ゴーストみたいな

この世の中には、ゴーストみたいな存在がいくつもあることに気づかされる。
最近のニュースで取引停止が伝えられた「ビットコイン」の存在もその1つである。
その仕組みのことはよくわからないが、なにしろ最大の取引所から400億円相当の価値がドロンパ と消失したのだから。
また佐村河内氏の「ゴースト・ライター氏」の告白にも驚愕した。
ゴーストライターは、自分の名前を隠して他人の名前で書く人々である。
音楽の世界でもソウイウよび方をするとは知らなかったが、ナゼそういうことにナッタのかという疑問が一番先に立った。
「タレント本」などはタレントが書いていないのは周知の事実だし、それは視聴者も読者もわかっている。
また、政治家が書いたような本でも大概はそうだろうと推測できるので、本人が語ったことを書いた人がいるのだろう、グライで済む。
しかしミュージシャンを名乗る人が、影の作曲家に「創作」を依頼して万人を欺いたとは、芸術に泥を塗ったダケの問題では済まない。
さて、ライターが「名前」を隠しゴーストみたいな存在になるのも、様々な「事情」が考えられる。
まず、単純に書く時間がないということが考えられる。
著名になると「時間的制約」の為に、内容を打ち合わせの上でゴースト・ライターに依頼することもあるのだという。
例えばジャーナリスト本多勝一氏は自著の中で、「今は忙しいので自分が言った事をアシスタントに文章にしてもらっている」という趣旨のことを記している。
いわゆる口述筆記というものだが、あるTV番組で著名な評論家が司会者に新刊本の内容を聞かれて、答えに窮した場面があったことを思い出す。
また、ノンフィクションの世界でも「大家」になると、データを集める人が複数いて、「取材原稿」をそのノンフィクション作家がマトメルだけの作業を行うケースもあるという。
自分で取材していないにも関わらず、その人の名前で本を出すのはドウカ思うかも知れないが、場合によっては巻末か巻頭に「取材人」の名前を載せることによって公正をキス場合もある。
この場合、作家と取材者の「共同作業」みたいなもので、「ゴーストライター」とはいわないであろう。
以前、松本清張つきの女性編集者が書いた「思い出の記」を読んだことがある。
清張が「黒い福音」を書いたとき、女性編集者は事件があった東京都杉並区永福町の様子を取材して清張に届けたところ、清張はそれに想像力で膨らませて「現場のリアル感」を見事に表現して、清張の「筆力」のスゴサにあらためて驚かされたという。
「原稿の締め切り」に追われる作家をそのようにサポートするのも、編集者の仕事であるのかと知った。
世の中に、その名を「確立」した書き手であっても、何らかの事情や立場の故に名を「変えて」を書くということはありうる。
もちろんこれはゴーストライターではなく「正真正銘」のライターであるのだが、別の名で書いたほうが「売れる」というネライもあるかもしれない。
かつてイザヤ・ベンタソンが書いた「日本人とユダヤ人」はベストセラーとなったが、ほぼ山本七平氏が書いといわれている。
ただし、山本氏がユダヤ人を名乗ったのはどういう意図があってのことか、よくわからない。
ゴーストライターの中には、文章技術に優れた職人がいるが、書く「体験がない」とか「テーマがない」ため、作家にはナレナイという人もいるに違いない。
1人のゴースト・ライターは、或るミュージシャンの名前で「体験」を書くことによって、自分の体験を書くよりもハルカに多くの収入を得ることができるだろう。
そこで、「文章が書けない」ミュージシャンと「体験のない」ゴーストライター氏の「利害」が一致するわけである。
ともあれゴーストライターは「正体」を絶対に明かさないことが業界の「不文律」らしい。
ゴースト・ライターは、名をすて実(収入)をとる仕事なのだが、それは逆に「名誉」を金で買える人もいるということを意味する。
