中に「地霊」につき次のように書いてある。
「ある場所の雰囲気がそのまわりと異なっており、ある場所が神秘的な特性をもっており、そして何か神秘的なできごとや悲劇的な出来事が近くの岩や木や水の流れに感性的な影響をとどめており、そして特別な場所性それ自体の精神をもつ。」
個人的に街中を何も考えず歩くのが好きだが、それでも時々「土地の記憶」に出会い、ハットと思うことがある。
そして、土地そのものが意思をもつかのように、招き寄せるものがあり、遠ざけるものあるではないかという思いに駆られる。
つまり人々は時には、「ゲタニウスロキ」に誘い込まれたり、あるいは意識的にそれを回避しつつ、日々の生活を営んでいるのかもしれない。
特に日本人は「言霊信仰」があるので、争いが絶えない時代に新都をつくり、「平安京」という名前をつけたりする。
それゆえに、地名だけではうかがい知れない事実を後で知ってビックリしたりする。
例えば、我が地元福岡には「平和」とよばれる地域があるが、それは、陸軍第12師団歩兵第24連隊が置かれた場所であったがゆえに、平和への願いをこめてコノ地名がつけられている。
そして福岡城址の中に立てられた「平和台球場」は、西鉄ライオンズの黄金期の舞台となったが、この球場あたりが第24連隊の拠点となったところである。
またこの平和台球場のグランド下には、古代における迎賓館である「鴻臚館」が、眠っていた。
鴻臚館(こうろかん)は、外国の使節を接待した館で、筑紫(福岡市)・大和宮都の外港である難波(大阪)・平安京(京都)の3ヶ所に置かれた。
2004年国指定史跡となった筑紫の「鴻臚館」は、当初、「筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれたが、平安時代初期に唐の外務省に相当する役所の“鴻臚寺”にならって「鴻臚館」と名を改めたのである。
ちなみに「鴻臚」とは、賓客を迎える時、大声で伝達するという意味である。
古代の鴻臚館遺跡から、江戸時代の黒田家の福岡城址そして昭和の陸軍連隊跡地から西鉄ライオンズの平和台球場が、ホボ同じ場所に存在したのである。
福岡市内において最も「ゲタニウスロキ」を意識させる場所といえるかもしれない。
個人的に東京に行くと、コレデモカと言わんばかりに「ゲタニスロキ」を意識してしまう場所がある。
国立競技場のある神宮外苑からそう遠くない赤坂・四谷あたりである。
もっとも四谷は、日本人の心に一番しみこんだ「怪談」の地で「お岩稲荷」もちゃんと存在しているが、ここではそういう「怪談の地」を問題にしているわけではない。
ゲタニウスロキつまり地霊に引き寄せられるように「何か」がアル場所ということである。
作家の森村誠一氏は、ホテルマンとして東京紀尾井町のニューオータニに勤務されていたが、そのニューオータニのすぐ前の清水谷公園は、森村氏の代表作「人間の証明」の犯行現場として設定されている。
しかし、この場所は「実際の」犯行現場でもあるのだ。
この公園にたまたま行って出会ったのが、「大久保利通殉難碑」である。
明治の三傑・大久保利通は、1878年この辺りを馬車で通行中に刺客に襲われて暗殺されている。
清水谷公園というのは、実は大久保利通を祀るいわば聖地として公園化されたのだった。
そして、この地はもと「行政裁判所」や「司法研修所」があった場所なのだが、いわば「司法権」の中心地のひとつであったのだ。
それを知った時「ゲタニウスロキ」なるものを思いうかべたのである。
ところで明治の「大事件」といえば、岩倉遣外使節団の留守中、西郷隆盛らを中心に「征韓論」を決定したが、大久保利通らはイソギ帰国し「内地優先」を主張して決裂し、西郷隆盛らが下野した事件、つまり「明治六年の政変」である。
それが1877年西南の役に繋がるのだが、その3年前にあった江藤新平の「佐賀の乱」は西南の役に隠れてあまり目立たない。
岩倉使節団が外遊する間、初代の「司法卿」に就任したのが江藤新平である。
江藤は国政の基本方針、教育・司法制度など、明治国家の法体制構築に多大の実績を残した。
学制の基礎固め、四民平等、警察制度の整備など推進し、司法制度に多大の貢献をした。
その実績からすれば、「内務省」を握る大久保利通と「司法省」を握る江藤新平は、「両雄」といってよいくらいの存在であったのだ。
江藤は、三権のうち「司法権の自立」をとりわけ重視したために、「司法権=行政権」と考える政府内保守派から激しく非難された。
そしてこれこそが、これが大久保と江藤の確執のポイントだったのである。