ゴースト・ライターは、名誉をお金とひきかえに他者に譲り、「創作者」としての自分が世に知られないということは、ヤハリ寂しさがツキマトウにちがいない。
佐村河内氏の問題で、ゴーストライター氏が18年間もの作曲を続けてきたことに、世を「欺いた」ことへの「罪悪感」が第一にアッタにせよ、自分の才能が「隠れて」いることへの寂しさもキットあったに違いないと思う。

江戸時代の浮世絵師・東州斎写楽とは何者なのか、いまだに「謎」で諸説がとなえられている。
写楽の作品発表は1794年の5月から翌年の2月までおよそ10ヶ月間、作品は140にものぼる。
ただ写楽はその後、忽然と姿を消した。
一切の「記録」に写楽の名前が登場しなくなるので、「ゴースト」のような存在なのだ。
写楽の謎を解くためには、浮世絵の「制作過程」を追うことも一助だと思う。
浮世絵(錦絵)の製作は、版元の依頼にがよってマズ絵師が原付大の版下絵をつくる。
これをそれぞれの絵師と息のあった彫師がウケテ版木に糊ではりつけ、生乾きのところで紙をはがして墨線だけを残して、小刀、ノミで彫って墨線を彫り出す。
こうしてできた墨板は摺師に渡されて墨摺絵ができあがる。
絵師は必要な色の枚数だけ一色ずつ彩色してまた彫師に渡す。
彫師はこれをウケテ色ごとの版をつくる。摺師はそれに合わせて一色ずつ摺りだす。
紙をのせて馬連で摺るのである。こうして大体、一つの板で200枚ぐらいを刷るというのである。
つまり浮世絵の制作は絵師・彫師・摺師の共同作業であるのだ。
ということは写楽が活躍した時に、多数の人々がソノ制作に「有機的に関わりあった」ということなのだ。
実はこれだけの共同作業を束ねたのが、ビデオショッップ「TUTAYA」の社名の由来になっている版元・蔦谷重三郎という人物である。
「版元」というのは絵師と彫師と刷師とを束ねる総合プロデューサーである。
蔦屋は、寛政の改革で財産没収の憂き目にあっている「前科モノ」なのだ。
写楽の生きた時代つまり松平定信の寛政の時代は、奢侈や贅沢への取り締まりも強く社会生活への取り締まりの厳しい時代であり、前科をもつ出版元から依頼されて異様ともいえる「大首絵」を出すことをうけた「写楽」と名乗る人物は、かなり大胆不敵か「差し迫った」事情があったのではないか。
蔦屋重三郎は財産を没収され、「起死回生」策として生みだしたのが東洲斎写楽の「大首絵」であったのではなかろうか。
蔦谷が見出した「写楽」自身もヒョットしたら「借財」に苦しんだ武士なんかで、この浮世絵制作に一世一代の大バクチを打ったったということかもしれない。
ともあれ、大きな顔に人間の様々な感情をはらませた「大首絵」は大人気となった。
役者のよじれた笑顔の裏には、コビやヒクツやゴーマンさなど「役者の内面」をもを波だたせたため、モデルとなった役者ならば、何もソコマデ描かなくてもといった気持ちが起きたのではなかろうか、と思う。
当時、狂歌で知られる大田南畝が、写楽はあまりにリアルに描いていたため、「絵師生命」を短くしたといううようなことを書き残している。
そのことと関係があるかは知らないが、写楽は作品を「大首絵」から役者の全身を描く「姿絵」に転換させ、結局「大首絵」は全体の5分の1にしかない28点にすぎない。
当時「姿絵」では第一人者の豊国がいた。
洗練された豊国に比べて、写楽の「姿絵」にはヤボッタさが残るものの、「大首絵」に見られるデフォルメがナオモ息づいており、それが写楽「姿絵」の魅力となっている。
それでも写楽の「姿絵」は、顔における強烈なデフォルメは影をひそめ、顔はスッキリと美形に描かれているのである。
ところで2008年、ギリシアの島で写楽の「肉筆絵」が発見された。
ギリシアの島と江戸とを結んだのはグレゴリオス・マノスというギリシアの外交官であった。
マノスは、ウイーンの万国博覧会で日本の文物をみて魅せられたらしい。
そして日本の浮世絵のいくつかを買い取って、その後ギリシアのアジア国立博物館の館長となるのが、博物館の彼の寄贈作品の中に写楽の「肉筆絵」あった。