江藤は人権意識や正義意識の高さでは、閣僚の中でも群をヌイテおり、決して無視できなかったのが長州藩閥の汚職事件(山城屋事件および尾去沢銅山事件)であった。
薩摩の大久保は、長州の伊藤博文らと「薩長藩閥」を形成しており、こうした汚職問題を追及していた江藤をメノカタキにしていたのである。
というわけで実は、明治六年の政変の「核心」の一つはこの「江藤の放逐」にあったのだ。
江藤が下野すると、佐賀藩(肥前)ではスデニ旧士族の不満が高まっており、江藤をカツイデして反政府の「急先鋒」となっていく。
しかし蜂起はするものの、佐賀における反政府軍の「軍備」は不足しており、わずか二週間で鎮圧された。
そして江藤は、自らが整備した警察の「写真手配制度」によって逮捕される。
江藤は法にのとって東京での裁判を求めたが、大久保はそれを無視して佐賀裁判所のみで裁判を強行し、タダチニ刑が執行された。
しかもこの裁判では、江戸時代の「刑法」が適用されて、江藤は刑場から四キロ離れた千人塚にその首がサラサレたのである。
大久保の江藤に対する「個人的憎悪」も多分に含まれたような残虐さであった。
しかし1878年5月、大久保利通は自宅を出て馬車の乗って太政官に向かう途中、六人の刺客に襲われ、大久保は全身に刀をあびて倒れた。
刺客は、石川県士族らで、政治は天皇陛下の御心によるものではなく、一般人民の公議によるものではないということを「斬姦状」の中で語っている。
大久保利光が暗殺された場所すなわち清水谷公園だが、江藤新平が整備しようとした「司法権」の中心的な存在「行政裁判所」が建てられることになる。
行政裁判所は1890年、「行政の違法を裁く」特別裁判所として設立されたが、戦後の憲法では裁判所が一本化されたためになくなった。
しかしこの場所には1948年~71年まで「司法研修所」があったのである。
大久保の江藤に対する勝利は、日本における行政権の司法権に対する優位を確定したといってよいが、この大久保暗殺の地こそは、大久保が処刑した江藤新平がチカラを尽くした司法権の中心地となっていた場所なのである。
一体どんな「ゲタニウスロキ」なのか、と思わせられる。
さて、この清水谷公園から南の赤坂方面に歩くと、色々なものが目に入ってくる。
そぞろ歩いていて、歌舞伎役者の尾上松緑こと藤間豊氏る邸宅を見つけたし、南側にいくと江戸城お堀端に出て弁慶橋を渡ると赤坂見附の交差点にでる。
このあたりはラフカディオハーンの怪談「むじな」の舞台にもなっているくらいだから、江戸時代にはさぞや人通りの少ない場所だったことが推測される。
ところで、ホテル・ニュ-オ-タニ向かいの赤坂プリンスホテル旧館は、もともと朝鮮王朝の李王家邸宅であった。
朝鮮王朝の高宗の皇太子・李垠(イ・ウン)は、日韓併合時代のいわば「人質」として日本で学んだが、1920年日本の皇族梨本宮家の方子と政略結婚しココに邸宅を構えた。
戦後この地を買い取ってプリンスホテルを建てたのが、西武鉄道の創立者・堤康次郎である。
また赤坂の交差点をはさんで、堤康次郎のライバルであった東京急行電鉄(東急)の総帥五島慶太がたてた赤坂東急ホテルがあり、その傍らにはかつてホテルニュージャパンがあった。
さらには226事件で決起将校が立てこもった山王ホテルには、山王パークタワーが建ち銀行や飲食街となっている。
このあたりのホテル群は、何かしら人の強力な念が交錯する場所で、近代ビル群の裏側には今なおゲタニウスロキを意識しないではおかない場所である。
ちなみに226事件の決起将校の処刑場は、代々木のNHK102スタジオあたりである。

平成の始めまで東京赤坂にあったキャバレー「ニューラテンクォーター」は、昭和史の「雄弁」な証言者である。
それは1982年に大火災を起こして焼失したホテルニュージャパンと同じ敷地内にあった。
ホテルニュージャパンは、元々は岸信介内閣の外務大臣・藤山愛一郎が「日本にも世界に通用するホテルを」ということで、自ら建造を計画したものである。
あわせて「海外からの賓客をもてなす」ことを目的として、“戦後日本最大のフィクサー”として知られる児玉誉士夫の力を借りてホテルの地下に作ったのが、「ニューラテンクォーター」というナイトクラブであった。
そして、ニューラテンクォーターの前の旧ラテンクォーターは、226事件の反乱軍将校が立てこもった料亭「幸楽」の跡地という「いわくつきの場所」に建てられてたものであった。
つまり、アメリカ駐留軍の慰安や社交の場として計画された「国策クラブ」であったが、諜報員や不良外人の跋扈する場ともなっていたのだが、「もはや戦後ではない」といわれた1956年に、旧ラテンクォーターは火災の為に焼失するのである。