それらが、筆絵が細部にわたり浮世絵版画の「松本幸四郎」ナル人物のに限りなく近似していることがわかった。
そして「肉筆絵」の中身ツマリ絵に登場する役者の時代から判断して、写楽が全く姿を隠してから「4か月後の作品」であることが判明した。
写楽は浮世絵師として姿を隠しても、なお「愛好家」のために肉筆で絵を描いていた可能性が出てきた。
TV番組の「美の巨人達」というテレビ番組で「写楽は何者か」という謎に迫っていたが、能役者だった下級武士ではないかという説がとなえられていた。
写楽の絵にはドコカ「拙さ」ががあり、絵のセンスがある素人ではないかという説であった。
また能役者は、役者達を細かく観察することができる立場にもあり、当番後の1年間程度の「非番」の期間に集中的に創作を行うことが可能であるという説である。
写楽の絵に含まれる毒気は、我々現代人の心にも「解毒作用」を与えてくれそうだが、その最も強毒性の「大首絵」がワズカ28点しか拝めないのは、かなり残念という他はない。
その写楽の正体が、日本から遠いギリシア小島の小さな美術館で「解明」されようとしている。

経済学の世界で「市場の限界」という場合、その内容は「学問的」にホボ確定されている。
一方、ハーバード大学「白熱教室」のサンデル教授は「市場の限界」ではなく、「市場主義の限界」を唱えられており、「市場の限界」とはマッタク違った「観点」から「市場」について述べている。
ひと言で言うと、市場は「道徳」において「中立」ではないということだ。
我々は、この世にはお金で買ってイイものと、買ってはナラナイものがあると思っている。
ツマリお金にしてしまっては価値がソコナわれる、あるいは元も子もなくなる場合もあるということだ。
しかし今の世の中は、お金にナジマナイものも、何でもお金で買える社会になりつつある。
そこでサンデル教授は「それをお金で買いますか」と、疑問がナゲカケている。
さて、サンデル教授が著書「それをお金で買いますか」で紹介したものには、次のようなものがあった。
ユニバーサルスタジオでは、二倍の料金を払えば、アトラクションに並ばずとも行列の先頭に割り込むことができる。
特別料金を払うと清潔な独房に入ることのできる刑務所もある。
インドの代理母に妊娠をアウトソーシングすると6250ドル。
アメリカ合衆国の永住権が50万ドル(50万ドル投資して、失業率の高い地域に10の就職口を生み出した外国人は、グリーンカードをもらえる)。
額(ひたい)などの身体の一部を広告用に貸し出すと(入れ墨で「そうだ、ニュージーランドに行こう」とかスローガンを書くのを認めると)777ドル。
民間軍事会社の一員としてアフガニスタンなどで戦うと月給250ドル~日給1000ドル。
ロビイストのために連邦議会議事堂の前の行列に徹夜で並ぶと、時給15~20ドル。
生徒が本を一冊読むと2ドル(成績不振の生徒に報奨金を出して読書を奨励する学校がある)。
肥満体の人が4カ月で14ポンド(約6・4㎏)痩せると378ドル(医療保険会社などが減量などの健康的生活に報奨金を出す)。
このように、すべてが金で買える「市場主義社会」への趨勢に対して、サンデルは二つの点から「疑義」を差しハサンデいる。
一つは、「不平等」にかかわるもの、もう一つは、「腐敗」にかかわるものである。
まず、不平等についていうと、全てが売り物になる社会では、貧しい人たちのほうが生きていくことが「大変」になるのは自明である。
「政治的影響力」、すぐれた医療、犯罪多発地域でなく安全な場所に住む機会、問題だらけの学校よりも一流校への入学などお金で買えるものが増えるにツレ、お金のないものはマスマス遠くなる領域が増えていく。
つまり、お金で買えるモノが増えれば増えるほど、「裕福」であることが重要になってくるということである。
また、もうひとつは「腐敗」という観点からの疑問である。
生きていくうえで必要なモノに値段をつけると、それが「腐敗」してしまう恐れがある。