ところで児玉機関の副機関長に福岡出身の吉田彦太郎という人物がいて、児玉機関の実働部隊はほとんど吉田のイキがかかったもので、福岡出身者が多くいたというのは驚きの事実である。
この副機関長吉田の従弟に山本平八郎という人物がいて、博多で第一号店を出し合わせて11店舗をもつキャバレー王として成功していた。
この山本の出店に際して力を貸したのが、意外にも福岡出身の初代参議院副議長の松本治一郎であった。
そして旧ラテンクウォーターの焼失後、吉田の紹介でニュ-ラテンクォーターの社長になったのが、山本平八郎だったのである。
そしてその経営は山本の息子である山本信太郎に引き継がれていく。
山本信太郎は博多出身で、福岡大学商学部で学び空手部に所属していてた。その間、父親の経営する博多のキャバレーでアルバイトなどもしていた。
その山本にとっては、店の経営がようやく安定し始めた頃に起きたのが「力道山刺殺事件」であった。
ところで日本一のナイトクラブをめざすニューラテンクォーターにとって、ホステスの採用は最優先問題であった。
実際に客層の社会的地位の高さに対応できる女性、すなわち容姿、性格、教養すべてに高いものが要求され、さらに外国人にも対応できるようにきちんとした英語が話せる必要があった。
そしてそうした条件にある程度かなう女性達約80名を集め、それがたちまち評判になり、店の最大のセールスポイントになったのである。
ニューラテン・クォーターというナイトクラブのステ-ジにたった超大物外国人は次の通りである。
1961年:ア-ル・グラント、ナット・キング・コ-ル。
1963年:プラタ-ズ、ルイ・ア-ムストロング、パティ・ペイジ、サミ-デ-ビスJr。
1964年:パット・ブ-ン、ベニ-・グッドマン。
その他多数であるが、山本氏は眩いばかりの光の中に浮かび上がった白いドレス姿のパティ・ペイジが歌う「テンシ-・ワルツ」に仕事を忘れ夢見心地であったという。
1973年の開店15周年記念では、トム・ジョ-ンズ・ショーを行い、さらに開店20周年にはダイア・ナロス、25周年にはサミーデービスJrを招いた。
一方、ホテル・ニュー・ジャパンは、藤山愛一郎が建てた一流ホテルだったが、横井英樹が買い取ってからはすっかり三流ホテルに成り下がってしまった。
その地下に店を構えていた山本氏は、「地代」をめぐって横井氏と長い戦いを繰り広げたという。
政財界の大物は、ここで日本の舵取りについて話し合っているし、日本の「裏世界」の交叉点でありり続けたのが、この「ニューラテンクォーター」だったのだ。
その中には、「墓場」にまでもって行かなければならない話も数多くあったであろう。

猪瀬直樹前都知事がジャーナリスト時代に書いた「ミカドの肖像」は、GHQによる皇室財産の制限のために、西部グル-プの総帥・堤康次郎が皇族の土地を買取り、そこにプリンスホテルを立てた経緯が描かれている。
堤康次郎氏は、妾腹も含め子供は多数いたが、自分の意思を正しく継いでくれる子供がいないのが悩みで、ただ唯一父を受け入れた前西武鉄道社長の堤義明をその後継者とした。
皇族の土地といえば、現在の品川駅前の旧北白川邸跡地に東京パシフィックホテル、旧竹田宮邸跡地には西武の高輪プリンスホテルがたつ。
それにしても西武グル-プは皇室財産を買収し一等地にプリンスホテルを建てたが、池袋のサンシャイン60に隣接するプリンスホテルは、「巣鴨プリズン」の跡地にたっているのは、とてもとても奇異に思える。
このホテル「池袋(巣鴨)プリゾンホテル」なんて名前をつけたら、洒落がキツすぎるかもしれない。
巣鴨プリゾンは東京裁判でのA級戦犯処刑地でもあり、こういう怨念渦巻く土地の買収には、一体どんな思惑が働いたのか、知りたいものだ。
A級戦犯と指定された人々に対して天皇がどのような感情をもたれていたかはよくわからない。
ただアメリカの世論の中には天皇の処刑論さえでており、A級戦犯達は連合軍によりわざわざ天皇誕生日をねらってこの地で処刑されたのである。
とするならばその巣鴨プリズンの刑場跡地は天皇・皇族にとって悲痛の場所にちがいないのである。
西部グループによる池袋のこの土地の購入の経緯を全く知らないが、この土地の上に巨大で先端的なビル群をつくりだし、この土地のイメージを一新し過去の記憶を一掃することは、堤一族のそれまでのホテル建設のための土地買収とそう大きく矛盾するものではないとも思った。
ともあれ、天皇・皇族の「負の思い」を閉じ込めたこの土地のイメ-ジが一新されたことは間違いない。
つまり、この地のゲタニウスロキを打ち消すかのように建てられたのが「サンシャインシティ」なのである。