標準的な経済学では、善なるものを商品にしても、その「善の性質」(効用)は変わらないことになっている、というより問題にしない。
例えば、寄付を集める行為の善さは、その行為に「見返り」を支払おうと支払うまいと変わらない、とされる。
だから、金銭的インセンティブを増やせば、必ず供給も増える、というのが経済学の発想だ。
この実験では、奉仕活動にアルバイト代まで出せば、生徒たちはますますガンバルはずである。
しかし、実際はそうならないことがある。
「市場化」によって、行為の道徳的な性質ソノモノ「損なわれる」からだ。
また、子供が本を読むたびに「お金」を払えば、子供はモット本を読むかもしれない。
だがこれでは読書は、「心からの満足」を味あわせてくれるものではなく、読書とは面倒で退屈な仕事だと教えていることになり、お金を払わなくなったらモット本を読まない生徒をつくりあげる。
「腎臓の売買」は、人間を予備部品の集まりとみなし、人間を物質化することによって、真に大切にすべき規範(生命観)をドコマデも腐敗させていく。
自国の戦争に外国人の傭兵を雇えば、同胞の命は失わずにすむが、「国民」であることの意味が貶められる。
サンデル教授は、この世には、お金と引き替えにすることで、必然的にその本質が失われて腐敗していくようなものがたくさんあることを指摘する。
要するにサンデル教授がいう「市場主義の限界」とは、「市場は道徳をときに締め出すことがある」ということなのだ。
さて、サンデル教授は、「ゴーストライター」の許容度についてどのように考えるだろうか。
サンデル教授は前述の「それをお金で買いますか」という本で「結婚式のスピーチ」について書いている。
結婚式の乾杯の「挨拶」はどうだろうか?。挨拶は、温かく、ユーモアにあふれ、心のこもった言葉で表現される。
しかし、頼まれた友人は「重荷」に感じ、149ドル払えばウェブサイトで専門家が原稿を作ってくれる。
結婚式の当日、あなたは友人のスピーチで感動して涙を流す。後日、それが専門家によって書かれたものだと知ったら、ガッカリするだろう。
「謝罪」や「結婚式の乾杯」は、ある意味で買うことのできる善であるが、売買すれば、謝罪や挨拶の性格が変わり、価値は損なわれてしまうのである。
また前述の著書「それをお金で買いますか」で「スピーチライター」の存在についてもふれている。
では、大統領や首相は、日常的にスピーチライターを雇っている。それを後で知ったらヤッパリ「がっかり」するだろう。ガッカリするということは、その「価値」は減ぜられているということだ。
佐村河内氏の問題は、タレントや政治家のゴーストライターではなく、ミュージシャンの陰に「同業」の作曲家が創作したということにもある。
例えば、アクションで売っている俳優が、ほとんどの危険シーンをスタントマンを使っていたらガッカリするであろう。
また佐村河内氏のガッカリの度合が大きさは、ハンディを乗り越えての創作活動という「美談」に塗り固めたダケに、その「落差」の大きさによるものでもあったといえるだろう。
それについてはマスコミも大いに責任がある。
佐村河内氏が聴覚障害を装ってそれを「売り」にしてCDをセールスしたし、体の不調も「被爆者二世」であることを表に出して、創作の「メッセージ性」を高めようとしたフシがある点など、真の弱者を愚弄した行為ともいえる。
佐村河内氏の場合、サンデル教授の「市場主義の限界」の観点からいうと、報酬としてゴーストライター氏に支払われた金額が少なかったためカエッテ「名誉をお金で買った」という側面は強くは出ない。
しかし、人のいいゴーストライター氏は「自分は共犯者」と謝罪したが、結果から見ると佐村河内氏は己の名誉を「搾取的」に奪ったようにも見える。
魑魅魍魎のこの世、ゴーストなるものが蔓延するなら、各分野に「ゴースト・バスターズ」なる仕事が生まれるのもナリユキであろう。
すでに活躍している「正義のハッカー」なども、部分的にはそういう仕事なのではなかろうか。